『ロボットとわたしの不思議な旅』ベッキー・チェンバーズ(2024年11月/創元SF文庫)2025-01-04 09:43

『ロボットとわたしの不思議な旅』ベッキー・チェンバーズ
 惑星モタンの衛星パンガの都市にあるメドウ・デン修道院で暮らす修道僧(シブリング)デックスは、コオロギの歌が聞こえるような場所で暮らしたいと思うようになり、修道院を出てワゴンに乗り、村から村をまわって喫茶奉仕を行う喫茶僧として活動するようになる。ある日、人間居住地域の外で、デックスは一体のロボットに出会う。パンガでは、〈別離の誓い〉以来、人間とロボットは別々の地域で暮らしており、人間とロボットが出会うのは〈誓い〉後、初めてのことだった。身長約二メートル、メタル・ボディにボックス形の頭を乗せたロボットはモスキャップと名乗り、人間がどのように暮らしているかを確認し、何を必要としているのかを知りたいと言う。かくして、ロボットはデックスをガイドにし、ロボットと人間、不思議な二人三脚(?)の旅が始まった……。

 古風な外見をしたロボットであるモスキャップが、本書では極めて魅力的に描かれている。意識を備えているが計算はのろく、ネットワーク化もされていない。人間には親しげに振る舞い、何かに夢中になると他のことは顧みない。料理を褒められ誇らしげに笑う。およそロボットらしくないロボットであり、何と言うか、実に人間的なのだ。本書はデックスとモスキャップの出会いを描く前篇と、モスキャップがデックスとともに村々を訪問する後篇と、二つの中篇から成っているが、全体を通して、ロボットがなぜ人間と袂を別ったのか、はっきりと描かれることはなく、あくまでも、ロボットと人間との関わりを一対一のコミュニケーションに絞って描いているところに特色がある。

 たとえば、前篇の最後で、生きる意味を見失い、落ち込んでいるデックスに対して、モスキャップは優しく真理を説き、逆に彼女を癒していく。また、後篇では、テクノロジーに対して恐怖を抱き、必要以上のテクノロジーを忌避する村落が登場するが、ここでも、主となるのは、村落全体対ロボットの対立ではなく、村落を代表する女性エイヴリーといっしょに釣りをして心を通わせるモスキャップの姿なのである。大自然の命の営みを大切に思い、自然の中で循環するロボットであるモスキャップたちと、テクノフォビアの村落との接点は間違いなく存在するのだ。ロボットと人間、両者を見つめるベッキー・チェンバーズの視点は限りなく優しく、慈しみに満ちている。

 また、衛星パンガの村落で使用されている貨幣の代替の仕組みが興味深い。人々は、何かをしてもらうと、ぺブ(デジタル・ペブルの略)という信頼の単位を差し出し、それを受け取った側はペブを蓄積して、それをまた誰か他の人に何かしてもらったときに使用するのだ。「ペブを使うやり取りの意味は、誰かの骨折りをちゃんと認めて、その人がコミュニティにもたらしてくれることに感謝するってこと」(216ページ)。この仕組みのうえでは、誰かに対して「骨折り」さえすれば、人間もロボットも等価な存在となる。

 本書の前篇を成す「緑のロボットへの讃歌」は2022年のヒューゴー賞を受賞しているが、2024年のヒューゴー賞受賞作のナオミ・クリッツァー「陽の光が届かなくなった年」(〈SFマガジン〉2025年2月号)などと合わせて読むと、近年のアメリカSFの傾向が見えてくる。コロナ禍並びに格差と分断にさらされた現代アメリカ社会の緊張を反映してのことだと思われるが、信頼と協調を軸とした共同体への期待が重きを成している。テクノロジー重視が行きついた先の環境破壊を経ての、古き良き自然への回帰。ただし、それは単純な自然ではなく、テクノロジーを用いたバランスのとれた「新しい自然」と言うべきものだ。この流れが当分は続くのか、変化していくのか、注目して見ていきたい。

