『遊戯と臨界』赤野工作(2025年3月/創元日本SF叢書) ― 2025-04-25 12:46

ゲームに関する作品ばかりを収録したゲームSF傑作選。作者は小説投稿サイト「カクヨム」出身の作家で、架空のゲームをレビューした『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィス・ノー・ネーム』(2017年)で〈SFが読みたい!〉の年間ベスト四位に入るなど、高い評価を得ている。
本書には、遊んだゲームがつまらなかったため返品を希望するカスタマーと返答するサポートとのやり取りを通じて恐ろしい真実が浮かび上がる「それはそれ、これはこれ」、1.3秒のタイムラグが生じるにもかかわらず月と地球を結んだオンラインゲームに執着する男たちの話「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」、日常生活にかかる時間も含めたゲームのクリアタイムを最短にしようと試みる男のゲーム実況「邪魔にもならない」など11編が収録されている。各編に共通しているのは主人公たちのゲームに賭ける熱い思いだ。彼らは何かに取り憑かれたようにゲームをプレイし、ゲームを語る。印象に残った作品をいくつか紹介していきたい。
実際の高校にeスポーツ部が設立され、ゲームが一つのスポーツとして現実にも認知されてきた今、高校野球に高野連があるように、ゲームの世界にも高e連が作られ、そこで起きた不祥事に対して謝罪会見が起きるかもしれない。そんな未来を先取りして描いてみせたのが「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」だ。ゲーム内のキャラクターの動作が侮辱に当たるかどうかが争点となり、プレイヤーの高校生にはその動作が侮辱に相当することがわからなかった。作者は、ゲームを一つの文化ととらえ、文化の捉え方の世代間相違がもたらすギャップを笑いでくるむ。掌編「ミコトの拳」では、この世界はゲーム内のシミュレーションに過ぎないと考えるシミュレーション仮説を追究し、中編「これを呪いと呼ぶのなら」では、恐怖の記憶を脳に上書きするゲームをレビューする男を通じて、本当の恐怖とは何かを描く。
「本音と、建前と、あとはご自由に」では、Vtuber をしている主人公が独裁国家を倒すゲームを実況しているうちに、その国の反政府勢力に利用され、内乱で多くの人が犠牲となる。主人公が国家転覆罪に問われ裁判を受ける過程を会話だけで描いた本作は、主人公のあまりの政治的感覚のなさにぞっとさせられる話だが、高校教員を30年以上続けてきた自分にとっては、多くの若者の実情を反映しているように思う。気になったことが一つ。作中で主人公を「反動分子」と呼ぶ場面が何度も出てきた。本来「反動分子」とは「一切の改革を認めようとしない保守派や体制派」、つまり「政府寄りの人たち」を「反政府勢力」が批判して使う言葉であるが、ここでは全く逆に「反政府勢力」を示す言葉として使われている。反政府勢力を「反動分子」と呼ぶことには強烈な違和感があるので、指摘しておきたい。途中からは直っているようなので、単なる校正ミスであればよいのだが。
1989年9月にソ連から西側へ亡命してきた科学者と、あるゲームとの関わりをスパイ小説仕立てで描いた「“たかが”とはなんだ、“たかが”とは」は、集中では珍しく客観描写を取り入れているが、オチありきの話であることは変わらない。ゲーム実況配信をしていた先輩が亡くなった後に、様々な怪奇現象が起きる「曰く」は、般若心経の解説を結構真面目にしているところが新機軸と言えるかもしれない。
基本的に会話だけで物語が進んでいくので、これらの諸作を小説とは呼び難い。どちらかと言うと、落語などの話芸に近いものだろう。しかし、軽く書かれたように見えて、実は鋭く世相をえぐっていたり、恐ろしい真実を示していたりする着想には捨てがたいものがある。ゲームにのめり込む人々を一歩引いた視点から捉え、彼らと社会とのギャップを描いているところも面白い。その意味からは、「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」と「本音と、建前と、あとはご自由に」が特に良かった。形式を整えて本格的な小説を書いたら、もっと多くの層(全くゲームをしない自分のような高齢者層)にもアピールできるのではないかと思う。
本書には、遊んだゲームがつまらなかったため返品を希望するカスタマーと返答するサポートとのやり取りを通じて恐ろしい真実が浮かび上がる「それはそれ、これはこれ」、1.3秒のタイムラグが生じるにもかかわらず月と地球を結んだオンラインゲームに執着する男たちの話「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」、日常生活にかかる時間も含めたゲームのクリアタイムを最短にしようと試みる男のゲーム実況「邪魔にもならない」など11編が収録されている。各編に共通しているのは主人公たちのゲームに賭ける熱い思いだ。彼らは何かに取り憑かれたようにゲームをプレイし、ゲームを語る。印象に残った作品をいくつか紹介していきたい。
実際の高校にeスポーツ部が設立され、ゲームが一つのスポーツとして現実にも認知されてきた今、高校野球に高野連があるように、ゲームの世界にも高e連が作られ、そこで起きた不祥事に対して謝罪会見が起きるかもしれない。そんな未来を先取りして描いてみせたのが「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」だ。ゲーム内のキャラクターの動作が侮辱に当たるかどうかが争点となり、プレイヤーの高校生にはその動作が侮辱に相当することがわからなかった。作者は、ゲームを一つの文化ととらえ、文化の捉え方の世代間相違がもたらすギャップを笑いでくるむ。掌編「ミコトの拳」では、この世界はゲーム内のシミュレーションに過ぎないと考えるシミュレーション仮説を追究し、中編「これを呪いと呼ぶのなら」では、恐怖の記憶を脳に上書きするゲームをレビューする男を通じて、本当の恐怖とは何かを描く。
「本音と、建前と、あとはご自由に」では、Vtuber をしている主人公が独裁国家を倒すゲームを実況しているうちに、その国の反政府勢力に利用され、内乱で多くの人が犠牲となる。主人公が国家転覆罪に問われ裁判を受ける過程を会話だけで描いた本作は、主人公のあまりの政治的感覚のなさにぞっとさせられる話だが、高校教員を30年以上続けてきた自分にとっては、多くの若者の実情を反映しているように思う。気になったことが一つ。作中で主人公を「反動分子」と呼ぶ場面が何度も出てきた。本来「反動分子」とは「一切の改革を認めようとしない保守派や体制派」、つまり「政府寄りの人たち」を「反政府勢力」が批判して使う言葉であるが、ここでは全く逆に「反政府勢力」を示す言葉として使われている。反政府勢力を「反動分子」と呼ぶことには強烈な違和感があるので、指摘しておきたい。途中からは直っているようなので、単なる校正ミスであればよいのだが。
