岐阜ミステリ読書会二次会レポート(陸秋槎さんとのSF談義) ― 2024-12-17 09:46
12月14日(土)に岐阜の生涯学習センターで行われたミステリ読書会にお邪魔してきた。課題本は陸秋槎『喪服の似合う少女』で、何と作者ご本人が参加する読書会である。今まで翻訳者が参加された読書会は何度も経験してきたが、作者本人というのは初めてだ。今年になって、2023年に刊行された氏のSF短篇集『ガーンズバック変換』を読み、とても面白かったので、作者に会えるのならと、門外漢を承知で参加してきた次第。直前になって、翻訳家の柿沼瑛子さんも参加されることがわかり、また、ロス・マクドナルドに関する貴重な資料が柿沼さんから参加者に配布される、など実に贅沢な読書会であった。本会については、ミステリ初心者なため、詳細な報告は他の人に譲るが、二次会、三次会で他の参加者とともに陸さんご本人と話すことができ、SFの話がたくさんできたので、それを書き記しておく。
陸さんは本当に博識で頭の回転が速く、どんな話題を投げても打ち返すことができる凄い人であった。印象に残った話をいくつか記しておく。
奥様は考古学の研究者でいらっしゃって、瓦の研究をしておられる。先輩の教授から「(瓦のような地味なものではなく)もっと美しいものを研究しないと」と言われて、家で奥さんが怒っていたという話を陸さんがされたので、こちらは「ああ、女性は美を追い求めるべきだというアンコンシャス・バイアスですね」と返したら、「いや、瓦自体が美しいということです」と言われ、なるほどそうかと納得した。「『火の鳥』にもそういう話があるでしょう」と陸さんに言われて、驚いた。当然、茜丸と我王が瓦対決をする鳳凰編のことなのだが、これを中国の若い方が知っているということにびっくりしたのである。中国では手塚治虫も読めるんだなあと感心していたら(当たり前か)、何でもありというわけではなく、たとえば「××編」は内容的に問題があり、中国では出版されないだろうとのこと。
中国では1990年代に「人体科学」のブームがあり、超能力が盛んに研究され信じられたが、結局実際にテレパシーやテレポーテーションの実在は証明できず下火となり、超能力を語ることはカルト宗教を信じることのように胡散臭いものと思われてしまった。その影響か、SFのサブジャンルとして超能力ものはあまり読まれていない。筒井康隆の《七瀬もの》は知られておらず、『虎よ、虎よ!』も人気はないとのこと。
これはどこかで聞いたことがあった話だが、中国ではサイバーパンクと言えば、ウィリアム・ギブスンではなく、ヴァーナー・ヴィンジであり、ヴィンジは大変人気があるとのこと。ロス・マクとマーガレット・ミラーを連想して、日本では奥さんのジョーン・D・ヴィンジの方が人気がありますよと思わず言ってしまったが、これは間違っていたような気がする(笑)。
中国では、ハインラインは『夏への扉』と『異星の客』のように、作品に違いがあり過ぎるので、あまり人気がない。
陸さんに「一番好きな作家は何ですか」と聞かれ、つい「ディレーニイ」と答えてしまったが、ディレーニイは中国では「バベル17」が知られているぐらいであまり人気がないようだった。アメリカン・ニュー・ウェーブの話も少しする。ハーラン・エリスンは「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」が中国語に訳されており、一冊短篇集を出す話もあったのだが、実現していないとのこと。
劉慈欣と馬伯傭は天才である。今度日本でも翻訳される馬伯傭『西遊記事変』は、とても面白いそうだ。
自分は『ガーンズバック変換』に収められた「色のない緑」がすごく好きなので、その話を振ったら、AIの機械翻訳についてはもうすべて実現してしまったと卑下されるような感じで言われたのが意外だった。陸さんが原稿を知り合いの専門家に見せたときに、論文の査読をAIがする時代は来ないと言われたが、実際にはもう既にそれは実現されてしまった、と。確かにそうなのだろう。しかし、たとえそうであったとしても、作品の面白さはいささかも減じられることはないと強く言ったのだが、うまく伝えられたかどうか。SFは決して未来予測ではなく、しかも、この話の主眼は「色のない緑の思考は猛烈に眠る」という意味を持たない文を成立させてしまったコンテクストの皮肉さ=運命の不可思議さと、自殺した女性研究者と主人公との心の触れ合いにあるわけなので、機械翻訳が作品内で描いたレベルを超えようが、液体ハードディスクが実現しようが、その面白さは変わるものではないと思う。