『ミネルヴァ計画』ジェイムズ・P・ホーガン(創元SF文庫/2024年12月)2024-12-25 15:09

『ミネルヴァ計画』ジェイムズ・P・ホーガン
 2005年に刊行された〈星を継ぐもの〉シリーズ最終巻がようやく翻訳された。イギリスでは1977年から1981年にかけて最初の三部作が刊行され、10年の空白を経て1991年に第四作が、さらに14年後に本書が刊行されてシリーズ完結となった。28年かけて完結したことになり、変わらぬ人気と作者のシリーズへの愛着ぶりがうかがえる。日本では本書の翻訳が遅れたこともあり、1980年の1作目翻訳から数えて44年目の完結となった。最初から読んできた読者にとっては、さぞかし感慨深いものがあるのではないだろうか。個人的なことになるが、私も第一作を高校の授業中に読み耽ってその面白さにとりつかれて以来、シリーズはすべて(文句を言いながらも)読み続けてきた。シリーズの主役、物理学者ハントと生物学者ダンチェッカーの名前を見ると、なじみ深い叔父さんに会ったような気になる。もはや彼らの年齢を追い越して、同僚か友人の域に達しているが、それでも彼らは「親しみ深く、頑固な叔父さん」のままなのだ。

 本シリーズは、最初の三部作で物語が円環構造を成して見事に完結しており、後はどうしても落穂拾いになってしまう。物語や主役は一貫しているが、趣向はそれぞれ異なっているところにシリーズの特色があるので、それぞれ別物だと思って読んだ方が楽しめるだろう。本書は久しぶりの刊行ということもあって、プロローグや年表で、これまでの物語を振り返ることができようになっている。今までシリーズを読んできた読者であれば、読み返さずとも物語に入っていけると思うが、一応ここでは簡単に振り返っておきたい。

 第一作『星を継ぐもの』はSFミステリの傑作だ。2027年、月面で宇宙服を着た死体が発見される。人類と同じ構造をもった死体は五万年前のものであることがわかり、なぜそんな昔に人類が月面に到達していたのかという謎が論理的に鮮やかに解かれていく。第二作『ガニメデの優しい巨人』は、2500万年前に太陽系で繁栄していたガニメアンという異星人が、時を超えて太陽系に出現するファースト・コンタクトものの形をとっている。なぜ彼らはいなくなってしまったのかという謎が第一作の謎と結びつき、次作へとつながっていく。第三作『巨人たちの星』で、ほぼすべての謎は解かれるが、後半では、時空を超える驚きや異星人との遭遇がもたらす新鮮さはなくなり、主人公らが悪役ジェヴレン人と戦うという既成のスパイ謀略ものと変わらぬ物語が展開されていく。第四作『内なる宇宙』は、仮想空間での冒険が主となり、ハントとダンチェッカーに会えるという以外のシリーズらしさはより薄れている。なお、二作目から登場する異星人が開発した人工知能(ゾラック、ヴィザー)のアーキテクチャーが現在のAIに通じるものとして描かれていることは特筆すべき点だろう。コンピュータ・エンジニアとしてのホーガンの面目躍如といったところだ。

