『ビブリオフォリア・ラプソディ』高野史緒(2024年5月/講談社)2024-08-31 12:13

 本にまつわる話を5篇収録した短篇集。趣はそれぞれ異なっているが、どの短篇も書籍への思いが溢れるほど詰め込まれ、読み応えがある。とりわけ、冒頭の「ハンノキのある島で」は、本の出版に制限のかかった近未来において、地方都市へ帰郷した中年の女性作家の日常を淡々と描きながら 本の未来についての真剣な考察に踏み入っていく傑作で、強い印象を残す。

 新刊の寿命が六年と限られ、保存書籍指定のないものは全て廃棄すると定めた「読書法」が施行された近未来。どうやって六年後に廃棄されるのかというと、四年から六年の間に完全分解するインクで印刷されているのだ。「読書法」によって、聖書、神話、シェイクスピアやドストエフスキーなどの古典は保存されるが、ミステリで言えば、施行後に残されたのはコナン・ドイルやクリスティの数冊だけであり、クイーンもディクスン・カーも残らない。SFに至っては、はっきりとは書かれていないが、アシモフの代表作は残るようなので、おそらくそれだけだろう(それが《黒後家蜘蛛》シリーズだったらSFは何も残らないことになるし、《ファウンデーション》だとしたら大変な皮肉である)。電子データは残されているのだが、国家の厳重な管理の基に置かれ、一般庶民は触れることができない。意外にもこの法律は、過去の作品と常に比較されてしまうクリエイターからの支持と、過去の読むべき本に翻弄される読者からの支持を得て、成立してしまうのだ。なるほど、作家の側からすると、せっかく良いアイデアを思いついても、過去にあったと言われてしまう危険を回避できるわけで、それなりのメリットがある。読者としても、本が置けないので新刊が買えないというデメリットから解放される。いいこと尽くめだ。って、ちょっと待った。それはやはり短絡的な考えであって、クイーンやカーにはクリスティにはない魅力があるわけだし、確かにドストエフスキーの偉大さにはかなわないかもしれないが、ハインラインにもクラークにも見るべき点はあるだろうし、ディックやヴォネガットやバラードやディレーニイやゼラズニイやウルフやプリーストのない世界ってつまらないのではないだろうか。と思った人がやはり(少数ながら)いたのだろう。「読書法」への反対運動は(少数ながら)存在した。
 主人公の夫は、書籍の電子データを他のデータ上に拡散させるなどの違法活動に関わった罪で投獄されている。主人公の従兄弟四郎(別の短篇では主役となっている)の娘は、激烈な反対運動の末に自ら命を絶ってしまう。こうした反対派に囲まれて自らも反対の側にいる主人公の女性作家、久子の立ち位置は揺らいでいる。彼女は「読書法」の中で作家活動を続け、発禁処分を受けながらも書き続けていく。実作者として、制限付きではあっても書きたいものを書き、それが読者に読まれることを何より大切に思っているからだ。また、「読書法」成立以前から電子書籍には賛成の立場をとっている。つまり、紙の書籍にこだわることへの批判的な視座が彼女にはもともとあり、これはどちらかというと「読書法」側に近い。「読書法」が施行される前の「のどかな時代」(すなわち現代)に行われた国際会議において、久子は、もはや本好きの庶民ほど収納の限界に達しているのが現実だと説き、「庶民の狭い家に娯楽としての書籍が何千冊、何万冊もあるという事態は、人類史上初めてのことです」と語る。「小説が娯楽として売れ、小説を書いたらカネになるという事態そのものが、歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事だったのではないかと思うのです」と。なるほど、これは鋭い指摘であって、過去にない事態が勃発しているわけだ。ここには、明らかに書籍が売れなくなってきた現代への警鐘があり、また、今後どうしていけば本が残っていくのかを考えるための前提が示されている。本をめぐる旧来のシステムが限界に達しているとの認識から始めようということだ。だからと言って、もちろん「読書法」が最適の解答であるとは思えない。作中では、ブラッドベリ『華氏451度』を思わせる解決法も提示されるが、うまく行かない。では、いったい、どうすればいいのか。
 作者の狙いの一つには、極端なシチュエーションを設定することによって、読者に本をめぐる困難な状況とその解決法をともに考えてほしいという願いがあると思われるが、それは見事に成功している。もう一つの狙いとして、「歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事」へのノスタルジイもあると思われるが、これも見事に成功している。主人公と同世代の本好きならば、誰もが心に自分なりの「共栄堂書店」を持っているだろう。主人公は最後に「ハンノキのある島」へと希望を託すのだが、読み終えた人が本好きであればあるほど、この希望を実現するにはどうすればいいかを考えざるを得ない。かく言う私もまた、自宅の本の山に囲まれ、途方に暮れながらも、考え続けていきたい。