やはり『ガーンズバック変換』に収められた「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」は、小島秀夫「メタルギア・ソリッド」へのオマージュである。「固い蛇」をテーマとした奇想小説なのだが、これはソリッドな「スネーク」(「メタルギア・ソリッド」の主人公)なのだ。自分はまったく気づいておらず、聞いたとき思わず膝を叩いて笑ってしまった。
陸さんの誕生日は11月25日。三島由紀夫が自決した日である。三島については、《豊饒の海》が面白いとのこと。
他にも様々な話をしたが、とにかくSFについても知らないことはない、ミステリ、SF、サブカルチャー、何でもござれの博覧強記ぶりは、どこか殊能将之を思わせるところもあり、感嘆した次第。
ミステリ読書会で、二次会、三次会とはいえ、あまりミステリの話をせず、SFの話ばかりして申し訳ありませんでした。が、おかげさまで楽しい時間を過ごすことができました。主催者の方、参加された皆様、どうもありがとうございました!
陸さんは本当に博識で頭の回転が速く、どんな話題を投げても打ち返すことができる凄い人であった。印象に残った話をいくつか記しておく。
奥様は考古学の研究者でいらっしゃって、瓦の研究をしておられる。先輩の教授から「(瓦のような地味なものではなく)もっと美しいものを研究しないと」と言われて、家で奥さんが怒っていたという話を陸さんがされたので、こちらは「ああ、女性は美を追い求めるべきだというアンコンシャス・バイアスですね」と返したら、「いや、瓦自体が美しいということです」と言われ、なるほどそうかと納得した。「『火の鳥』にもそういう話があるでしょう」と陸さんに言われて、驚いた。当然、茜丸と我王が瓦対決をする鳳凰編のことなのだが、これを中国の若い方が知っているということにびっくりしたのである。中国では手塚治虫も読めるんだなあと感心していたら(当たり前か)、何でもありというわけではなく、たとえば「××編」は内容的に問題があり、中国では出版されないだろうとのこと。
中国では1990年代に「人体科学」のブームがあり、超能力が盛んに研究され信じられたが、結局実際にテレパシーやテレポーテーションの実在は証明できず下火となり、超能力を語ることはカルト宗教を信じることのように胡散臭いものと思われてしまった。その影響か、SFのサブジャンルとして超能力ものはあまり読まれていない。筒井康隆の《七瀬もの》は知られておらず、『虎よ、虎よ!』も人気はないとのこと。
これはどこかで聞いたことがあった話だが、中国ではサイバーパンクと言えば、ウィリアム・ギブスンではなく、ヴァーナー・ヴィンジであり、ヴィンジは大変人気があるとのこと。ロス・マクとマーガレット・ミラーを連想して、日本では奥さんのジョーン・D・ヴィンジの方が人気がありますよと思わず言ってしまったが、これは間違っていたような気がする(笑)。
中国では、ハインラインは『夏への扉』と『異星の客』のように、作品に違いがあり過ぎるので、あまり人気がない。
陸さんに「一番好きな作家は何ですか」と聞かれ、つい「ディレーニイ」と答えてしまったが、ディレーニイは中国では「バベル17」が知られているぐらいであまり人気がないようだった。アメリカン・ニュー・ウェーブの話も少しする。ハーラン・エリスンは「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」が中国語に訳されており、一冊短篇集を出す話もあったのだが、実現していないとのこと。
劉慈欣と馬伯傭は天才である。今度日本でも翻訳される馬伯傭『西遊記事変』は、とても面白いそうだ。
