『ビブリオフォリア・ラプソディ』高野史緒(2024年5月/講談社)2024-08-31 12:13

 本にまつわる話を5篇収録した短篇集。趣はそれぞれ異なっているが、どの短篇も書籍への思いが溢れるほど詰め込まれ、読み応えがある。とりわけ、冒頭の「ハンノキのある島で」は、本の出版に制限のかかった近未来において、地方都市へ帰郷した中年の女性作家の日常を淡々と描きながら 本の未来についての真剣な考察に踏み入っていく傑作で、強い印象を残す。

 新刊の寿命が六年と限られ、保存書籍指定のないものは全て廃棄すると定めた「読書法」が施行された近未来。どうやって六年後に廃棄されるのかというと、四年から六年の間に完全分解するインクで印刷されているのだ。「読書法」によって、聖書、神話、シェイクスピアやドストエフスキーなどの古典は保存されるが、ミステリで言えば、施行後に残されたのはコナン・ドイルやクリスティの数冊だけであり、クイーンもディクスン・カーも残らない。SFに至っては、はっきりとは書かれていないが、アシモフの代表作は残るようなので、おそらくそれだけだろう(それが《黒後家蜘蛛》シリーズだったらSFは何も残らないことになるし、《ファウンデーション》だとしたら大変な皮肉である)。電子データは残されているのだが、国家の厳重な管理の基に置かれ、一般庶民は触れることができない。意外にもこの法律は、過去の作品と常に比較されてしまうクリエイターからの支持と、過去の読むべき本に翻弄される読者からの支持を得て、成立してしまうのだ。なるほど、作家の側からすると、せっかく良いアイデアを思いついても、過去にあったと言われてしまう危険を回避できるわけで、それなりのメリットがある。読者としても、本が置けないので新刊が買えないというデメリットから解放される。いいこと尽くめだ。って、ちょっと待った。それはやはり短絡的な考えであって、クイーンやカーにはクリスティにはない魅力があるわけだし、確かにドストエフスキーの偉大さにはかなわないかもしれないが、ハインラインにもクラークにも見るべき点はあるだろうし、ディックやヴォネガットやバラードやディレーニイやゼラズニイやウルフやプリーストのない世界ってつまらないのではないだろうか。と思った人がやはり(少数ながら)いたのだろう。「読書法」への反対運動は(少数ながら)存在した。
 主人公の夫は、書籍の電子データを他のデータ上に拡散させるなどの違法活動に関わった罪で投獄されている。主人公の従兄弟四郎(別の短篇では主役となっている)の娘は、激烈な反対運動の末に自ら命を絶ってしまう。こうした反対派に囲まれて自らも反対の側にいる主人公の女性作家、久子の立ち位置は揺らいでいる。彼女は「読書法」の中で作家活動を続け、発禁処分を受けながらも書き続けていく。実作者として、制限付きではあっても書きたいものを書き、それが読者に読まれることを何より大切に思っているからだ。また、「読書法」成立以前から電子書籍には賛成の立場をとっている。つまり、紙の書籍にこだわることへの批判的な視座が彼女にはもともとあり、これはどちらかというと「読書法」側に近い。「読書法」が施行される前の「のどかな時代」(すなわち現代)に行われた国際会議において、久子は、もはや本好きの庶民ほど収納の限界に達しているのが現実だと説き、「庶民の狭い家に娯楽としての書籍が何千冊、何万冊もあるという事態は、人類史上初めてのことです」と語る。「小説が娯楽として売れ、小説を書いたらカネになるという事態そのものが、歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事だったのではないかと思うのです」と。なるほど、これは鋭い指摘であって、過去にない事態が勃発しているわけだ。ここには、明らかに書籍が売れなくなってきた現代への警鐘があり、また、今後どうしていけば本が残っていくのかを考えるための前提が示されている。本をめぐる旧来のシステムが限界に達しているとの認識から始めようということだ。だからと言って、もちろん「読書法」が最適の解答であるとは思えない。作中では、ブラッドベリ『華氏451度』を思わせる解決法も提示されるが、うまく行かない。では、いったい、どうすればいいのか。
 作者の狙いの一つには、極端なシチュエーションを設定することによって、読者に本をめぐる困難な状況とその解決法をともに考えてほしいという願いがあると思われるが、それは見事に成功している。もう一つの狙いとして、「歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事」へのノスタルジイもあると思われるが、これも見事に成功している。主人公と同世代の本好きならば、誰もが心に自分なりの「共栄堂書店」を持っているだろう。主人公は最後に「ハンノキのある島」へと希望を託すのだが、読み終えた人が本好きであればあるほど、この希望を実現するにはどうすればいいかを考えざるを得ない。かく言う私もまた、自宅の本の山に囲まれ、途方に暮れながらも、考え続けていきたい。

