『SF少女マンガ全史』長山靖生(2024年3月/筑摩書房) ― 2025-07-12 22:42

本書は、主に一九七五年から一九八五年にかけて、昭和五十年代に全盛期を迎えた「SF少女マンガ」というマンガのサブジャンルについて概説的に記述した歴史書であると同時に、膨大な作品の粗筋を丁寧に辿って、該博な知識をもとに作品論を語り、何人ものマンガ家については作家論にまで至るという優れた評論書ともなっている。米沢嘉博に『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』(ともに一九八〇年)という先駆的な試みはあるが、記述はどちらかと言えば歴史を語ることに重点を置いており、作品論としては踏み込みが浅い。「SF少女マンガ」に対象を絞って、深く掘り下げ、ジェンダー的な視点も取り込んで作品を論じているという点で、本書の価値は大きく、今後のマンガ研究の里程標となるだろう。
対象を絞ったと言っても、著者のマンガに関する歴史的射程は広く、第1章の概史では、奈良時代の絵巻、江戸時代の読本、明治時代の風刺画を経て、大正から昭和初期にかけて、コマに分けてストーリーを勧めるマンガ物語が成立したことが記述される。大衆に向けた少年雑誌、少女雑誌の創刊もこの頃であり、画家による雑誌の口絵や挿絵、小説、読者投稿欄、絵物語といったライバルに交じってマンガが成長していく。戦後の少女マンガは、手塚治虫や石森章太郎、ちばてつやといった男性マンガ家が描く悲哀ものが中心であった。活動の中心が徐々に、わたなべまさこ、水野英子、牧美也子、今村祥子ら女性マンガ家に置き換わり、内容も固定観念化された少女像、女性像をはみ出していく過程を著者は丁寧に記述していく。里中満智子、美内すずえ、細川智栄子、西谷祥子らがデビューし、SFも描いていく。「SF少女マンガ」と言うとどうしても萩尾望都、竹宮恵子らいわゆる二四年組から始まったような印象を還暦前後のわれわれ世代は持っているが、このような萩尾・竹宮以前の前史の存在を俯瞰的な視点から正確に記している点にも本書の価値はある。
第1章で触れられているように、手塚の『リボンの騎士』(一九五三~六七)は、主人公サファイアが女性として生まれながら男の心と女の心をもち、男性として育てられるという異性装ロマンスの嚆矢であり、後の池田理代子『ベルサイユのばら』(一九七二~七三)へとつながっていくことはよく指摘される点だが、著者は、これに加えて、水野英子『白いトロイカ』(一九六四~六五)に描かれた「自ら考え行動する革命的女性像」を引き継いだ点にも『ベルばら』の革命性があると説く。この指摘は重要である。少女マンガの歴史自体に〈男性が女性のために描いたもの〉から〈女性が女性に向けて描いたもの〉へと変化していく過程があり、さらにSFについても、一九六〇年代には「女性にSFはわからない」といういわれのない偏見があり(本書に引用されているとおり「女の子にはS・Fが分らないのだというのです。ホントかしら…」と萩尾望都が自作「精霊狩り」内で記している)、この男性を中心とした二重の抑圧状態から逃れ、自由な創造力と表現力が爆発した時代こそが「SF少女マンガ」が花開いた昭和五十年代であるという認識が、本書には一貫して流れているからである。