自分は『ガーンズバック変換』に収められた「色のない緑」がすごく好きなので、その話を振ったら、AIの機械翻訳についてはもうすべて実現してしまったと卑下されるような感じで言われたのが意外だった。陸さんが原稿を知り合いの専門家に見せたときに、論文の査読をAIがする時代は来ないと言われたが、実際にはもう既にそれは実現されてしまった、と。確かにそうなのだろう。しかし、たとえそうであったとしても、作品の面白さはいささかも減じられることはないと強く言ったのだが、うまく伝えられたかどうか。SFは決して未来予測ではなく、しかも、この話の主眼は「色のない緑の思考は猛烈に眠る」という意味を持たない文を成立させてしまったコンテクストの皮肉さ=運命の不可思議さと、自殺した女性研究者と主人公との心の触れ合いにあるわけなので、機械翻訳が作品内で描いたレベルを超えようが、液体ハードディスクが実現しようが、その面白さは変わるものではないと思う。
やはり『ガーンズバック変換』に収められた「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」は、小島秀夫「メタルギア・ソリッド」へのオマージュである。「固い蛇」をテーマとした奇想小説なのだが、これはソリッドな「スネーク」(「メタルギア・ソリッド」の主人公)なのだ。自分はまったく気づいておらず、聞いたとき思わず膝を叩いて笑ってしまった。
陸さんの誕生日は11月25日。三島由紀夫が自決した日である。三島については、《豊饒の海》が面白いとのこと。
他にも様々な話をしたが、とにかくSFについても知らないことはない、ミステリ、SF、サブカルチャー、何でもござれの博覧強記ぶりは、どこか殊能将之を思わせるところもあり、感嘆した次第。
ミステリ読書会で、二次会、三次会とはいえ、あまりミステリの話をせず、SFの話ばかりして申し訳ありませんでした。が、おかげさまで楽しい時間を過ごすことができました。主催者の方、参加された皆様、どうもありがとうございました!
『ミネルヴァ計画』ジェイムズ・P・ホーガン(創元SF文庫/2024年12月) ― 2024-12-25 15:09
2005年に刊行された〈星を継ぐもの〉シリーズ最終巻がようやく翻訳された。イギリスでは1977年から1981年にかけて最初の三部作が刊行され、10年の空白を経て1991年に第四作が、さらに14年後に本書が刊行されてシリーズ完結となった。28年かけて完結したことになり、変わらぬ人気と作者のシリーズへの愛着ぶりがうかがえる。日本では本書の翻訳が遅れたこともあり、1980年の1作目翻訳から数えて44年目の完結となった。最初から読んできた読者にとっては、さぞかし感慨深いものがあるのではないだろうか。個人的なことになるが、私も第一作を高校の授業中に読み耽ってその面白さにとりつかれて以来、シリーズはすべて(文句を言いながらも)読み続けてきた。シリーズの主役、物理学者ハントと生物学者ダンチェッカーの名前を見ると、なじみ深い叔父さんに会ったような気になる。もはや彼らの年齢を追い越して、同僚か友人の域に達しているが、それでも彼らは「親しみ深く、頑固な叔父さん」のままなのだ。
本シリーズは、最初の三部作で物語が円環構造を成して見事に完結しており、後はどうしても落穂拾いになってしまう。物語や主役は一貫しているが、趣向はそれぞれ異なっているところにシリーズの特色があるので、それぞれ別物だと思って読んだ方が楽しめるだろう。本書は久しぶりの刊行ということもあって、プロローグや年表で、これまでの物語を振り返ることができようになっている。今までシリーズを読んできた読者であれば、読み返さずとも物語に入っていけると思うが、一応ここでは簡単に振り返っておきたい。
