『感傷ファンタスマゴリィ』空木春宵(2024年4月/東京創元社)2025-07-19 09:19

『感傷ファンタスマゴリィ』空木春宵
 本書は二〇一一年に第2回創元SF短編賞佳作を受賞し、二〇二一年に第一作品集『感応グラン=ギニョル』を刊行して高い評価を受けた作者による、待望の第二作品集である。

 空木の作品は残虐、残酷という言葉で形容されることが多いが、それは決して表面上の、言葉の上だけのことではない。目をそむけたくなるような残酷な出来事の中核にある「弱者の痛み」、肉体の痛みにせよ、心の痛みにせよ、その「痛み」のもつ現前性にこそ空木作品の特色があるのではないだろうか。空木の作品を読むとき、読者はドラマの単なる観客であることは許されない。いつの間にか舞台の上にあげられ、劇中に引きずり込まれ、思い切り心を揺さぶられ、登場人物と同じ「痛み」を経験することになる。効果的な二人称の使用、SF的な舞台設定、よく作り込まれた小道具は、すべてそのために奉仕している。その手際の鮮やかさ、切れ味の鋭さといったら、研ぎ澄まされた包丁を使いこなす一流のシェフのようだ。

 たとえば、本書収録の「4W/Working With Wounded Women」では、上甲街(アッパー・デック)と下甲街(ロウアー・デック)に分けられた雙層都市(ダブル・デッカー・シティ)を舞台として、下甲街に住む主人公ユイシュエンと彼女を取り巻く下層階級の人々の暮らしが描かれる。薬指に埋め込まれたデバイスによって、上甲街の人々と下甲街の人々は量子的に結ばれており、上の者が負った傷は即座に下の者に転移する。これは「転瑕(てんか)」と呼ばれており、下の者は突如として自分に出現する傷とその痛みに耐えるしかないのである。互いの冥婚相手が誰かはわからないようになっている。この仕組みは「冥婚関係(エンゲージ・リンク)」、関係を支える量子システムは「因果機関(カルマ・エンジン)」と称され、併せて「回向(エコー)システム」と呼ばれている。DVや無差別殺人など、現実に存在する理不尽な暴力を象徴させた都市の設定は見事で、皮肉を込めたネーミング・センスも群を抜いている。

 物語では、ある時期から突然ユイシュエンに現れる傷が増えてきて、不条理な暴力と痛みに耐えるため、彼女は、上の者が正義のために闘うヒーローであることを夢想する。もちろん、そんなはずはなく、この夢想は結末近くになって残酷に崩れ去る。悲劇は、ユイシュエンの同居人女性である妊婦メイファンにも、もっと残酷な形で訪れる。作中でのメイファンの怒りの声に触れて、心が震えたのは自分だけではないだろう。これまでも、「感応グラン=ギニョル」や「地獄を縫い取る」(どちらも第一作品集所収)などの諸作で描かれてきた弱者(障碍者や女性)が受けてきた「傷」のもつ意味が、ここではさらに深められ、そして、宥和的な結末に至る。読者に「傷」を突きつけて終わるのではなく、「赦し」にまで至っているという点で、初期作品からの深化が伺える。本書中ではまずこの作品を推しておきたい。

 さらに、ディストピアSFの結構を備えた「さよならも言えない」も見逃せない作品である。恒星〈アマテラス〉を公転する七つのうち三つの惑星に人類が入植してから千二百年が過ぎた。人類は、背が高く首が長いルークルー(轆轤)系、平面的な顔立ちのフォンイー(紅衣)系、黒い髪に六本の腕をもつツチグモ(土蜘蛛)系の三種族に分かれ、共生している。〈服飾局(メゾン)〉で働く主人公ミドリ・ジィアンは、局内コンペのためにチームを率いるリーダーだ。この世界では、拡張現実システムによって、遺伝子、場、系の三要素を踏まえたファッションのスコアが常に表示されており、その値が社会的信用を生んでいる。部下のスコアが低いことを気にしているミドリは、ある日足を運んだクラブで低いスコアのまま踊っているジェリーに目を止め、指導する。服を自分で作り、スコアに縛られて生きることを拒否するジェリーにミドリは惹かれていくが……。「4W」同様、本作においても、現実に存在する社会的抑圧が巧みにSF的設定に落とし込まれている。語られるのは、会社内での出世レースと世代を超えた愛を絡ませた古典的な物語なのだが、この設定のおかげで社会的抑圧はシステムによる暴力だという事実が浮き彫りになっており、かえって新鮮な感動を生んでいる。

