『魔法少女まどか☆マギカ』のSF性について2012-01-10 19:50

 先日も昨年最もSFらしさを感じた作品(の一つ、と一応しておこう)と評した『まどか☆マギカ』について書く。最初は卒業生との飲み会で、話題になったのを聞いてそんな作品があるんだなと思った程度。確か「キュウべえは悪い奴だ」とか言われていて、「キュウべえ? 何それ魔法少女もので時代劇のキャラ?」と全くイメージがわかなかったのだが、アンビの例会でも褒められていたので、じゃあ、観てみるかと一気に何本か続けて観たのだった。

 多くの人と同様、3話のラストで驚き、全然魔法少女にならないストーリー展開にこれはひょっとして傑作かもと思い始め、アウトローとしての杏子のキャラに惹かれ、どんどん作者の術中にはまっていく。作画は金田伊功・山下将仁マニアの自分にとって全く食指が動かないレベルの低さではあったが、これまた世評どおり劇団イヌカレーのデザインによる魔女の登場シーンには今までのアニメにはない斬新さを感じた。SFとしてではなく、よくできたアニメと思って観ていたのだが、これは違うと感じたのは9話だ。

 【ここからネタバレ少々あり 気になる方はとばしてください】
 悲惨な運命を辿る魔法少女についてほむらが非情なセリフを口にする。「それでも人間か」とほむらに憤った杏子に対して彼女は冷然と言い放つのだ。「もちろんちがうわ、あなたもね」。ここ! ここで思わず「すげー」と感嘆の声が出たね、私は。人間でなくなったものの悲哀を描くことによって人間を逆に浮かび上がらせる、この手法をSFと呼ばずして何と呼ぶのか。また、この回で初めてインキュベーター(孵卵器、または細菌培養器)であるキュウべえが自身の狙いを明確にする。何と彼は宇宙の寿命を延ばすエネルギーを入手するために地球にやってきたのであり、そのエネルギーとして最も強いものが、少女の「希望が絶望に変化するときのエネルギー」だという。「希望と絶望の相転移」と呼ばれるこの突拍子もないアイディアは、もちろん科学的には無茶苦茶で、別の文脈で見かけたら一笑に付されるようなたわいないものなのだが、この話の流れのこのタイミングで登場すると、実に説得力がある。こうした非現実的な発想を論理の持つ力で如何にもありそうに見せかけるというのも優れたSFの持つテクニックの一つだ。少女たちの感情を切り刻み、非情なまでに徹底してロジカルな思考をする「キュウべえ」の存在がストーリーに緊張感をもたらし、その結果アクチュアリティが生じていることにも、人間という概念自体を外部から客体視するSFならではの視点が感じられる。さらに10話のタイムループ。ここに物語の全てが凝縮されており、その密度の濃さは並大抵ではない。この回にはベテラン・アニメーター梅津泰臣が参加しており、作画レベルも最高潮に達している。タイムループを使えば何でも優れたSFになるわけではないことは、「バブルでGo」を始めとするタイムトラベル映画の愚作の群れが証明している。優れたSFになるためには、タイムループに説得力があり必然性があること、それによって物語がより豊饒になることが求められる。『まどか☆マギカ』にはその全てがあるのだ。そして、11・12話の感動的なグランド・フィナーレ。いや、もうここまでやってくれたら言うことないよね。個人的には『エヴァ』、『カウボーイ・ビバップ』に並ぶTVアニメの傑作として心に残る作品となった。
【ここまでネタバレ少々あり 気になる方はとばしてください】

 全ての脚本を書いた虚淵玄は、「やれエントロピーだ宇宙だってSFくさいことを言ってますけれども。自分としてはSFではないと思ってるんですよ。/SFかSFじゃないかの分かれ目は、奇跡が起こるかどうかというところです。この話では明らかにエンディングで奇跡が起こってますからね」(「ニュータイプ」11年5月号、『ユリイカ』から孫引き)と語っており、本作品のSF性は否定している。しかし、このSF観は明らかに偏狭だ。「SFというジャンルの物語は理論や理屈がなければ成立しない」と思っている虚淵であるが、そう思っているなら、なおさら、奇跡が起きるエンディングに至るまでの論理的な演繹性が説得力を持てば、十分SFとして成立するのだということはわかっているのではないだろうか。まあ、本作がSFかどうかは実はどうでもいい。SFであってもつまらない作品はあるし、面白いものが全てSFだとも思わない。ただ、『まどか☆マギカ』は明らかに優れたSFの持つ特質を備えており、しかも傑作なのである(ちょっと褒めすぎかな)。

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