第2章では「挑発する女性状理知結晶体」と題して、山岸涼子、倉多江美、佐藤史生、水樹和佳、清原なつの、佐々木淳子、樹なつみの七人を取り上げて、深く論じていく。マンガ家と作品の選び方が実に秀逸であり、彼女らに共通する特色を、非合理に対する論理、無意識や夢想に対する知性を重んじることとして掬い上げている。もちろん、彼女たちの作品がそれだけで割り切れるはずもなく、作品も描かれる人物も多様であることは承知のうえで、である。作中人物には、山岸涼子『日出処の天子』(一九八〇~八四)の厩戸皇子のように「合理主義によっても自由を得ても、満たされることのない人間存在の業の深さを象徴している」人物もおり、佐藤史生の作品には「知性への敬虔なまでの信頼」があるものの、後期の作品には「科学主義から神秘主義への傾斜」がみられる。「コンピュータ社会の精神的側面と、多層的な神話学を融合させた」佐藤の代表作『ワン・ゼロ』(一九八四~八六)を論じ、やはり神話的作品である水樹和佳の大作『イティハーサ』(一九八七~九七)を神話学的に論じた後で、両者の共通点は「時間の回帰性」にあると看破してみせ、「戦闘より理解や宥和による克服に努める姿勢は、萩尾から佐藤や水樹へ、さらに後継たちへと引き継がれているSF少女マンガの精神だった」と結論づけるあたりの流れは鮮やかで、全体を通しての筆者の主張もここによく表れている。この章と萩尾望都を論じた第4章は、評論書としての本書の白眉である。
第4章はまるごと萩尾論に充てられている。対象を「SF少女マンガ」に限っているので、取り上げられた作品は「あそび玉」(一九七二)『11人いる!』(一九七五)『百億の昼と千億の夜』(一九七七~七八)「左ききのイザン」(一九七八)『スター・レッド』(一九七八~七九)『銀の三角』(一九八〇~八二)などの諸作で、『ポーの一族』(一九七二~七六)や『トーマの心臓』(一九七三~七四)には部分的に触れられているが、本格的に論じられてはいない。それにしても、こうして眺めていくと、七五年から八五年にかけての萩尾望都のSFへの意欲の凄まじさと作品の完成度の高さは尋常ではない。著者は「あそび玉」には「当時の画一的な社会の価値観に違和感を覚える萩尾自身が投影されている」と述べ、和解的な結末に「暴力的革命に代わる、より先進的な取り組み」を見出している。『11人いる!』では、性別を自己選択できるフロルの存在を通して「男性と対等であることを自明として生きる女性」を描き出した点が画期的であったと述べる。ただし、フロルは女性を選択して男性であるタダとの結婚を望むのであり、男性を選択して男性を愛するわけではない。「萩尾作品は文化的伝統や社会規範による人為的なジェンダーを乗り越えていくが、生物学的差異の人為的操作には懐疑的なようだ」という著者の指摘は鋭い。他にも、自然に性別を変えながら成長していく一角獣種タクトを主人公とした「X+Y」(八四年)、人間と異星人の混血であり男性と思われていたルゥが実は女性であったことが判明する「ハーバル・ビューティ」(八四年)、感染症の抗体がY染色体上にあるため自然状態では男性だけしか生き残っていない未来の地球を描いた『マージナル』(八五~八七年)と、萩尾SFには性別の揺らぎや偏りをテーマにした作品が多く、そのために丸ごと異星の生命体系を創作した場合もある。SFという手法がいかに萩尾作品にマッチしていて、そしてそれらの作品に他の多くの少女マンガ家が刺激を受け、多数の作品が生み出されたかを本書は克明に記録しており、SF少女マンガがなぜこの時期に爆発的に広がったのかという問いの答えにもなっている。要するに、萩尾望都SFの衝撃があまりに大きく、当時の(今も)男性優位社会の抑圧を受けていた少女らが強い共感を寄せ、また画一的な社会規範をよしとしない男性読者をも含んで、大勢の読者を惹きつけたことは大きな要因であっただろう。SFにおいては文化や社会を自由に設定することができ、その中で女性が「女性性」を保ちながら男性と対等な関係を結び、活動していくことが可能だ。理想的な男女関係、ひいては人と人との関わりがそこにはあると言える。たとえ闘いや軋轢を描いたとしても、SF少女マンガでは和解と宥和を結論に打ち出すことが多い。萩尾SFの影響力の強さがうかがえる。八五年以降も萩尾望都は精力的にSF少女マンガを発表しており、本書は最新作『ポーの一族 青のパンドラ』(二〇二二~連載中)に至るまでの諸作を丁寧に紹介し、論じている。