 以上二編が抜きん出た傑作であるが、他の作品も素晴らしい出来映えだ。表題作「感傷ファンタマゴスリィ」と「終景累ヶ辻(しゅうけいかさねがつじ)」は通底する響きを備えた超絶技巧短編である。前者は、十九世紀末にパリで流行した幻燈機(ファンタスコープ)を用いた魔術幻燈劇(ファンタマゴスリィ)を題材にして、性差混乱も含めたアイデンティティの揺らぎを描き、後者は、江戸の三大怪談の主人公、お菊、お露、お岩の時間線を交錯させて、何度も死を繰り返す様を描いている。どちらにも登場する「時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す」という文章のとおり、自己とは死者を「観照」することによって死者を取り込み拡張していく複合的な存在であり、それが繰り返される限り、死者=幽霊が死ぬことはないのだとの認識が両者を貫いている。

 最後に置かれた「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」では、VR空間で「魔女」を名乗り、依頼人のカウンセリングを行う人々と、その魔女たちを憎み、VR空間上で暴力を振るって魔女たちを殺してまわる「騎士団」との対立を描いている。ここでも、現実に起きている男性中心主義者と女性の権利拡張を求める人々との分断と憎悪が作中の設定に巧みに反映されている。魔女とは「固定された社会規範に抗い、女性や性的マイノリティについてだけでなく、すべてのヒトにとっての権利を常に考え続けるべき」存在であり、魔女の主張は、男への攻撃でも呪詛でもない」。男の側の権利が侵害されるとの意見に対しては「権利と利得とは別のもの」であり、「既得権益を失う事と権利を奪われる事はまったく別の話」と返す魔女の反論は揺るぎなく、鮮やかである(人権を無視してマイノリティを公然と差別する現実の人々に言ってやりたいが、彼らにはまったく理解できないのだろうなあ、と思ってはいけないというのが本作のテーマでもある)。作中では「魔女」と「騎士団」との争いが、最終的には解決への糸口を見出すところで終わっているため、解説にもあるとおり「希望」が残り、決して読後感は悪くない。これも、空木作品の新境地と言えよう。

 全体としては、SF的設定を効果的に使用し、社会的弱者の立場から社会構造自身が孕む矛盾や構造的暴力を鋭くえぐり出してみせた、極めてアクチュアルな作品が多く、分断が進む現代社会において、本書を読む価値はますます高まっている。ぜひとも一読をお勧めしたい。

『SF少女マンガ全史』長山靖生(2024年3月/筑摩書房)2025-07-12 22:42

『SF少女マンガ全史』長山靖生
 本書は、主に一九七五年から一九八五年にかけて、昭和五十年代に全盛期を迎えた「SF少女マンガ」というマンガのサブジャンルについて概説的に記述した歴史書であると同時に、膨大な作品の粗筋を丁寧に辿って、該博な知識をもとに作品論を語り、何人ものマンガ家については作家論にまで至るという優れた評論書ともなっている。米沢嘉博に『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』(ともに一九八〇年)という先駆的な試みはあるが、記述はどちらかと言えば歴史を語ることに重点を置いており、作品論としては踏み込みが浅い。「SF少女マンガ」に対象を絞って、深く掘り下げ、ジェンダー的な視点も取り込んで作品を論じているという点で、本書の価値は大きく、今後のマンガ研究の里程標となるだろう。

