『ロボットとわたしの不思議な旅』ベッキー・チェンバーズ(2024年11月/創元SF文庫) ― 2025-01-04 09:43
惑星モタンの衛星パンガの都市にあるメドウ・デン修道院で暮らす修道僧(シブリング)デックスは、コオロギの歌が聞こえるような場所で暮らしたいと思うようになり、修道院を出てワゴンに乗り、村から村をまわって喫茶奉仕を行う喫茶僧として活動するようになる。ある日、人間居住地域の外で、デックスは一体のロボットに出会う。パンガでは、〈別離の誓い〉以来、人間とロボットは別々の地域で暮らしており、人間とロボットが出会うのは〈誓い〉後、初めてのことだった。身長約二メートル、メタル・ボディにボックス形の頭を乗せたロボットはモスキャップと名乗り、人間がどのように暮らしているかを確認し、何を必要としているのかを知りたいと言う。かくして、ロボットはデックスをガイドにし、ロボットと人間、不思議な二人三脚(?)の旅が始まった……。
古風な外見をしたロボットであるモスキャップが、本書では極めて魅力的に描かれている。意識を備えているが計算はのろく、ネットワーク化もされていない。人間には親しげに振る舞い、何かに夢中になると他のことは顧みない。料理を褒められ誇らしげに笑う。およそロボットらしくないロボットであり、何と言うか、実に人間的なのだ。本書はデックスとモスキャップの出会いを描く前篇と、モスキャップがデックスとともに村々を訪問する後篇と、二つの中篇から成っているが、全体を通して、ロボットがなぜ人間と袂を別ったのか、はっきりと描かれることはなく、あくまでも、ロボットと人間との関わりを一対一のコミュニケーションに絞って描いているところに特色がある。
たとえば、前篇の最後で、生きる意味を見失い、落ち込んでいるデックスに対して、モスキャップは優しく真理を説き、逆に彼女を癒していく。また、後篇では、テクノロジーに対して恐怖を抱き、必要以上のテクノロジーを忌避する村落が登場するが、ここでも、主となるのは、村落全体対ロボットの対立ではなく、村落を代表する女性エイヴリーといっしょに釣りをして心を通わせるモスキャップの姿なのである。大自然の命の営みを大切に思い、自然の中で循環するロボットであるモスキャップたちと、テクノフォビアの村落との接点は間違いなく存在するのだ。ロボットと人間、両者を見つめるベッキー・チェンバーズの視点は限りなく優しく、慈しみに満ちている。
また、衛星パンガの村落で使用されている貨幣の代替の仕組みが興味深い。人々は、何かをしてもらうと、ぺブ(デジタル・ペブルの略)という信頼の単位を差し出し、それを受け取った側はペブを蓄積して、それをまた誰か他の人に何かしてもらったときに使用するのだ。「ペブを使うやり取りの意味は、誰かの骨折りをちゃんと認めて、その人がコミュニティにもたらしてくれることに感謝するってこと」(216ページ)。この仕組みのうえでは、誰かに対して「骨折り」さえすれば、人間もロボットも等価な存在となる。
本書の前篇を成す「緑のロボットへの讃歌」は2022年のヒューゴー賞を受賞しているが、2024年のヒューゴー賞受賞作のナオミ・クリッツァー「陽の光が届かなくなった年」(〈SFマガジン〉2025年2月号)などと合わせて読むと、近年のアメリカSFの傾向が見えてくる。コロナ禍並びに格差と分断にさらされた現代アメリカ社会の緊張を反映してのことだと思われるが、信頼と協調を軸とした共同体への期待が重きを成している。テクノロジー重視が行きついた先の環境破壊を経ての、古き良き自然への回帰。ただし、それは単純な自然ではなく、テクノロジーを用いたバランスのとれた「新しい自然」と言うべきものだ。この流れが当分は続くのか、変化していくのか、注目して見ていきたい。
古風な外見をしたロボットであるモスキャップが、本書では極めて魅力的に描かれている。意識を備えているが計算はのろく、ネットワーク化もされていない。人間には親しげに振る舞い、何かに夢中になると他のことは顧みない。料理を褒められ誇らしげに笑う。およそロボットらしくないロボットであり、何と言うか、実に人間的なのだ。本書はデックスとモスキャップの出会いを描く前篇と、モスキャップがデックスとともに村々を訪問する後篇と、二つの中篇から成っているが、全体を通して、ロボットがなぜ人間と袂を別ったのか、はっきりと描かれることはなく、あくまでも、ロボットと人間との関わりを一対一のコミュニケーションに絞って描いているところに特色がある。
たとえば、前篇の最後で、生きる意味を見失い、落ち込んでいるデックスに対して、モスキャップは優しく真理を説き、逆に彼女を癒していく。また、後篇では、テクノロジーに対して恐怖を抱き、必要以上のテクノロジーを忌避する村落が登場するが、ここでも、主となるのは、村落全体対ロボットの対立ではなく、村落を代表する女性エイヴリーといっしょに釣りをして心を通わせるモスキャップの姿なのである。大自然の命の営みを大切に思い、自然の中で循環するロボットであるモスキャップたちと、テクノフォビアの村落との接点は間違いなく存在するのだ。ロボットと人間、両者を見つめるベッキー・チェンバーズの視点は限りなく優しく、慈しみに満ちている。
また、衛星パンガの村落で使用されている貨幣の代替の仕組みが興味深い。人々は、何かをしてもらうと、ぺブ(デジタル・ペブルの略)という信頼の単位を差し出し、それを受け取った側はペブを蓄積して、それをまた誰か他の人に何かしてもらったときに使用するのだ。「ペブを使うやり取りの意味は、誰かの骨折りをちゃんと認めて、その人がコミュニティにもたらしてくれることに感謝するってこと」(216ページ)。この仕組みのうえでは、誰かに対して「骨折り」さえすれば、人間もロボットも等価な存在となる。
本書の前篇を成す「緑のロボットへの讃歌」は2022年のヒューゴー賞を受賞しているが、2024年のヒューゴー賞受賞作のナオミ・クリッツァー「陽の光が届かなくなった年」(〈SFマガジン〉2025年2月号)などと合わせて読むと、近年のアメリカSFの傾向が見えてくる。コロナ禍並びに格差と分断にさらされた現代アメリカ社会の緊張を反映してのことだと思われるが、信頼と協調を軸とした共同体への期待が重きを成している。テクノロジー重視が行きついた先の環境破壊を経ての、古き良き自然への回帰。ただし、それは単純な自然ではなく、テクノロジーを用いたバランスのとれた「新しい自然」と言うべきものだ。この流れが当分は続くのか、変化していくのか、注目して見ていきたい。
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