創元SF50年の歩み(その1)2012-10-08 22:13

 10月20日にひさしぶりにミューコン15(ダイナコン21)が日進・五色園にて開かれます。そこで「文庫SFの歴史を辿る」という企画をやることになりました。ハヤカワ文庫の歴史は〈SFマガジン〉2012年10月号・11月号でまとめたので、創元SFの歴史もこれを機にまとめておこうと思います。

 創元推理文庫SFマークが誕生したのは、奥付によれば1963年9月6日、フレドリック・ブラウンの短編集『未来世界から来た男』が刊行されたときである。1959年4月の文庫誕生以来四年半が経過、刊行点数も二百点を超えて出版界に安定した地位を築き上げた創元推理文庫が新たな展開を図ろうとしたのだろう。当時のSF出版状況はと言えば、早川書房の〈SFマガジン〉が1959年12月の創刊以来ほぼ四年が経過し、ようやく軌道に乗ろうとしていた頃。当時唯一のSF叢書であったハヤカワSFシリーズが、当初のハヤカワ・ファンタジイ(1957年~1962年3月)から改称してまだ一年半。SFという言葉が世間に徐々に定着してきた時期と言える。〈SFマガジン〉初代編集長福島正実は回想録『未踏の時代』(1976)の中で1963年を振り返って「SFは、着実に出版界での定着をつづけつつあった。この年の特色は、従来SF出版にほとんど無縁だった出版社が、つぎつぎと、SFあるいはそのボーダーラインの作品を出版したことだった。」と書いている。東都書房、光文社、河出書房新社、等々からSFまたはSF風の作品が続々と出版され始めたのだ。「そのなかでも、その先年倒産した東京創元社が新社として復活し、従来のミステリー路線と並べて――というよりも明らかに優先させて、SFを文庫スタイルで刊行しはじめたのが、もっとも目立った現象であった。これは、早川書房にとって、無視できない強敵の出現だった。」(福島正実『未踏の時代』より)
 一方、創元側からSFマーク刊行の経緯を語るとこういうことになる。「早川書房が活溌に出していて、〈SFマガジン〉も続いているのが刺激になったけれど、なんといっても一番分かりやすかったのは、フレドリック・ブラウンのようにミステリもSFも両方書いている作家がかなりいたことね。そういう作家のミステリは推理文庫で出していても、SFとなると、どうしても新しい部門をひとつ作らないと入りきらない。そういうことですよ、発端は。」(厚木淳インタビュー『東京創元社文庫解説総目録・資料編』より)
 厚木淳は、当初は高尚な文芸書を出していた創元社が1954年に倒産して東京創元社として新規に出直した際に新たな路線として翻訳推理小説を刊行し始めたときの立役者であり、SFにも造詣が深かった。このインタビューでは、はっきりと語られてはいないが、おそらくSFマークを始めるに当たっても氏の役割は大きなものがあったと思われる。その証拠に、初期のSFマークの解説はほとんどが厚木淳によるものであった。確かに当時ブラウンは創元推理文庫のスリラー・サスペンス部門(ネコマーク)から既に8冊が刊行されており、ミステリからSFへの橋渡しの役割を担うには最適の作家であったと思われる。SFマーク第二弾も同じくブラウンの長編『73光年の妖怪』(1963年10月27日刊)であり、第三弾はコナン・ドイルの冒険小説『マラコット深海』(世界大ロマン全集からの再録/1963年12月6日刊)であった。以下、ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(世界大ロマン全集からの再録/1963年12月20日刊)、ウィンダム『トリフィド時代』(1963年12月20日刊)と続く。(つづく)

創元SF50年の歩み(その2)2012-10-09 18:04

 タイトルを「創元推理文庫SF50年の歩み」としてしまってはたと気づいたが、創元推理文庫SFは1991年までで、後は創元SF文庫になるので、すべて含めて創元SFという呼称にしておく。でも、これでは「文庫」がなくなってしまうなあ。何か良い呼び方があったら教えてください。では昨日の続きから。