 対象を絞ったと言っても、著者のマンガに関する歴史的射程は広く、第1章の概史では、奈良時代の絵巻、江戸時代の読本、明治時代の風刺画を経て、大正から昭和初期にかけて、コマに分けてストーリーを勧めるマンガ物語が成立したことが記述される。大衆に向けた少年雑誌、少女雑誌の創刊もこの頃であり、画家による雑誌の口絵や挿絵、小説、読者投稿欄、絵物語といったライバルに交じってマンガが成長していく。戦後の少女マンガは、手塚治虫や石森章太郎、ちばてつやといった男性マンガ家が描く悲哀ものが中心であった。活動の中心が徐々に、わたなべまさこ、水野英子、牧美也子、今村祥子ら女性マンガ家に置き換わり、内容も固定観念化された少女像、女性像をはみ出していく過程を著者は丁寧に記述していく。里中満智子、美内すずえ、細川智栄子、西谷祥子らがデビューし、SFも描いていく。「SF少女マンガ」と言うとどうしても萩尾望都、竹宮恵子らいわゆる二四年組から始まったような印象を還暦前後のわれわれ世代は持っているが、このような萩尾・竹宮以前の前史の存在を俯瞰的な視点から正確に記している点にも本書の価値はある。

 第1章で触れられているように、手塚の『リボンの騎士』(一九五三~六七)は、主人公サファイアが女性として生まれながら男の心と女の心をもち、男性として育てられるという異性装ロマンスの嚆矢であり、後の池田理代子『ベルサイユのばら』(一九七二~七三)へとつながっていくことはよく指摘される点だが、著者は、これに加えて、水野英子『白いトロイカ』(一九六四~六五)に描かれた「自ら考え行動する革命的女性像」を引き継いだ点にも『ベルばら』の革命性があると説く。この指摘は重要である。少女マンガの歴史自体に〈男性が女性のために描いたもの〉から〈女性が女性に向けて描いたもの〉へと変化していく過程があり、さらにSFについても、一九六〇年代には「女性にSFはわからない」といういわれのない偏見があり(本書に引用されているとおり「女の子にはS・Fが分らないのだというのです。ホントかしら…」と萩尾望都が自作「精霊狩り」内で記している)、この男性を中心とした二重の抑圧状態から逃れ、自由な創造力と表現力が爆発した時代こそが「SF少女マンガ」が花開いた昭和五十年代であるという認識が、本書には一貫して流れているからである。

 第2章では「挑発する女性状理知結晶体」と題して、山岸涼子、倉多江美、佐藤史生、水樹和佳、清原なつの、佐々木淳子、樹なつみの七人を取り上げて、深く論じていく。マンガ家と作品の選び方が実に秀逸であり、彼女らに共通する特色を、非合理に対する論理、無意識や夢想に対する知性を重んじることとして掬い上げている。もちろん、彼女たちの作品がそれだけで割り切れるはずもなく、作品も描かれる人物も多様であることは承知のうえで、である。作中人物には、山岸涼子『日出処の天子』(一九八〇~八四)の厩戸皇子のように「合理主義によっても自由を得ても、満たされることのない人間存在の業の深さを象徴している」人物もおり、佐藤史生の作品には「知性への敬虔なまでの信頼」があるものの、後期の作品には「科学主義から神秘主義への傾斜」がみられる。「コンピュータ社会の精神的側面と、多層的な神話学を融合させた」佐藤の代表作『ワン・ゼロ』(一九八四~八六)を論じ、やはり神話的作品である水樹和佳の大作『イティハーサ』(一九八七~九七)を神話学的に論じた後で、両者の共通点は「時間の回帰性」にあると看破してみせ、「戦闘より理解や宥和による克服に努める姿勢は、萩尾から佐藤や水樹へ、さらに後継たちへと引き継がれているSF少女マンガの精神だった」と結論づけるあたりの流れは鮮やかで、全体を通しての筆者の主張もここによく表れている。この章と萩尾望都を論じた第4章は、評論書としての本書の白眉である。