 いかん、一作に紙数を取り過ぎた。残りは簡単に紹介していく。「バベルより遠く離れて」は、想像力に富んだ言語である南チナ語の日本で唯一の翻訳者である主人公が、日本語の言霊で呪いを書きこまれ、それを解くために日本にやって来たフィンランド人と出会い、その呪いを解く方法を思いつく話。南シナとは何の関係もない、ユニークな言語である南チナ語が面白い。風を表す語が四十六もあったり、著名な作家の名がチャツネ・キムチ・メシウマであったり、学者が大真面目な顔つきでシャレを言うようなギャップのあるおかしさが漂っている。
 「木曜日のルリユール」は、辛口の評論家として知られる主人公、森祐樹が、かつて自分が学生時代に執筆した『木曜日のルリユール』という作品が本屋に並んでいるのを見つけ、衝撃を受ける場面から始まる。ペンネームの一之森樹も、本の装幀も自分が考えていたとおり。内容も自分が書いたとおりだ。いったい、誰がどうやって出版したのか。祐樹は学生時代を過ごしたマンションを訪れ、そこで一人の男に出会う……。ドッペルゲンガーものの変奏曲として面白く読むことができた。祐樹が男との口論の過程で、本心を吐露する場面には心打たれるものがある。
 「詩人になれますように」は、主人公である女子高生の詠美が、祖母からもらった勾玉に願いをかける話。祖母からは、二つの願いを叶えることができると聞き、彼女は詩人になりたいという願いをかける。すぐに祖母は亡くなったが、詠美は大学生のうちに詩集を二冊刊行し、どちらもベストセラーとなった。しかし、その後十一年ものスランプがあり、今では地方のOLとなって冴えない日々を過ごしている。久しぶりに祖母の勾玉を見つけた詠美は二つ目の願いをかけるが……。詩が書けなくなった主人公の焦燥と絶望がリアルに伝わってきて、しんどい気持ちにさせられるだけに、明るい結末に救われた気がした。集中もっとも感動させられた作品である。
 「本の泉 泉の本」は〈SFマガジン〉掲載時に読んでいるが、こうして集中の最後に置かれると、また格別な趣がある。本好きの二人、ずんぐりした四郎とほっそりした敬彦のコンビが、広大な古書店(十階まである!)で、本を眺め解説を挟みながら次々と引き抜いていくという、それだけの話ではあるのだが、これがべらぼうに面白い。すべて架空の本と思われるが、タイトル、あらすじ、ディテールに至るまで、本当にありそうな趣向が凝らされており、この古書店は、特に昭和のミステリ、SFファンにとっては夢のような空間なのである。よくもまあ、ここまで考え付いたものだと感心させられる。二人のうち片方が本の山に消えてしまう結末には、モデルとなった故Hさんへの想いが込められているようで、感慨深いものがあった。

 以上五篇、どれも読んで損なしの傑作ばかり。作家、翻訳者、書評家、詩人、編集者と主役の職業もすべて違い、バラエティに富んでいるのもうれしい趣向だ。本好きなあなたなら、ぜひ手元に置いて何度も読み返すに足る、愛すべき作品集である。

