アメリカ文学会シンポジウム2012-10-14 20:35

 椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授の長澤さんのお誘いで、弟とともに、名古屋大学で開かれている日本アメリカ文学会に行ってきた。もちろん自分は学会員でも何でもないわけだが、近年は開かれた学会を目指しているということで、学会員以外の参加も認められているようである。

 見学したシンポジウムのテーマは「音楽を通して読む〈前衛〉のアメリカ」。扱ったアーティストと担当は以下の通り。
1940年代のハリー・スミス(慶応大 大和田俊之)
50年代のポロックとケージ(横浜国立大学 中川克志)
60年代のフランク・ザッパ(愛知教育大学 久野陽一)
70年代~の〈アヴァン・ポップ〉(椙山女学園大学 長澤唯史)
 ほぼ年代順に個別の発表があり、最後にディスカッションという構成である。

 ハリー・スミスについては、アメリカのフォーク・ミュージック・アンソロジーの編者としてしか知らなかったが、実は人類学を学んだ研究者であり、実験映画も作成していたなど、様々な側面があったことがわかり大変興味深い発表であった。実験映画も見せていただいたが、ノーマン・マクレランがインド哲学を題材に撮ったらこうなるのではないかという感じのユニークなもので、なるほど彼の前衛性がよく伝わってきた。ボブ・ディランやザ・バンドが彼のフォーク・ミュージック・アンソロジーを手本にしたことから、勝手に保守的な規範としてのハリー・スミス像を創りあげてしまっていたことを深く反省。

 ポロックとケージについては、パフォーマンスを行うことによって絵画の音楽化を目指したポロックと、絵画よりも音楽を特権化していくケージとの比較を通じて、ケージの音楽の前衛性を見つめ直すというもの。表層的な類似ではあるがという限定つきで紹介されたケージの楽譜と視覚美術との類似が面白かった。

 ザッパについては、初期作品のいくつかを聴きながら、ザッパの特色を分析していく。ザッパの特色は、1 既存のもののパッチワークであり、2 録音芸術としての側面を持ち、3 人に嫌悪感を催すような音楽であるが、それらの背後には冷徹さ、強靭な理性が存在しているとの分析が紹介されていた。実は初期ザッパの前衛性は、音楽性にあるというよりは、「ミスター・アメリカよ、教えることをしないお前の学校のそばを歩け/到達できない精神のそばを歩け/お前の内側の空虚さのそばを歩け」という強烈なアメリカ批判をポピュラー・ミュージックの枠内でやってのけたことにこそあるわけで、せっかく歌詞をレジュメに載せてあるので、そちらからの分析があるともっとよかったのではないかと思わされた。

 アヴァン・ポップについては、前衛と伝統の対立そのものが内包されたシステムの中にいて、それでもなおラディカルに規範を破壊していく志向を持った作品というラリイの定義に従い、シャイナー『グリンプス』、ユージン・チャドボーンなどの作品やアーティストが紹介されていく。時間が足りずにスティーヴン・ライトの紹介まで行かなかったのが残念であったが、それでも真の前衛はもはや存在しない今、アヴァン・ポップの持つ意義は大変大きいものがあるということはよくわかった。

 ディスカッションを聞いて感じたのは、絶対的な「前衛」というものはそもそも存在しないということ。初期ザッパを今聴いて「前衛」でないと感じるのは当たり前というべきであって、それを言うなら、ケージの《ウィリアムズ・ミックス》を今聴いても少しも「前衛」的ではない(初めて聴いた自分は、何だビートルズ「リヴォルーションNo.9」のパクリではないかと思った)。むしろ、それぞれの作品を当時の文脈に置いたうえで、いかに前衛的であったかを語り、そこから有益な所見を引き出すべきであろう。
 何はともあれ、久しぶりに実に知的かつ刺激的な時間を過ごすことができた。声をかけていただいた長澤さんに深く感謝する次第である。

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