プーシキン美術館展2013-06-09 21:24

 前からの約束で妻とプーシキン美術館展を見に行く。今月26日までなので、直前は混むだろうから、これぐらいならいいだろうとの判断。チケットもそれほど並ばず購入できたので、この判断は正解だったようだ。

 点数は思っていたよりも少なく、結構短い時間で見て回れた。古典主義からロココ、新古典主義、印象派を経て近代まで、フランス絵画300年の歴史を四章に分けて非常に要領よく、コンパクトにまとめており、好印象を受けた。自分はとにかくモネが好きなので、「陽だまりのライラック」が見られただけで十分満足。他によかったのは、ロワールの「夜明けのパリ」、ミレー、ピカソなど。昔から、同じ印象派でもルノワールはダメで、同様に苦手なのがマネ、ゴッホ、ゴーギャン、マティス(おいおい、じゃあこの美術展に行くなよ)。ピカソは青の時代は好きなのだが、キュビズムからは今一つ。アンリ・ルソーは原田マハ『楽園のカンバス』を読んで少し見方が変わったけれど、好きになるまでには至っていない。本物を見れば、少しは良さがわかるかもと思って、いろいろ見るようにはしているのだが、やはりこの年になって絵の好みがそうそう変わるものではない。

 何と言うのか、さらりと一瞬の光の輝きや物の動きをとらえたような絵が好きなのだ。ルノワールは何か質感が過剰な気がするし、ゴッホやマティスは色彩が過剰。マネはリアル過ぎるし、ゴーギャンはのっぺりし過ぎ。アンリ・ルソーは素人っぽさがちょっと(今回の展示作ではモデルの手を採寸したとあるが、採寸しておいてあのバランスの悪さはどうかと思う)。やはり一番しっくり来るのはモネだね。うん、モネしかない、と再確認できたプーシキン美術館展であった。

マックス・エルンスト展(愛知県美術館)2012-08-17 22:16

 妻とともにエルンスト展を観てきた。エルンストと言えば、様々な技法を開発したことで知られている。『百頭女』のコラージュもいいし、紙を凸凹の上に置いて擦り出すフロッタージュもいい。しかし、自分が最も惹かれるのは、絵の具の上に何かを置いてそれを剥がすときに出来る模様を使ったデカルコマニーである。これによって描き出された森というか岩というかどろどろの表面を備えた何だか不思議な物体は見ていて決して飽きることがない。SFファンとしては、どこで見たのかよく思い出せないが、バラード『結晶世界』の原書カバーに使われていた「沈黙の眼」(ひょっとして「雨後のヨーロッパⅡ」だったかも)が内容にぴったりで、印象に強く残っている。

 今回は版画や彫刻も含めたスケープとしてエルンスト作品を捉え直そうという企画で、日頃観る機会のなかった彫刻作品もじっくりと観ることができた。彫刻は意外にも愛らしく、単純な○につぶらな黒い眼と口を簡単につけたものが多い。そう思ってよくよく観ると、絵画の方にも、有名な鳥の王「ロプロプ」をはじめ、可愛らしいキャラクターは結構登場しており、エルンストのユーモラスな面が引き立つ展示となっている。日本人受けするのか、値段がお手頃だったのか、国内収蔵作品が多く、数は十分揃っている。フロッタージュ体験コーナーもあり(早速チャレンジした結果、地元名産「ゆかり」のえび模様の金属のふたはフロッタージュに最適の素材であることがわかった!)、エルンスト初心者でも楽しめる、お勧めの展示会だと思う。

刈谷市美術館「加藤久仁生展」など2012-05-20 23:08

 妻とともに美術館のはしごをした。刈谷市美術館の「加藤久仁生展」と高浜市かわら美術館の「アート・ブリュット・ジャポネ展」の二つである。

「加藤久仁夫展」 http://www.city.kariya.lg.jp/museum/exhibition_2012_katokunio.html

「アート・ブリュット・ジャポネ展」 http://www.takahama-kawara-museum.com/exhibition/detail.php?id=292