1989年9月にソ連から西側へ亡命してきた科学者と、あるゲームとの関わりをスパイ小説仕立てで描いた「“たかが”とはなんだ、“たかが”とは」は、集中では珍しく客観描写を取り入れているが、オチありきの話であることは変わらない。ゲーム実況配信をしていた先輩が亡くなった後に、様々な怪奇現象が起きる「曰く」は、般若心経の解説を結構真面目にしているところが新機軸と言えるかもしれない。
基本的に会話だけで物語が進んでいくので、これらの諸作を小説とは呼び難い。どちらかと言うと、落語などの話芸に近いものだろう。しかし、軽く書かれたように見えて、実は鋭く世相をえぐっていたり、恐ろしい真実を示していたりする着想には捨てがたいものがある。ゲームにのめり込む人々を一歩引いた視点から捉え、彼らと社会とのギャップを描いているところも面白い。その意味からは、「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」と「本音と、建前と、あとはご自由に」が特に良かった。形式を整えて本格的な小説を書いたら、もっと多くの層(全くゲームをしない自分のような高齢者層)にもアピールできるのではないかと思う。
『SF脳とリアル脳』櫻井武(2024年12月/講談社ブルーバックス) ― 2025-04-24 11:58

覚醒を制御する神経ペプチド「オレキシン」を発見した医学研究者による科学技術とSFを比較したノンンフィクション。小説だけでなく、漫画、映画、ドラマなど題材は幅広く、最新の技術と比較することでそれぞれの作品を見つめ直すきっかけともなるだろう。著者は1964年生まれなので、自分と同じ世代であり、登場する作品がいずれも馴染み深い。現実はここまで来ているのかという驚きと懐かしい作品を再発見する喜びが同時に味わえる一冊となっている。どんな作品がどのように取り上げられているのか簡単に紹介しておきたい(煩雑になるので作者名はすべて省略した)。
1章では「サイボーグ技術」が取り上げられている。中枢神経系(脳と脊髄)以外を人工物に置き換えた「埋め込み型」サイボーグが登場する作品として、〈ジェイムスン教授〉シリーズ、『サイボーグ009』『攻殻機動隊』『銃夢』などが紹介されている。しかし、140億個の大脳皮質ニューロンから伸びる運動ニューロンの活動電位を検知し人工体に接続して動かすということは、現実にはかなり難しいようだ。運動系の末梢神経は、何万本もある軸索の束から構成され独立した情報を運んでいるので、それぞれの活動電位を分離して検出しメカニズムに接続することが困難だからである。また、従来のサイボーグは、人間の持つ対応力や判断力と機械とを融合した存在として描かれてきたが、現在では、もはやAIの判断力の方が人間を凌いでおり、中枢系を残す意味が薄れている。したがって、近未来のサイボーグは兵器としての用途よりも、医療目的が重要になってくるとの指摘は興味深い。なお、本書では、埋め込み型だけでなく、スーツをまとう「装甲型」も一種のサイボーグとして『宇宙の戦士』『機動戦士ガンダム』などを取り上げているが、こちらは著者も書いているように、本当にサイボーグと言えるかどうか、乗り物ではないのかという疑問が生じるだろう。現実には、筑波大の山海教授率いるCYBERDINE社がロボットスーツ「HAL」を2015年より販売しており、「装甲型」は既に実現されている。
2章は「脳と電子デバイス」を扱っている。1章で述べられているように、運動系の末梢神経とメカニズムとの接続ですら困難であるのに、視覚、聴覚、味覚などの「特殊感覚」といわれる感覚を司る末梢神経と電子デバイスの接続はさらに困難であると著者は述べる。たとえば、視神経には百万本の軸索があり、大脳後頭葉にある複雑な視覚野と接続されている。このインプットとアウトプットを電子デバイスで行うのはきわめて困難であり、大脳皮質との接続は現時点では夢物語にすぎない。現実に行われているfMRIなどの脳機能画像解析技術では、空間的にも時間的にも分解能がまったく足りず、装置も巨大になってしまう。しかし、電極を大脳皮質の表面に置いた皮質脳波を用いれば、アウトプットを限定的に外界の制御信号に変換することは可能なようである。一つ一つのニューロンの活動電位をモニターする高密度な電極と超高速のデータ処理システムが開発できれば、電子デバイスとの接続も可能になるかもしれない。また、数十万個のニューロンから成る「カラム」単位で行われている情報処理を模倣することであれば、ニューロン単位の処理よりも容易にできる。もしもそのような形でデバイスとの接続を果たしたとしても、人の前頭前野にある「ワーキング・メモリー」の容量は実に小さいため、処理の限界がある。前頭前野は自我や道徳心、人格に関係しており、外部デバイスで拡張することにはリスクが伴う。電脳化への道はなかなか険しいようだ。しかし、いつかは実現するのではないかというのが著者の見方である。本章では作品はあまり登場しないが、『攻殻機動隊』の先見性は高く評価されている。
3章は「意識のデータ化」を扱う。本章で言う意識のデータ化とは、言語生成AI「ChatGPT」がしているように人の言動をあらかじめ学習させて人格や言動を模倣した応答をさせるということではなく、脳の機能をそのまま機械の上で働かすことである。意識は、視覚・聴覚・触覚などの感覚系がキャッチした情報をリアルな世界のものとして認知し、ある対象について注意を向けることを基礎とする(大脳皮質の機能)。その上で、認知した対象に付随して人は情動を感じる(大脳辺縁系の機能)。この二つの独立した認知システムを前頭前野が取りまとめて、はじめて「心」が生じる。さらに、脳の機能には意識されないものも多い。たとえば、小脳は過去の運動学習にもとづいて運動プログラムを作成し、大脳基底核は運動を制御している。これらは普段まったく意識されていないが、やはり脳の機能として重要である。「認知」「情動」「無意識」などの脳の機能はかなり複雑であり、大脳皮質の情報処理機構はほとんど解明されていないため、すべて機械に移し替えることはまだまだ困難であると思われる。また、有機的な身体からのインプットがなければ「意識」は存在できないので、脳だけで生きる場合は、本来の脳の活動と異なるものになるだろう。ロボットのような物理的な身体を与える方が、本来の脳の機能に近づくことができる。結論として「意識のデータ化」は現状では難しいということになる。作品としては『順列都市』『ディアスポラ』『ユービック』『オルタード・カーボン』、漫画『攻殻機動隊』『アップルシード』『銃夢』『銀の三角』、映画『マトリックス』、アニメ『SDガンダムフォース』『ゼーガペイン』『シュタインズ・ゲート』などが挙げられている。
