「ヱヴァンゲリヲンQ」観てきました2012-11-18 17:44

 金曜ロードショーで「破」を久しぶりに観て、やっぱりエヴァはいいなあと感動を新たにする。これはやはり「Q」も観ねばなるまいと思って、早速小牧コロナでネット予約をし、観てきましたよ。

 最初の30分ほどは素晴らしい。とにかく何が起こっているのかわからず、ぞくぞくした。詳しくは書けないので、とにかく観てとしか言いようがない。しかし、後半カヲルとの絡みになってからは、ちょっと展開がもたつくね。結局、旧作同様の展開になってしまい、前半出てきた新設定が説明もされず謎のまま放置され、生かされていないのも残念。どうせこれだけ変えているのなら、思い切って新しいストーリー、新しい展開でやってもよかったのではないか。絵的には文句のつけようがないので、よけい惜しい感じがした。「破」の魅力は明るい綾波とか馴染みのあるキャラクターの新たな展開にあったわけで、今回お馴染みキャラの意外な展開(ほぼ新キャラと言っていい)はいろいろとあるものの、それが登場しましたよという表面的な展開だけで終わってしまっているのが実にもったいない。物語と新キャラが有機的に結びついていかないもどかしさが最後まで漂っていたように思う。逆にいえば、「破」にはその結びつきがあったからこそ、物語のカタルシスがあったということか。

 最初に四部作と言っていたのをすっかり忘れていて、序破急の三部作と思い込み、これで終わりだと勢い込んで観ていたので、最後に「つづく」と出たのを観て愕然としてしまった。そうか、まだあるんだ……。放置されたままの謎については、完結編の展開に期待するとしよう。

細田守『おおかみこどもの雨と雪』2012-08-05 23:13

 『おおかみこどもの雨と雪』観てきました。『時かけ』『サマー・ウォーズ』とどちらも面白かったので、細田守監督に対する評価は高いのですが、今回は狼男との間にできた子供をお母さんが育てるという基本設定に最初から疑問符がついていたので、ちゃんと映画になっているのかなという期待半分、心配半分で観てきました。

 日常のディテールを丁寧に描くという特色はいつも通り。ドラマの盛り上げ方も巧く、それないの感動は得られます。しかし、それは狼男との子供が生まれるという前提を素直に受け入れて初めて得られるものであって、最初から最後までその説明がされないままでは、どんなに芝居が丁寧であっても、母と子のドラマに普遍性があっても、心から感動することはできません。少なくとも現代を舞台にするのであれば、ほんの少しでもいいから現代人に納得できる説明(遺伝子工学なり、平行宇宙なり、伝奇ものとしての説明なり)が欲しかったと思います。そうでなければ、いっそ江戸時代か戦国時代を舞台にして民話風に展開するか、または狼抜きで本格ドラマにチャレンジするかすればよかったのではないでしょうか。監督の力量からすれば、それも難しいことではなかったはず。でも、狼抜きでは、あのラストシーンは成り立たないしなあ。現代に狼少女や狼少年が登場するギャップが面白いわけだから時代劇ではダメだし、うーん……。

 ともかく観ながらずっと考えていたのは、狼抜きで何とかならなかったのかということでした。

 作画的には見所なし。『サマーウォーズ』の電脳空間のような爽快感はいっさいない。井上俊之はどこをやっているんだろう? かえって、CG合成の背景とか絵本の場面とか止めのシーンが印象深かった。

刈谷市美術館「加藤久仁生展」など2012-05-20 23:08

 妻とともに美術館のはしごをした。刈谷市美術館の「加藤久仁生展」と高浜市かわら美術館の「アート・ブリュット・ジャポネ展」の二つである。

「加藤久仁夫展」 http://www.city.kariya.lg.jp/museum/exhibition_2012_katokunio.html

「アート・ブリュット・ジャポネ展」 http://www.takahama-kawara-museum.com/exhibition/detail.php?id=292

 加藤久仁生は「つみきのいえ」でアカデミー短編アニメーション賞を受賞したアニメ作家。初の個展となる今回は、イラストを描きためた若い頃からのスケッチブックを始め、「つみきのいえ」の動画および絵コンテ全カットなどの貴重な資料を展示している。今回の展示のために特別に作られた、「積み木」を模した展示箱(展示板?)が面白い。「つみきのいえ」を観た人は皆、その緻密で温かみのある絵に心惹かれるはずだ。自分はあの絵は、一枚一枚色鉛筆で塗ったのだとばかり思っていた。無論それはそれで大変なのだが、実はそうではなく、背景と登場人物の輪郭と登場人物の影を別々に黒鉛筆一本で作画し、それを合成し、後から彩色していたのだと知り驚愕。想像していた以上に手間暇かけた作品なのであった。その場で上映もしているので、大画面でじっくりと鑑賞する。裏の苦労を知ってから観ると、感動もひとしおである。その後の作品「情景」も上映していたが、こちらは作家性を前面に打ち出しており、山村浩二の世界に近づいてきている。うーん、この人はもう少しわかりやすい作品の方が画風に合っていると思うんだけどなあ。

 絵本「つみきのいえ」の原画も展示されていた。当然同じストーリーだと思っていたら、これが微妙にずれていて面白かった。映画で印象に残るワイングラスのエピソードは絵本では全く出てこない。海に潜るきっかけも、映画では「パイプ」、絵本では「金槌」を落としたことになっている。絵本では、その場面の必然性が描けないためらしいが、逆に言えば、これは映画には必然性のない場面、無駄なシーンが一切ないということだ。こうした作者のこだわりが「つみきのいえ」の感動につながっているのだろう。