 え、ドラキュラがSF? と今の読者なら不思議に思うはずだ。先述の厚木淳インタビューでは「最初のころのSFマークは空想科学小説と怪奇小説を一緒にした部門だったのね。僕はね、SFマークを作るとき、創元SF文庫として名前も変えたほうがいいと提案したの。そしたら、営業部から猛烈に反対されたんだよ。書店でもうひとつ棚をとるのが大変だって理由で。」と語られている。第六弾のヴォークト『宇宙船ビーグル号の冒険』(1964年2月5日刊)には何も記載がないが、第七弾のウエルズ『透明人間』(世界大ロマン全集からの再録/1964年2月28日刊)の裏表紙に付されたマークの分類表には確かにSFの下に「空想科学小説/怪奇小説」と記されている。この方針のもと、既にスリラー・サスペンス部門から刊行されていたドイルの怪奇冒険小説『クルンバーの謎』(世界大ロマン全集からの再録/1959年10月23日刊)がSF部門に組み込まれたのが1964年7月31日刊の五版から(ちなみに、初期の巻末目録に『クルンバーの謎』が本格部門から刊行されたように見える記載があるが、これは便宜上同一作家は同一箇所にまとめられていたためであり、初版はあくまでもスリラー部門からの刊行である)。1964年夏の段階で、刊行されていた創元SFマーク計8冊のうち半数に当たる4冊が世界大ロマン全集からの再録であるから、なるほど厚木氏の言葉通り、SFと怪奇小説が混在している。SFというマークは狭義のミステリに収まらない作品を収録するための、極めて混沌たる存在であったということになるだろう。
 しかし、その混沌もそれほど長くは続かなかった。1964年の夏以後、ハインライン、クラーク、アシモフ、ブラッドベリといった当時は活きのいい作家たちを続々と刊行し始めた創元SFマークは、1965年2月から、SFの説明を「空想科学小説/怪奇小説」から「宇宙科学小説/怪奇小説」へと変更。同年5月刊のベスター『分解された男』からは、他ジャンルと共通であった3ケタの通巻ナンバーを改め、独自に7から始まる3ケタの分類番号を採用する。この時点で、SF部門から『クルンバーの謎』と『吸血鬼ドラキュラ』は姿を消し、スリラー・サスペンス部門へ移行(ただし『クルンバーの謎』は目録上の移行のみで現物は存在しない……はず)。SFの説明からも「怪奇小説」は消えた。SFマークは創刊から2年近くを経て、ようやく単独で「宇宙科学小説部門」となったのだ。(つづく)

アメリカ文学会シンポジウム2012-10-14 20:35

 椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授の長澤さんのお誘いで、弟とともに、名古屋大学で開かれている日本アメリカ文学会に行ってきた。もちろん自分は学会員でも何でもないわけだが、近年は開かれた学会を目指しているということで、学会員以外の参加も認められているようである。

 見学したシンポジウムのテーマは「音楽を通して読む〈前衛〉のアメリカ」。扱ったアーティストと担当は以下の通り。
1940年代のハリー・スミス(慶応大 大和田俊之)
50年代のポロックとケージ(横浜国立大学 中川克志)
60年代のフランク・ザッパ(愛知教育大学 久野陽一)
70年代~の〈アヴァン・ポップ〉(椙山女学園大学 長澤唯史)
 ほぼ年代順に個別の発表があり、最後にディスカッションという構成である。

 ハリー・スミスについては、アメリカのフォーク・ミュージック・アンソロジーの編者としてしか知らなかったが、実は人類学を学んだ研究者であり、実験映画も作成していたなど、様々な側面があったことがわかり大変興味深い発表であった。実験映画も見せていただいたが、ノーマン・マクレランがインド哲学を題材に撮ったらこうなるのではないかという感じのユニークなもので、なるほど彼の前衛性がよく伝わってきた。ボブ・ディランやザ・バンドが彼のフォーク・ミュージック・アンソロジーを手本にしたことから、勝手に保守的な規範としてのハリー・スミス像を創りあげてしまっていたことを深く反省。

 ポロックとケージについては、パフォーマンスを行うことによって絵画の音楽化を目指したポロックと、絵画よりも音楽を特権化していくケージとの比較を通じて、ケージの音楽の前衛性を見つめ直すというもの。表層的な類似ではあるがという限定つきで紹介されたケージの楽譜と視覚美術との類似が面白かった。

 ザッパについては、初期作品のいくつかを聴きながら、ザッパの特色を分析していく。ザッパの特色は、1 既存のもののパッチワークであり、2 録音芸術としての側面を持ち、3 人に嫌悪感を催すような音楽であるが、それらの背後には冷徹さ、強靭な理性が存在しているとの分析が紹介されていた。実は初期ザッパの前衛性は、音楽性にあるというよりは、「ミスター・アメリカよ、教えることをしないお前の学校のそばを歩け/到達できない精神のそばを歩け/お前の内側の空虚さのそばを歩け」という強烈なアメリカ批判をポピュラー・ミュージックの枠内でやってのけたことにこそあるわけで、せっかく歌詞をレジュメに載せてあるので、そちらからの分析があるともっとよかったのではないかと思わされた。

 アヴァン・ポップについては、前衛と伝統の対立そのものが内包されたシステムの中にいて、それでもなおラディカルに規範を破壊していく志向を持った作品というラリイの定義に従い、シャイナー『グリンプス』、ユージン・チャドボーンなどの作品やアーティストが紹介されていく。時間が足りずにスティーヴン・ライトの紹介まで行かなかったのが残念であったが、それでも真の前衛はもはや存在しない今、アヴァン・ポップの持つ意義は大変大きいものがあるということはよくわかった。