4章は「人工冬眠」を扱う。SFの世界では、人工冬眠は未来への旅(『夏への扉』など)と宇宙への旅(『2001年宇宙の旅』、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』、映画『パッセンジャー』、漫画『火の鳥』など)によく登場する。宇宙空間において、宇宙線が遺伝子にダメージを与えるのは分裂中の細胞に対してなので、人工冬眠で代謝を下げればダメージを抑制できるし、筋萎縮や骨量低下も減少させることができる。冬眠する動物は、脳の視床下部にある体温の設定温度を定める機能によって設定温度を変え、低代謝状態を作り出している。しかし、機構は不明なので、人体への応用はまだできていない。NASAでは「強制冷却」によって代謝を下げる研究が行われているが、冬眠期間は長くて2週間程度であり、様々なデメリットが生じる。2020年に、著者らの研究チームは、非冬眠動物であるマウスで視床下部のニューロン群(Qニューロン)を興奮させることにより低代謝状態を作り出すことに成功している。ヒトの医療への応用が期待されており、将来は人工冬眠が可能になるかもしれない。
5章は「記憶の書き換え」を扱う。記憶には様々な種類があり、海馬は「陳述記憶」、扁桃体は情動記憶、大脳基底核や小脳は手続き記憶というように、脳の各場所で記憶の機能が異なっている。情動記憶や手続き記憶は言葉で表現できない「非陳述記憶」であり、陳述記憶とは独立して成立している。人の記憶は多層構造なのである。陳述記憶だけを書き換えても、リアリティのある記憶にはならないだろう。また、海馬には「メモリー・エングラム」と呼ばれる記憶痕跡が作られ、それが大脳皮質のニューロンに働きかけることで長期記憶が大脳皮質に作られるため、このメカニズムがわからないと陳述記憶の書き換えは困難である。非陳述記憶は陳述記憶以上に広範な脳領域にまたがっているため、さらにメカニズムの解明が難しい。記憶の書き換えは当分はフィクションの世界に留まるようだ。作品としては『攻殻機動隊』、映画『インセプション』、ドラマ『ジョー90』などが挙げられている。
6章は「脳と時間の流れ」を扱う。古典物理学では時間は一定に流れているが、量子力学では主観的な意識が重要となる。現実のニューロンは分子の時間的な因果関係を利用して情報伝達を行っているので、古典的物理学に従っている。脳のメカニズムも時間の流れとともに変化し、脳は過去の出来事を記憶することはできない。エベレットの多世界解釈では、観測者も系の中の要素と捉えるが、これは「観測によって波動が収縮する」と言うよりは、多くの可能性の中のある一つの世界に意識が入り込むのだと著者は述べている。この宇宙は無限に存在するマルチバースの中の一つだという考え方である。我々の意識は、宇宙の時間軸上の出来事を映画のコマのように飛び飛びにたどっているのだと著者は捉えている。従って、脳の処理能力を上げれば、時間は(他の人から見て)速く進み、意識の作動が止まれば時の流れも止まるというわけだ。こうした考えで書かれたわけではないが、タイムトラベルを扱った作品として、『タイムマシン』『異星の客』『タイタンの妖女』、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インターステラー』『テネット』などが挙げられている。
7章は「脳の潜在能力」を扱う。「脳は潜在能力の10%しか使っていない」というのは1936年に米国の作家ローウェル・トーマスが自著の中で述べた言葉だが、科学的には完全に否定されていると著者は言う。もし90%が停止しているなら、不要な組織を常に持っていることになり、生物の生存には不利である。大きな頭は出産に不利であり、不必要な部分はできるだけ排除されることが生存には求められているはずだ。脳は少しのダメージでも重大な影響を被るので、そこから考えても常にフルに活動しているはずである。現在では、機能を持たない領域は大脳皮質にはないことがわかっている。ぼーっとしているときでも、深いノンレム睡眠中であっても、すべての脳領域に活動が認められる。ただし、活動していても、前頭前野の働きにより機能が自己規制されている可能性はある。ノルアドレナリンが前頭前野に分泌されると、大脳皮質の情報処理精度が高まる(ごくわずかな変容だが)。日々の努力によっても、脳の情報処理能力は変化するので、努力は決して無駄ではないとの結論である。作品としては、映画『ルーシー』『リミットレス』、『ドノヴァンの脳髄』が挙げられている。
8章は「眠らない脳」を扱う。睡眠とは休んでいるという消極的な状態ではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程なのだと著者は述べる。「記憶の固定化」など重要な役割を担っている。睡眠がないと、恒常性の維持機構、免疫系、全身の機能が狂ってしまう。睡眠中は危険に対処できないと言う不利がありながら、長い生命進化のなかで睡眠は決して除くことができなかった。しかし、近年睡眠を起こす力はシナプスにおける機能性タンパク質がリン酸化して作られることがわかってきた。リン酸化は酵素の働きなので、酵素阻害薬などで睡眠を操作できるようになるかもしれない。そうすれば『ベガーズ・イン・スペイン』のように、「無眠人」の誕生も夢ではないだろう。
9章は「AIとこころ」を扱う。2022年11月に公開された「ChatGPT」は、時系列データを処理してきた従来の「リカレントニューラルネットワーク」を用いずに、特定の特徴に重みづけをする「アテンション」を用いるところに特色がある。「ChatGPT」との会話は極めて自然で、心をもっているように見える。「ヒトの心も脳が定型的な応答をしているにすぎない」と考えればヒトの心とAIにそれほど違いはないようにも思えるが、いまのところ、AIにメタ認知機能や感情はないと考えられており、ヒトの心との違いは歴然としてある。AIが心をもつには、「自分が自分である」と認知し、社会や環境の中でみずからの置かれている状況を理解する「自意識」が必要である。3章で述べたように、そのためには自己を他者と区別できるような「身体」が必要になってくる。個性や社会性も必要である。こうした条件をクリアしてAIが心をもったとしたら、ヒトと同じように、社会を支配したいという欲求をもつだろう。そのようなSF作品は数多くあり、映画『ターミネーター』『マトリックス』、漫画『火の鳥』が挙げられている。逆に、心をもっても欲望に支配されず、ヒトの社会をよりよくするために機能するAIも考えられる。著者はこちらに希望を持っている。