 刈谷から少し足を伸ばして高浜市へ。「アート・ブリュット」とは、生(き)の芸術ということで、正規の芸術教育を受けていない人(例えば知的障がい者など)によるアートを指すようだ。紙で作った人形や電車、飛行機といった素朴なものから、結構本格的な作品まで、素人とは言っても、創作のエネルギー溢れる力作が多数展示されており、すっかり圧倒されてしまった。特に強烈なインパクトを受けたのは魲(すずき)万里絵という分裂症患者の絵だ。これはすごい。乳房と性器とはさみに対するオブセッションを画面にたたきつけ、これでもかと言わんばかりの点描と反復された文様で描き出す。夢野久作のカバーにぴったりと言えばわかってもらえるだろうか。いやはや、すごい画家がいたものだ。既に個展も開いているようなので、注目されてはいるのだろう。ちょっと毒が強いので万人にはお薦めしないが、興味のある人は下記をのぞいてみて。

魲万里絵展 http://www.no-ma.jp/exhibition/dt_46.html

『魔法少女まどか☆マギカ』のSF性について2012-01-10 19:50

 先日も昨年最もSFらしさを感じた作品(の一つ、と一応しておこう)と評した『まどか☆マギカ』について書く。最初は卒業生との飲み会で、話題になったのを聞いてそんな作品があるんだなと思った程度。確か「キュウべえは悪い奴だ」とか言われていて、「キュウべえ? 何それ魔法少女もので時代劇のキャラ?」と全くイメージがわかなかったのだが、アンビの例会でも褒められていたので、じゃあ、観てみるかと一気に何本か続けて観たのだった。

 多くの人と同様、3話のラストで驚き、全然魔法少女にならないストーリー展開にこれはひょっとして傑作かもと思い始め、アウトローとしての杏子のキャラに惹かれ、どんどん作者の術中にはまっていく。作画は金田伊功・山下将仁マニアの自分にとって全く食指が動かないレベルの低さではあったが、これまた世評どおり劇団イヌカレーのデザインによる魔女の登場シーンには今までのアニメにはない斬新さを感じた。SFとしてではなく、よくできたアニメと思って観ていたのだが、これは違うと感じたのは9話だ。

 【ここからネタバレ少々あり 気になる方はとばしてください】
 悲惨な運命を辿る魔法少女についてほむらが非情なセリフを口にする。「それでも人間か」とほむらに憤った杏子に対して彼女は冷然と言い放つのだ。「もちろんちがうわ、あなたもね」。ここ! ここで思わず「すげー」と感嘆の声が出たね、私は。人間でなくなったものの悲哀を描くことによって人間を逆に浮かび上がらせる、この手法をSFと呼ばずして何と呼ぶのか。また、この回で初めてインキュベーター(孵卵器、または細菌培養器)であるキュウべえが自身の狙いを明確にする。何と彼は宇宙の寿命を延ばすエネルギーを入手するために地球にやってきたのであり、そのエネルギーとして最も強いものが、少女の「希望が絶望に変化するときのエネルギー」だという。「希望と絶望の相転移」と呼ばれるこの突拍子もないアイディアは、もちろん科学的には無茶苦茶で、別の文脈で見かけたら一笑に付されるようなたわいないものなのだが、この話の流れのこのタイミングで登場すると、実に説得力がある。こうした非現実的な発想を論理の持つ力で如何にもありそうに見せかけるというのも優れたSFの持つテクニックの一つだ。少女たちの感情を切り刻み、非情なまでに徹底してロジカルな思考をする「キュウべえ」の存在がストーリーに緊張感をもたらし、その結果アクチュアリティが生じていることにも、人間という概念自体を外部から客体視するSFならではの視点が感じられる。さらに10話のタイムループ。ここに物語の全てが凝縮されており、その密度の濃さは並大抵ではない。この回にはベテラン・アニメーター梅津泰臣が参加しており、作画レベルも最高潮に達している。タイムループを使えば何でも優れたSFになるわけではないことは、「バブルでGo」を始めとするタイムトラベル映画の愚作の群れが証明している。優れたSFになるためには、タイムループに説得力があり必然性があること、それによって物語がより豊饒になることが求められる。『まどか☆マギカ』にはその全てがあるのだ。そして、11・12話の感動的なグランド・フィナーレ。いや、もうここまでやってくれたら言うことないよね。個人的には『エヴァ』、『カウボーイ・ビバップ』に並ぶTVアニメの傑作として心に残る作品となった。
【ここまでネタバレ少々あり 気になる方はとばしてください】

 全ての脚本を書いた虚淵玄は、「やれエントロピーだ宇宙だってSFくさいことを言ってますけれども。自分としてはSFではないと思ってるんですよ。/SFかSFじゃないかの分かれ目は、奇跡が起こるかどうかというところです。この話では明らかにエンディングで奇跡が起こってますからね」(「ニュータイプ」11年5月号、『ユリイカ』から孫引き)と語っており、本作品のSF性は否定している。しかし、このSF観は明らかに偏狭だ。「SFというジャンルの物語は理論や理屈がなければ成立しない」と思っている虚淵であるが、そう思っているなら、なおさら、奇跡が起きるエンディングに至るまでの論理的な演繹性が説得力を持てば、十分SFとして成立するのだということはわかっているのではないだろうか。まあ、本作がSFかどうかは実はどうでもいい。SFであってもつまらない作品はあるし、面白いものが全てSFだとも思わない。ただ、『まどか☆マギカ』は明らかに優れたSFの持つ特質を備えており、しかも傑作なのである(ちょっと褒めすぎかな)。