P・K・ディック『空間亀裂』2013-03-10 06:58

 ある機械の内部に偶然発見された亀裂から別の空間に移動できるようになるというアイディアは、SFにはよくあるもの。普通は、亀裂の発見から生じる世界や一国を巻き込むような大騒動を描くか、または亀裂の発見を隠して個人の人生と絡め人情ドラマに持ち込むかのどちらかになることが多いのだが、決してどちらにもならないのがディックならではの面白さである。亀裂の中に愛人を隠してみたり、亀裂の向こう側に何千万人もの冷凍睡眠者を送り込もうとしてみたり、さらには向こう側からとんでもないものが出てきたり、出てきたと思ったらすぐ引っ込んだり、もうやっていることが無茶苦茶、支離滅裂。個人の思いつきで世界全体がすぐに動いてしまうので、特に物語の後半において、おいおい、いくらなんでもそれはないんじゃないのと突っ込みたくなる個所が満載である。そうした意味では楽しめるのだが、普通の読書体験を求めている人には苦痛以外の何物でもないだろう。頭上に浮かぶ娼館衛星とか、その支配人であるシャム双生児とか個々のアイディアやキャラクターは面白いので、ちょっともったいない気はする。

 私見では、この異形の双生児ジョージ・ウォルトが悪になりきれていないところに本書最大の欠陥があるのだと思う。ディックがこのキャラをもっと掘り下げて描き、パーマー・エルドリッチやジョー・チップぐらいの存在感を持たせることができていれば、おそらく黒人大統領候補ジム・ブリスキンやテラン開発社長レオンとの闘いにもっと緊張感がもたらされ、物語の完成度は高くなったことだろう。しかし、それもいいかもしれないが、このだらだらした展開も捨てがたい、というのが(自分も含めた)ディック・マニアの偽らざる感想ではないだろうか。いや、本当に普通のSFの十倍は楽しめました。未訳の残り2冊(『ヴァルカンズ・ハンマー』『ガニメデ・デイクオーヴァー』)も早く読みたいものです。佐藤龍雄さん、よろしくお願いします!

 校正を一つ。103頁の「ジスビー・ウォルト」は「オルト」では?

殊能将之訃報2013-03-31 21:40

 大学時代からの友人であるミステリ作家の殊能将之が亡くなったとの知らせが昨日(3月30日)ネットを駆け巡った。亡くなったのは2月11日であり、自分が友人から知らせを聞いたのが2月22日。最初は呆然とし、それからじわじわと悲しみが広がってきたのだが、伏せていなければならないので、何とも言えない中途半端な気持ちがずっとくすぶっていた。思いを吐き出したいのだが、吐き出せないといったもどかしさ。4月3日発売のメフィストに追悼記事が載るとのことで、30日なら友人に話してもいいだろうと、東京に住む大学時代の友人たちと会う約束をし、仕事が忙しい中、無理やり時間を作って新幹線に飛び乗って、東京に向かっている最中に、ネットに流れたらしい。

 知ってからは、ずっと著作を読み返していた。間違いなくミステリ界の歴史に残るであろう『ハサミ男』、石動戯作初登場、自分も刑事役で出演させてもらったのが印象深い『美濃牛』、ミステリ・ファンの度肝を抜いた『黒い仏』、水城初登場で、殊能作品にしては珍しく最後にほろりとさせられる『鏡の中は日曜日』、中世の視点で東京を眺めたところが斬新な『キマイラの新しい城』、どれも傑作でありながら、ひとつとして同じ趣向の作品がない。まとめて読み返して、本当にすごいと思った。

 しかし、これは実は氏のすべてではない。彼の該博な知識、人を引き付けずにはおれない語り口、切れ味鋭い論理的思考力、それはまだまだ、これから存分に発揮されていくべきものだった。彼を知る者すべてが、そう思っていたはずだ。もっともっと書いてほしかった。いや、生きていてほしかった。もうあの、時には毒舌で皮肉たっぷりのジョークを聞くこともないのだと思うと、限りなく悔しく、そして悲しい。

 一晩、友人たちと彼の思い出を語り合い、大学時代に書かれたレビューなどもまとめて残しておきたいねと話した。ちょうど今年の夏、名大SF研30周年行事を行うので、本当はそこに呼ぼうと思っていたのだが……。もう何を言っても仕方がない。

 翌日、古本屋でも回って帰ろうと思い、いつものように、神保町を歩いて「@ワンダー」の中に入った。その瞬間、馴染みのある曲が耳に入ってきた。店内に流れていたのは……XTC……これは……そう、「ハサミ男(Scissor Man)」じゃないか! 数冊の本を手にしてレジに向かう。聞くべきか、そのまま出ていくべきか。レジには年配のおじさんと20代と思しき若者の二人がいる。どちらがXTCをかけているのか。レジをすませたが、結局話しかける勇気が出ない。ちょうど若者の方が休憩のため外へ出ていく。意を決して私は話しかけた。「この曲をかけているのはどなたでしょうか」
「私ですが…」けげんそうに若者が答える。
「XTCですよね。何か理由があるんですか」
「好きなんです。実は昨日…殊能将之というミステリ作家が亡くなったのを知って…」
「ええ……『ハサミ男』ですよね」
「そうです、大好きな作家だったので、昨日からショックで何も手につかなくて……」
 思わず、自分は殊能将之の友人であること、本当に悲しく思っていることを語ってしまった。見も知らぬ古本屋の店員に話すことではないだろうと思ったが、止まらなかった。
 若者と別れ、帰途に着く。
 なぜか、嬉しさが込み上げてきた。殊能将之は確かに人々の心に残っている。こんなに愛されているんだ……そう思った瞬間だった。彼の死を知ってから、一度も流れなかった涙があふれてきた。神保町から水道橋へ向かう途中、歩きながら私は泣いていた。そこが、数十年前、かつて東京に住んでいた殊能氏とともに歩いた道でもあったことに気づくのに、そう時間はかからなかった……。