『精霊を統べる者』P・ジェリ・クラーク(東京創元社)2024-07-19 09:35

精霊を統べる者
 アメリカの大学で歴史学を教える兼業作家による初の長編。2021年に発表され、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞している。

 1912年、エジプトのギザで行われた秘密結社の集会において、集団殺人事件が起きる。24人が焼死したのだが、人間の身体だけが焼けており、建物は無事である。会場を提供した英国人太守のアージントン卿も死亡していた。魔術絡みの事件として、警察は「エジプト錬金術・魔術・超自然的存在省」(通称・魔術省)に連絡し、魔術省の女性エージェント、ファトマが捜査に当たることとなった。犯人の手がかりは、アージントン卿の娘、アビゲイルが見たという黄金の仮面をつけた黒服の男のみ。ファトマは、新しくパートナーとなった新人エージェントのハディア、恋人のシティとともに事件の真相を探る……。

 魔術省という設定からわかるように、この世界では魔法や錬金術が普通に存在しており、ジン(精霊)と呼ばれる超自然的な生物が人間とともに暮らしている。19世紀後半に、アル=ジャーヒズという伝説の魔術師が扉を開き、ジンを呼び出したのだ。しかし、ジャーヒズ本人は40年前に謎の失踪を遂げ、行方不明になっていた。その後、ジャーヒズは神格化され、伝説の魔術師となった。殺人事件が発生した秘密結社も、正体は彼を崇めるアル=ジャーヒズ秘儀友愛団であった。ファトマたちの捜査の過程で、黄金の仮面の男が再度姿を現し、自分をアル=ジャーヒズだと名乗る。男は本当にジャーヒズなのか。そうならば、自ら友愛団のメンバーを殺害したのはなぜなのか。この真相をファトマが探る展開を縦軸とすれば、ファトマとシティの間に割って入る新人ハディアという女性同士の関係性が横軸となって、物語が進んでいく。

 リーダビリティは大変高く読みやすい。展開が多少もたついている印象は否めないが、キャラクターは大変魅力的なので、謎解きを主眼として読むのではなく、ぶっきらぼうではあるが心根は優しいファトマの内面を辿り、恋人シティとの間で揺れ動く彼女の心理を味わいながら人間ドラマを楽しむのが正解かもしれない。また、蒸気駆動宦官、自動馬車など、蒸気機関を駆使した小道具も楽しめるものだし、エメラルドの鱗で覆われ象牙色の角を生やすなど、様々な姿を取る色彩感豊かなジンたちの出で立ちも面白い。運動能力に優れたシティやハディアとジンたちとの戦闘場面も読み応えがある。総じて、映像化に向いている作品であると感じた。

 ジンの出現とジャーヒズの失踪、その後のエジプトの繁栄に関しては、現実のエジプト史をもとにした歴史が設定されており、オルタネート・ヒストリーものとしての結構も本書は兼ね備えている。作者クラークの歴史学者としての本領発揮というところだろうか。また作者の専門には奴隷制と自由の歴史が含まれており、これも本書を貫く主題として作品中のあちこちで鳴り響いている。白人種と有色人種の対立、ジンと人間の対立、さらには天使と呼ばれる謎の存在とジンとの対立が重ね合わされ、一種の多重世界が構成されている。この、ひねりの効いた世界設定の巧みさも、本書の評価の高さの一因であろう。

 さて、物語は進み、黄金の仮面の男(=〈成り済まし〉)は、〈世界の時計〉を魔術省の保管庫から盗み出す。これは〈製造者〉と呼ばれる天使が地獄への扉を開くために作った機械で、ファトマとシティがその企てを阻止したのだった。さらに、ジンを支配する方法を手に入れた〈成り済まし〉は、いよいよ自身の野望を達成するために、地獄への扉を開き、九人の王を召喚する。ところが……。この後のクライマックスは実際に読んでいただいた方がよいだろう。収まるべきところに物語は収まり、見事に着地する。天使とは何かという謎は残されているが、これは続編に期待したい。