第3章と第5章は、個々のマンガ家の作品紹介という面が強く、本書の歴史書としての側面がよく示されている。取り上げられたマンガ家は、「思考するファンタジー」と題された第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子、坂田靖子、日渡早紀、川原泉の六名。「孤高不滅のマイナーポエットたち」と題された第5章で岡田史子、内田善美、高野文子の三名。いずれも個性的で表現力に秀でたマンガ家ばかりなので、本書を読んで、初めて(または改めて)作品に接することも一興だろう。
おそらくは、本書を読んで、これも足りないあれも抜けているといった文句を言い出す人たちも出てくるだろうが、本書の偉業の前では取るに足らぬことだ。膨大な作品を読みこなし、分析し、批評するのは大変労力のかかる作業である。それを踏まえたうえの言葉でなければ、つまらぬ文句に耳を傾ける必要はない。ただし、一つだけ言わせてもらえば、歴史書としての側面を考えると、大変な作業になるのはわかっているが、作者名だけでも索引は欲しかった。
総じて、視野の広さ、構成の見事さ、分析の深さで本書に並ぶものはない。SF少女マンガの奥深さを知るのにうってつけの一冊である。
対象を絞ったと言っても、著者のマンガに関する歴史的射程は広く、第1章の概史では、奈良時代の絵巻、江戸時代の読本、明治時代の風刺画を経て、大正から昭和初期にかけて、コマに分けてストーリーを勧めるマンガ物語が成立したことが記述される。大衆に向けた少年雑誌、少女雑誌の創刊もこの頃であり、画家による雑誌の口絵や挿絵、小説、読者投稿欄、絵物語といったライバルに交じってマンガが成長していく。戦後の少女マンガは、手塚治虫や石森章太郎、ちばてつやといった男性マンガ家が描く悲哀ものが中心であった。活動の中心が徐々に、わたなべまさこ、水野英子、牧美也子、今村祥子ら女性マンガ家に置き換わり、内容も固定観念化された少女像、女性像をはみ出していく過程を著者は丁寧に記述していく。里中満智子、美内すずえ、細川智栄子、西谷祥子らがデビューし、SFも描いていく。「SF少女マンガ」と言うとどうしても萩尾望都、竹宮恵子らいわゆる二四年組から始まったような印象を還暦前後のわれわれ世代は持っているが、このような萩尾・竹宮以前の前史の存在を俯瞰的な視点から正確に記している点にも本書の価値はある。
第1章で触れられているように、手塚の『リボンの騎士』(一九五三~六七)は、主人公サファイアが女性として生まれながら男の心と女の心をもち、男性として育てられるという異性装ロマンスの嚆矢であり、後の池田理代子『ベルサイユのばら』(一九七二~七三)へとつながっていくことはよく指摘される点だが、著者は、これに加えて、水野英子『白いトロイカ』(一九六四~六五)に描かれた「自ら考え行動する革命的女性像」を引き継いだ点にも『ベルばら』の革命性があると説く。この指摘は重要である。少女マンガの歴史自体に〈男性が女性のために描いたもの〉から〈女性が女性に向けて描いたもの〉へと変化していく過程があり、さらにSFについても、一九六〇年代には「女性にSFはわからない」といういわれのない偏見があり(本書に引用されているとおり「女の子にはS・Fが分らないのだというのです。ホントかしら…」と萩尾望都が自作「精霊狩り」内で記している)、この男性を中心とした二重の抑圧状態から逃れ、自由な創造力と表現力が爆発した時代こそが「SF少女マンガ」が花開いた昭和五十年代であるという認識が、本書には一貫して流れているからである。