 いかん、一作に紙数を取り過ぎた。残りは簡単に紹介していく。「バベルより遠く離れて」は、想像力に富んだ言語である南チナ語の日本で唯一の翻訳者である主人公が、日本語の言霊で呪いを書きこまれ、それを解くために日本にやって来たフィンランド人と出会い、その呪いを解く方法を思いつく話。南シナとは何の関係もない、ユニークな言語である南チナ語が面白い。風を表す語が四十六もあったり、著名な作家の名がチャツネ・キムチ・メシウマであったり、学者が大真面目な顔つきでシャレを言うようなギャップのあるおかしさが漂っている。
 「木曜日のルリユール」は、辛口の評論家として知られる主人公、森祐樹が、かつて自分が学生時代に執筆した『木曜日のルリユール』という作品が本屋に並んでいるのを見つけ、衝撃を受ける場面から始まる。ペンネームの一之森樹も、本の装幀も自分が考えていたとおり。内容も自分が書いたとおりだ。いったい、誰がどうやって出版したのか。祐樹は学生時代を過ごしたマンションを訪れ、そこで一人の男に出会う……。ドッペルゲンガーものの変奏曲として面白く読むことができた。祐樹が男との口論の過程で、本心を吐露する場面には心打たれるものがある。
 「詩人になれますように」は、主人公である女子高生の詠美が、祖母からもらった勾玉に願いをかける話。祖母からは、二つの願いを叶えることができると聞き、彼女は詩人になりたいという願いをかける。すぐに祖母は亡くなったが、詠美は大学生のうちに詩集を二冊刊行し、どちらもベストセラーとなった。しかし、その後十一年ものスランプがあり、今では地方のOLとなって冴えない日々を過ごしている。久しぶりに祖母の勾玉を見つけた詠美は二つ目の願いをかけるが……。詩が書けなくなった主人公の焦燥と絶望がリアルに伝わってきて、しんどい気持ちにさせられるだけに、明るい結末に救われた気がした。集中もっとも感動させられた作品である。
 「本の泉 泉の本」は〈SFマガジン〉掲載時に読んでいるが、こうして集中の最後に置かれると、また格別な趣がある。本好きの二人、ずんぐりした四郎とほっそりした敬彦のコンビが、広大な古書店(十階まである!)で、本を眺め解説を挟みながら次々と引き抜いていくという、それだけの話ではあるのだが、これがべらぼうに面白い。すべて架空の本と思われるが、タイトル、あらすじ、ディテールに至るまで、本当にありそうな趣向が凝らされており、この古書店は、特に昭和のミステリ、SFファンにとっては夢のような空間なのである。よくもまあ、ここまで考え付いたものだと感心させられる。二人のうち片方が本の山に消えてしまう結末には、モデルとなった故Hさんへの想いが込められているようで、感慨深いものがあった。

 以上五篇、どれも読んで損なしの傑作ばかり。作家、翻訳者、書評家、詩人、編集者と主役の職業もすべて違い、バラエティに富んでいるのもうれしい趣向だ。本好きなあなたなら、ぜひ手元に置いて何度も読み返すに足る、愛すべき作品集である。

