『ミネルヴァ計画』ジェイムズ・P・ホーガン(創元SF文庫/2024年12月) ― 2024-12-25 15:09
2005年に刊行された〈星を継ぐもの〉シリーズ最終巻がようやく翻訳された。イギリスでは1977年から1981年にかけて最初の三部作が刊行され、10年の空白を経て1991年に第四作が、さらに14年後に本書が刊行されてシリーズ完結となった。28年かけて完結したことになり、変わらぬ人気と作者のシリーズへの愛着ぶりがうかがえる。日本では本書の翻訳が遅れたこともあり、1980年の1作目翻訳から数えて44年目の完結となった。最初から読んできた読者にとっては、さぞかし感慨深いものがあるのではないだろうか。個人的なことになるが、私も第一作を高校の授業中に読み耽ってその面白さにとりつかれて以来、シリーズはすべて(文句を言いながらも)読み続けてきた。シリーズの主役、物理学者ハントと生物学者ダンチェッカーの名前を見ると、なじみ深い叔父さんに会ったような気になる。もはや彼らの年齢を追い越して、同僚か友人の域に達しているが、それでも彼らは「親しみ深く、頑固な叔父さん」のままなのだ。
本シリーズは、最初の三部作で物語が円環構造を成して見事に完結しており、後はどうしても落穂拾いになってしまう。物語や主役は一貫しているが、趣向はそれぞれ異なっているところにシリーズの特色があるので、それぞれ別物だと思って読んだ方が楽しめるだろう。本書は久しぶりの刊行ということもあって、プロローグや年表で、これまでの物語を振り返ることができようになっている。今までシリーズを読んできた読者であれば、読み返さずとも物語に入っていけると思うが、一応ここでは簡単に振り返っておきたい。
第一作『星を継ぐもの』はSFミステリの傑作だ。2027年、月面で宇宙服を着た死体が発見される。人類と同じ構造をもった死体は五万年前のものであることがわかり、なぜそんな昔に人類が月面に到達していたのかという謎が論理的に鮮やかに解かれていく。第二作『ガニメデの優しい巨人』は、2500万年前に太陽系で繁栄していたガニメアンという異星人が、時を超えて太陽系に出現するファースト・コンタクトものの形をとっている。なぜ彼らはいなくなってしまったのかという謎が第一作の謎と結びつき、次作へとつながっていく。第三作『巨人たちの星』で、ほぼすべての謎は解かれるが、後半では、時空を超える驚きや異星人との遭遇がもたらす新鮮さはなくなり、主人公らが悪役ジェヴレン人と戦うという既成のスパイ謀略ものと変わらぬ物語が展開されていく。第四作『内なる宇宙』は、仮想空間での冒険が主となり、ハントとダンチェッカーに会えるという以外のシリーズらしさはより薄れている。なお、二作目から登場する異星人が開発した人工知能(ゾラック、ヴィザー)のアーキテクチャーが現在のAIに通じるものとして描かれていることは特筆すべき点だろう。コンピュータ・エンジニアとしてのホーガンの面目躍如といったところだ。
さて、第五作の本書では、前半で、主人公らがテューリアン(ガニメアンと同種族)の星へ行き、様々な体験をする中で語られる独自のマルチヴァース理論が主眼となる。これが延々300ページ続くので、読者としては少々しんどいが、ここには多元宇宙を描く以上は徹底的に理論を詰めておかないと気が済まないハードSF作家としてのホーガンらしさがよく出ていると言えよう。前半でむしろ面白いのは、ダンチェッカーの従妹ミルドレッドがテューリアンと交わす人間論、社会論である。彼女は、歴史上の高名なる君主や征服者たちは最悪の盗人であり悪党であると考え、あらゆる面で効率を追求することに関しては優秀だが「健全で正常な文化の基盤となるべき人間の価値というものに対する情緒的能力や感受性が欠如している」(157ページ)と述べ、競争心をもたないテューリアンの共感を得る。人間の暴力性は生来性の欠陥なのか、後からジェヴレン人によってもたらされた後天的なものなのかという問いかけは本書を貫く重要なテーマでもある。
物語の後半は、ようやく舞台がミネルヴァに移り、三作目同様の悪役ジェヴレン人との戦いがテンポよく描かれていく。マルチヴァースと言いながらも、主人公らの世界は固定されているので、結局は二つの世界の話になってしまい、悪が滅びるカタルシスは味わえるものの、世界の広がりという点ではSF的な発展があまり見られずに物語が終幕を迎えるのはいささか残念である。前半のマルチヴァース理論の面白さが、後半のシンプルな物語であまり生かされていないという批判は当然生じるであろう。しかし、ホーガンが本シリーズで描き続けたのは、欠陥を備えたままの人間らしさへの讃歌であった。その意味では、本書は、実にホーガンらしい作品であり、完結編にふさわしいとも言えるだろう。