第2章では「挑発する女性状理知結晶体」と題して、山岸涼子、倉多江美、佐藤史生、水樹和佳、清原なつの、佐々木淳子、樹なつみの七人を取り上げて、深く論じていく。マンガ家と作品の選び方が実に秀逸であり、彼女らに共通する特色を、非合理に対する論理、無意識や夢想に対する知性を重んじることとして掬い上げている。もちろん、彼女たちの作品がそれだけで割り切れるはずもなく、作品も描かれる人物も多様であることは承知のうえで、である。作中人物には、山岸涼子『日出処の天子』(一九八〇~八四)の厩戸皇子のように「合理主義によっても自由を得ても、満たされることのない人間存在の業の深さを象徴している」人物もおり、佐藤史生の作品には「知性への敬虔なまでの信頼」があるものの、後期の作品には「科学主義から神秘主義への傾斜」がみられる。「コンピュータ社会の精神的側面と、多層的な神話学を融合させた」佐藤の代表作『ワン・ゼロ』(一九八四~八六)を論じ、やはり神話的作品である水樹和佳の大作『イティハーサ』(一九八七~九七)を神話学的に論じた後で、両者の共通点は「時間の回帰性」にあると看破してみせ、「戦闘より理解や宥和による克服に努める姿勢は、萩尾から佐藤や水樹へ、さらに後継たちへと引き継がれているSF少女マンガの精神だった」と結論づけるあたりの流れは鮮やかで、全体を通しての筆者の主張もここによく表れている。この章と萩尾望都を論じた第4章は、評論書としての本書の白眉である。
第4章はまるごと萩尾論に充てられている。対象を「SF少女マンガ」に限っているので、取り上げられた作品は「あそび玉」(一九七二)『11人いる!』(一九七五)『百億の昼と千億の夜』(一九七七~七八)「左ききのイザン」(一九七八)『スター・レッド』(一九七八~七九)『銀の三角』(一九八〇~八二)などの諸作で、『ポーの一族』(一九七二~七六)や『トーマの心臓』(一九七三~七四)には部分的に触れられているが、本格的に論じられてはいない。それにしても、こうして眺めていくと、七五年から八五年にかけての萩尾望都のSFへの意欲の凄まじさと作品の完成度の高さは尋常ではない。著者は「あそび玉」には「当時の画一的な社会の価値観に違和感を覚える萩尾自身が投影されている」と述べ、和解的な結末に「暴力的革命に代わる、より先進的な取り組み」を見出している。『11人いる!』では、性別を自己選択できるフロルの存在を通して「男性と対等であることを自明として生きる女性」を描き出した点が画期的であったと述べる。ただし、フロルは女性を選択して男性であるタダとの結婚を望むのであり、男性を選択して男性を愛するわけではない。「萩尾作品は文化的伝統や社会規範による人為的なジェンダーを乗り越えていくが、生物学的差異の人為的操作には懐疑的なようだ」という著者の指摘は鋭い。他にも、自然に性別を変えながら成長していく一角獣種タクトを主人公とした「X+Y」(八四年)、人間と異星人の混血であり男性と思われていたルゥが実は女性であったことが判明する「ハーバル・ビューティ」(八四年)、感染症の抗体がY染色体上にあるため自然状態では男性だけしか生き残っていない未来の地球を描いた『マージナル』(八五~八七年)と、萩尾SFには性別の揺らぎや偏りをテーマにした作品が多く、そのために丸ごと異星の生命体系を創作した場合もある。SFという手法がいかに萩尾作品にマッチしていて、そしてそれらの作品に他の多くの少女マンガ家が刺激を受け、多数の作品が生み出されたかを本書は克明に記録しており、SF少女マンガがなぜこの時期に爆発的に広がったのかという問いの答えにもなっている。要するに、萩尾望都SFの衝撃があまりに大きく、当時の(今も)男性優位社会の抑圧を受けていた少女らが強い共感を寄せ、また画一的な社会規範をよしとしない男性読者をも含んで、大勢の読者を惹きつけたことは大きな要因であっただろう。SFにおいては文化や社会を自由に設定することができ、その中で女性が「女性性」を保ちながら男性と対等な関係を結び、活動していくことが可能だ。理想的な男女関係、ひいては人と人との関わりがそこにはあると言える。たとえ闘いや軋轢を描いたとしても、SF少女マンガでは和解と宥和を結論に打ち出すことが多い。萩尾SFの影響力の強さがうかがえる。八五年以降も萩尾望都は精力的にSF少女マンガを発表しており、本書は最新作『ポーの一族 青のパンドラ』(二〇二二~連載中)に至るまでの諸作を丁寧に紹介し、論じている。
