ハーラン・エリスン『死の鳥』2016-08-15 09:54

 1960年代後半から70年代後半にかけてのハーラン・エリスンは光り輝いていた。短篇・中篇部門でヒューゴー賞を六度受賞。小さいくせに生意気でけんかっ早く、初めて会ったアシモフに対して「大したことないなあ」といきがってみせたり、タブーいっさい抜きで書かれた意欲作ばかりを集めたアンソロジー『危険なヴィジョン』を編集してみたり、とにかくやることなすこと反権力的で、しかも様になっており、抜群に格好良かった。行動やエピソードの方が有名になってしまい、肝心の作品が霞んでしまうタイプの作家は多いが、ことエリスンに関しては、決してそんなことはなかった。濃密な文体と凝りに凝った構成から成る数々の傑作短篇は、エリスンの作家としてのレベルの高さを示していた。まさに「山椒は小粒でも、ぴりりと辛い」を人物面でも、作品面でも実践していたのがエリスンだったのである。

 さて、本書はエリスン黄金期の傑作ばかりを収録した日本オリジナル短篇集である。全十篇中ヒューゴー賞受賞作が五篇、エドガー賞受賞作が二篇あるから、当然面白さは保証つき。新訳こそ一つもないものの、雑誌やアンソロジーに埋もれたままだった作品をまとめた意義は十二分にある。複数の作品を関連させて読むことによって、変幻自在な文体や過激なほどの暴力描写の影に隠れて見過ごされがちな、エリスン独自のテーマが鮮明に浮かび上がってくるのだ。それは一言でいえば、あふれんばかりの情念であり、運命に虐げられたものの怒りと悲しみ、救済としてのノスタルジーである。管理社会で暮らす人々に対して「自分のペースで人生を送ったらどうだ!」と叫ぶハーレクィン(「『悔い改めよ、ハーレクィン』とチクタクマンはいった」)、無意味に死んでいく竜討つ者(「竜討つ者にまごろしを」)、コンピュータやスロットマシンの中に閉じ込められた人間たち(「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」「プリティ・マギー・マネー・アイズ」)。彼らは皆、人知を超えた運命に対して戦いを挑んでいる点で共通している。また、「ランゲルハンス島を漂流中」の主人公は、「ジェフティは五つ」に登場する永遠の子供、ジェフティも持っていた「あるもの」によって魂を救われる。こうして見ていくと、表題作である中篇「死の鳥」は、二十五万年の眠りから覚めたネイサン・スタックの闘いと救済を様々な文体で象徴的に描いた作品であり、ここにエリスンの特色が遺憾なく発揮されているということがよくわかる。文句なく集中の、いやエリスンの全キャリアを通じてのベストであろう。

 今までエリスン唯一の短篇集であり、エヴァ最終回のタイトルを始め、多くのタイトル元となった『世界の中心で愛を叫んだけもの』は、正直言って、いいものもあれば悪いものもある、玉石混淆の短篇集であった。本書は掛け値なし、すべて「玉」の短篇集である。これからは、エリスンってどんな作家なの? と聞かれたら、黙って本書を差し出せばよい。ハヤカワ文庫SFは、ここのところ、ヴァーリイ、コードウェイナー・スミスと作家の集大成的な短篇集の刊行を続けているが、大変素晴らしいことである。ぜひ、この路線を続けていってほしい。

アン・レッキー『亡霊星域』2016-08-16 06:27

 ヒューゴー・ネビュラを始め7つのSF賞を総なめにしたデビュー作『叛逆航路』(2013年/2015年邦訳)は日本でも評判がよく、この7月にめでたく星雲賞まで受賞したので、一作で8冠、シリーズ全体(三部作)では11冠となった。どうしてこんなに評価が高いのか。前作を読んだ限りでは、ミリタリーSFの衣裳をまとってはいるが、それよりも文化人類学的SFとしてよく出来ているという印象を受けた。人間の身体に意識を上書きした兵士である「属躰(アンシラリー)」となった「わたし(実は人工知能)」が、千年ぶりに再会した元副官とともに極寒の惑星をさまよう物語と、三人称がすべて「彼女」になっているというジェンダーを撹乱する叙述法は、明らかにル・グインの『闇の左手』を意識したものだったし、アナーンダ・ミアナーイというインド系の皇帝に支配された帝国や、宇宙空間に居住するタンミンド人という設定などには、西欧文明とは異質な世界観を描こうという意欲がうかがえたからである。

 凡百のミリタリーSFがつまらないのは、その設定や世界観が現実の軍隊の延長に過ぎず、軍隊の性格上秩序や規律をみだすこともできず、単一の世界観や正義の名のもとに異質なものと戦い、それを排除するという単純な構図からの脱却が難しいからだ。そんなものは、異なる価値観とのぶつかり合いを通じて認識の変革に至るというSFの本質とは何ら縁のない愚作であると私は硬く信じている。これに対して本シリーズは、ミリタリーものでありながら、文化人類学的SFでもあり、サイバーパンクやシンギュラリティの要素も含み、しかもキャラクター小説としてもよく出来ているという、一粒で三度も四度もおいしいお菓子のような、様々な魅力を備えている。それが人気の秘密ではないだろうか。

 さて、二作目となった本書では、「わたし」は〈カルルの慈〉艦長として、副官セイヴァーデンとともに茶の生産地である惑星アソエクへ向かう。と言っても、物語は惑星ではなく、ほとんどが一種の階層社会となっている宇宙ステーションで進む。「わたし」は、無人星系に続くゴースト・ゲートで行われている陰謀に気づき、それに巻き込まれていくが……。前作と違って、舞台が宇宙ステーションにほぼ限定されていて、そこが人工の世界であるという設定上、異質性があまり見られないことや、万能に近い権力と能力を持った「わたし」が弱きを助け強きをくじくという、水戸黄門的なストーリー展開が類型的に見えてしまうことを不満に思う方もいるだろうが、逆にその分、前作よりも読みやすくなっていることも事実である。また、シリーズを通してのテーマもよりくっきりと浮かび上がってきた。おそらく、それは「贖罪」である。帝国皇帝の分裂のきっかけがガルセッドでの原住民虐殺にあることは何度も示唆されているし、本書での「わたし」の行動の背後には、大切な人を殺してしまったことへの罪滅ぼしがある。人がどんどん死んでいくミリタリーSFでこんなことをテーマにしていたら、話が進まないし、ページがいくらあっても足りないだろうと思うのだが、その困難に敢えて立ち向かっているからこそ本シリーズは面白いのだ。完結編である三作目の刊行が楽しみである。