 蛇足だが、ファトマのマンションの門番をしているマフムードが双子で一つの仕事をしているというエピソードに笑ってしまった。双子は皆二人で一つの仕事をすれば楽だろうと考えるものだと思うが(自分は双子なので、一時期そう考えた)、給料が一人分しかもらえないし、それは現実にはほぼ実行不可能なのだ。作者の妙なユーモア感覚がうかがわれ、面白かった。

『シリコンバレーのドローン海賊』ジョナサン・ストラーン編(創元SF文庫)2024-05-13 16:41

シリコンバレーのドローン海賊
 人新世(じんしんせい)SF傑作選と銘打たれたアンソロジーで、原著は二〇二二年に刊行されている。近年、産業革命に始まる人類の活動が地質に多大な影響を与えており、現代は従来の呼び名である「完新世」ではなく、「人新世」と呼ぶべきではないかとの考えが提唱されている。今年三月に開かれた国際地質科学連合の小委員会では、「人新世」の呼び名は大差で否決されたようだ。「人新世」の始まりについては、農耕から始まる、一九五〇年代から始まる、など諸説があり一定しないが、少なくとも人類の活動が現代の地球に影響を与えていることは間違いのない事実であり、科学・技術が人類や地球に与える影響について思索し続けてきたサイエンス・フィクションにとって、これほど親和性のある話題もないだろう。この主題のもとに集められた作品は以下のとおりである。

 進化したドローン社会とその欠陥を描く「シリコンバレーのドローン海賊」(メグ・エリソン)、プラスチックごみでできた島での暮らしを描いた「エグザイル・パークのどん底暮らし」(テイド・トンプソン)、気候変動に伴い頻発する山火事と進化した車の自動運転とを組み合わせて未来の災害を描写する「未来のある日、西部で」(ダリル・グレゴリイ)、気候変動否定論者が組織に命じられて災害ボランティアに潜入し、サイクロン襲来の現場に立ち会う「クライシス・アクター」(グレッグ・イーガン)、人体改造による海底生活への憧れを描く「潮のさすとき」(サラ・ゲイリー)、電脳帽をかぶって海底の人口汚染物質回収装置を操る父子の物語「お月さまをきみに」(ジャスティナ・ロブソン)、中国奥地の村に超皮質ネットワークを接続するために訪れた女性と村の少女とが歌を通じて交感する「菌の歌」(陳楸帆)、ノーベル平和賞を受賞したアプリ〈レギオン〉の開発者へのインタビューを通じてその効果が明らかになる「〈軍団〉」(マルカ・オールダー)、人々に忌み嫌われる死体回収人の驚くべき秘密が暴かれる「渡し守」(サード・Z・フセイン)、飲んだくれの父親に見捨てられ自分を理解してくれない祖母のもとで暮らす少女の孤独を描いた「嵐のあと」(ジェイムズ・ブラッドレー)、以上十編とブラッドレーによるキム・スタンリー・ロビンスン・インタビューが本書には収録されている。

 原著の副題に「人新世における生活」とあるように、気候変動やごみ問題を扱いながら、ヒトや企業のもたらした悪を糾弾したり解決策を提案したりといった大上段に振りかぶって社会構造を変革する作品ではなく、あり得る未来の中で市井の人々がどのように生活しているか、家族の姿はどうなっているかという一般の目線から未来社会の「生活」を切り取った作品が多いように感じた。どの作品も面白かったのだが、SFらしさを前面に出した作品としては「潮のさすとき」「菌の歌」を、現代と地続きの未来社会を描いた作品としては「未来のある日、西部で」を、それぞれ推しておきたい。