第3章と第5章は、個々のマンガ家の作品紹介という面が強く、本書の歴史書としての側面がよく示されている。取り上げられたマンガ家は、「思考するファンタジー」と題された第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子、坂田靖子、日渡早紀、川原泉の六名。「孤高不滅のマイナーポエットたち」と題された第5章で岡田史子、内田善美、高野文子の三名。いずれも個性的で表現力に秀でたマンガ家ばかりなので、本書を読んで、初めて(または改めて)作品に接することも一興だろう。
おそらくは、本書を読んで、これも足りないあれも抜けているといった文句を言い出す人たちも出てくるだろうが、本書の偉業の前では取るに足らぬことだ。膨大な作品を読みこなし、分析し、批評するのは大変労力のかかる作業である。それを踏まえたうえの言葉でなければ、つまらぬ文句に耳を傾ける必要はない。ただし、一つだけ言わせてもらえば、歴史書としての側面を考えると、大変な作業になるのはわかっているが、作者名だけでも索引は欲しかった。
総じて、視野の広さ、構成の見事さ、分析の深さで本書に並ぶものはない。SF少女マンガの奥深さを知るのにうってつけの一冊である。
三上延『ビブリア古書堂の事件手帖5』 ― 2014-04-28 00:57

1月発売の本。もちろん発売後すぐ読んではいるのだが、書評をしばらくさぼっていたので今さら取り上げることをご容赦願いたい。4巻が江戸川乱歩を扱って首尾一貫したストーリイを保っていたのに対し、今回は、『彷書月刊』、手塚治虫『ブラックジャック』、寺山修司『われに五月を』の三点にまつわる事件を扱っており、当初の構成に戻った感じである。『彷書月刊』事件では、お馴染みの登場人物、せどり屋志田の過去が明らかになり、『ブラックジャック』事件では、妻が危篤状態の際に取った夫の奇妙な行動(『ブラックジャック』4巻の初版を古書店で購入した)の謎を解き、『われに五月を』事件では、栞子の母智恵子も絡んだ、寺山修司直筆原稿が消しゴムで消されてしまった事件の真相が明かされる。いずれの事件にも共通しているのは、家族間の感情のもつれを栞子が解決していくという構図である。『たんぽぽ娘』のときから思っているのだが、この家族間の感情のもつれと本との関わりがちょっと強引というか作為的過ぎるというか、無理があるという印象は変わらない。しかし、それにもかかわらず、ぐいぐい読まされて結局物語に感動させられてしまうのは、作者の、書物の内容への深い理解と書物という物質的な存在へのこだわりが尋常ではないからだ。私はこのシリーズを、物語の形をとった風変わりな書評として読んでいる。
「もしこの世界にあるものが現実だけだったら、物語というものが存在しなかったら、わたしたちの人生はあまりにも貧しすぎる……現実を実り多いものにするために、わたしたちは物語を読むんです」(本書186ページ)
という栞子の言葉には、本を愛する者だったら、誰しも素直に共感するだろう。本書をきっかけに新たに『ブラックジャック』や寺山修司を読んでみよう(再読してみよう)と思う人が出てくれば、それは書評としての効用があったということだ。私も今回は思わずダンボール箱の中から少年チャンピオンコミックスの『ブラックジャック』4巻を引っ張り出して読みふけってしまった。年齢からして、家にあるのは、当然「植物人間」の入った版(1976年11月15版)である。そうかあ、これが今は読めないんだと思いながら懐かしく読んだ。次はどんな本が登場するのか、もちろん肝心の物語、太宰治『晩年』事件の続きも含めて、楽しみである。