以上、本書の内容を要約してみたが、脳科学の最前線が丁寧に紹介され、SF作品に登場するテクノロジーがどこまで実現可能なのかがよくわかる、良質の解説書となっている。著者は睡眠の研究者であるため、4章と8章は特に専門的分野からの知見を垣間見ることができ、興味深い章となっている。全体としては、科学が進んできているが、まだまだ人間の脳は解明されていない部分が多く、電子デバイスとの結合、記憶の書き換えなどは難しそうだ。だからこそ、SF作品のもつ想像力がより重要になってくると思われる。現実を敷衍させ、または現実への否定から生まれた想像力が現実に作用し、現実のテクノロジーをより発達させる。そのような相互作用こそが優れたSFを生み続ける土壌として必要とされているのだ。
1章では「サイボーグ技術」が取り上げられている。中枢神経系(脳と脊髄)以外を人工物に置き換えた「埋め込み型」サイボーグが登場する作品として、〈ジェイムスン教授〉シリーズ、『サイボーグ009』『攻殻機動隊』『銃夢』などが紹介されている。しかし、140億個の大脳皮質ニューロンから伸びる運動ニューロンの活動電位を検知し人工体に接続して動かすということは、現実にはかなり難しいようだ。運動系の末梢神経は、何万本もある軸索の束から構成され独立した情報を運んでいるので、それぞれの活動電位を分離して検出しメカニズムに接続することが困難だからである。また、従来のサイボーグは、人間の持つ対応力や判断力と機械とを融合した存在として描かれてきたが、現在では、もはやAIの判断力の方が人間を凌いでおり、中枢系を残す意味が薄れている。したがって、近未来のサイボーグは兵器としての用途よりも、医療目的が重要になってくるとの指摘は興味深い。なお、本書では、埋め込み型だけでなく、スーツをまとう「装甲型」も一種のサイボーグとして『宇宙の戦士』『機動戦士ガンダム』などを取り上げているが、こちらは著者も書いているように、本当にサイボーグと言えるかどうか、乗り物ではないのかという疑問が生じるだろう。現実には、筑波大の山海教授率いるCYBERDINE社がロボットスーツ「HAL」を2015年より販売しており、「装甲型」は既に実現されている。
2章は「脳と電子デバイス」を扱っている。1章で述べられているように、運動系の末梢神経とメカニズムとの接続ですら困難であるのに、視覚、聴覚、味覚などの「特殊感覚」といわれる感覚を司る末梢神経と電子デバイスの接続はさらに困難であると著者は述べる。たとえば、視神経には百万本の軸索があり、大脳後頭葉にある複雑な視覚野と接続されている。このインプットとアウトプットを電子デバイスで行うのはきわめて困難であり、大脳皮質との接続は現時点では夢物語にすぎない。現実に行われているfMRIなどの脳機能画像解析技術では、空間的にも時間的にも分解能がまったく足りず、装置も巨大になってしまう。しかし、電極を大脳皮質の表面に置いた皮質脳波を用いれば、アウトプットを限定的に外界の制御信号に変換することは可能なようである。一つ一つのニューロンの活動電位をモニターする高密度な電極と超高速のデータ処理システムが開発できれば、電子デバイスとの接続も可能になるかもしれない。また、数十万個のニューロンから成る「カラム」単位で行われている情報処理を模倣することであれば、ニューロン単位の処理よりも容易にできる。もしもそのような形でデバイスとの接続を果たしたとしても、人の前頭前野にある「ワーキング・メモリー」の容量は実に小さいため、処理の限界がある。前頭前野は自我や道徳心、人格に関係しており、外部デバイスで拡張することにはリスクが伴う。電脳化への道はなかなか険しいようだ。しかし、いつかは実現するのではないかというのが著者の見方である。本章では作品はあまり登場しないが、『攻殻機動隊』の先見性は高く評価されている。
3章は「意識のデータ化」を扱う。本章で言う意識のデータ化とは、言語生成AI「ChatGPT」がしているように人の言動をあらかじめ学習させて人格や言動を模倣した応答をさせるということではなく、脳の機能をそのまま機械の上で働かすことである。意識は、視覚・聴覚・触覚などの感覚系がキャッチした情報をリアルな世界のものとして認知し、ある対象について注意を向けることを基礎とする(大脳皮質の機能)。その上で、認知した対象に付随して人は情動を感じる(大脳辺縁系の機能)。この二つの独立した認知システムを前頭前野が取りまとめて、はじめて「心」が生じる。さらに、脳の機能には意識されないものも多い。たとえば、小脳は過去の運動学習にもとづいて運動プログラムを作成し、大脳基底核は運動を制御している。これらは普段まったく意識されていないが、やはり脳の機能として重要である。「認知」「情動」「無意識」などの脳の機能はかなり複雑であり、大脳皮質の情報処理機構はほとんど解明されていないため、すべて機械に移し替えることはまだまだ困難であると思われる。また、有機的な身体からのインプットがなければ「意識」は存在できないので、脳だけで生きる場合は、本来の脳の活動と異なるものになるだろう。ロボットのような物理的な身体を与える方が、本来の脳の機能に近づくことができる。結論として「意識のデータ化」は現状では難しいということになる。作品としては『順列都市』『ディアスポラ』『ユービック』『オルタード・カーボン』、漫画『攻殻機動隊』『アップルシード』『銃夢』『銀の三角』、映画『マトリックス』、アニメ『SDガンダムフォース』『ゼーガペイン』『シュタインズ・ゲート』などが挙げられている。
4章は「人工冬眠」を扱う。SFの世界では、人工冬眠は未来への旅(『夏への扉』など)と宇宙への旅(『2001年宇宙の旅』、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』、映画『パッセンジャー』、漫画『火の鳥』など)によく登場する。宇宙空間において、宇宙線が遺伝子にダメージを与えるのは分裂中の細胞に対してなので、人工冬眠で代謝を下げればダメージを抑制できるし、筋萎縮や骨量低下も減少させることができる。冬眠する動物は、脳の視床下部にある体温の設定温度を定める機能によって設定温度を変え、低代謝状態を作り出している。しかし、機構は不明なので、人体への応用はまだできていない。NASAでは「強制冷却」によって代謝を下げる研究が行われているが、冬眠期間は長くて2週間程度であり、様々なデメリットが生じる。2020年に、著者らの研究チームは、非冬眠動物であるマウスで視床下部のニューロン群(Qニューロン)を興奮させることにより低代謝状態を作り出すことに成功している。ヒトの医療への応用が期待されており、将来は人工冬眠が可能になるかもしれない。
