エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を読む2013-02-17 20:22

 言わずと知れた名著である。初版は1941年だから、ドイツで生まれ育った筆者が、ナチズムの真っただ中、亡命先のアメリカで書いたことになる。ナチス・ドイツが国民の支持を得て権力を握っていった過程はよく知られているが、どうして人々はそれを止められなかったのかに昔から興味があった。第一次大戦後の不況の中で経済的な対策を次々と打ち出し、失業者を減らしていく。国民の不満を、ユダヤ民族を標的にすることによってそらしていく。熱狂的な渦の中で、誰もナチスの暴走を止められなかった。それは戦前の日本も同じことだろう。

 フロムはこうした「自由」から逃走していく国民の心理を、社会心理学的に分析していく。フロイトの弟子格のフロムではあるが、師匠と違って、こうした心理を個人的かつ性的な側面に帰結させるのではなく、社会的現象として捉えていくのが本書の面白いところだ。彼は自由の問題を、中世から近代への転回点からスタートさせる。「かつて生活に意味と安定をあたえていたすべての絆から解放されて、孤独となった近代人の無力と不安」について語り、われわれはこの孤独にたえられず、新しい束縛へとかりたてられるのだと言う。

 自由には二面性がある。人間を独立させ自律させ批判させるのが自由の一面である一方で、自由は人を孤独にさせ孤立させ恐怖に満たしもする。資本主義経済のもとでこの自由の二面性はますます発達する。「分配という巨大な機械のなかの一つの歯車」としての中産階級は、理性にではなく感情に訴える巨大な近代広告や政治宣伝によって、ますます個人の孤独と無力とを無意識的に感じさせられていく。この孤独と無力から逃れる道は二つある。

 一つは感情と知性を積極的に働かせて自我を世界や他人や自然と結びつけていく「積極的自由」を獲得すること。もう一つは、自由を捨てて他の権威に依存したり、強い指導者に服従したりすること。これをフロムは「権威主義的性格」と呼び、ここにファシズムの基礎を成すパーソナリティを見出すのである。とりわけドイツにおける下層中産階級にこの傾向は顕著であり、「強者に対する愛と無力者に対する憎悪」というヒットラーの考えと彼らの傾向が一致したのだと。

 自由が新しい依存を導く過程を詳細に分析しながらも、本書の結末が感動的であるのは、筆者が「人間は自由でありながら孤独ではなく、批判的でありながら懐疑にみたされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できること」を力強く信じているからである。そう、フロムは人間が「積極的自由」を獲得することを信じている。

 半世紀以上が過ぎた今、果たしてわれわれは「積極的自由」を獲得できているだろうか? なんとなく世の中が「権威主義的」になってきて「自由」から逃走している人が増えている今の日本でこそ、本書は読むべき価値のある一冊だと強く思う。

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