「もしこの世界にあるものが現実だけだったら、物語というものが存在しなかったら、わたしたちの人生はあまりにも貧しすぎる……現実を実り多いものにするために、わたしたちは物語を読むんです」(本書186ページ)
という栞子の言葉には、本を愛する者だったら、誰しも素直に共感するだろう。本書をきっかけに新たに『ブラックジャック』や寺山修司を読んでみよう(再読してみよう)と思う人が出てくれば、それは書評としての効用があったということだ。私も今回は思わずダンボール箱の中から少年チャンピオンコミックスの『ブラックジャック』4巻を引っ張り出して読みふけってしまった。年齢からして、家にあるのは、当然「植物人間」の入った版(1976年11月15版)である。そうかあ、これが今は読めないんだと思いながら懐かしく読んだ。次はどんな本が登場するのか、もちろん肝心の物語、太宰治『晩年』事件の続きも含めて、楽しみである。
施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』 ― 2013-06-02 23:34

朝日新聞の南信長のレビューを読んで読みたくなり、アマゾンに注文したら品切れ。待つこと数週間、ようやく2日前に届いたので早速読む。いや、これは期待に違わず面白かった。
図書館で本を読むふりをして自分を読書家であるかのように見せかける女子高生町田さわ子(自称バーナード嬢)と、彼女を見つめる本当の読書家男子高生、さらにそれを見つめる図書委員の女子高生とが繰り広げる本に関するささやかなドラマ。のはずだったのだが、そこにSFファンの女子高生神林しおりが登場。彼女が開陳するマニアックな知識とこだわりが爆発する個所は、これはもう一般読者をはるかに超えて、SFマニアのための爆笑エッセイと化している。お薦めのSFを一冊と言われたり、SFの定義を聞かれたりしたときに、彼女がえんえんと悩むところや、タイトルにこだわったり、ジュヴナイルSFのちょっとしたところにこだわったりするところなど、見事にSFファンのツボを押さえており、そうそう、こんなことあるよなあと思わずにはいられない。ネットでも話題になっていたが、イーガンはよくわからなくてもいいんだというあたりは、特に理屈に力が入っており読み応え十分。
SF以外でも面白いところがたくさんあるし、基本的に本に対する愛があふれているので、紙媒体としての本が好きな人にはとにかくお薦めである。
図書館で本を読むふりをして自分を読書家であるかのように見せかける女子高生町田さわ子(自称バーナード嬢)と、彼女を見つめる本当の読書家男子高生、さらにそれを見つめる図書委員の女子高生とが繰り広げる本に関するささやかなドラマ。のはずだったのだが、そこにSFファンの女子高生神林しおりが登場。彼女が開陳するマニアックな知識とこだわりが爆発する個所は、これはもう一般読者をはるかに超えて、SFマニアのための爆笑エッセイと化している。お薦めのSFを一冊と言われたり、SFの定義を聞かれたりしたときに、彼女がえんえんと悩むところや、タイトルにこだわったり、ジュヴナイルSFのちょっとしたところにこだわったりするところなど、見事にSFファンのツボを押さえており、そうそう、こんなことあるよなあと思わずにはいられない。ネットでも話題になっていたが、イーガンはよくわからなくてもいいんだというあたりは、特に理屈に力が入っており読み応え十分。
SF以外でも面白いところがたくさんあるし、基本的に本に対する愛があふれているので、紙媒体としての本が好きな人にはとにかくお薦めである。
今日マチ子『U』 ― 2013-05-26 21:30

