ネルスン・ボンド『宇宙人ビッグスの冒険』2022-08-02 09:32

 新型コロナの影響で洋書の注文を控えているため、以前にも書いたとおり、ジュヴナイル叢書の収集に精力を傾注している。現在のところ、

1 石泉社「少年少女科学小説選集」(1955年~1956年)全21冊コンプリート
2 講談社「少年少女世界科学冒険全集」(1956年~1958年)全35冊コンプリート
3 講談社「少年少女世界科学名作全集」(1961年~1962年)全20冊コンプリート

 と来て、今は岩崎書店「少年少女宇宙科学冒険全集」(1960年~1963年)全24冊を集めているところ。これを集め終えれば、とりあえずミッション終了である。この叢書は、2冊を除いて、すべての表紙・挿絵を武部本一郎と依光隆の2人で担当しており、当時としては大変モダンな印象がある。内容も、これより前の叢書が、アメリカのジュヴナイル叢書をそのまま持ってきたもの、つまり当初から少年向きの物語が多かったのに対して、本叢書は、『宇宙戦争』『タイム・マシン』『死の金星都市』(レムの『金星応答なし』)など大人向きのリライトも多く含まれ、意欲的なラインナップとなっている。ただし、リライトも度が過ぎると元の作品の雰囲気を壊してしまいかねず、舵取りが難しいところだ。有名な話だが、本叢書の『タイム・マシン』には、原作にないポールとジュリーという子供たちが登場し、サイエンス博士(!)とともに未来の世界に旅立つ。これはいくら何でもやり過ぎだろう。原作の持つ情緒がだいなしになってしまっている。

 さて、今回取り上げたいのは、この全集に『宇宙人ビッグスの冒険』『幽霊衛星テミス』の2冊が収められているネルスン・ボンドである(全集ではネルソン・ボンド表記)。実はこの2冊は、Lancelot Biggs: Spaceman(1950)として刊行された本を2分冊したものであり、もともとは1939年から1943年にかけて雑誌(ファンタスティック・アドヴェンチャー、アメージング、ウィアード・テイルズ)に掲載された連作をまとめたものである。宇宙貨物船サタン号の航空士ランスロット・ビッグスが巻き起こす数々の珍騒動をユーモラスに描いた作品で、人工重力装置を誤ってオフにしたり、積荷の生野菜に水をかけて腐らせたり、ビッグスのやることなすこと失敗の連続。しかし、腐った野菜を鉛の箱に詰めて宇宙へ放り出したら、野菜を触媒とした宇宙線の影響で鉛が何と金に変わっていた。かくして、サタン号は積荷を駄目にした損害を上回る利益を得たのである(この部分は野田昌宏『SF英雄群像』に紹介あり)。

 他にも、サタン号が宇宙海賊に襲われたときは、コックを務めていたビッグスの機転で料理に鎮静剤をまぜ、海賊を大人しくさせることに成功している。ラジオの野球試合中継中に録音を聞かせて賭けに勝ったり、最新鋭の宇宙船と貨物を運ぶ競争をしたときには宇宙に生じる恐ろしい空胞を利用して見事競争に勝ったり、とビッグスのやることは無茶苦茶なのだが、結果としては成功しているのが面白いところだ。鉛が金に変わったり、加速して宇宙船の長さを縮め、木星を突き抜けたり(ローレンツ短縮を誤解している)と、今から見ると科学的な間違いが多々あるところは気になるが、アイディアの面白さと展開の巧みさで結構読ませる。訳文も自由自在で、かなり訳者の亀山龍樹が創作しているのではないかと思われる。全体を通した視点人物としてスパークスという少年が設定されているのだが、『タイム・マシン』の例を見ると、原文にスパークスがいるかどうかも疑わしい。仮にいたとしても、読者に対して「学校にはおべんとうを持って行くのですか? それとも給食なの? 給食はおいしい?」(『ビッグス』冒頭部分)などと語りかけたりはしないだろう。ただし、この語り口が読者に作品への入り込みやすさ、親しみやすさをもたらしていることは間違いないので、亀山の試み(と仮定してだが)は見事に成功していると言えよう。

 宮田昇『新編・戦後翻訳風雲録』(2007年、みすず書房)の亀山龍樹の章を読むと、「亀山が児童文学主流から評価されなかったのは、名作ダイジェストをしたうさん臭い男という目で、見られたせいである」とある。児童文学界では、昭和40年代、50年代に大変激しい「リライト駆逐運動」が起こり、戦後隆盛を極めた世界名作全集などが姿を消していったという。なるほど、あれほどあったSF名作全集が消えていった背景にこうした事情があったとは知らなかった。SFダイジェストで育った自分としては、原作の趣を壊してしまうリライトならない方がよいが、原作のエッセンスを汲み取った良質なリライトはあってもよいのではないか、とつらつら思った次第である。