 ディスカッションを聞いて感じたのは、絶対的な「前衛」というものはそもそも存在しないということ。初期ザッパを今聴いて「前衛」でないと感じるのは当たり前というべきであって、それを言うなら、ケージの《ウィリアムズ・ミックス》を今聴いても少しも「前衛」的ではない(初めて聴いた自分は、何だビートルズ「リヴォルーションNo.9」のパクリではないかと思った)。むしろ、それぞれの作品を当時の文脈に置いたうえで、いかに前衛的であったかを語り、そこから有益な所見を引き出すべきであろう。
 何はともあれ、久しぶりに実に知的かつ刺激的な時間を過ごすことができた。声をかけていただいた長澤さんに深く感謝する次第である。

ミューコン15(ダイナコン21)レポート2012-10-23 16:37

 10月20・21日に開かれたミューコン15(ダイナコン21)にゲスト参加してきました。遅ればせながらレポートです。場所はいつもの五色園。今年はミュータンツ誕生50周年ということで、久しぶりに若尾天星さんが実行委員長を務めるミューコンとダイナコンの同時開催ということです。

 最初に地元名古屋出身の落語家、立川三四楼さんの落語が一席。出だしと最後の有名人ダジャレはあまり面白くなかったが(失礼)、落語は最高! SFコレクターの家に入った泥棒(これもSFファンという設定)の驚きが見事に表現されていて、いや、笑った笑った。一番からハヤカワ文庫がそろっていたり、サンリオやソノラマ海外がしっかりそろっていたり、SFマガジンは無論創刊号からハヤカワ・ハイまでそろっていたり、とにかくこのコレクターが他人とは思えない(笑)。オチもキレイに決まって、見事なオープニングでした。

 食事時間までPXで古本を売る。翌朝までに売れた古本は約60冊。ダンボール二箱ぐらいかな。昔懐かしい人たちや名古屋大SF研の若手二人と話したり、会誌を買ったり。この会誌(Pitという名前)がなかなかすごくて、奇想コレクション全レビューやハヤカワJコレクション全レビューから日本ホラー大賞全レビュー、ミステリ・フロンティア全レビューなど、SFにとどまらない意欲的な企画が続々登場している。OBとして実にうれしく思った次第。顧問のYくんも来ていたので、来年の名古屋大SF研30周年記念イベントについて少し打ち合わせ。20周年は何もしなかったので、30周年は絶対やります!
 
 最初の企画は途中からSFカルタに行ってみる。これはSFの名文句を言って、作品名の書いた札を取るというもので(たとえば「はらいそさ行くだ!」で諸星大二郎「生命の樹」を取るとか)、この作品はこの文句でいいのかということをいろいろ討論した。

 二コマ目はミュータンツの歴史を辿るパート2。天星さん作成の年表をもとに昔話。ちょうどメイコン3あたりから参加し、80年代前半で退場。メイコン3で上映されたフィルム(「THX1138」「サイレント・ランニング」「ダーク・スター」)は中子真治氏から借りたものであることが判明したのが収穫であった。

 三コマ目は自分の企画「SF文庫の歴史を辿る」。準備不足で創元の初期を詳しく紹介したあと、創元全体とハヤカワ全体を駆け足で紹介するに留まる。角川はそんな大したことない文庫だけれど受け狙いで紹介。サンリオ、ソノラマ、その他は写真を見せるだけといういい加減さ(ごめんなさい!)。それでも、来てくれて最後まで聞いてくれた方たち、どうもありがとうございました。なかなか更新できませんが、ホームページで少しずつ研究成果を発表していきますので、よろしくお願いします。

 今回は、若尾さんが実行委員長ということで、オークションも気合が入っており、11時30分から3時頃まで延々と行われた。自分の企画が終わってからあわてて参加し、最後までつき合う。なかなか珍しい本が安く手に入るので見逃せないのだ。明治時代の押川春浪編集の雑誌「冒険世界」を2,000円台(!)、「幻想と怪奇」を1,000円以下で手に入れてほくほくする。いや、こんなに安くていいんでしょうか。そんな中、バンバン高値で落札していく剛毅な人が。誰あろう、東京から愛知に戻ってきた大野典宏さん(「SFマガジン」で「サイバーカルチャートレンド」を連載中)でした。大野さん来るならゲスト扱いにすればいいのに。

 さて、後は少し寝て、朝食後はいつものように早めに失礼する。今年も十分楽しめました。また次回(3年後?)を楽しみにしています。