5章は「記憶の書き換え」を扱う。記憶には様々な種類があり、海馬は「陳述記憶」、扁桃体は情動記憶、大脳基底核や小脳は手続き記憶というように、脳の各場所で記憶の機能が異なっている。情動記憶や手続き記憶は言葉で表現できない「非陳述記憶」であり、陳述記憶とは独立して成立している。人の記憶は多層構造なのである。陳述記憶だけを書き換えても、リアリティのある記憶にはならないだろう。また、海馬には「メモリー・エングラム」と呼ばれる記憶痕跡が作られ、それが大脳皮質のニューロンに働きかけることで長期記憶が大脳皮質に作られるため、このメカニズムがわからないと陳述記憶の書き換えは困難である。非陳述記憶は陳述記憶以上に広範な脳領域にまたがっているため、さらにメカニズムの解明が難しい。記憶の書き換えは当分はフィクションの世界に留まるようだ。作品としては『攻殻機動隊』、映画『インセプション』、ドラマ『ジョー90』などが挙げられている。
6章は「脳と時間の流れ」を扱う。古典物理学では時間は一定に流れているが、量子力学では主観的な意識が重要となる。現実のニューロンは分子の時間的な因果関係を利用して情報伝達を行っているので、古典的物理学に従っている。脳のメカニズムも時間の流れとともに変化し、脳は過去の出来事を記憶することはできない。エベレットの多世界解釈では、観測者も系の中の要素と捉えるが、これは「観測によって波動が収縮する」と言うよりは、多くの可能性の中のある一つの世界に意識が入り込むのだと著者は述べている。この宇宙は無限に存在するマルチバースの中の一つだという考え方である。我々の意識は、宇宙の時間軸上の出来事を映画のコマのように飛び飛びにたどっているのだと著者は捉えている。従って、脳の処理能力を上げれば、時間は(他の人から見て)速く進み、意識の作動が止まれば時の流れも止まるというわけだ。こうした考えで書かれたわけではないが、タイムトラベルを扱った作品として、『タイムマシン』『異星の客』『タイタンの妖女』、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インターステラー』『テネット』などが挙げられている。
7章は「脳の潜在能力」を扱う。「脳は潜在能力の10%しか使っていない」というのは1936年に米国の作家ローウェル・トーマスが自著の中で述べた言葉だが、科学的には完全に否定されていると著者は言う。もし90%が停止しているなら、不要な組織を常に持っていることになり、生物の生存には不利である。大きな頭は出産に不利であり、不必要な部分はできるだけ排除されることが生存には求められているはずだ。脳は少しのダメージでも重大な影響を被るので、そこから考えても常にフルに活動しているはずである。現在では、機能を持たない領域は大脳皮質にはないことがわかっている。ぼーっとしているときでも、深いノンレム睡眠中であっても、すべての脳領域に活動が認められる。ただし、活動していても、前頭前野の働きにより機能が自己規制されている可能性はある。ノルアドレナリンが前頭前野に分泌されると、大脳皮質の情報処理精度が高まる(ごくわずかな変容だが)。日々の努力によっても、脳の情報処理能力は変化するので、努力は決して無駄ではないとの結論である。作品としては、映画『ルーシー』『リミットレス』、『ドノヴァンの脳髄』が挙げられている。
8章は「眠らない脳」を扱う。睡眠とは休んでいるという消極的な状態ではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程なのだと著者は述べる。「記憶の固定化」など重要な役割を担っている。睡眠がないと、恒常性の維持機構、免疫系、全身の機能が狂ってしまう。睡眠中は危険に対処できないと言う不利がありながら、長い生命進化のなかで睡眠は決して除くことができなかった。しかし、近年睡眠を起こす力はシナプスにおける機能性タンパク質がリン酸化して作られることがわかってきた。リン酸化は酵素の働きなので、酵素阻害薬などで睡眠を操作できるようになるかもしれない。そうすれば『ベガーズ・イン・スペイン』のように、「無眠人」の誕生も夢ではないだろう。
9章は「AIとこころ」を扱う。2022年11月に公開された「ChatGPT」は、時系列データを処理してきた従来の「リカレントニューラルネットワーク」を用いずに、特定の特徴に重みづけをする「アテンション」を用いるところに特色がある。「ChatGPT」との会話は極めて自然で、心をもっているように見える。「ヒトの心も脳が定型的な応答をしているにすぎない」と考えればヒトの心とAIにそれほど違いはないようにも思えるが、いまのところ、AIにメタ認知機能や感情はないと考えられており、ヒトの心との違いは歴然としてある。AIが心をもつには、「自分が自分である」と認知し、社会や環境の中でみずからの置かれている状況を理解する「自意識」が必要である。3章で述べたように、そのためには自己を他者と区別できるような「身体」が必要になってくる。個性や社会性も必要である。こうした条件をクリアしてAIが心をもったとしたら、ヒトと同じように、社会を支配したいという欲求をもつだろう。そのようなSF作品は数多くあり、映画『ターミネーター』『マトリックス』、漫画『火の鳥』が挙げられている。逆に、心をもっても欲望に支配されず、ヒトの社会をよりよくするために機能するAIも考えられる。著者はこちらに希望を持っている。
以上、本書の内容を要約してみたが、脳科学の最前線が丁寧に紹介され、SF作品に登場するテクノロジーがどこまで実現可能なのかがよくわかる、良質の解説書となっている。著者は睡眠の研究者であるため、4章と8章は特に専門的分野からの知見を垣間見ることができ、興味深い章となっている。全体としては、科学が進んできているが、まだまだ人間の脳は解明されていない部分が多く、電子デバイスとの結合、記憶の書き換えなどは難しそうだ。だからこそ、SF作品のもつ想像力がより重要になってくると思われる。現実を敷衍させ、または現実への否定から生まれた想像力が現実に作用し、現実のテクノロジーをより発達させる。そのような相互作用こそが優れたSFを生み続ける土壌として必要とされているのだ。
『パラドクス・ホテル』ロブ・ハート(2025年3月/創元SF文庫) ― 2025-04-22 21:15

タイムトラベルが実現し、好きな時代へ自由に旅行ができるようになった近未来。アインシュタイン・インターセンチュリー時空港に隣接したパラドクス・ホテルでは、時空港を民営化しようという計画が進行していた。時間旅行は費用がかかり、政府は赤字で運営している。大富豪を集めて、その中の誰かに事業をまるごと買ってもらおうというわけだ。不動産王、サウジアラビア皇太子、IT投資家、複数企業のCEOが集まり、ホテルでサミットが開かれようとするとき、奇妙な出来事が連続して起きる。孵化したばかりの恐竜が三頭、ホテル内を走り回る。ロビーの大時計が不連続な時間を示す。
主人公の警備主任ジャン・コールは、自身が時間離脱症を患っており、突然過去や未来の風景を垣間見る。亡くなった恋人メーナがホテル内に現れ、ホテルの客室でのどを切り裂かれた男の死体を見る。そんな中で、ホテル内での事件が起きたため、混乱は増すばかり。果たして殺人事件の真相は明らかになるのか、そしてサミットの行方は……。
