『異邦人たちの慰め』イアン・マキューアン2013-01-07 23:36

 積んどく本読破シリーズ第二弾。1994年に訳されたイアン・マキューアンの第二長編である。なぜ買ってあったのかというと、1995年に訳された第三長編『時間の中の子供』をSFマガジンでレビューしたことがあり、その時の印象が良かったからだ。『時間の中の子供』には少しSF風のところもあったのだが、こちらには全くない。丁寧な描写でじわじわとクライマックスまで盛り上げていく文学的サイコ・サスペンスといった趣である。

 名前は出てこないが、ベネチアとしか思えない観光都市にやってきた一組のカップル(夫婦ではない)。彼らの退廃的な生活がこれでもかといわんばかりの細密かつ視覚的な描写で描かれていく。その中で、もう一組のカップル(こちらは夫婦)と偶然知り合い、彼らの家に招かれ、主人公たちは、その異常な性癖に気づいていく。そして、偶然知り合ったと思っていたのが実は必然であったと気づくとき、恐るべき惨劇が起きる……。

 なんて紹介するとまるで三流ホラー映画のようだが、文章が一流であるため、全体には品格があり、ブッカー賞候補になったというのも肯ける出来栄えだ。情景描写を味わいながら上質なサスペンスが楽しめるので、セリフばかりで周囲の描写の全くないシナリオのような日本の小説(何とは言わないが)に飽きてきた頃に読むと、海外文学の素晴らしさが味わえると思う。

『世界の終わりのサイエンス』トマス・パーマー2012-12-29 21:50

 ようやく今日から冬休み。まずは家の片づけをする。本を少し減らそうと思って、未読の本を読んで処分しようという大それた計画を立てたのだが、なかなか進みません。

 まずは、ずっと気になっていたトマス・パーマーの『世界の終わりのサイエンス』を読んでみる。1992年12月刊行の本なので、ちょうど20年前だ。いったいどれだけ積んでおいたのか。

 コネチカットの海岸のそばの一戸建てに妻子とともに住み順風満帆の人生を送っていた主人公ロックランド・プールは、ある日「境界線」を超え、今までいた世界とは別の世界に入り込んでしまう。そこは事務机と椅子、ベッドが置かれたバスルームつきの部屋で、窓はどこにもない。四方を廊下が取り囲んでおり、どこへも出ることはできないのだ。朝になるとマックと呼ばれる男が朝食を持ってくるが、彼がどこから来て、どこへ戻っていくのかはわからない――。こんな不条理な設定で始まる物語は、少しずつ謎を明かしながら、螺旋を描くようにゆっくりと進んでいく。プールは現実に戻ったり、また別の世界をさまよったりしながら、序々に自分の役割に気づいていくが、その先には恐ろしい惨劇が待っていた……。

 中盤の入江の世界でのプールの悪夢のような体験が圧倒的な迫力で印象に残る。それに比べれば、終盤の惨劇は規模こそ大きいが、さほど実感を伴って迫っては来ない。作者の主眼は惨劇そのものではなく、惨劇の再現を恐れる人々の不安を描くことにあるようだ。現実のゆらぎ、現実と悪夢は紙一重であること、非現実的状況に直面したときの人間の様々な気持ち(否定、表面的な理解、不安)を主に描いているという点で、本書は厳密な意味でのサイエンス・フィクションとは言い難い。しかし、良質なサイエンス・フィクションは、非現実の不条理と恐ろしさをもその中に含んでいるはずであり、また本書が非現実的状況を理性的に理解しようとする姿勢を崩していない以上(もちろんそれは成功しないことが運命づけられているのだが)、本書とサイエンス・フィクションが重なり合う部分は多いと言える。文章も上手く、読んで損はない。SFファンにとっても十分に楽しめる文学作品である。

アメリカ文学会シンポジウム2012-10-14 20:35

 椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授の長澤さんのお誘いで、弟とともに、名古屋大学で開かれている日本アメリカ文学会に行ってきた。もちろん自分は学会員でも何でもないわけだが、近年は開かれた学会を目指しているということで、学会員以外の参加も認められているようである。

 見学したシンポジウムのテーマは「音楽を通して読む〈前衛〉のアメリカ」。扱ったアーティストと担当は以下の通り。
1940年代のハリー・スミス(慶応大 大和田俊之)
50年代のポロックとケージ(横浜国立大学 中川克志)
60年代のフランク・ザッパ(愛知教育大学 久野陽一)
70年代~の〈アヴァン・ポップ〉(椙山女学園大学 長澤唯史)
 ほぼ年代順に個別の発表があり、最後にディスカッションという構成である。

 ハリー・スミスについては、アメリカのフォーク・ミュージック・アンソロジーの編者としてしか知らなかったが、実は人類学を学んだ研究者であり、実験映画も作成していたなど、様々な側面があったことがわかり大変興味深い発表であった。実験映画も見せていただいたが、ノーマン・マクレランがインド哲学を題材に撮ったらこうなるのではないかという感じのユニークなもので、なるほど彼の前衛性がよく伝わってきた。ボブ・ディランやザ・バンドが彼のフォーク・ミュージック・アンソロジーを手本にしたことから、勝手に保守的な規範としてのハリー・スミス像を創りあげてしまっていたことを深く反省。