 さて、第五作の本書では、前半で、主人公らがテューリアン(ガニメアンと同種族)の星へ行き、様々な体験をする中で語られる独自のマルチヴァース理論が主眼となる。これが延々300ページ続くので、読者としては少々しんどいが、ここには多元宇宙を描く以上は徹底的に理論を詰めておかないと気が済まないハードSF作家としてのホーガンらしさがよく出ていると言えよう。前半でむしろ面白いのは、ダンチェッカーの従妹ミルドレッドがテューリアンと交わす人間論、社会論である。彼女は、歴史上の高名なる君主や征服者たちは最悪の盗人であり悪党であると考え、あらゆる面で効率を追求することに関しては優秀だが「健全で正常な文化の基盤となるべき人間の価値というものに対する情緒的能力や感受性が欠如している」(157ページ)と述べ、競争心をもたないテューリアンの共感を得る。人間の暴力性は生来性の欠陥なのか、後からジェヴレン人によってもたらされた後天的なものなのかという問いかけは本書を貫く重要なテーマでもある。
物語の後半は、ようやく舞台がミネルヴァに移り、三作目同様の悪役ジェヴレン人との戦いがテンポよく描かれていく。マルチヴァースと言いながらも、主人公らの世界は固定されているので、結局は二つの世界の話になってしまい、悪が滅びるカタルシスは味わえるものの、世界の広がりという点ではSF的な発展があまり見られずに物語が終幕を迎えるのはいささか残念である。前半のマルチヴァース理論の面白さが、後半のシンプルな物語であまり生かされていないという批判は当然生じるであろう。しかし、ホーガンが本シリーズで描き続けたのは、欠陥を備えたままの人間らしさへの讃歌であった。その意味では、本書は、実にホーガンらしい作品であり、完結編にふさわしいとも言えるだろう。

 2010年にホーガンが亡くなってからも既に14年が過ぎた。これ以上の続編は望むべくもない。あとは、シリーズを繰り返し読んで、彼が描いた未来と彼亡き後の現在について考えることがせめてもの供養である。ホーガンの遺産は読者が継がなければならないのだ。

岐阜ミステリ読書会二次会レポート(陸秋槎さんとのSF談義)2024-12-17 09:46

 12月14日(土)に岐阜の生涯学習センターで行われたミステリ読書会にお邪魔してきた。課題本は陸秋槎『喪服の似合う少女』で、何と作者ご本人が参加する読書会である。今まで翻訳者が参加された読書会は何度も経験してきたが、作者本人というのは初めてだ。今年になって、2023年に刊行された氏のSF短篇集『ガーンズバック変換』を読み、とても面白かったので、作者に会えるのならと、門外漢を承知で参加してきた次第。直前になって、翻訳家の柿沼瑛子さんも参加されることがわかり、また、ロス・マクドナルドに関する貴重な資料が柿沼さんから参加者に配布される、など実に贅沢な読書会であった。本会については、ミステリ初心者なため、詳細な報告は他の人に譲るが、二次会、三次会で他の参加者とともに陸さんご本人と話すことができ、SFの話がたくさんできたので、それを書き記しておく。

 陸さんは本当に博識で頭の回転が速く、どんな話題を投げても打ち返すことができる凄い人であった。印象に残った話をいくつか記しておく。

 奥様は考古学の研究者でいらっしゃって、瓦の研究をしておられる。先輩の教授から「(瓦のような地味なものではなく)もっと美しいものを研究しないと」と言われて、家で奥さんが怒っていたという話を陸さんがされたので、こちらは「ああ、女性は美を追い求めるべきだというアンコンシャス・バイアスですね」と返したら、「いや、瓦自体が美しいということです」と言われ、なるほどそうかと納得した。「『火の鳥』にもそういう話があるでしょう」と陸さんに言われて、驚いた。当然、茜丸と我王が瓦対決をする鳳凰編のことなのだが、これを中国の若い方が知っているということにびっくりしたのである。中国では手塚治虫も読めるんだなあと感心していたら(当たり前か)、何でもありというわけではなく、たとえば「××編」は内容的に問題があり、中国では出版されないだろうとのこと。

 中国では1990年代に「人体科学」のブームがあり、超能力が盛んに研究され信じられたが、結局実際にテレパシーやテレポーテーションの実在は証明できず下火となり、超能力を語ることはカルト宗教を信じることのように胡散臭いものと思われてしまった。その影響か、SFのサブジャンルとして超能力ものはあまり読まれていない。筒井康隆の《七瀬もの》は知られておらず、『虎よ、虎よ!』も人気はないとのこと。