『シリコンバレーのドローン海賊』ジョナサン・ストラーン編(創元SF文庫)2024-05-13 16:41

シリコンバレーのドローン海賊
 人新世(じんしんせい)SF傑作選と銘打たれたアンソロジーで、原著は二〇二二年に刊行されている。近年、産業革命に始まる人類の活動が地質に多大な影響を与えており、現代は従来の呼び名である「完新世」ではなく、「人新世」と呼ぶべきではないかとの考えが提唱されている。今年三月に開かれた国際地質科学連合の小委員会では、「人新世」の呼び名は大差で否決されたようだ。「人新世」の始まりについては、農耕から始まる、一九五〇年代から始まる、など諸説があり一定しないが、少なくとも人類の活動が現代の地球に影響を与えていることは間違いのない事実であり、科学・技術が人類や地球に与える影響について思索し続けてきたサイエンス・フィクションにとって、これほど親和性のある話題もないだろう。この主題のもとに集められた作品は以下のとおりである。

 進化したドローン社会とその欠陥を描く「シリコンバレーのドローン海賊」(メグ・エリソン)、プラスチックごみでできた島での暮らしを描いた「エグザイル・パークのどん底暮らし」(テイド・トンプソン)、気候変動に伴い頻発する山火事と進化した車の自動運転とを組み合わせて未来の災害を描写する「未来のある日、西部で」(ダリル・グレゴリイ)、気候変動否定論者が組織に命じられて災害ボランティアに潜入し、サイクロン襲来の現場に立ち会う「クライシス・アクター」(グレッグ・イーガン)、人体改造による海底生活への憧れを描く「潮のさすとき」(サラ・ゲイリー)、電脳帽をかぶって海底の人口汚染物質回収装置を操る父子の物語「お月さまをきみに」(ジャスティナ・ロブソン)、中国奥地の村に超皮質ネットワークを接続するために訪れた女性と村の少女とが歌を通じて交感する「菌の歌」(陳楸帆)、ノーベル平和賞を受賞したアプリ〈レギオン〉の開発者へのインタビューを通じてその効果が明らかになる「〈軍団〉」(マルカ・オールダー)、人々に忌み嫌われる死体回収人の驚くべき秘密が暴かれる「渡し守」(サード・Z・フセイン)、飲んだくれの父親に見捨てられ自分を理解してくれない祖母のもとで暮らす少女の孤独を描いた「嵐のあと」(ジェイムズ・ブラッドレー)、以上十編とブラッドレーによるキム・スタンリー・ロビンスン・インタビューが本書には収録されている。

 原著の副題に「人新世における生活」とあるように、気候変動やごみ問題を扱いながら、ヒトや企業のもたらした悪を糾弾したり解決策を提案したりといった大上段に振りかぶって社会構造を変革する作品ではなく、あり得る未来の中で市井の人々がどのように生活しているか、家族の姿はどうなっているかという一般の目線から未来社会の「生活」を切り取った作品が多いように感じた。どの作品も面白かったのだが、SFらしさを前面に出した作品としては「潮のさすとき」「菌の歌」を、現代と地続きの未来社会を描いた作品としては「未来のある日、西部で」を、それぞれ推しておきたい。

 キム・スタンリー・ロビンスンのインタビューは、昨年訳されたばかりの『未来省』の思想的裏付けとなっている。ロビンスンは「正義や生物圏との持続可能なバランスのために役立っているひもを強化するための計画」を「科学」と呼び、そのひもは「民主主義や正義や進歩などを含んでいる歴史という太いひも」からのびていると語る。対抗している「資本主義」というひもは封建主義や家父長制などの古い権力体系からのびており、資本主義より科学を優先すべきだ。利潤を追求する政治経済を、利潤だけが成功の指標にならないように変革しなければならない。そして、それは暴力革命ではなく、言論闘争、政治闘争、法律闘争によって実現されるべきだ。希望はある、と。私は、ロビンスンの主張に全面的に賛成したい。

 イーガンとロビンスンを除くと日本では馴染みのない作家が多いので、本書を読んで気に入った作家がいたら、単行本を読んでいくのも良いだろう。ダリル・グレゴリイ『迷宮の天使』(創元SF文庫)、ジャスティナ・ロブソン『アルフハイムのゲーム』(ハヤカワ文庫)、陳楸帆『荒潮』(新ハヤカワSFシリーズ)、マルカ・オールダー(他3名との共著)『九段下駅』(竹書房文庫)が翻訳されている。

