アン・レッキー『亡霊星域』2016-08-16 06:27

 ヒューゴー・ネビュラを始め7つのSF賞を総なめにしたデビュー作『叛逆航路』(2013年/2015年邦訳)は日本でも評判がよく、この7月にめでたく星雲賞まで受賞したので、一作で8冠、シリーズ全体(三部作)では11冠となった。どうしてこんなに評価が高いのか。前作を読んだ限りでは、ミリタリーSFの衣裳をまとってはいるが、それよりも文化人類学的SFとしてよく出来ているという印象を受けた。人間の身体に意識を上書きした兵士である「属躰(アンシラリー)」となった「わたし(実は人工知能)」が、千年ぶりに再会した元副官とともに極寒の惑星をさまよう物語と、三人称がすべて「彼女」になっているというジェンダーを撹乱する叙述法は、明らかにル・グインの『闇の左手』を意識したものだったし、アナーンダ・ミアナーイというインド系の皇帝に支配された帝国や、宇宙空間に居住するタンミンド人という設定などには、西欧文明とは異質な世界観を描こうという意欲がうかがえたからである。

 凡百のミリタリーSFがつまらないのは、その設定や世界観が現実の軍隊の延長に過ぎず、軍隊の性格上秩序や規律をみだすこともできず、単一の世界観や正義の名のもとに異質なものと戦い、それを排除するという単純な構図からの脱却が難しいからだ。そんなものは、異なる価値観とのぶつかり合いを通じて認識の変革に至るというSFの本質とは何ら縁のない愚作であると私は硬く信じている。これに対して本シリーズは、ミリタリーものでありながら、文化人類学的SFでもあり、サイバーパンクやシンギュラリティの要素も含み、しかもキャラクター小説としてもよく出来ているという、一粒で三度も四度もおいしいお菓子のような、様々な魅力を備えている。それが人気の秘密ではないだろうか。

 さて、二作目となった本書では、「わたし」は〈カルルの慈〉艦長として、副官セイヴァーデンとともに茶の生産地である惑星アソエクへ向かう。と言っても、物語は惑星ではなく、ほとんどが一種の階層社会となっている宇宙ステーションで進む。「わたし」は、無人星系に続くゴースト・ゲートで行われている陰謀に気づき、それに巻き込まれていくが……。前作と違って、舞台が宇宙ステーションにほぼ限定されていて、そこが人工の世界であるという設定上、異質性があまり見られないことや、万能に近い権力と能力を持った「わたし」が弱きを助け強きをくじくという、水戸黄門的なストーリー展開が類型的に見えてしまうことを不満に思う方もいるだろうが、逆にその分、前作よりも読みやすくなっていることも事実である。また、シリーズを通してのテーマもよりくっきりと浮かび上がってきた。おそらく、それは「贖罪」である。帝国皇帝の分裂のきっかけがガルセッドでの原住民虐殺にあることは何度も示唆されているし、本書での「わたし」の行動の背後には、大切な人を殺してしまったことへの罪滅ぼしがある。人がどんどん死んでいくミリタリーSFでこんなことをテーマにしていたら、話が進まないし、ページがいくらあっても足りないだろうと思うのだが、その困難に敢えて立ち向かっているからこそ本シリーズは面白いのだ。完結編である三作目の刊行が楽しみである。