 これはどこかで聞いたことがあった話だが、中国ではサイバーパンクと言えば、ウィリアム・ギブスンではなく、ヴァーナー・ヴィンジであり、ヴィンジは大変人気があるとのこと。ロス・マクとマーガレット・ミラーを連想して、日本では奥さんのジョーン・D・ヴィンジの方が人気がありますよと思わず言ってしまったが、これは間違っていたような気がする(笑)。

 中国では、ハインラインは『夏への扉』と『異星の客』のように、作品に違いがあり過ぎるので、あまり人気がない。

 陸さんに「一番好きな作家は何ですか」と聞かれ、つい「ディレーニイ」と答えてしまったが、ディレーニイは中国では「バベル17」が知られているぐらいであまり人気がないようだった。アメリカン・ニュー・ウェーブの話も少しする。ハーラン・エリスンは「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」が中国語に訳されており、一冊短篇集を出す話もあったのだが、実現していないとのこと。

 劉慈欣と馬伯傭は天才である。今度日本でも翻訳される馬伯傭『西遊記事変』は、とても面白いそうだ。

 自分は『ガーンズバック変換』に収められた「色のない緑」がすごく好きなので、その話を振ったら、AIの機械翻訳についてはもうすべて実現してしまったと卑下されるような感じで言われたのが意外だった。陸さんが原稿を知り合いの専門家に見せたときに、論文の査読をAIがする時代は来ないと言われたが、実際にはもう既にそれは実現されてしまった、と。確かにそうなのだろう。しかし、たとえそうであったとしても、作品の面白さはいささかも減じられることはないと強く言ったのだが、うまく伝えられたかどうか。SFは決して未来予測ではなく、しかも、この話の主眼は「色のない緑の思考は猛烈に眠る」という意味を持たない文を成立させてしまったコンテクストの皮肉さ=運命の不可思議さと、自殺した女性研究者と主人公との心の触れ合いにあるわけなので、機械翻訳が作品内で描いたレベルを超えようが、液体ハードディスクが実現しようが、その面白さは変わるものではないと思う。

 やはり『ガーンズバック変換』に収められた「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」は、小島秀夫「メタルギア・ソリッド」へのオマージュである。「固い蛇」をテーマとした奇想小説なのだが、これはソリッドな「スネーク」(「メタルギア・ソリッド」の主人公)なのだ。自分はまったく気づいておらず、聞いたとき思わず膝を叩いて笑ってしまった。

 陸さんの誕生日は11月25日。三島由紀夫が自決した日である。三島については、《豊饒の海》が面白いとのこと。

 他にも様々な話をしたが、とにかくSFについても知らないことはない、ミステリ、SF、サブカルチャー、何でもござれの博覧強記ぶりは、どこか殊能将之を思わせるところもあり、感嘆した次第。

 ミステリ読書会で、二次会、三次会とはいえ、あまりミステリの話をせず、SFの話ばかりして申し訳ありませんでした。が、おかげさまで楽しい時間を過ごすことができました。主催者の方、参加された皆様、どうもありがとうございました!

『歌う船[完全版]』アン・マキャフリー(創元SF文庫)2024-10-09 15:26

『歌う船[完全版]』アン・マキャフリー(創元SF文庫)
 本書は、アン・マキャフリイのSF代表作の一つで、原著は雑誌掲載の連作をまとめて1969年に刊行された。邦訳は1984年に刊行されており、90年代には他作家との共作の形での続編が発表され、邦訳されている。アメリカでも日本でも人気の高いシリーズである。今回の新訳では、旧版に、後に書かれた続編2つを加えた完全版となっている。

 中央諸世界と呼ばれる未来の権力機構が、そのままでは生きていけない病弱の子どもや障害を抱えた子どもを宇宙船に接続する形で生き延びさせ(彼らは「頭脳」と呼ばれる)る。「頭脳」は宇宙船を操縦し、特殊な訓練を受けた乗員(「筋肉」と呼ばれる)と協働して様々な任務にあたるという物語だ。