 最後に、原題のTomorrow’s Parties はヴェルヴェット・アンダーグラウンドのAll Tomorrow’s Partiesからとられている。ウィリアム・ギブスンの『フューチャーマチック』の原題もこれなのだが、貧しい娘が明日のパーティーに何を着ていったらいいのと歌う悲しみの歌が、現代の人々が未来に対して持つ不安の隠喩となっている。本書を読んで、未来への不安の中に少しの希望が見えてくるといいなと感じた。

『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』アマル・エル=モフタール&マックス・グラッドストーン(新ハヤカワ・SF・シリーズ)2024-04-24 10:03

『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』
 ここ数年の読み残しを少しずつ読んでいる。その中で、2021年に翻訳され、〈このSFが読みたい!〉で3位に入った本書が面白かったので、レビューします。

 2019年に単行本として刊行され、ヒューゴー、ネビュラを始め主要なSF賞をノヴェラ部門で獲得した作品である。

 古代から二つの勢力が時間を超えて争いを続けているというアイディアは古くからあり、フリッツ・ライバーの改変世界シリーズ、小松左京『果しなき流れの果に』などがすぐに思い浮かぶ。本書では、《エージェンシー》と《ガーデン》なるグループがあらゆる時間軸(ストランド=紐、筋の意=と呼ばれている)において争っており、それぞれのエージェントであるレッドとブルーが主人公となる。たとえばストランド9において、レッドはアマゾン川流域にヨーロッパ人のもつ病原菌に対する超耐性菌を散布する任務を果たすが、それはスペインの征服者によってインカ帝国の人々が滅びないようにするためだ。凡百のSF作家であれば、これだけで一つの短編を書くだろうが、エル=モフタールとグラッドストーンのコンビにとっては、これはたった1ページで終わる背景に過ぎない。古代から未来にかけて目まぐるしく舞台は移り、決して一つの世界にとどまることはない。作者らの主眼は、時間戦争ではなく、あくまでもレッドとブルーの主観的な心の触れ合いにあるのだ。

 互いに対立する陣営内で、手紙を通じて、レッドとブルーは互いの心を通わせ、いつしか深く愛し合うようになる。この「手紙を通じて」という点が本書最大の特色であり、読者の情感に強烈に訴えるところでもある。時空を超えて情報を伝えるために、両者の「手紙」は、雁の羽根、フクロウの胃袋の中、ハチのダンスなど、さまざまな方法でコード化されている。次はどんな方法で手紙が現れるか、読者は楽しみながら読み進めることができるだろう。設定と伝達方法は極めてテクノロジカルであるのに対し、伝えられる内容は、情感たっぷりで極めてエモーショナル。この対照の妙が、本書の魅力となっていることは間違いない。作中にタイトルが出てくることからも明らかなように、本書は時空を超えた『ロミオとジュリエット』であり、女性同士の恋愛物語であり、さらに言えば自分自身との交流記録でもある。

 「手紙を書く」という行為は、相手へのメッセージであると同時に自分自身を明らかにすることでもある。レッドとブルーは書くことによって、自分自身の立ち位置や目的を明確にしていく。手紙を読み進めながら、どうして二人は直接会うことが少ないにも関わらずこんなに惹かれあっていくのだろう、ちょっとこれは変なのではないかという疑問が浮かぶ読者も多いと思われるが、そう思った瞬間に、読者は作者の術中にはまっているのだ。私はいつも『ウェストサイド物語』を観るたびに、どうしてこんなに互いを好きになれるのかと醒めた目で見てしまう悪い観客なのだが、実は本書を読んで似たような感覚を抱いていた。しかし、レッドとブルーの物語にはきちんと隠された意味があり、最後にそれが明らかになる。この結末は見事で、思わず溜め息が出てしまった。総じて、古典的な物語を新しい革袋に入れた傑作であり、一読の価値はあるだろう。

『闇の中をどこまで高く』セコイア・ナガマツ(東京創元社)2024-04-23 07:40

『闇の中をどこまで高く』セコイア・ナガマツ
 無事退職したので、やっと時間ができました。これからがんがん書評を書いていきます。前回書いたネルスン・ボンドについては次回以降に回して、先に新刊レビューから。