 第4章はまるごと萩尾論に充てられている。対象を「SF少女マンガ」に限っているので、取り上げられた作品は「あそび玉」(一九七二)『11人いる!』(一九七五)『百億の昼と千億の夜』(一九七七~七八)「左ききのイザン」(一九七八)『スター・レッド』(一九七八~七九)『銀の三角』(一九八〇~八二)などの諸作で、『ポーの一族』(一九七二~七六)や『トーマの心臓』(一九七三~七四)には部分的に触れられているが、本格的に論じられてはいない。それにしても、こうして眺めていくと、七五年から八五年にかけての萩尾望都のSFへの意欲の凄まじさと作品の完成度の高さは尋常ではない。著者は「あそび玉」には「当時の画一的な社会の価値観に違和感を覚える萩尾自身が投影されている」と述べ、和解的な結末に「暴力的革命に代わる、より先進的な取り組み」を見出している。『11人いる!』では、性別を自己選択できるフロルの存在を通して「男性と対等であることを自明として生きる女性」を描き出した点が画期的であったと述べる。ただし、フロルは女性を選択して男性であるタダとの結婚を望むのであり、男性を選択して男性を愛するわけではない。「萩尾作品は文化的伝統や社会規範による人為的なジェンダーを乗り越えていくが、生物学的差異の人為的操作には懐疑的なようだ」という著者の指摘は鋭い。他にも、自然に性別を変えながら成長していく一角獣種タクトを主人公とした「X+Y」(八四年)、人間と異星人の混血であり男性と思われていたルゥが実は女性であったことが判明する「ハーバル・ビューティ」(八四年)、感染症の抗体がY染色体上にあるため自然状態では男性だけしか生き残っていない未来の地球を描いた『マージナル』(八五~八七年)と、萩尾SFには性別の揺らぎや偏りをテーマにした作品が多く、そのために丸ごと異星の生命体系を創作した場合もある。SFという手法がいかに萩尾作品にマッチしていて、そしてそれらの作品に他の多くの少女マンガ家が刺激を受け、多数の作品が生み出されたかを本書は克明に記録しており、SF少女マンガがなぜこの時期に爆発的に広がったのかという問いの答えにもなっている。要するに、萩尾望都SFの衝撃があまりに大きく、当時の(今も)男性優位社会の抑圧を受けていた少女らが強い共感を寄せ、また画一的な社会規範をよしとしない男性読者をも含んで、大勢の読者を惹きつけたことは大きな要因であっただろう。SFにおいては文化や社会を自由に設定することができ、その中で女性が「女性性」を保ちながら男性と対等な関係を結び、活動していくことが可能だ。理想的な男女関係、ひいては人と人との関わりがそこにはあると言える。たとえ闘いや軋轢を描いたとしても、SF少女マンガでは和解と宥和を結論に打ち出すことが多い。萩尾SFの影響力の強さがうかがえる。八五年以降も萩尾望都は精力的にSF少女マンガを発表しており、本書は最新作『ポーの一族 青のパンドラ』(二〇二二~連載中)に至るまでの諸作を丁寧に紹介し、論じている。

 第3章と第5章は、個々のマンガ家の作品紹介という面が強く、本書の歴史書としての側面がよく示されている。取り上げられたマンガ家は、「思考するファンタジー」と題された第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子、坂田靖子、日渡早紀、川原泉の六名。「孤高不滅のマイナーポエットたち」と題された第5章で岡田史子、内田善美、高野文子の三名。いずれも個性的で表現力に秀でたマンガ家ばかりなので、本書を読んで、初めて(または改めて)作品に接することも一興だろう。

 おそらくは、本書を読んで、これも足りないあれも抜けているといった文句を言い出す人たちも出てくるだろうが、本書の偉業の前では取るに足らぬことだ。膨大な作品を読みこなし、分析し、批評するのは大変労力のかかる作業である。それを踏まえたうえの言葉でなければ、つまらぬ文句に耳を傾ける必要はない。ただし、一つだけ言わせてもらえば、歴史書としての側面を考えると、大変な作業になるのはわかっているが、作者名だけでも索引は欲しかった。
 総じて、視野の広さ、構成の見事さ、分析の深さで本書に並ぶものはない。SF少女マンガの奥深さを知るのにうってつけの一冊である。

『遊戯と臨界』赤野工作(2025年3月/創元日本SF叢書)2025-04-25 12:46

『遊戯と臨界』赤野工作
 ゲームに関する作品ばかりを収録したゲームSF傑作選。作者は小説投稿サイト「カクヨム」出身の作家で、架空のゲームをレビューした『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィス・ノー・ネーム』(2017年)で〈SFが読みたい!〉の年間ベスト四位に入るなど、高い評価を得ている。