実に魅力的な舞台設定と言うべきで、時空港からは、古代エジプト、ゲティスバーグの戦い、三畳紀、ルネサンスなど世界史、地球史のエポックメイキングとなる様々な時代行きの旅客機が出ている。ジャン・コールはもともと時間犯罪取締局で働いていたこともあり、少しはタイムトラベルの状況が回想として描かれているが、本書のストーリイはあくまでもホテル内で起きるさまざまな事件を解決することが主となっており、時間旅行が脇に置いておかれるのが、少し物足りない。しかし、それを補って余りあるのが、ホテル内での恐竜をめぐる騒動、ホテルの経営をめぐる権謀術数、時空が乱れるトラブルの解決などのいくつもの重層的に重なる物語である。主人公の時間離脱症のために、時系列が複雑に入り乱れてシーンが現れ、かなり複雑な構成となっているが、作者の手綱さばきが巧く、決して読みにくくはない。主人公の相棒であるAIドローンのルビーとのユーモラスなやり取りもあって、楽しく読み進めることができる。そして、何より主人公コールの恋人であったメーナが、コールの時間離脱症によって繰り返し自身の目の前に現れては消える、その辛さが切実に読者に迫ってくる。本書は、表面的には強靭な個性をもちながら、内面では自己嫌悪にまみれ生きづらさを抱えた一人の女性の心が解きほぐされ、新たな居場所を見つけ出していく過程を丁寧に描いた心理小説でもあるのだ。タイムトラベルものの衣をまとった癒しの物語。本書の核はここにあるのではないかと思う。
主人公の警備主任ジャン・コールは、自身が時間離脱症を患っており、突然過去や未来の風景を垣間見る。亡くなった恋人メーナがホテル内に現れ、ホテルの客室でのどを切り裂かれた男の死体を見る。そんな中で、ホテル内での事件が起きたため、混乱は増すばかり。果たして殺人事件の真相は明らかになるのか、そしてサミットの行方は……。
実に魅力的な舞台設定と言うべきで、時空港からは、古代エジプト、ゲティスバーグの戦い、三畳紀、ルネサンスなど世界史、地球史のエポックメイキングとなる様々な時代行きの旅客機が出ている。ジャン・コールはもともと時間犯罪取締局で働いていたこともあり、少しはタイムトラベルの状況が回想として描かれているが、本書のストーリイはあくまでもホテル内で起きるさまざまな事件を解決することが主となっており、時間旅行が脇に置いておかれるのが、少し物足りない。しかし、それを補って余りあるのが、ホテル内での恐竜をめぐる騒動、ホテルの経営をめぐる権謀術数、時空が乱れるトラブルの解決などのいくつもの重層的に重なる物語である。主人公の時間離脱症のために、時系列が複雑に入り乱れてシーンが現れ、かなり複雑な構成となっているが、作者の手綱さばきが巧く、決して読みにくくはない。主人公の相棒であるAIドローンのルビーとのユーモラスなやり取りもあって、楽しく読み進めることができる。そして、何より主人公コールの恋人であったメーナが、コールの時間離脱症によって繰り返し自身の目の前に現れては消える、その辛さが切実に読者に迫ってくる。本書は、表面的には強靭な個性をもちながら、内面では自己嫌悪にまみれ生きづらさを抱えた一人の女性の心が解きほぐされ、新たな居場所を見つけ出していく過程を丁寧に描いた心理小説でもあるのだ。タイムトラベルものの衣をまとった癒しの物語。本書の核はここにあるのではないかと思う。
『暗黒星雲』フレッド・ホイル(1958年11月/法政大学出版局) ― 2025-04-19 13:01

ネットフリックス版『三体』のドラマを見ていると、第一話で葉博士の部屋にあった箱の中にフレッド・ホイルの Evolution from Space があって驚いた。これは題名からわかるようにパンスペルミア仮説について述べられたもので、宇宙生命を示唆した演出、または単なる偶然(それっぽい本を入れておけ程度のもの)と思われるが、ホイルのファースト・コンタクトものと言えば、何と言っても『暗黒星雲』である。出版社がSFプロパーでないためか、SF界で話題になることは少なかったが、実はなかなかの秀作であり、1958年の初版以来、各種の異装を経て1985年まで版を重ねた。筆者の古くからの知り合いの物理教師(SFファン)は大変この作品が気に入っており、その面白さを熱く語ってくれた。何十年も前のことだが、印象に残っている。今回はこのクラシックSFを紹介したい(古典であるということに鑑み、ネタを大いにバラすのでご留意願いたい)。
1959年1月、パロマー天文台で働く天文学者イェンセンは一か月前の写真と現在の写真を図像比較器で見ているうちに、南の空で暗黒星雲が大きくなっていることに気づく。すぐに幹部のマーロー博士に報告し、会議が開かれる。会議で、この星雲が地球に向かっていること、一年半後には地球に到達するであろうことが確認された。
一方、グリニジ天文台を始めイギリス各地で、木星と土星の軌道が正規の位置からずれていることが観測される。どうやら木星の質量程度の未知の天体が太陽系周辺に存在しているらしい。ケンブリッジ大学天文学教授キングスリーは、未知の天体が見つかっていないかマーロー博士に問い合わせ、すぐにアメリカに呼ばれる。二人は協力して報告書をまとめ、アメリカ大統領とイギリス首相にそれぞれ報告する。早速イギリスのノルトンストウに最新の電波望遠鏡を備えた研究所が作られ、秘密裡の活動が始まった。
原著の刊行は1957年であり、何千個もの真空管を備え紙テープを吐き出す巨大な電子計算機、全く新しい符号としての周波数変調(FM)など、科学的装置や知識の古めかしさは否めない。しかし、物語の前半、暗黒星雲の実在と進路を科学的な事実をもとに推論していく過程には普遍的な面白さがあり、物語がテンポよく進んでいくので、今読んでもスリリングで楽しめる。電波に信号を乗せて送れば、一秒に五百万語を送ることができるという発想などは明らかに現代のインターネットにつながるものであり、ホイルの洞察力が優れていたことを示している。
さて、物語は後半に入り、いよいよ暗黒星雲が太陽系に近づいてくる。どうなるのかというと、多くの人は太陽光が遮られ地球は寒冷化すると思うだろう。しかし、この物語では、その前にまず太陽光が星雲ガスに輻射されることによって、地球は一度熱せられるのだ。気温は四十度台となり、植物と昆虫が繁栄し、人々は次々と死んでいく。その後ようやく、太陽と地球の間に星雲が入り込んで、暗黒が訪れ、雨が降り、すさまじい台風が起きる。気温はどんどん下がり、雪が降り、川が凍る。極端な気候変動によって、二か月で世界人口の四分の一が失われた。