 機械工学の粋を集めた宇宙船と生きた人間とを神経接続するマン=マシン・インターフェース、強靭な殻に包まれたひ弱な肉体というイメージは、後のティプトリーやヴァーリイら70年代作家、ひいては80年代のサイバーパンクにまで影響を与えたという点で大いに評価すべきだろう。しかし、肝心の駆動系の詳細、内部の人間が宇宙空間をどう感じるのかという具体的な描写はほとんどなく、ハードSF的な面では物足りない。超光速航行が実現していて、その理屈も少し描かれているのだが、煙に巻かれた印象は否めない。本書の面白さはむしろ、感情豊かで歌が得意、シェイクスピアの戯曲や詩の一節を巧みに引用する女性ヘルヴァが、宇宙船と一体になり人間の相棒を乗せて大いに宇宙で活躍するという極めて人間的な魅力を放っているところにあると言える。

 ヘルヴァは、初めて組んだ男性ジェナンを皮切りに、何人もの「筋肉」を船に乗せていく。男性もおり、女性もいる。事故で相棒が死亡したり(「船は歌った」)、相性の問題があったり(「船は欺いた」)と事情はいろいろだが、基本的に機械と一体になったヘルヴァの寿命は数百年と長く、人間の相棒の命が先に尽きる宿命なのだ。最終的に、ヘルヴァは気持ちが通じ合い、思ったことを何でも遠慮せずに言い合える男性ナイアルと出会い、長く暮らすことになるが(「船はパートナーを持った」)、初めての相手ジェナンを忘れることはない。このあたりの心理描写は、何人もの男との遍歴を辿る女性のロマンス作品とほぼ同じで、本書の人気を支える一端となっている。本シリーズ正編は、ジェナンが命を賭けて救った惑星クロエの人々を、今度はヘルヴァが救うことになる「船は還った」で幕を閉じる。円環構造を成す構成が実に見事で、この後ヘルヴァの物語を作者が一切描かなかったのももっともだと思われる(シリーズ続編はすべて違う主人公の物語となっている)。何をどう書いても蛇足となってしまうだろう。英米には続編2つを加えた版はないようなので、この完全版を読める日本の読者は大変幸せだ。

 集中最も長い中篇「劇的任務」は、からす座β第六惑星の住人(クラゲそっくり)に向けてシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を演じるために、ヘルヴァが一座を乗せていく物語だが、住人に精神転移して劇を演じる点に斬新さがあり、単独でヒューゴー賞候補となるなど、高い評価を得た。ただし、船のパートナーは登場せず、他の作品と異なる趣があるため、シリーズものとしては賛否両論があるだろう。ここでは、ヘルヴァも乳母役として劇に登場しており、芸達者なところを見せている。他にも、ネジの頭に「最後の晩餐」を転写してみせるなど、ヘルヴァの芸術的才能は豊かで、とりわけ歌の力は強く、「船は欺いた」では、狂人を殺してしまうほどのパワーを示していた。三作目「船は殺した」では、音楽を武器にして社会に抗議するディラン主義者が登場しており、1960年代末という時代性を強く感じさせている。

 さらに、テクノロジーにはお金がかかるという事実を踏まえ、ヘルヴァたち「頭脳」は船と接続されたときから中央諸世界に債務があり、任務をこなすことによって債務を返済していくという極めて資本主義的リアリズムに満ちた設定もあり、これはヴァーリイ「ブルー・シャンペン」へとつながっていく先駆的な視点であったと思われる。

 総じて読みやすく、感情を揺さぶられ、豊かな読書体験を保証してくれる作品だ。SF的な要素を強く漂わせながらも、描写の空白によりかえって想像力をかきたてられる、そんな読み方もあっていい。何はともあれ、ヒューマニティ溢れるSFのクラシックとして読み継がれるべき傑作である。