 キム・スタンリー・ロビンスンのインタビューは、昨年訳されたばかりの『未来省』の思想的裏付けとなっている。ロビンスンは「正義や生物圏との持続可能なバランスのために役立っているひもを強化するための計画」を「科学」と呼び、そのひもは「民主主義や正義や進歩などを含んでいる歴史という太いひも」からのびていると語る。対抗している「資本主義」というひもは封建主義や家父長制などの古い権力体系からのびており、資本主義より科学を優先すべきだ。利潤を追求する政治経済を、利潤だけが成功の指標にならないように変革しなければならない。そして、それは暴力革命ではなく、言論闘争、政治闘争、法律闘争によって実現されるべきだ。希望はある、と。私は、ロビンスンの主張に全面的に賛成したい。

 イーガンとロビンスンを除くと日本では馴染みのない作家が多いので、本書を読んで気に入った作家がいたら、単行本を読んでいくのも良いだろう。ダリル・グレゴリイ『迷宮の天使』(創元SF文庫)、ジャスティナ・ロブソン『アルフハイムのゲーム』(ハヤカワ文庫)、陳楸帆『荒潮』(新ハヤカワSFシリーズ)、マルカ・オールダー(他3名との共著)『九段下駅』(竹書房文庫)が翻訳されている。

 最後に、原題のTomorrow’s Parties はヴェルヴェット・アンダーグラウンドのAll Tomorrow’s Partiesからとられている。ウィリアム・ギブスンの『フューチャーマチック』の原題もこれなのだが、貧しい娘が明日のパーティーに何を着ていったらいいのと歌う悲しみの歌が、現代の人々が未来に対して持つ不安の隠喩となっている。本書を読んで、未来への不安の中に少しの希望が見えてくるといいなと感じた。

ネルスン・ボンド全邦訳短篇レビュー2024-04-27 11:53

街角の書店
 前々々回でお約束したネルスン・ボンド全邦訳短篇レビュー(発表年代順。いくつかはオチを割っていますが、ご容赦ください。)です。デーモン・ナイト全短篇、アルジス・バドリス全短篇も準備中。

1 「過去からの声」鎌田三平・訳(『三分間の宇宙』講談社)The Voice from the Curious Cube (Top-Notch 1937/3)
 太古から残された巨大な立方体の入り口が開き、中に入ると巨大な引出しがいくつもある。立方体は、塩素の雲に突入した25世紀の人類が50世紀の人類に向けて残した建造物であった。録音された声が響き、大気が清浄になっていれば、レバーを下げて引き出しの中に眠っている1万人の人間を目覚めさせてほしいと告げる。しかし、中に入った××たちには聴覚がなかった……

2 「鏡の中を歩いた男」森美樹和・訳(「奇想天外」1980年5月号)The Man Who Walked Through Glass (Esquire 1938/11)
 ぼくがニューヨークのクラブで出会った男は、ガラスに手を入れることができた。突然出来るようになり、指輪などを身につけていると出来ないと言う。男の家に招待され、裸になった男が鏡の中へ入っていく様を見せられる。鏡の中はすべてが左右対称で、言葉も時間が逆転していた。中に入ると「無限の充足感」が得られ、光り輝く都市があると言う。数か月後、ぼくはある男が巨大なレンズを備えた反射望遠鏡の中に入ったというニュースを聞く。

3 「SF作家失格」小西宏・訳(『SFカーニバル』創元SF文庫)The Abduction of Abner Greer (Blue Book 1941/6)
 不採用が続くSF作家アブナー・グリーアは、車型タイム・マシンで未来からやって来た男たちに誘われ、25世紀の世界に連れていかれる。ジョークを言うよう要求され、いくつか言うが全く受けずに都市に放り出される。自分を戻すよう交渉すると、不採用通知に貼ってあった古切手に興味を示した未来人に襲われ、気を失う。気づくと現在に戻っていたアブナーはこの体験をもとにSFを書くが、似ても似つかぬものになってしまい、やはり原稿は没にされてしまうのだった。