 ポロックとケージについては、パフォーマンスを行うことによって絵画の音楽化を目指したポロックと、絵画よりも音楽を特権化していくケージとの比較を通じて、ケージの音楽の前衛性を見つめ直すというもの。表層的な類似ではあるがという限定つきで紹介されたケージの楽譜と視覚美術との類似が面白かった。

 ザッパについては、初期作品のいくつかを聴きながら、ザッパの特色を分析していく。ザッパの特色は、1 既存のもののパッチワークであり、2 録音芸術としての側面を持ち、3 人に嫌悪感を催すような音楽であるが、それらの背後には冷徹さ、強靭な理性が存在しているとの分析が紹介されていた。実は初期ザッパの前衛性は、音楽性にあるというよりは、「ミスター・アメリカよ、教えることをしないお前の学校のそばを歩け/到達できない精神のそばを歩け/お前の内側の空虚さのそばを歩け」という強烈なアメリカ批判をポピュラー・ミュージックの枠内でやってのけたことにこそあるわけで、せっかく歌詞をレジュメに載せてあるので、そちらからの分析があるともっとよかったのではないかと思わされた。

 アヴァン・ポップについては、前衛と伝統の対立そのものが内包されたシステムの中にいて、それでもなおラディカルに規範を破壊していく志向を持った作品というラリイの定義に従い、シャイナー『グリンプス』、ユージン・チャドボーンなどの作品やアーティストが紹介されていく。時間が足りずにスティーヴン・ライトの紹介まで行かなかったのが残念であったが、それでも真の前衛はもはや存在しない今、アヴァン・ポップの持つ意義は大変大きいものがあるということはよくわかった。

 ディスカッションを聞いて感じたのは、絶対的な「前衛」というものはそもそも存在しないということ。初期ザッパを今聴いて「前衛」でないと感じるのは当たり前というべきであって、それを言うなら、ケージの《ウィリアムズ・ミックス》を今聴いても少しも「前衛」的ではない(初めて聴いた自分は、何だビートルズ「リヴォルーションNo.9」のパクリではないかと思った)。むしろ、それぞれの作品を当時の文脈に置いたうえで、いかに前衛的であったかを語り、そこから有益な所見を引き出すべきであろう。
 何はともあれ、久しぶりに実に知的かつ刺激的な時間を過ごすことができた。声をかけていただいた長澤さんに深く感謝する次第である。

堀田あけみにインタビューする2012-07-30 23:18

 というわけで、タイトル通り、堀田あけみさんにインタビューしてきました。事の次第は、自分が所属している愛知県国語教育研究会が来年の全国大会に向けて「愛知の文学」という冊子を作るのですが、自分がそのDVD版の作成担当となり、地元ゆかりの作家のインタビューを収録しようという流れがあったことと、今年3月の教え子の結婚式で、たまたま堀田あけみさんと出会い(Sさんに感謝ですね)、連絡先を教えてもらって、正式にインタビューの件を依頼したところ、了承の返事をいただけたということです。

 堀田さんと言えば、『1980アイコ十六歳』で文藝賞を受賞、その後も大学で心理学の勉強をしながら小説を書き続け、現在は椙山女学園大学国際コミュニケーション学部の准教授をされています。動物写真家の小原玲さんとご結婚されて、三人のお子さんを育てながら、大学の先生と作家の両方をこなしている、その多忙さの中でインタビューをお引き受けいただき、本当に感謝、感謝でした。

 堀田さんとは年も近く、大学も同じ。実は学生時代に何度か姿をお見かけしたこともあります。まさかそれからウン十年たってから、こうしてお話を伺うことになろうとは……。

 遅れてはまずいと約束の時間よりもかなり早く大学に着いてしまい、しばらくぶらぶらして過ごします。女子大なので、何だか、ものすごく居づらさを感じました。警備員も女性です。黙って立っていると不審人物なので、積極的に警備員の方に話しかけます。ようやく時間となり、研究室の扉をノックしました。さて、どんな方なのだろうと柄にもなく緊張していたのですが、堀田先生は、とても気さくで、いかにもお母さんという落ち着きのある、笑顔の素敵な女性でした。

 インタビューの内容は、高校時代の思い出、小説を書くことの面白さとつらさ、高校生へのメッセージの3点。いずれも堀田さんの豊富な人生経験に裏打ちされた興味深いお話をしていただけました。特に最後のメッセージでは、心理学と小説を書くことが、客観的に人間を理解しようとすることと、さまざまな視点から主観的に人間を理解しようとすることにつながっているというお話をしていただき、勝手ながら、そこに堀田さんの魅力の源泉があるのではないかという思いを抱きました。1時間の予定を少々超えてしまったことと、当方の不手際で一部同じ話を二度していただいたことが申し訳ありませんでしたが、少なくとも、こちらにとっては、充実した時間を過ごすことができました。本当にありがとうございました。

 インタビュー後の雑談で、実はSFもかなり読んでおられることがわかりました。ハインラインやシェクリー、フランク・ハーバート(『デューン』は全冊読まれているとのこと!)に至るまで、かなりの読書量です。驚きとともに、何となくそうだろうなと納得できたことも付け加えておきたいと思います。