『ビブリオフォリア・ラプソディ』高野史緒(2024年5月/講談社)2024-08-31 12:13

 本にまつわる話を5篇収録した短篇集。趣はそれぞれ異なっているが、どの短篇も書籍への思いが溢れるほど詰め込まれ、読み応えがある。とりわけ、冒頭の「ハンノキのある島で」は、本の出版に制限のかかった近未来において、地方都市へ帰郷した中年の女性作家の日常を淡々と描きながら 本の未来についての真剣な考察に踏み入っていく傑作で、強い印象を残す。

 新刊の寿命が六年と限られ、保存書籍指定のないものは全て廃棄すると定めた「読書法」が施行された近未来。どうやって六年後に廃棄されるのかというと、四年から六年の間に完全分解するインクで印刷されているのだ。「読書法」によって、聖書、神話、シェイクスピアやドストエフスキーなどの古典は保存されるが、ミステリで言えば、施行後に残されたのはコナン・ドイルやクリスティの数冊だけであり、クイーンもディクスン・カーも残らない。SFに至っては、はっきりとは書かれていないが、アシモフの代表作は残るようなので、おそらくそれだけだろう(それが《黒後家蜘蛛》シリーズだったらSFは何も残らないことになるし、《ファウンデーション》だとしたら大変な皮肉である)。電子データは残されているのだが、国家の厳重な管理の基に置かれ、一般庶民は触れることができない。意外にもこの法律は、過去の作品と常に比較されてしまうクリエイターからの支持と、過去の読むべき本に翻弄される読者からの支持を得て、成立してしまうのだ。なるほど、作家の側からすると、せっかく良いアイデアを思いついても、過去にあったと言われてしまう危険を回避できるわけで、それなりのメリットがある。読者としても、本が置けないので新刊が買えないというデメリットから解放される。いいこと尽くめだ。って、ちょっと待った。それはやはり短絡的な考えであって、クイーンやカーにはクリスティにはない魅力があるわけだし、確かにドストエフスキーの偉大さにはかなわないかもしれないが、ハインラインにもクラークにも見るべき点はあるだろうし、ディックやヴォネガットやバラードやディレーニイやゼラズニイやウルフやプリーストのない世界ってつまらないのではないだろうか。と思った人がやはり(少数ながら)いたのだろう。「読書法」への反対運動は(少数ながら)存在した。
 主人公の夫は、書籍の電子データを他のデータ上に拡散させるなどの違法活動に関わった罪で投獄されている。主人公の従兄弟四郎(別の短篇では主役となっている)の娘は、激烈な反対運動の末に自ら命を絶ってしまう。こうした反対派に囲まれて自らも反対の側にいる主人公の女性作家、久子の立ち位置は揺らいでいる。彼女は「読書法」の中で作家活動を続け、発禁処分を受けながらも書き続けていく。実作者として、制限付きではあっても書きたいものを書き、それが読者に読まれることを何より大切に思っているからだ。また、「読書法」成立以前から電子書籍には賛成の立場をとっている。つまり、紙の書籍にこだわることへの批判的な視座が彼女にはもともとあり、これはどちらかというと「読書法」側に近い。「読書法」が施行される前の「のどかな時代」(すなわち現代)に行われた国際会議において、久子は、もはや本好きの庶民ほど収納の限界に達しているのが現実だと説き、「庶民の狭い家に娯楽としての書籍が何千冊、何万冊もあるという事態は、人類史上初めてのことです」と語る。「小説が娯楽として売れ、小説を書いたらカネになるという事態そのものが、歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事だったのではないかと思うのです」と。なるほど、これは鋭い指摘であって、過去にない事態が勃発しているわけだ。ここには、明らかに書籍が売れなくなってきた現代への警鐘があり、また、今後どうしていけば本が残っていくのかを考えるための前提が示されている。本をめぐる旧来のシステムが限界に達しているとの認識から始めようということだ。だからと言って、もちろん「読書法」が最適の解答であるとは思えない。作中では、ブラッドベリ『華氏451度』を思わせる解決法も提示されるが、うまく行かない。では、いったい、どうすればいいのか。
 作者の狙いの一つには、極端なシチュエーションを設定することによって、読者に本をめぐる困難な状況とその解決法をともに考えてほしいという願いがあると思われるが、それは見事に成功している。もう一つの狙いとして、「歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事」へのノスタルジイもあると思われるが、これも見事に成功している。主人公と同世代の本好きならば、誰もが心に自分なりの「共栄堂書店」を持っているだろう。主人公は最後に「ハンノキのある島」へと希望を託すのだが、読み終えた人が本好きであればあるほど、この希望を実現するにはどうすればいいかを考えざるを得ない。かく言う私もまた、自宅の本の山に囲まれ、途方に暮れながらも、考え続けていきたい。