4 「街角の書店」中村融・訳(『街角の書店』創元推理文庫)The Bookshop (Blue Book 1941/10)
 作家ロバート・マーストンは、夏のマンハッタンで見つけた、ある書店に入る。そこには実在する文豪の書かれなかった本が並んでいた。ポオの『ガーゴイルの眼』、ドイルの『シャーロック・ホームズの秘めたる事件』、ラヴクラフトの『悪魔学全史』等々。亡くなった友人の未完詩集も置いてある。自分が執筆中の『落伍者』という本を見つけたマーストンは、それを外へ持ち出そうとするが……

5 「全能の島」桂英二・訳(「宝石」1955年2月号)Conquerors’ Isle ( Blue Book 1946/6)
 第二次大戦中、日本軍を攻撃していた爆撃機が、ある島へ不時着する。操縦していたブラディ大尉がそこで見たのは、武器や無線を無効化する力、壁を通り抜ける力をもった新人類(ホモ・スペリオール)の姿であった。ボートで島から逃げ出した大尉は軍医に経緯を話すが、信じてもらえない。聞き終えた軍医は報告のために壁を通り抜けていった……

6 「見よ、かの巨鳥を!」浅倉久志・訳(『グラックの卵』国書刊行会)And Lo! the Bird (Blue Book 1950/9)
 宇宙から分速16万キロで巨大な鳥が太陽に接近してくる。鳥が水星に到着すると、水星が割れて中から巨大なひな鳥が出現。巨鳥は次に金星に向かい、そこに留まっている。地球で孵化を防ぐには、中にいるひな鳥を殺すしかない。しかし、時すでに遅し。今朝早く、人々は地球にノックの衝撃を感じた。

7 「感傷的な男」青木秀夫・訳(「SFマガジン」1965年3月号)Vital Factor (Esquire 1951/8)
 宇宙船の動力を開発した者に10万ドルの賞金を出すと広告を出した実業家のもとに、一人の小柄な男が訪れる。反重力を使った小型模型を見せて信用を得た男は、二人乗りの宇宙船を試作する。二人は無事出発するが、男は地球に戻ろうとしない。感傷にかられ、故郷へ戻りたくなったと男は実業家に告げる。彼は宇宙人だったのだ……

 総じて、シンプルな発想を軽妙に語る典型的なワン・アイディア・ストーリイなのだが、語り口が巧いため、自然に引き込まれる。6のように荒唐無稽な発想であっても、新聞記者の手記の形をとって科学者のインタビューから始まり徐々に話を盛り上げていくので、読者はこういうこともあるかなとリアルに感じるわけだ(絶対にないのだが)。他の作品でも、主人公が体験を医者に語るとか、クラブで出会った男の語りから始まるとか、話の入り口が実に上手い。SF専門誌ではなく、〈ブルー・ブック〉などの一般誌に書くことが多かったので、このようなテクニックが身についたのだろう。浅倉久志氏が『グラックの卵』解説で、6について「文書のタッチが意外に落ちついた新聞記者物の感じなのに驚いた」と書いているように、文章もしっかりしており、オチも見事。1930~40年代にかけて書かれたユーモアSFのお手本と言える。中には、5や7のように、やってはいけない「宇宙人(新人類)オチ」のような作品もあるが、まあこれはご愛敬といったところ。7篇中のベストは、やはり4「街角の書店」になろうか。2「鏡の中を歩いた男」も捨てがたい味がある。

 ちなみに、5「全能の島」は〈宝石〉1955年2月号の特集“世界科学小説集”に、アシモフ「ロビイ」、ウエルズ「タイム・マシン」とともに翻訳された作品なのだが、いったいこれは誰が選んだのだろうか。アシモフ、ウエルズに並んでネルスン・ボンド。他の作品も、アーサー・L・ザガートとウォーレス・ウエストというマイナー作家のもので、セレクションが謎である。同号にコラムを寄せている矢野徹なのか。そうかもしれない。6を〈宇宙塵〉で紹介したのも矢野氏であったと『グラックの卵』解説に書いてあるし、どちらも1954年刊行の第三短篇集No Time Like the Futureに収録されているから、矢野氏がこれを読んでボンドを推薦した可能性はあるだろう。