 本書には、遊んだゲームがつまらなかったため返品を希望するカスタマーと返答するサポートとのやり取りを通じて恐ろしい真実が浮かび上がる「それはそれ、これはこれ」、1.3秒のタイムラグが生じるにもかかわらず月と地球を結んだオンラインゲームに執着する男たちの話「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」、日常生活にかかる時間も含めたゲームのクリアタイムを最短にしようと試みる男のゲーム実況「邪魔にもならない」など11編が収録されている。各編に共通しているのは主人公たちのゲームに賭ける熱い思いだ。彼らは何かに取り憑かれたようにゲームをプレイし、ゲームを語る。印象に残った作品をいくつか紹介していきたい。

 実際の高校にeスポーツ部が設立され、ゲームが一つのスポーツとして現実にも認知されてきた今、高校野球に高野連があるように、ゲームの世界にも高e連が作られ、そこで起きた不祥事に対して謝罪会見が起きるかもしれない。そんな未来を先取りして描いてみせたのが「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」だ。ゲーム内のキャラクターの動作が侮辱に当たるかどうかが争点となり、プレイヤーの高校生にはその動作が侮辱に相当することがわからなかった。作者は、ゲームを一つの文化ととらえ、文化の捉え方の世代間相違がもたらすギャップを笑いでくるむ。掌編「ミコトの拳」では、この世界はゲーム内のシミュレーションに過ぎないと考えるシミュレーション仮説を追究し、中編「これを呪いと呼ぶのなら」では、恐怖の記憶を脳に上書きするゲームをレビューする男を通じて、本当の恐怖とは何かを描く。

「本音と、建前と、あとはご自由に」では、Vtuber をしている主人公が独裁国家を倒すゲームを実況しているうちに、その国の反政府勢力に利用され、内乱で多くの人が犠牲となる。主人公が国家転覆罪に問われ裁判を受ける過程を会話だけで描いた本作は、主人公のあまりの政治的感覚のなさにぞっとさせられる話だが、高校教員を30年以上続けてきた自分にとっては、多くの若者の実情を反映しているように思う。気になったことが一つ。作中で主人公を「反動分子」と呼ぶ場面が何度も出てきた。本来「反動分子」とは「一切の改革を認めようとしない保守派や体制派」、つまり「政府寄りの人たち」を「反政府勢力」が批判して使う言葉であるが、ここでは全く逆に「反政府勢力」を示す言葉として使われている。反政府勢力を「反動分子」と呼ぶことには強烈な違和感があるので、指摘しておきたい。途中からは直っているようなので、単なる校正ミスであればよいのだが。

 1989年9月にソ連から西側へ亡命してきた科学者と、あるゲームとの関わりをスパイ小説仕立てで描いた「“たかが”とはなんだ、“たかが”とは」は、集中では珍しく客観描写を取り入れているが、オチありきの話であることは変わらない。ゲーム実況配信をしていた先輩が亡くなった後に、様々な怪奇現象が起きる「曰く」は、般若心経の解説を結構真面目にしているところが新機軸と言えるかもしれない。

 基本的に会話だけで物語が進んでいくので、これらの諸作を小説とは呼び難い。どちらかと言うと、落語などの話芸に近いものだろう。しかし、軽く書かれたように見えて、実は鋭く世相をえぐっていたり、恐ろしい真実を示していたりする着想には捨てがたいものがある。ゲームにのめり込む人々を一歩引いた視点から捉え、彼らと社会とのギャップを描いているところも面白い。その意味からは、「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」と「本音と、建前と、あとはご自由に」が特に良かった。形式を整えて本格的な小説を書いたら、もっと多くの層(全くゲームをしない自分のような高齢者層)にもアピールできるのではないかと思う。