 いかん、一作に紙数を取り過ぎた。残りは簡単に紹介していく。「バベルより遠く離れて」は、想像力に富んだ言語である南チナ語の日本で唯一の翻訳者である主人公が、日本語の言霊で呪いを書きこまれ、それを解くために日本にやって来たフィンランド人と出会い、その呪いを解く方法を思いつく話。南シナとは何の関係もない、ユニークな言語である南チナ語が面白い。風を表す語が四十六もあったり、著名な作家の名がチャツネ・キムチ・メシウマであったり、学者が大真面目な顔つきでシャレを言うようなギャップのあるおかしさが漂っている。
 「木曜日のルリユール」は、辛口の評論家として知られる主人公、森祐樹が、かつて自分が学生時代に執筆した『木曜日のルリユール』という作品が本屋に並んでいるのを見つけ、衝撃を受ける場面から始まる。ペンネームの一之森樹も、本の装幀も自分が考えていたとおり。内容も自分が書いたとおりだ。いったい、誰がどうやって出版したのか。祐樹は学生時代を過ごしたマンションを訪れ、そこで一人の男に出会う……。ドッペルゲンガーものの変奏曲として面白く読むことができた。祐樹が男との口論の過程で、本心を吐露する場面には心打たれるものがある。
 「詩人になれますように」は、主人公である女子高生の詠美が、祖母からもらった勾玉に願いをかける話。祖母からは、二つの願いを叶えることができると聞き、彼女は詩人になりたいという願いをかける。すぐに祖母は亡くなったが、詠美は大学生のうちに詩集を二冊刊行し、どちらもベストセラーとなった。しかし、その後十一年ものスランプがあり、今では地方のOLとなって冴えない日々を過ごしている。久しぶりに祖母の勾玉を見つけた詠美は二つ目の願いをかけるが……。詩が書けなくなった主人公の焦燥と絶望がリアルに伝わってきて、しんどい気持ちにさせられるだけに、明るい結末に救われた気がした。集中もっとも感動させられた作品である。
 「本の泉 泉の本」は〈SFマガジン〉掲載時に読んでいるが、こうして集中の最後に置かれると、また格別な趣がある。本好きの二人、ずんぐりした四郎とほっそりした敬彦のコンビが、広大な古書店(十階まである!)で、本を眺め解説を挟みながら次々と引き抜いていくという、それだけの話ではあるのだが、これがべらぼうに面白い。すべて架空の本と思われるが、タイトル、あらすじ、ディテールに至るまで、本当にありそうな趣向が凝らされており、この古書店は、特に昭和のミステリ、SFファンにとっては夢のような空間なのである。よくもまあ、ここまで考え付いたものだと感心させられる。二人のうち片方が本の山に消えてしまう結末には、モデルとなった故Hさんへの想いが込められているようで、感慨深いものがあった。

 以上五篇、どれも読んで損なしの傑作ばかり。作家、翻訳者、書評家、詩人、編集者と主役の職業もすべて違い、バラエティに富んでいるのもうれしい趣向だ。本好きなあなたなら、ぜひ手元に置いて何度も読み返すに足る、愛すべき作品集である。