 中村融氏は、自身のブログ(http://sfscannerdarkly.blog.fc2.com/blog-entry-397.html)で、やはりこのラインナップに首を傾げておられる。版権をとらずにアンソロジーから採ったものであり、ボンドの作品も短篇集でなく、アンソロジーからの選択ではないかと推測されており、なるほどそうなのかもしれない。70年前のことなので、真相はもはや闇の中であろう。

『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』アマル・エル=モフタール&マックス・グラッドストーン(新ハヤカワ・SF・シリーズ)2024-04-24 10:03

『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』
 ここ数年の読み残しを少しずつ読んでいる。その中で、2021年に翻訳され、〈このSFが読みたい!〉で3位に入った本書が面白かったので、レビューします。

 2019年に単行本として刊行され、ヒューゴー、ネビュラを始め主要なSF賞をノヴェラ部門で獲得した作品である。

 古代から二つの勢力が時間を超えて争いを続けているというアイディアは古くからあり、フリッツ・ライバーの改変世界シリーズ、小松左京『果しなき流れの果に』などがすぐに思い浮かぶ。本書では、《エージェンシー》と《ガーデン》なるグループがあらゆる時間軸(ストランド=紐、筋の意=と呼ばれている)において争っており、それぞれのエージェントであるレッドとブルーが主人公となる。たとえばストランド9において、レッドはアマゾン川流域にヨーロッパ人のもつ病原菌に対する超耐性菌を散布する任務を果たすが、それはスペインの征服者によってインカ帝国の人々が滅びないようにするためだ。凡百のSF作家であれば、これだけで一つの短編を書くだろうが、エル=モフタールとグラッドストーンのコンビにとっては、これはたった1ページで終わる背景に過ぎない。古代から未来にかけて目まぐるしく舞台は移り、決して一つの世界にとどまることはない。作者らの主眼は、時間戦争ではなく、あくまでもレッドとブルーの主観的な心の触れ合いにあるのだ。

 互いに対立する陣営内で、手紙を通じて、レッドとブルーは互いの心を通わせ、いつしか深く愛し合うようになる。この「手紙を通じて」という点が本書最大の特色であり、読者の情感に強烈に訴えるところでもある。時空を超えて情報を伝えるために、両者の「手紙」は、雁の羽根、フクロウの胃袋の中、ハチのダンスなど、さまざまな方法でコード化されている。次はどんな方法で手紙が現れるか、読者は楽しみながら読み進めることができるだろう。設定と伝達方法は極めてテクノロジカルであるのに対し、伝えられる内容は、情感たっぷりで極めてエモーショナル。この対照の妙が、本書の魅力となっていることは間違いない。作中にタイトルが出てくることからも明らかなように、本書は時空を超えた『ロミオとジュリエット』であり、女性同士の恋愛物語であり、さらに言えば自分自身との交流記録でもある。

 「手紙を書く」という行為は、相手へのメッセージであると同時に自分自身を明らかにすることでもある。レッドとブルーは書くことによって、自分自身の立ち位置や目的を明確にしていく。手紙を読み進めながら、どうして二人は直接会うことが少ないにも関わらずこんなに惹かれあっていくのだろう、ちょっとこれは変なのではないかという疑問が浮かぶ読者も多いと思われるが、そう思った瞬間に、読者は作者の術中にはまっているのだ。私はいつも『ウェストサイド物語』を観るたびに、どうしてこんなに互いを好きになれるのかと醒めた目で見てしまう悪い観客なのだが、実は本書を読んで似たような感覚を抱いていた。しかし、レッドとブルーの物語にはきちんと隠された意味があり、最後にそれが明らかになる。この結末は見事で、思わず溜め息が出てしまった。総じて、古典的な物語を新しい革袋に入れた傑作であり、一読の価値はあるだろう。