 つい話が脱線してしまった。次回はネルスン・ボンドの他の作品について見ていきたい。

HBO制作ミニドラマ『チェルノブイリ』を観た2022-02-06 13:30

 『ゲーム・オブ・スローン』を制作したことで知られるアメリカのケーブルTV局HBOが2019年に制作した5時間(5話完結)のミニドラマ『チェルノブイリ』を一気に観る。1986年4月に実際に起きた原子力発電所の事故を描いた(ほぼ)事実に基づいたドラマである。綿密な時代考証と科学考証を経て丁寧に事故の様子が描き出されており、リアリティ溢れる見事な作品になっている。

 ドラマは、事故の真実をテープに吹き込んだ当事者と思われる男性が自死する場面から始まる。なぜ彼は死ななければならなかったのか。事故の真実とは何か? 次の場面からは、過去に戻り、事故直後のチェルノブイリの様子が複数の視点で描かれる。第一は、原発近隣に住む、消防士の夫を持つ女性の視点。深夜に彼女は目覚め、原発から吹き上がる炎をじっと見つめる。電話がかかってきて、夫が事故現場に赴く。第二に、原発内部の技術者たちの視点。呆然とする彼等に、無能な上司が給水を命じる。給水タンクが爆発したのではなく、原子炉が爆発したのだといくら言っても、上司はそんなことが起きるはずはないの一点張り。見てこいと命じて、部下を死に至らしめる。第三は、科学者の視点。有能な物理学者であるレガノフはこのままではとんでもないことになると気づき、指導者ボリスとともに、事態の鎮圧に専念することとなる。このように、様々な視点から語ることによって、チェルノブイリ事故の悲惨さ、深刻さが浮き彫りになり、視聴者は原発事故の恐ろしさについて理解を深めていくことができる。しかも、事故の原因はドラマの最後にはっきりと描かれる構成になっているため、いったん観始めたら、もう最後まで止まらない。現場の技師らは、原子炉を緊急停止するボタンを押したはずなのに、直後に爆発が起きたと口をそろえる。では、何が原因なのか。優れた科学ミステリを読むような、論理的かつ鮮やかな謎解きが最後に待っている。これは無能な上司が引き起こした人災であると同時に、システムが引き起こした必然的な事故でもあったのだ。詳しくはネタバレになるので書けないが、ぜひとも最後まで観て、合理主義がもたらす(共産主義がもたらす、ではない。ここは大事な所ので、強調しておく。何主義の世界であろうが、これは起き得る事故なのだ)災厄の怖さを実感してほしい。

 また、さすが「ドラマのHBO」だけあって、脚本・構成・画面構成の素晴らしさはもちろん、人物造型も巧みであり、観る者を飽きさせない。夫を愛するがゆえに、身ごもった子を危険にさらしてしまう妻のリュドミラ、世間知らずゆえに真っ直ぐ真実に向かおうとする物理学者レガノフ、情に厚く実行力に優れた政治家ボリス、皆悩みながらも自己の役割をしっかりと果たす、血肉の通った生身の人間として見事な存在感を示している。レガノフが人の間違いをその都度訂正する演出などは、彼のキャラクターをよく表していて心憎いばかりだ。

 総じて、見事な出来栄えと言ってよい。このようなドラマが作られるなら、ミニドラマも捨てたものではないなと思った。

下村健寿「『復活の日』から読み解くバイオロジー」について2022-02-06 09:58

 相変わらず新型コロナウイルスが猛威をふるっている。オミクロン株は弱毒化したとはいえ、亡くなる方はいるので対策を緩めるわけにもいかず、本当に舵取りは難しい。いい加減落ち着いてほしいものだが、沈静化にはまだまだかかるかもしれない。

 さて、ウイルスを扱った書物は数々あるが、分子生物学の視点から生命の本質に迫り、もはや古典的名著と言える福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)も始めはウイルスの話から始まる。第1章で、福岡は、自身も学んでいたロックフェラー大学(元ロックフェラー医学研究所)に在籍していた野口英世について述べる。梅毒、ポリオ、狂犬病、黄熱病の病原体を発見したと発表し、西アフリカで黄熱病に倒れた野口の功績をある程度認めながらも、「野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとしてまったく顧みられていない」と手厳しく批判している。野口が間違ってしまった理由は、梅毒以外の病原体はすべてウイルスであり、当時の顕微鏡の解像度ではウイルスが小さすぎて捉えられなかったからだ。1章で福岡は、「野口の研究は単なる錯誤だったのか、あるいは故意に研究データを捏造したものなのか、はたまた自己欺瞞によって何が本当なのか見極められなくなった果てのものなのか」と書いているが、この部分についての反論を最近読んで、面白いと思ったので、ここに記しておく。

