アルジス・バドリス『無頼の月』覚書2020-11-28 08:07

 先日行きつけの古本屋の店頭に「本の雑誌」のバックナンバーが並んでいた。そう言えば、「本の雑誌」に不定期連載の高橋良平「日本SF戦後出版史」がなかなか本にならないので、雑誌のバックナンバーを集めてでも読もうかと思い、これぐらいに始まったのかなと思って最初に手に取った1991年4月号が、連載第二回であった。おおなかなかいい勘していると自画自賛しながら、一回から揃えていくが、六回までに一冊足りない。1991年10月号だ。100号記念号なので、誰かがそれだけ購入していったのだろう。またネットで探すことになるなあ。こうしてまた不要不急の雑誌が増えていくのだった。

 さて、その最初に手にとった1991年4月号に、「同好の士、熱き一冊を語る!!」という特集があり、SFからは鏡明と黒丸尚が参加し、アルジス・バドリス『無頼の月』(1960年)について語っている。これが面白い。『無頼の月』とは、こんな話だ。月面で謎の建物が発見され、そこに入り込んだ調査員がすべて死んでしまう。どうすれば生き残れるかを探るため、発明されたばかりの物質転送機で次々と人間をコピーして送り込むが、みな死んでいく。最後はとうとう建物を通り抜けて終わるが、謎はまったく解かれないという異色な内容の長篇である。翻訳は〈SFマガジン〉に抄訳が連載されただけで、いまだに単行本化されていない。鏡明はかねてからこの長篇を偏愛しており、その理由として、「月の上に何かがあるって話が大体好きなんだ」と語っている。ホーガン『星を継ぐもの』も『2001年』も始まりはそこからだ。と、それはよいのだが、この対談では、話の最後、転送前のオリジナルがコピーに残したメッセージが明かされている。えっ、これを明かしてしまうのかと最初はびっくりした。たぶん、この対談以外でメッセージが語られたことはないのではないか。しかし、これを読んで、『無頼の月』を読んでみたいという気になったことは確かであり(実は、恥ずかしながら未読であった)、本書はミステリ風味ではあっても、純粋なミステリではないのだから、まあ、明らかにしてもよい範囲だろう。オリジナルは、「フォーゲット・ミー・ノット」というメッセージをコピーに残していたのだ。「私を忘れないで」。鏡明はこれを紹介して、本書を「ハードボイルドでロマンティックでファンタスティックな話」と絶賛するわけだ。

 早速、〈SFマガジン〉1961年8月号から11月号を積み上げ、一気に読んでみる。なるほど確かに面白い。建物内の異質さを表す描写もいいし、オリジナルの肉体が分解されて送信エネルギーのもとになり、受信側でコピーが作られるというアイディアも、当時はリアリティがあっただろう。コピーは、月面側と地球側と二つ作られ、二人は20分間だけリンクされ、意識が共有されるという設定も上手い(だから、建物の中で殺されるまでの記憶が地球側のコピーに残るのである)。さあ、いよいよ最後の場面だ。あれ? セリフが違う。「フォーゲット・ミー・ノット」じゃないぞ。似てはいるけれど、ちょっと違う。うーん、これは原文に当たってみるしかない。果して家にあっただろうか? 段ボール箱に詰めたペイパーバックの中にあったような気もする。リストを確認すると、ちゃんとある。しかも、ゴールド・メダル・ブックの初版(1960年)、表紙はリチャード・パワーズだ。最後を確認するが、やはり「フォーゲット・ミー・ノット」ではなく、〈SFマガジン〉の訳どおりの原文であった。鏡明の勘違いか、後の版で変更されたのか。まあ、どちらでもよい。『無頼の月』が傑作であることに変わりはないのだから。

 読み終えてよくわかったのだが、本書のテーマはずばり「記憶」である。月面の謎の建物は、それを際立たせるための添え物に過ぎない。人間の肉体が記録された情報どおりに再生されるのならば、その人のオリジナリティは肉体ではなく、蓄積された「記憶」にあることになる。ところが、肉体が二つ生じた場合、どちらの「記憶」が正しいのか、本人たちには知るすべがない。そして、複製された以後の記憶は別々になるので、彼らはどちらも別人であり、同時に同一人物であるという実に不安定な立場に置かれる。後に、この言わば「不安な複製」という問題は、クローンのアイデンティテイという主題へと変奏され、萩尾望都『A-A’』やジョン・ヴァーリイ『へびつかい座ホットライン』、そしてカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』といった傑作を産むことになるのだが、バドリス『無頼の月』は、この主題を先取りしていた作品と言えるのではないだろうか。本書の最後のセリフは、滅びる側が感じる気持ちと、残る側が感じる気持ちを、実に見事に掬い上げているのだ。

 バドリスは、不死となった人類を描いた短篇「夏の終わり」でも、テープに記憶を残しておける「記憶箱(メモリー・ヴォールト)」という小道具を効果的に使っていた。『アメリカ鉄仮面』もアイデンティティを扱った長篇であった。他の作品はどうなのか。未読のものをこれから読もうと思った。

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