今日マチ子の作品は、雑誌「ダ・ヴィンチ」に載っていた百人一首を現代風に解釈して1ページの漫画に再構成したものしか読んだことがなかった。絵柄が柔らかく、繊細で、淡い水彩画のようなタッチで描かれており、印象に残った。何気ない日常を切り取って描くことが上手い漫画家なんだろうなと勝手に思っていたので、本屋で何気なく手にとり買ってきた本書を読んでびっくり。こんなかわいい絵柄で、こんな残酷な話を描くなんて。
クローン技術で人間の舌を再生し、それをゼリーに差しこむことによってコピー人間を作る研究をしている教授とその助手。助手はそこそこの美人で、でも恋愛には奥手というよくある設定だ。助手をもとに作られたコピー人間が徐々にオリジナルを憎むようになり、ついに惨劇が起きる……。このクローン技術は全くリアリティがないので、SFとしては完全に破綻している。しかし、舌をゼリーに差しこんでコピーができるというイメージの深さは、一概にばかばかしいと切って捨てられないものがある。直接的にエロティックなシーンはほとんどないにもかかわらず、エロスを感じさせる作品になっているのは、この「舌」へのこだわりがあるからだろう。殺人あり、カンニバリズムありという結構ハードな展開なのだが、さらりと描いてあるので、それがかえって怖いという余情表現の効果もあるね。他の長編も読んでみたいという気にさせられた。
クローン技術で人間の舌を再生し、それをゼリーに差しこむことによってコピー人間を作る研究をしている教授とその助手。助手はそこそこの美人で、でも恋愛には奥手というよくある設定だ。助手をもとに作られたコピー人間が徐々にオリジナルを憎むようになり、ついに惨劇が起きる……。このクローン技術は全くリアリティがないので、SFとしては完全に破綻している。しかし、舌をゼリーに差しこんでコピーができるというイメージの深さは、一概にばかばかしいと切って捨てられないものがある。直接的にエロティックなシーンはほとんどないにもかかわらず、エロスを感じさせる作品になっているのは、この「舌」へのこだわりがあるからだろう。殺人あり、カンニバリズムありという結構ハードな展開なのだが、さらりと描いてあるので、それがかえって怖いという余情表現の効果もあるね。他の長編も読んでみたいという気にさせられた。
諫早創『進撃の巨人』 ― 2013-05-25 02:52

中間考査も終わり、生徒も重圧から解き放たれて伸び伸びと活動している。今日は校内で二本の棒を手にして振り回しながらジャンプしている女子高生を見かけたが、「イェーガー」などと叫んでいたので、あれはおそらく『進撃の巨人』ごっこをして遊んでいたのであろう(どんな学校だと思われるかもしれないが、いわゆる普通の進学校である)。
このように、一部生徒の間で人気の高い『巨人』であるが、決して軽い作品ではなく、読後感はかなり重い。陰鬱で残酷な描写も多数あり、万人向けの漫画とは言い難い。アニメーションになると聞いたときは、え? ホントにやるのといった驚きがあった。きちんと全部観ているわけではないが、数話観た限りでは、原作に忠実に作られており、作画、背景も丁寧でクォリティは高い。この出来栄えなら原作のファンも納得するだろう。
正体不明の巨人から逃れて、壁の中に閉じこもって暮らす人間たちの前に再び巨人が襲いかかる。巨人たちの目的はただ一つ、人間をむさぼり食うことだ。巨人を倒すにはうなじの肉を素早く的確にそぎ落とすしかない。ガスを燃料とした立体起動装置を駆使して巨人に立ち向かう調査兵団の若き兵士たちが本書の主役である。訓練および実戦を通じて苦難を乗り越えていく彼らの姿が描かれるという大筋だけ見ると普通の少年マンガなのだが、その苦難が並大抵のものではない。グロテスクな巨人に仲間が次々と食われていくという凄惨な場面には、思わず目を背けたくなる。非力な自分だけでは過酷な運命には逆らえない、どうにもならないという閉塞感、無力感は、グローバル社会の中で強烈な競争にさらされている若者にとってリアルな実感なのだろう。巨人とは、現実社会の隠喩でもあると分析するのはたやすいことだ。