 小松左京は、2001年から〈小松左京マガジン〉という同人誌を作り、年に4冊の季刊ペースで発行していた(小松の死後も刊行され、2013年50巻で終刊)。小松に縁のある作家、研究者らが好きなテーマで随想や論文、小説を発表していたものである。その寄稿者の一人に下村健寿という方がおり(医学者、医師、元オックスフォード大学研究員、現福島県立医科大学教授)、海外での小松左京原作映画の受容のされ方、「さよならジュピター」を再評価する論考などを執筆されていた。26巻に掲載された「1984『スター・ウォーズ』に潰された映画」が「さよならジュピター」とリンチ版「デューン砂の惑星」を取り上げていて滅法面白かったので、他のも読んでみようと思ったのだ。
 あにはからんや、31巻から7回連載された「『復活の日』から読み解くバイオロジー」は、専門を生かしてウイルスの発見や黒死病、火星生命の可能性、細菌兵器や抗生物質について、科学的知見に基づいた論考がなされており、非常に読み応えがあり、知的好奇心を刺激される、優れた評論になっていた。
 その第1回に、福岡の野口批判に対する反論が載っている(本の題名は載っていないが、内容からして明らかだろう)。その骨子は、野口の研究が「間違っていた」のは確かだが、それは決して「捏造」とは言えず、可能性であるにせよ、「捏造」という言葉を使うのは科学者に対して失礼であろうというものだ。最初はどっちでもいいのではと思って読んでいたが、科学というのは間違いと訂正を繰り返して発展していくものであり、「間違い」と「捏造」は天と地ほども違うという下村の主張には大変説得力があり、なるほどと思わされた。他の回も一気に読んだが、いずれも根拠をはっきりと示したうえでの論考で、一読の価値がある。
 下村氏は、昨年『オックスフォード式最高のやせ方』(アスコム、2021年)という本を上梓されておられるが、健康本だけでなく、ぜひともこれらの生物学に関する原稿をまとめて出版してほしいものである(売れ方は健康本にかなわないかもしれないが)。

お休みなさいエルサレム2021-05-23 14:06

 5月21日にようやく停戦になったとは言え、またもやイスラエルとパレスチナ(ガザ地区)との内戦が起きた。イスラエルの建国以来何度も何度も繰り返される悲劇にもううんざりしている人も多いと思われるが、いつミサイルが降ってくるかわからない当事者にとってみれば、本当にとんでもないことで、ちょっとでも想像力があれば、普通の人が普通に暮らしている地域にミサイルを撃ち込むとはどういうことかわかると思う。

 元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズの最新ソロアルバムは、2017年に出た Is This the Life We Really Want?(これが本当に望んだ生活?) だが、この中に「デジャ・ヴ」という曲がある。

【もしも自分が神様だったら/顔の血管を手直しして/お酒に強く/老化にも強くしただろう】

 という出だしから始まって、

【もしも自分がドローンだったら/ミサイル誘導と奇襲攻撃のための/電子的な目を備えて/外国の空を偵察しているドローンだったとしたら

 家にいる誰かを見つけなければいいと思う

 たとえば、そう/ストーヴの前の女性/パンを焼き/米を炊き/骨をゆでているような】(以上拙訳)

 この、「ドローンだったら、家にいる誰かを見つけなければいいと思う」っていうところがいいよね。全体的には、Wish You Were Here を思わせるゆったりとした曲調の曲だが、ロジャーもここは力を込めて、歌い上げている。原文は I would be afraid to find someone home だから「家にいる誰かを見つけることを恐れる」だが、まあこれぐらいの意訳は許されるだろう。日本版CDについている対訳も「家に誰もいなければいい」となっている。大岡昇平は「俘虜記」の中で、主人公が撃とうとしたアメリカ兵に家族がいることを想像したら撃てなかったというエピソードを描いている。家族のいる誰かを殺すこと、家庭にいる誰かを殺すことが戦争なのだということを戦争の親玉たちはぜひぜひ良く考えてほしい。

 さて、問題はここからだ。この対訳の第二連はこうなっている。

「もしも僕が神だったら/たくさんの子供を儲けるだろう/そして恋に苦しむこともない/たとえ一人でも失いたくないから」(高橋崇・訳)

 うん? 恋に苦しむこともない? 恋をすると子供を失うってことなのか。別の女性と恋をすれば、子供は置いていくことになるだろうからそれがつらいのか。随分生活臭の漂う神様だなあ。などと思って原文を確認すると、こうなっていた。