 加藤久仁生は「つみきのいえ」でアカデミー短編アニメーション賞を受賞したアニメ作家。初の個展となる今回は、イラストを描きためた若い頃からのスケッチブックを始め、「つみきのいえ」の動画および絵コンテ全カットなどの貴重な資料を展示している。今回の展示のために特別に作られた、「積み木」を模した展示箱(展示板?)が面白い。「つみきのいえ」を観た人は皆、その緻密で温かみのある絵に心惹かれるはずだ。自分はあの絵は、一枚一枚色鉛筆で塗ったのだとばかり思っていた。無論それはそれで大変なのだが、実はそうではなく、背景と登場人物の輪郭と登場人物の影を別々に黒鉛筆一本で作画し、それを合成し、後から彩色していたのだと知り驚愕。想像していた以上に手間暇かけた作品なのであった。その場で上映もしているので、大画面でじっくりと鑑賞する。裏の苦労を知ってから観ると、感動もひとしおである。その後の作品「情景」も上映していたが、こちらは作家性を前面に打ち出しており、山村浩二の世界に近づいてきている。うーん、この人はもう少しわかりやすい作品の方が画風に合っていると思うんだけどなあ。

 絵本「つみきのいえ」の原画も展示されていた。当然同じストーリーだと思っていたら、これが微妙にずれていて面白かった。映画で印象に残るワイングラスのエピソードは絵本では全く出てこない。海に潜るきっかけも、映画では「パイプ」、絵本では「金槌」を落としたことになっている。絵本では、その場面の必然性が描けないためらしいが、逆に言えば、これは映画には必然性のない場面、無駄なシーンが一切ないということだ。こうした作者のこだわりが「つみきのいえ」の感動につながっているのだろう。

 刈谷から少し足を伸ばして高浜市へ。「アート・ブリュット」とは、生(き)の芸術ということで、正規の芸術教育を受けていない人(例えば知的障がい者など)によるアートを指すようだ。紙で作った人形や電車、飛行機といった素朴なものから、結構本格的な作品まで、素人とは言っても、創作のエネルギー溢れる力作が多数展示されており、すっかり圧倒されてしまった。特に強烈なインパクトを受けたのは魲(すずき)万里絵という分裂症患者の絵だ。これはすごい。乳房と性器とはさみに対するオブセッションを画面にたたきつけ、これでもかと言わんばかりの点描と反復された文様で描き出す。夢野久作のカバーにぴったりと言えばわかってもらえるだろうか。いやはや、すごい画家がいたものだ。既に個展も開いているようなので、注目されてはいるのだろう。ちょっと毒が強いので万人にはお薦めしないが、興味のある人は下記をのぞいてみて。

魲万里絵展 http://www.no-ma.jp/exhibition/dt_46.html

3月11日「セシウムがさいた」2012-03-11 11:18

 3月11日、あれから一年が過ぎた。以前も書いたが妹一家が仙台に住んでいるので他人事(ひとごと)ではない。

 昨日の朝日新聞朝刊に、日本に住む詩人アーサー・ビナードさんの埼玉での講演が中止になったという記事が出ていた。理由は「さいたさいたセシウムがさいた」という講演名が「福島県民を傷つける」などの抗議が40件寄せられたことだという。これもおかしな話だ。アーサー・ビナードと言えば、日本に住んで20年以上、日本文学への深い敬愛や言葉に対する分析の鋭さで知られる詩人である。『日本語ぽこりぽこり』で講談社エッセイ賞、『釣り上げては』で中原中也賞の受賞歴もあり、先日もブログに書いたベン・シャーンの第五福竜丸シリーズに文をつけて絵本に仕立てた『ここが家だ』で日本絵本賞も受賞している。権力に対しては断固抗議し、弱者への視点を決して忘れない。アーサー・ビナードさんの書く文章を少しでも読めば、そういう彼の姿勢は一目瞭然のはず。「セシウムがさいた」は、そのビナードさんがおそらく熟慮に熟慮を重ねてつけた講演名であり、決して県民を馬鹿にする意図があったわけではない。新聞にも「花が咲く喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故について伝えたい」と彼の言葉が掲載されており、「咲いた」と「裂いた」を掛けた講演名であることが明記されていた(掛詞だからこそ平仮名で記されていたのである)。

 問題点は二つある。一つはせっかくのビナードさんの意図が講演名を見た人に全く伝わっていないこと。実行委員会が「3.11後の安心をどう作り出すか」と副題をつけたにもかかわらず、見た人は「県民を馬鹿にしている」ととってしまったわけだ。これは見る人の側が短絡的な思考をしてしまっていることに問題がある。自分が傷ついたのならともかく、「福島県民を傷つける」とはそれこそ余計なおせっかいではないか。言葉以前に、厳然たる事実として福島県民は傷ついているのであり、この講演を行って、埼玉の人々に原発問題について考えてもらうことのどこに問題があるのか。たとえ講演名でえっと驚いたにしても、講演者と講演内容について思いをめぐらせることぐらいはしてから、抗議という行動を起こしてもよいのではないか。
 二つ目は実行委員会側の姿勢である。一度頼んで副題まで考えて実行しようとしたのだから、抗議者に対する説得を行ってでも実行すべきではなかったのだろうか。もし抗議者が当日実力行使に訴えると脅迫してきたのなら(それはそれで問題である)仕方ないとは思うが、報道を見る限りその事実はないようだ。前日になって中止しているので、ギリギリまで考えての結果だとは思うが、これで中止するぐらいなら、そもそもビナードさんに頼まない方がよかったのではないだろうか。

