諫早創『進撃の巨人』2013-05-25 02:52

 中間考査も終わり、生徒も重圧から解き放たれて伸び伸びと活動している。今日は校内で二本の棒を手にして振り回しながらジャンプしている女子高生を見かけたが、「イェーガー」などと叫んでいたので、あれはおそらく『進撃の巨人』ごっこをして遊んでいたのであろう(どんな学校だと思われるかもしれないが、いわゆる普通の進学校である)。

 このように、一部生徒の間で人気の高い『巨人』であるが、決して軽い作品ではなく、読後感はかなり重い。陰鬱で残酷な描写も多数あり、万人向けの漫画とは言い難い。アニメーションになると聞いたときは、え? ホントにやるのといった驚きがあった。きちんと全部観ているわけではないが、数話観た限りでは、原作に忠実に作られており、作画、背景も丁寧でクォリティは高い。この出来栄えなら原作のファンも納得するだろう。

 正体不明の巨人から逃れて、壁の中に閉じこもって暮らす人間たちの前に再び巨人が襲いかかる。巨人たちの目的はただ一つ、人間をむさぼり食うことだ。巨人を倒すにはうなじの肉を素早く的確にそぎ落とすしかない。ガスを燃料とした立体起動装置を駆使して巨人に立ち向かう調査兵団の若き兵士たちが本書の主役である。訓練および実戦を通じて苦難を乗り越えていく彼らの姿が描かれるという大筋だけ見ると普通の少年マンガなのだが、その苦難が並大抵のものではない。グロテスクな巨人に仲間が次々と食われていくという凄惨な場面には、思わず目を背けたくなる。非力な自分だけでは過酷な運命には逆らえない、どうにもならないという閉塞感、無力感は、グローバル社会の中で強烈な競争にさらされている若者にとってリアルな実感なのだろう。巨人とは、現実社会の隠喩でもあると分析するのはたやすいことだ。

 しかし、作者は「人類対巨人=若者対現実社会」という単純な図式を周到にずらしていく。主人公エレン・イェーガーは医師である父に何らかの処置を施された結果、自らの意志で巨人になれる能力を獲得しており、巨人と人間を繋ぐ存在となっている。ただし、巨人になったときには自らの意志を制御できず味方を攻撃したりするので、意識や知性は抑圧されている。巨人化したエレンは無意識的な破壊衝動、野獣的な生存本能を体現した存在なのだ。過酷な現実社会、すなわち自らの外部を象徴していたはずの巨人と、自らの内部を象徴する巨人とが戦ううちに、両者が入り混じり、違いが徐々に無化されていく。ネタばれになってしまうので詳しくは書けないが、敵だと思っていたらそれが仲間だったり、仲間が敵になったりという十巻までの展開は、「人類対巨人」の図式を「人類=巨人」へと移行していくかなりスリリングな試みとなっている。特に十巻のラストには、おいおい、いくらなんでもそれはないだろうと驚愕させられた。この先がどう展開していくのか、ちょっと目が離せない作品である。

コメント

_ 玉野弥生 ― 2013-05-25 08:23

初めてコメントさせていだだきます。
進撃の巨人、私も面白く拝読しております。
あの作品にハマる子は、きっと心に大きな傷を抱えています。
凄惨な表現に癒される、という場合も時としてあるのです。
gonzaさんも、ぜひアニメを全話観て頂きたいな〜なんて、勝手に思います。
原作を補うような描写も多々ありますので…^ - ^
ではでは、突然のコメント失礼いたしました。

_ 渡辺英樹 ― 2013-05-26 14:34

コメントありがとうございます。
「凄惨な表現に癒される」というのはわかるような気がしますね。アニメもぜひ全部観てみようと思います。貴重なご助言ありがとうございました。

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