2010年にホーガンが亡くなってからも既に14年が過ぎた。これ以上の続編は望むべくもない。あとは、シリーズを繰り返し読んで、彼が描いた未来と彼亡き後の現在について考えることがせめてもの供養である。ホーガンの遺産は読者が継がなければならないのだ。
本シリーズは、最初の三部作で物語が円環構造を成して見事に完結しており、後はどうしても落穂拾いになってしまう。物語や主役は一貫しているが、趣向はそれぞれ異なっているところにシリーズの特色があるので、それぞれ別物だと思って読んだ方が楽しめるだろう。本書は久しぶりの刊行ということもあって、プロローグや年表で、これまでの物語を振り返ることができようになっている。今までシリーズを読んできた読者であれば、読み返さずとも物語に入っていけると思うが、一応ここでは簡単に振り返っておきたい。
第一作『星を継ぐもの』はSFミステリの傑作だ。2027年、月面で宇宙服を着た死体が発見される。人類と同じ構造をもった死体は五万年前のものであることがわかり、なぜそんな昔に人類が月面に到達していたのかという謎が論理的に鮮やかに解かれていく。第二作『ガニメデの優しい巨人』は、2500万年前に太陽系で繁栄していたガニメアンという異星人が、時を超えて太陽系に出現するファースト・コンタクトものの形をとっている。なぜ彼らはいなくなってしまったのかという謎が第一作の謎と結びつき、次作へとつながっていく。第三作『巨人たちの星』で、ほぼすべての謎は解かれるが、後半では、時空を超える驚きや異星人との遭遇がもたらす新鮮さはなくなり、主人公らが悪役ジェヴレン人と戦うという既成のスパイ謀略ものと変わらぬ物語が展開されていく。第四作『内なる宇宙』は、仮想空間での冒険が主となり、ハントとダンチェッカーに会えるという以外のシリーズらしさはより薄れている。なお、二作目から登場する異星人が開発した人工知能(ゾラック、ヴィザー)のアーキテクチャーが現在のAIに通じるものとして描かれていることは特筆すべき点だろう。コンピュータ・エンジニアとしてのホーガンの面目躍如といったところだ。
さて、第五作の本書では、前半で、主人公らがテューリアン(ガニメアンと同種族)の星へ行き、様々な体験をする中で語られる独自のマルチヴァース理論が主眼となる。これが延々300ページ続くので、読者としては少々しんどいが、ここには多元宇宙を描く以上は徹底的に理論を詰めておかないと気が済まないハードSF作家としてのホーガンらしさがよく出ていると言えよう。前半でむしろ面白いのは、ダンチェッカーの従妹ミルドレッドがテューリアンと交わす人間論、社会論である。彼女は、歴史上の高名なる君主や征服者たちは最悪の盗人であり悪党であると考え、あらゆる面で効率を追求することに関しては優秀だが「健全で正常な文化の基盤となるべき人間の価値というものに対する情緒的能力や感受性が欠如している」(157ページ)と述べ、競争心をもたないテューリアンの共感を得る。人間の暴力性は生来性の欠陥なのか、後からジェヴレン人によってもたらされた後天的なものなのかという問いかけは本書を貫く重要なテーマでもある。
物語の後半は、ようやく舞台がミネルヴァに移り、三作目同様の悪役ジェヴレン人との戦いがテンポよく描かれていく。マルチヴァースと言いながらも、主人公らの世界は固定されているので、結局は二つの世界の話になってしまい、悪が滅びるカタルシスは味わえるものの、世界の広がりという点ではSF的な発展があまり見られずに物語が終幕を迎えるのはいささか残念である。前半のマルチヴァース理論の面白さが、後半のシンプルな物語であまり生かされていないという批判は当然生じるであろう。しかし、ホーガンが本シリーズで描き続けたのは、欠陥を備えたままの人間らしさへの讃歌であった。その意味では、本書は、実にホーガンらしい作品であり、完結編にふさわしいとも言えるだろう。
2010年にホーガンが亡くなってからも既に14年が過ぎた。これ以上の続編は望むべくもない。あとは、シリーズを繰り返し読んで、彼が描いた未来と彼亡き後の現在について考えることがせめてもの供養である。ホーガンの遺産は読者が継がなければならないのだ。
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