 などと強気のことを言っているのは、何を隠そう、実は3年前に自分がアーサー・ビナードさんに直接手紙を書き、名古屋で講演をしてもらったことがあるからである。一度氏の講演を聞き、『日本語ぽこりぽこり』などの著作を読んでこれは面白いと感じた私は、当時委員長を務めていた愛知県国語教育研究会名瀬地区の講演に、ビナードさんをぜひ呼びたいと考えたのだ。「きぼう的観測――ことばの宇宙を巡って」と題され宮澤賢治からルイス・キャロルまで縦横無尽に語られたこの講演は予想以上に面白く、また充実していた。忙しいスケジュールの中、安い講演料で来てもらい、申し訳ないと思う一方で、その暖かな人柄に少しでも触れることができ、本当に楽しいひと時であった。抗議されるような内容ではなかったので、一概に比較はできないが、もし自分が今回の実行委員会のメンバーであったら、開催を主張していたはず。ともあれ、言葉を発することとその受け取り方の難しさを感じさせられる事件であった。

ベン・シャーン展2012-02-26 09:28

 名古屋市美術館でやっているベン・シャーン展を観てきた。

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2011/benshahn/

 ベン・シャーンと言えば、社会派の画家で、フランスでの冤罪事件であるドレフュス事件やアメリカ最大の冤罪事件であるサッコとヴァンゼッティ事件について描いた作品や、1954年に第五福竜丸に乗っていて核実験により被爆して漁師が亡くなった事件を描いた一連の作品(ラッキー・ドラゴン・シリーズ)で知られている。今回の展示は「クロスメディア・アーティスト」と題して、写真やロゴ・アートなど、絵画以外のベン・シャーンの知られざる側面に日を当てようという企画のようだ。

 ニューヨークの労働者を撮った写真や、インドネシアから香港、そして日本へと旅した際のスナップ写真などが多数展示されており、写真をもとにした絵画と並べて展示されているので、ベン・シャーンがどのように写真を誇張し、変形して作品を創りあげていったのかがよくわかる。写真の腕はプロ級であり、ひょっとしたら絵画よりもいいのではと思わされるほど、対象に入り込み、見事な構図で被写体を写し出している。この写真を見るだけでも展示を観に行く価値はあるだろう。自分は、昔からベン・シャーンの線画が好きで、半紙に描かれた書のにじみのようにも見える、あの震えるような繊細な、それでいて力強い線に惹かれていた。今回の展示でロゴ・デザインを手がけていたり、日本の書にも深い関心を抱いていたことを知り、絵画というよりは、絵の中に盛り込まれたメッセージを表す一つ一つの文字や一本一本の線にこそベン・シャーンの本質はあるのではないかと思わされた。

 というような感想を書いてアップしようとしていたら、今日の朝日新聞朝刊で、名古屋の後に予定されている福島県立美術館でのベン・シャーン展に、アメリカの美術館所有の絵が多数展示されないという記事を読んだ。

http://www.asahi.com/national/update/0225/TKY201202250463.html

 これはひどい。「芸術家が作品に込める意志は尊重するが、今回は作品の安全を優先した」と美術館側は語っているが、もしもベン・シャーンが生きていたら、自分の作品が原発の被害に遭った人々に観てもらえることこそが何より大事なことであって、作品が観られる機会を奪われることは決して望まないと思う。作品は人に観られてこそ価値を生むのであって、その逆ではない。後生大事にしまい込むことが果たして正しい選択だろうか。しかも、展示は福島市であり、原発からも50キロ以上離れている。避難地域ではないのだし、人々はそこで生活している。そこでの展示を拒否するというのは、いったいどういうわけなのか。自分がこの種の芸術家なら、たとえ作品が放射能でダメになるとしても、原発のど真ん中に自分の作品を置いて皆に観てほしいと思うよ。それぐらいの意気込みがなければ、アーティストが反核作品を描く意味はないのではないか。芸術を侮辱したかのような美術館側の行為は決して許されるものではないと自分は考える。