『パラドクス・ホテル』ロブ・ハート(2025年3月/創元SF文庫)2025-04-22 21:15

『パラドクス・ホテル』ロブ・ハート
 タイムトラベルが実現し、好きな時代へ自由に旅行ができるようになった近未来。アインシュタイン・インターセンチュリー時空港に隣接したパラドクス・ホテルでは、時空港を民営化しようという計画が進行していた。時間旅行は費用がかかり、政府は赤字で運営している。大富豪を集めて、その中の誰かに事業をまるごと買ってもらおうというわけだ。不動産王、サウジアラビア皇太子、IT投資家、複数企業のCEOが集まり、ホテルでサミットが開かれようとするとき、奇妙な出来事が連続して起きる。孵化したばかりの恐竜が三頭、ホテル内を走り回る。ロビーの大時計が不連続な時間を示す。

 主人公の警備主任ジャン・コールは、自身が時間離脱症を患っており、突然過去や未来の風景を垣間見る。亡くなった恋人メーナがホテル内に現れ、ホテルの客室でのどを切り裂かれた男の死体を見る。そんな中で、ホテル内での事件が起きたため、混乱は増すばかり。果たして殺人事件の真相は明らかになるのか、そしてサミットの行方は……。

 実に魅力的な舞台設定と言うべきで、時空港からは、古代エジプト、ゲティスバーグの戦い、三畳紀、ルネサンスなど世界史、地球史のエポックメイキングとなる様々な時代行きの旅客機が出ている。ジャン・コールはもともと時間犯罪取締局で働いていたこともあり、少しはタイムトラベルの状況が回想として描かれているが、本書のストーリイはあくまでもホテル内で起きるさまざまな事件を解決することが主となっており、時間旅行が脇に置いておかれるのが、少し物足りない。しかし、それを補って余りあるのが、ホテル内での恐竜をめぐる騒動、ホテルの経営をめぐる権謀術数、時空が乱れるトラブルの解決などのいくつもの重層的に重なる物語である。主人公の時間離脱症のために、時系列が複雑に入り乱れてシーンが現れ、かなり複雑な構成となっているが、作者の手綱さばきが巧く、決して読みにくくはない。主人公の相棒であるAIドローンのルビーとのユーモラスなやり取りもあって、楽しく読み進めることができる。そして、何より主人公コールの恋人であったメーナが、コールの時間離脱症によって繰り返し自身の目の前に現れては消える、その辛さが切実に読者に迫ってくる。本書は、表面的には強靭な個性をもちながら、内面では自己嫌悪にまみれ生きづらさを抱えた一人の女性の心が解きほぐされ、新たな居場所を見つけ出していく過程を丁寧に描いた心理小説でもあるのだ。タイムトラベルものの衣をまとった癒しの物語。本書の核はここにあるのではないかと思う。

『暗黒星雲』フレッド・ホイル(1958年11月/法政大学出版局)2025-04-19 13:01

『暗黒星雲』フレッド・ホイル
 ネットフリックス版『三体』のドラマを見ていると、第一話で葉博士の部屋にあった箱の中にフレッド・ホイルの Evolution from Space があって驚いた。これは題名からわかるようにパンスペルミア仮説について述べられたもので、宇宙生命を示唆した演出、または単なる偶然(それっぽい本を入れておけ程度のもの)と思われるが、ホイルのファースト・コンタクトものと言えば、何と言っても『暗黒星雲』である。出版社がSFプロパーでないためか、SF界で話題になることは少なかったが、実はなかなかの秀作であり、1958年の初版以来、各種の異装を経て1985年まで版を重ねた。筆者の古くからの知り合いの物理教師(SFファン)は大変この作品が気に入っており、その面白さを熱く語ってくれた。何十年も前のことだが、印象に残っている。今回はこのクラシックSFを紹介したい(古典であるということに鑑み、ネタを大いにバラすのでご留意願いたい)。

 1959年1月、パロマー天文台で働く天文学者イェンセンは一か月前の写真と現在の写真を図像比較器で見ているうちに、南の空で暗黒星雲が大きくなっていることに気づく。すぐに幹部のマーロー博士に報告し、会議が開かれる。会議で、この星雲が地球に向かっていること、一年半後には地球に到達するであろうことが確認された。
 一方、グリニジ天文台を始めイギリス各地で、木星と土星の軌道が正規の位置からずれていることが観測される。どうやら木星の質量程度の未知の天体が太陽系周辺に存在しているらしい。ケンブリッジ大学天文学教授キングスリーは、未知の天体が見つかっていないかマーロー博士に問い合わせ、すぐにアメリカに呼ばれる。二人は協力して報告書をまとめ、アメリカ大統領とイギリス首相にそれぞれ報告する。早速イギリスのノルトンストウに最新の電波望遠鏡を備えた研究所が作られ、秘密裡の活動が始まった。