 本書は、2022年に刊行され、第1回アーシュラ・K・ル=グイン賞特別賞を受賞した作品である。

 シベリアの凍土が溶け、洞窟の中から三万年前の少女の死体が見つかった。しかし、そこには生物の臓器に働きかけ、異なる臓器を生み出してしまう恐ろしいウイルスが潜んでいた。このウイルスに感染すると、肝臓に脳細胞ができたり、心臓に肺細胞ができたりして、やがては臓器不全で死に至る。北極病と名づけられたこの病気は、子供を中心に爆発的に広がっていく……。

 あらすじだけ見ると、バイオハザードものの典型に見えるが、本書は決して単純なパニック小説ではない。まずは、子供が感染した際の親の気持ち、わが子との別れの場面を丁寧に静かな筆致で描き出した感動的な文学作品として見事に完成されている。章が変わるたびに異なる家族が登場し別の物語が描かれていくが、読み進むにつれ、視点人物とその関係者が絡み合い、新たな物語が紡がれていく。この緻密な構成には思わずうならされてしまった。

 トルストイが言うように「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。どの家族もそれぞれの問題を抱えており、夫婦関係がうまくいかなかったり、親子の断絶があったり、兄弟の争いがあったりする。そこに子供の死というさらに大きな不幸が重なってくるので、読者としては正直感情が激しく揺さぶられ、読むのが辛い作品ではあった。しかし、そこを乗り越えていくと、思わぬ展開があり、希望に満ちたサイエンス・フィクションとなっていく。

 本書が、家族の死を主題とした文学作品でありながらそこに留まっていない理由は2点ある。1点目は、死後の世界で亡くなった人々が連帯し、一人の赤ん坊を救い出す幻想的な場面が描かれていること。これが後に現実とリンクしてくるところなど、小説として本当に巧い。2点目は、後半に意外な展開があり(これを唐突と見る読者もいるだろう)、詳細はネタバレになるので書けないが、星の世界へ人類が進出していく過程が描かれていること。この2点によって、本書は優れた幻想文学、サイエンス・フィクションたりえている。ル=グイン賞受賞も納得の出来映えだ。

 作者は日系アメリカ人で新潟に2年住んでいたことがあるという。その経験を生かして、本書の登場人物は日系人が多く、舞台のいくつかは日本である。家族の描き方については、アメリカ的な個と個の対立ももちろん描かれているが、地域に根ざした日本の前近代的な家庭もしっかりと描かれ、二つの文化における「家」の違いを浮き彫りにしている点も興味深かった。

『異邦人たちの慰め』イアン・マキューアン2013-01-07 23:36

 積んどく本読破シリーズ第二弾。1994年に訳されたイアン・マキューアンの第二長編である。なぜ買ってあったのかというと、1995年に訳された第三長編『時間の中の子供』をSFマガジンでレビューしたことがあり、その時の印象が良かったからだ。『時間の中の子供』には少しSF風のところもあったのだが、こちらには全くない。丁寧な描写でじわじわとクライマックスまで盛り上げていく文学的サイコ・サスペンスといった趣である。

 名前は出てこないが、ベネチアとしか思えない観光都市にやってきた一組のカップル(夫婦ではない)。彼らの退廃的な生活がこれでもかといわんばかりの細密かつ視覚的な描写で描かれていく。その中で、もう一組のカップル(こちらは夫婦)と偶然知り合い、彼らの家に招かれ、主人公たちは、その異常な性癖に気づいていく。そして、偶然知り合ったと思っていたのが実は必然であったと気づくとき、恐るべき惨劇が起きる……。

 なんて紹介するとまるで三流ホラー映画のようだが、文章が一流であるため、全体には品格があり、ブッカー賞候補になったというのも肯ける出来栄えだ。情景描写を味わいながら上質なサスペンスが楽しめるので、セリフばかりで周囲の描写の全くないシナリオのような日本の小説(何とは言わないが)に飽きてきた頃に読むと、海外文学の素晴らしさが味わえると思う。