一方で、暗黒星雲は自らガスを噴射して進行速度を弱め、太陽系に留まっていることが判明する。1965年には、太陽を中心とする黄道面に対して傾斜した円盤となって安定した。地球では、大気中の電離度が特定の波長の電波だけを通すように変化していることから、キングスリーは星雲が知能を備えているのではないかという仮説を立て、簡単な信号を送り、返答を得る。それは「通信うけとった。知らせが少ない。もっと送れ」というものであった。試行錯誤の末、研究所員の声をもとにした音声信号が開発され、星雲とのやり取りが始まる。星雲の考えでは、惑星の重力下では神経活動の範囲が狭くなり、また、惑星は太陽光を一部しか受け取れないので化学変化の量が少なく、惑星に高度な知性は育たない。ところが、惑星から信号の送信があったので、星雲は驚いたのである。
科学者集団は暗黒星雲とのやり取りを続けるが、政治家たちと対立し、アメリカおよびソ連の政治家は星雲に対して水素爆弾を積んだロケットを百五十機発射する。それに対する星雲の反応は恐るべき結果を人々にもたらした。そして、その後十日足らずで、ついに暗黒星雲は太陽系を離れる。水素ロケットのせいではなく、わずか二光年先の星雲知性体が星雲を超える理知的存在について解答を得たと連絡してきたため、そこへ行って確かめたいというのだ。かくして暗黒星雲は去った。置き土産として、星雲との通信方法および人類が到達していない知識を得るための方法を残して。科学者たちは果敢にそれに挑む。果たして知識は得られるのか……。
本書は、科学を普遍言語として用い、異なる知性間での意思疎通が可能と考える点で、『三体』を始めとする劉慈欣作品と共通している。人間をアリにたとえたり、電波が重要な役割を果たしたりするのも同じだ。太陽系規模の知性とのコンタクトという点では、惑星規模の知性を扱う『ソラリス』よりもスケールは大きい。ただし、意思疎通があまりに容易にできてしまうところは、リアリティのなさという欠点を生じさせているが、一種の思考実験レポートだと思えば、許せてしまうところもある。小説的完成度よりもアイディアの面白さを優先させた作品なのだ。壮大な規模で展開されたファースト・コンタクトもののクラシックとして、高く評価しておきたい。
写真は左上から右回りに
1958年11月初版
同(表紙違い)
1967年9月改版第一刷(訳者「改版の刊行に際して」収録)
1970年5月新装版第一刷(コスモス・ブックス)
1974年10月新装版(コスモス・ブックス)
1959年1月、パロマー天文台で働く天文学者イェンセンは一か月前の写真と現在の写真を図像比較器で見ているうちに、南の空で暗黒星雲が大きくなっていることに気づく。すぐに幹部のマーロー博士に報告し、会議が開かれる。会議で、この星雲が地球に向かっていること、一年半後には地球に到達するであろうことが確認された。
一方、グリニジ天文台を始めイギリス各地で、木星と土星の軌道が正規の位置からずれていることが観測される。どうやら木星の質量程度の未知の天体が太陽系周辺に存在しているらしい。ケンブリッジ大学天文学教授キングスリーは、未知の天体が見つかっていないかマーロー博士に問い合わせ、すぐにアメリカに呼ばれる。二人は協力して報告書をまとめ、アメリカ大統領とイギリス首相にそれぞれ報告する。早速イギリスのノルトンストウに最新の電波望遠鏡を備えた研究所が作られ、秘密裡の活動が始まった。
原著の刊行は1957年であり、何千個もの真空管を備え紙テープを吐き出す巨大な電子計算機、全く新しい符号としての周波数変調(FM)など、科学的装置や知識の古めかしさは否めない。しかし、物語の前半、暗黒星雲の実在と進路を科学的な事実をもとに推論していく過程には普遍的な面白さがあり、物語がテンポよく進んでいくので、今読んでもスリリングで楽しめる。電波に信号を乗せて送れば、一秒に五百万語を送ることができるという発想などは明らかに現代のインターネットにつながるものであり、ホイルの洞察力が優れていたことを示している。
さて、物語は後半に入り、いよいよ暗黒星雲が太陽系に近づいてくる。どうなるのかというと、多くの人は太陽光が遮られ地球は寒冷化すると思うだろう。しかし、この物語では、その前にまず太陽光が星雲ガスに輻射されることによって、地球は一度熱せられるのだ。気温は四十度台となり、植物と昆虫が繁栄し、人々は次々と死んでいく。その後ようやく、太陽と地球の間に星雲が入り込んで、暗黒が訪れ、雨が降り、すさまじい台風が起きる。気温はどんどん下がり、雪が降り、川が凍る。極端な気候変動によって、二か月で世界人口の四分の一が失われた。
一方で、暗黒星雲は自らガスを噴射して進行速度を弱め、太陽系に留まっていることが判明する。1965年には、太陽を中心とする黄道面に対して傾斜した円盤となって安定した。地球では、大気中の電離度が特定の波長の電波だけを通すように変化していることから、キングスリーは星雲が知能を備えているのではないかという仮説を立て、簡単な信号を送り、返答を得る。それは「通信うけとった。知らせが少ない。もっと送れ」というものであった。試行錯誤の末、研究所員の声をもとにした音声信号が開発され、星雲とのやり取りが始まる。星雲の考えでは、惑星の重力下では神経活動の範囲が狭くなり、また、惑星は太陽光を一部しか受け取れないので化学変化の量が少なく、惑星に高度な知性は育たない。ところが、惑星から信号の送信があったので、星雲は驚いたのである。
科学者集団は暗黒星雲とのやり取りを続けるが、政治家たちと対立し、アメリカおよびソ連の政治家は星雲に対して水素爆弾を積んだロケットを百五十機発射する。それに対する星雲の反応は恐るべき結果を人々にもたらした。そして、その後十日足らずで、ついに暗黒星雲は太陽系を離れる。水素ロケットのせいではなく、わずか二光年先の星雲知性体が星雲を超える理知的存在について解答を得たと連絡してきたため、そこへ行って確かめたいというのだ。かくして暗黒星雲は去った。置き土産として、星雲との通信方法および人類が到達していない知識を得るための方法を残して。科学者たちは果敢にそれに挑む。果たして知識は得られるのか……。
本書は、科学を普遍言語として用い、異なる知性間での意思疎通が可能と考える点で、『三体』を始めとする劉慈欣作品と共通している。人間をアリにたとえたり、電波が重要な役割を果たしたりするのも同じだ。太陽系規模の知性とのコンタクトという点では、惑星規模の知性を扱う『ソラリス』よりもスケールは大きい。ただし、意思疎通があまりに容易にできてしまうところは、リアリティのなさという欠点を生じさせているが、一種の思考実験レポートだと思えば、許せてしまうところもある。小説的完成度よりもアイディアの面白さを優先させた作品なのだ。壮大な規模で展開されたファースト・コンタクトもののクラシックとして、高く評価しておきたい。
写真は左上から右回りに
1958年11月初版
同(表紙違い)
1967年9月改版第一刷(訳者「改版の刊行に際して」収録)
1970年5月新装版第一刷(コスモス・ブックス)
1974年10月新装版(コスモス・ブックス)
『ミッキー7 反物質ブルース』エドワード・アシュトン(2025年3月/ハヤカワ文庫SF) ― 2025-04-13 13:47