If I had been god / I would've sired many sons
And I would not have suffered / The Romans to kill even one of them

 これは多分こんな意味だ。
【もしも私が神様だったら/たくさんの息子を作り/ローマ人がそのうちの一人でも殺すことを許さなかっただろう】(拙訳)
 つまり、ローマ人が神の子であるイエスを殺したこと、それによってキリスト教が生まれたために現在に至るまで宗教戦争が絶えていないことを含意した一文であるとしか読めない。まさかと思うが、「恋に苦しむこともない」というのは Romans と Romance を取り違えた誤訳なのか、それともローマ人と知ってのうえで、大胆な意訳を試みたのか。まあ、どちらでもよい。この曲が名曲であることに変わりはないのだから。
 ちなみに、「デジャ・ヴ」の元の題は Lay down Jerusalem と言い、はっきりとこの曲がパレスチナ問題を歌ったものであることを示していた。【お休みなさいエルサレム/重荷を降ろして/お休みなさい】【私がムスリムであなたがユダヤ人だったら/鎖の重さを交換しよう/信仰という鎖の重さを】という歌詞も含まれている。このままでは、直接的すぎると思ったのか、完成した曲からはエルサレム、ユダヤ、ムスリムという語はすべて姿を消した。しかし、それにもかかわらず、この曲は、パレスチナを想起させないではいられない。「狂気」「ザ・ウォール」に続く、ロジャー・ウォーターズの新たな代表曲になると言ってよいと思う。

(ライヴでは、Lay down Jerusalem と繰り返し歌っている。こちらをどうぞ。↓)
https://www.youtube.com/watch?v=L8ezFac-O8I

長澤唯史『70年代ロックとアメリカの風景』を読んで2021-02-07 09:11

 椙山女学園大学教授である著者が別冊文藝等に掲載してきた論考を一冊にまとめたもので、それぞれ掲載時に目を通してはいたが、こうして一気に読むと圧巻である。各論の鋭さ――たとえば、英文学的アプローチによるジェネシスの歌詞分析やジェフ・ベックのギタープレイは一つのメディアであると喝破したところなどは非常に啓発的であり刺激的だ――は言うに及ばず、本書には一貫して、資本主義のシステムに乗った音楽でありながら、それにとどまらず過剰なるものを抱え、表現し、闘いを続けてきたロックというものの特質を明らかにしようという熱い思いが根底に流れていることがよくわかる。

 主にイギリスのプログレッシヴ・ロックを論じた本書の第1部において、即興を統御するキング・クリムゾンに、近代的自我とは異なる「構築的な自己」を見出し、高度なアンサンブルで自己イメージを再生産していくイエスに「ハイパーリアルなシミュラークル」を見出す視点には実に説得力があり、巽孝之の先駆的な名著『プログレッシヴ・ロックの哲学』に続き、プログレッシヴ・ロックを哲学的に読み解いた書物として優れていると言えるだろう。
 さらに、人の生や性を管理する「生政治」(フーコー)と性を攪乱するグラム・ロックとの関わりを論じたり、ザ・フー『四重人格』をメタフィクション的に分析したうえで、70年代イギリス社会の不況と結び付けたりするなど、徐々に社会とロックとの関係性に言及する比率が高まっていくのも、本書の読みどころの一つである。序文にもあるように、60年代ロックが「権力」という目に見える敵を相手に闘っていたのと同様に、70年代ロックはより複雑化した社会や政治を相手にやはり「闘って」いたのである。

 本書の第2部は、ボブ・ディラン、イーグルス、サンタナ、ジミ・ヘンドリックスといったアメリカン・ロックの重鎮からケンドリック・ラマーといった新たな表現者までを論じて、その「闘い」の過程と意義を明らかにしていく。そして、本書の最終章に書かれた「ブルース・スプリングスティーンこそ70年代とそれ以降をつなぐ最重要な存在である」との指摘に、筆者は心から同意する。70年代「ここにこそ、ロックの未来がある」と評されたスプリングスティーンだが、最新作 Letter to You に至るまで、そのスタンスは一貫しており、ロックの理想的な姿がここにあることは間違いないからだ。

 全体を通じて、本書では核となる理論が決して上滑りしていない。音楽を論じる場合にありがちなことだが、理論だけが先走って、対象とずれていくということが起きやすい。それがないのだ。従って、納得しながら読み進めることができるし、また、知っていると思っていた(思い込んでいた)音楽に新たな光が当てられ、その魅力を再発見することができる。これは、著者に70年代ロックに対する深い理解と愛情があってこそ初めて達成できた偉業である。ぜひとも、一刻も早く、この手法をもとにしたブルース・スプリングスティーン論を読んでみたいと思う。楽しみに待っています。