 原著の刊行は1957年であり、何千個もの真空管を備え紙テープを吐き出す巨大な電子計算機、全く新しい符号としての周波数変調(FM)など、科学的装置や知識の古めかしさは否めない。しかし、物語の前半、暗黒星雲の実在と進路を科学的な事実をもとに推論していく過程には普遍的な面白さがあり、物語がテンポよく進んでいくので、今読んでもスリリングで楽しめる。電波に信号を乗せて送れば、一秒に五百万語を送ることができるという発想などは明らかに現代のインターネットにつながるものであり、ホイルの洞察力が優れていたことを示している。

 さて、物語は後半に入り、いよいよ暗黒星雲が太陽系に近づいてくる。どうなるのかというと、多くの人は太陽光が遮られ地球は寒冷化すると思うだろう。しかし、この物語では、その前にまず太陽光が星雲ガスに輻射されることによって、地球は一度熱せられるのだ。気温は四十度台となり、植物と昆虫が繁栄し、人々は次々と死んでいく。その後ようやく、太陽と地球の間に星雲が入り込んで、暗黒が訪れ、雨が降り、すさまじい台風が起きる。気温はどんどん下がり、雪が降り、川が凍る。極端な気候変動によって、二か月で世界人口の四分の一が失われた。

 一方で、暗黒星雲は自らガスを噴射して進行速度を弱め、太陽系に留まっていることが判明する。1965年には、太陽を中心とする黄道面に対して傾斜した円盤となって安定した。地球では、大気中の電離度が特定の波長の電波だけを通すように変化していることから、キングスリーは星雲が知能を備えているのではないかという仮説を立て、簡単な信号を送り、返答を得る。それは「通信うけとった。知らせが少ない。もっと送れ」というものであった。試行錯誤の末、研究所員の声をもとにした音声信号が開発され、星雲とのやり取りが始まる。星雲の考えでは、惑星の重力下では神経活動の範囲が狭くなり、また、惑星は太陽光を一部しか受け取れないので化学変化の量が少なく、惑星に高度な知性は育たない。ところが、惑星から信号の送信があったので、星雲は驚いたのである。

 科学者集団は暗黒星雲とのやり取りを続けるが、政治家たちと対立し、アメリカおよびソ連の政治家は星雲に対して水素爆弾を積んだロケットを百五十機発射する。それに対する星雲の反応は恐るべき結果を人々にもたらした。そして、その後十日足らずで、ついに暗黒星雲は太陽系を離れる。水素ロケットのせいではなく、わずか二光年先の星雲知性体が星雲を超える理知的存在について解答を得たと連絡してきたため、そこへ行って確かめたいというのだ。かくして暗黒星雲は去った。置き土産として、星雲との通信方法および人類が到達していない知識を得るための方法を残して。科学者たちは果敢にそれに挑む。果たして知識は得られるのか……。

 本書は、科学を普遍言語として用い、異なる知性間での意思疎通が可能と考える点で、『三体』を始めとする劉慈欣作品と共通している。人間をアリにたとえたり、電波が重要な役割を果たしたりするのも同じだ。太陽系規模の知性とのコンタクトという点では、惑星規模の知性を扱う『ソラリス』よりもスケールは大きい。ただし、意思疎通があまりに容易にできてしまうところは、リアリティのなさという欠点を生じさせているが、一種の思考実験レポートだと思えば、許せてしまうところもある。小説的完成度よりもアイディアの面白さを優先させた作品なのだ。壮大な規模で展開されたファースト・コンタクトもののクラシックとして、高く評価しておきたい。

写真は左上から右回りに
1958年11月初版
同(表紙違い)
1967年9月改版第一刷(訳者「改版の刊行に際して」収録)
1970年5月新装版第一刷(コスモス・ブックス)
1974年10月新装版(コスモス・ブックス)