ポン・ジュノ監督により映画化された『ミッキー7』(2023年1月/ハヤカワ文庫SF)の続編である。舞台は、宇宙移民のための宇宙船外活動や惑星開拓において「エクスペンダブル(使い捨て人間)」と呼ばれるクローン人間が危険な任務を担う未来。エクスペンダブルに志願し、惑星ニヴルヘイム開発の任務についた主人公ミッキー・バーンズは、何度も悲惨な死に方をして、その度に再生され、生前にアップロードしておいた記憶を上書きされては、また任務につく。六度目に再生された個体がミッキー7というわけだ。
ニヴルヘイムの原住生物(巨大ムカデのような生き物)に殺されたと思われていたミッキー7が実は生きていて、コロニーに戻るとミッキー8が既に再生されていた。見つかれば処分されてしまうミッキー7は、ミッキー8と協力して秘かに共同生活を送るが、やがてばれてしまい……という物語が、前作ではテンポよくコミカルに描かれていた。本書は、その直接の続編となるので、できれば前作を読んでからの方が楽しめるだろう。タイトルにあるように、前作の結末で重要な役割を果たした反物質爆弾が鍵となり、その探索行が本書のメイン・ストーリイとなる。
エクスペンダブルを辞めて二年が経過し、ミッキーは平穏な生活を送っていた。しかし、コロニーの全エネルギーを作り出している反物質反応炉が故障し、反物質燃料の9割がダメになる。残りの燃料ではニヴルヘイムの厳しい冬を越すことができない。ミッキーは司令官に命じられ、反物質爆弾を取り戻すことになった。早速隠し場所に向かうが、そこに爆弾はなかった。ムカデたちとコンタクトを果たしたミッキーは、爆弾がムカデたちの敵に貢物として渡されたことを知る。果たしてミッキーは爆弾を取り戻すことができるのか……。
前作の最後からムカデたちとのコンタクトがとれるようになり、彼らの知性のあり方がわかってきた。ムカデたちは知性を共有する一種の集合体であり、〈最高〉と呼ばれる存在と〈補助者〉と呼ばれる存在に分かれている。〈最高〉さえ生きていればそれでよく〈補助者〉は殺されても構わない。従って、相手に対しても〈補助者〉とみなせば、簡単に殺してしまう。ミッキーは自分を〈最高〉だと伝えて殺害を免れたのだ。今回は、人間そっくりに話すムカデが現れ、コンタクトがよりスムースに進む。人間の通信を傍受して言葉を覚えたため、ミッキーの友人ベルトそっくりに話すという特色を備えており、異生命体とのコンタクトがよりユーモラスなものになっている。この特色は、本シリーズの長所でもあり、短所でもある。アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』にも顕著な点だが、異生命体とのコンタクトが容易に、人間に理解可能なものとして進んでいくことは、読みやすさとわかりやすさを読者に提供する一方で、そんなことが本当に可能なのかというありえなさを逆に喚起し、作品のリアリティが失われる要因ともなる。娯楽作のレベルで読めればそれでいいという立場からは問題にならないことだが、レムのように異生命体とのコンタクトをシリアスに捉える立場から見ると、安直かつ不徹底ということになるだろう。
ともあれ、本書の後半では、人間とムカデたちが協力して、相手の〈補助者〉である巨大なクモたちと戦う。クモたちの背後には、ムカデたちとはまた別種の生命体が潜んでいるのだが、その正体は読んでのお楽しみというところだ。爆弾の行方とコロニーの運命にも見事に決着がつき、物語は大団円を迎える。エンターテインメントとしては申し分のない出来で、読んで損なしの面白さ。ただ、もう少し深みがあれば……というのはないものねだりになるのだろう。
ニヴルヘイムの原住生物(巨大ムカデのような生き物)に殺されたと思われていたミッキー7が実は生きていて、コロニーに戻るとミッキー8が既に再生されていた。見つかれば処分されてしまうミッキー7は、ミッキー8と協力して秘かに共同生活を送るが、やがてばれてしまい……という物語が、前作ではテンポよくコミカルに描かれていた。本書は、その直接の続編となるので、できれば前作を読んでからの方が楽しめるだろう。タイトルにあるように、前作の結末で重要な役割を果たした反物質爆弾が鍵となり、その探索行が本書のメイン・ストーリイとなる。
エクスペンダブルを辞めて二年が経過し、ミッキーは平穏な生活を送っていた。しかし、コロニーの全エネルギーを作り出している反物質反応炉が故障し、反物質燃料の9割がダメになる。残りの燃料ではニヴルヘイムの厳しい冬を越すことができない。ミッキーは司令官に命じられ、反物質爆弾を取り戻すことになった。早速隠し場所に向かうが、そこに爆弾はなかった。ムカデたちとコンタクトを果たしたミッキーは、爆弾がムカデたちの敵に貢物として渡されたことを知る。果たしてミッキーは爆弾を取り戻すことができるのか……。
前作の最後からムカデたちとのコンタクトがとれるようになり、彼らの知性のあり方がわかってきた。ムカデたちは知性を共有する一種の集合体であり、〈最高〉と呼ばれる存在と〈補助者〉と呼ばれる存在に分かれている。〈最高〉さえ生きていればそれでよく〈補助者〉は殺されても構わない。従って、相手に対しても〈補助者〉とみなせば、簡単に殺してしまう。ミッキーは自分を〈最高〉だと伝えて殺害を免れたのだ。今回は、人間そっくりに話すムカデが現れ、コンタクトがよりスムースに進む。人間の通信を傍受して言葉を覚えたため、ミッキーの友人ベルトそっくりに話すという特色を備えており、異生命体とのコンタクトがよりユーモラスなものになっている。この特色は、本シリーズの長所でもあり、短所でもある。アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』にも顕著な点だが、異生命体とのコンタクトが容易に、人間に理解可能なものとして進んでいくことは、読みやすさとわかりやすさを読者に提供する一方で、そんなことが本当に可能なのかというありえなさを逆に喚起し、作品のリアリティが失われる要因ともなる。娯楽作のレベルで読めればそれでいいという立場からは問題にならないことだが、レムのように異生命体とのコンタクトをシリアスに捉える立場から見ると、安直かつ不徹底ということになるだろう。
ともあれ、本書の後半では、人間とムカデたちが協力して、相手の〈補助者〉である巨大なクモたちと戦う。クモたちの背後には、ムカデたちとはまた別種の生命体が潜んでいるのだが、その正体は読んでのお楽しみというところだ。爆弾の行方とコロニーの運命にも見事に決着がつき、物語は大団円を迎える。エンターテインメントとしては申し分のない出来で、読んで損なしの面白さ。ただ、もう少し深みがあれば……というのはないものねだりになるのだろう。
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