しかし、作者は「人類対巨人=若者対現実社会」という単純な図式を周到にずらしていく。主人公エレン・イェーガーは医師である父に何らかの処置を施された結果、自らの意志で巨人になれる能力を獲得しており、巨人と人間を繋ぐ存在となっている。ただし、巨人になったときには自らの意志を制御できず味方を攻撃したりするので、意識や知性は抑圧されている。巨人化したエレンは無意識的な破壊衝動、野獣的な生存本能を体現した存在なのだ。過酷な現実社会、すなわち自らの外部を象徴していたはずの巨人と、自らの内部を象徴する巨人とが戦ううちに、両者が入り混じり、違いが徐々に無化されていく。ネタばれになってしまうので詳しくは書けないが、敵だと思っていたらそれが仲間だったり、仲間が敵になったりという十巻までの展開は、「人類対巨人」の図式を「人類=巨人」へと移行していくかなりスリリングな試みとなっている。特に十巻のラストには、おいおい、いくらなんでもそれはないだろうと驚愕させられた。この先がどう展開していくのか、ちょっと目が離せない作品である。
このように、一部生徒の間で人気の高い『巨人』であるが、決して軽い作品ではなく、読後感はかなり重い。陰鬱で残酷な描写も多数あり、万人向けの漫画とは言い難い。アニメーションになると聞いたときは、え? ホントにやるのといった驚きがあった。きちんと全部観ているわけではないが、数話観た限りでは、原作に忠実に作られており、作画、背景も丁寧でクォリティは高い。この出来栄えなら原作のファンも納得するだろう。
正体不明の巨人から逃れて、壁の中に閉じこもって暮らす人間たちの前に再び巨人が襲いかかる。巨人たちの目的はただ一つ、人間をむさぼり食うことだ。巨人を倒すにはうなじの肉を素早く的確にそぎ落とすしかない。ガスを燃料とした立体起動装置を駆使して巨人に立ち向かう調査兵団の若き兵士たちが本書の主役である。訓練および実戦を通じて苦難を乗り越えていく彼らの姿が描かれるという大筋だけ見ると普通の少年マンガなのだが、その苦難が並大抵のものではない。グロテスクな巨人に仲間が次々と食われていくという凄惨な場面には、思わず目を背けたくなる。非力な自分だけでは過酷な運命には逆らえない、どうにもならないという閉塞感、無力感は、グローバル社会の中で強烈な競争にさらされている若者にとってリアルな実感なのだろう。巨人とは、現実社会の隠喩でもあると分析するのはたやすいことだ。
しかし、作者は「人類対巨人=若者対現実社会」という単純な図式を周到にずらしていく。主人公エレン・イェーガーは医師である父に何らかの処置を施された結果、自らの意志で巨人になれる能力を獲得しており、巨人と人間を繋ぐ存在となっている。ただし、巨人になったときには自らの意志を制御できず味方を攻撃したりするので、意識や知性は抑圧されている。巨人化したエレンは無意識的な破壊衝動、野獣的な生存本能を体現した存在なのだ。過酷な現実社会、すなわち自らの外部を象徴していたはずの巨人と、自らの内部を象徴する巨人とが戦ううちに、両者が入り混じり、違いが徐々に無化されていく。ネタばれになってしまうので詳しくは書けないが、敵だと思っていたらそれが仲間だったり、仲間が敵になったりという十巻までの展開は、「人類対巨人」の図式を「人類=巨人」へと移行していくかなりスリリングな試みとなっている。特に十巻のラストには、おいおい、いくらなんでもそれはないだろうと驚愕させられた。この先がどう展開していくのか、ちょっと目が離せない作品である。
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