第一作『星を継ぐもの』はSFミステリの傑作だ。2027年、月面で宇宙服を着た死体が発見される。人類と同じ構造をもった死体は五万年前のものであることがわかり、なぜそんな昔に人類が月面に到達していたのかという謎が論理的に鮮やかに解かれていく。第二作『ガニメデの優しい巨人』は、2500万年前に太陽系で繁栄していたガニメアンという異星人が、時を超えて太陽系に出現するファースト・コンタクトものの形をとっている。なぜ彼らはいなくなってしまったのかという謎が第一作の謎と結びつき、次作へとつながっていく。第三作『巨人たちの星』で、ほぼすべての謎は解かれるが、後半では、時空を超える驚きや異星人との遭遇がもたらす新鮮さはなくなり、主人公らが悪役ジェヴレン人と戦うという既成のスパイ謀略ものと変わらぬ物語が展開されていく。第四作『内なる宇宙』は、仮想空間での冒険が主となり、ハントとダンチェッカーに会えるという以外のシリーズらしさはより薄れている。なお、二作目から登場する異星人が開発した人工知能(ゾラック、ヴィザー)のアーキテクチャーが現在のAIに通じるものとして描かれていることは特筆すべき点だろう。コンピュータ・エンジニアとしてのホーガンの面目躍如といったところだ。
さて、第五作の本書では、前半で、主人公らがテューリアン(ガニメアンと同種族)の星へ行き、様々な体験をする中で語られる独自のマルチヴァース理論が主眼となる。これが延々300ページ続くので、読者としては少々しんどいが、ここには多元宇宙を描く以上は徹底的に理論を詰めておかないと気が済まないハードSF作家としてのホーガンらしさがよく出ていると言えよう。前半でむしろ面白いのは、ダンチェッカーの従妹ミルドレッドがテューリアンと交わす人間論、社会論である。彼女は、歴史上の高名なる君主や征服者たちは最悪の盗人であり悪党であると考え、あらゆる面で効率を追求することに関しては優秀だが「健全で正常な文化の基盤となるべき人間の価値というものに対する情緒的能力や感受性が欠如している」(157ページ)と述べ、競争心をもたないテューリアンの共感を得る。人間の暴力性は生来性の欠陥なのか、後からジェヴレン人によってもたらされた後天的なものなのかという問いかけは本書を貫く重要なテーマでもある。
物語の後半は、ようやく舞台がミネルヴァに移り、三作目同様の悪役ジェヴレン人との戦いがテンポよく描かれていく。マルチヴァースと言いながらも、主人公らの世界は固定されているので、結局は二つの世界の話になってしまい、悪が滅びるカタルシスは味わえるものの、世界の広がりという点ではSF的な発展があまり見られずに物語が終幕を迎えるのはいささか残念である。前半のマルチヴァース理論の面白さが、後半のシンプルな物語であまり生かされていないという批判は当然生じるであろう。しかし、ホーガンが本シリーズで描き続けたのは、欠陥を備えたままの人間らしさへの讃歌であった。その意味では、本書は、実にホーガンらしい作品であり、完結編にふさわしいとも言えるだろう。
2010年にホーガンが亡くなってからも既に14年が過ぎた。これ以上の続編は望むべくもない。あとは、シリーズを繰り返し読んで、彼が描いた未来と彼亡き後の現在について考えることがせめてもの供養である。ホーガンの遺産は読者が継がなければならないのだ。
本シリーズは、最初の三部作で物語が円環構造を成して見事に完結しており、後はどうしても落穂拾いになってしまう。物語や主役は一貫しているが、趣向はそれぞれ異なっているところにシリーズの特色があるので、それぞれ別物だと思って読んだ方が楽しめるだろう。本書は久しぶりの刊行ということもあって、プロローグや年表で、これまでの物語を振り返ることができようになっている。今までシリーズを読んできた読者であれば、読み返さずとも物語に入っていけると思うが、一応ここでは簡単に振り返っておきたい。
第一作『星を継ぐもの』はSFミステリの傑作だ。2027年、月面で宇宙服を着た死体が発見される。人類と同じ構造をもった死体は五万年前のものであることがわかり、なぜそんな昔に人類が月面に到達していたのかという謎が論理的に鮮やかに解かれていく。第二作『ガニメデの優しい巨人』は、2500万年前に太陽系で繁栄していたガニメアンという異星人が、時を超えて太陽系に出現するファースト・コンタクトものの形をとっている。なぜ彼らはいなくなってしまったのかという謎が第一作の謎と結びつき、次作へとつながっていく。第三作『巨人たちの星』で、ほぼすべての謎は解かれるが、後半では、時空を超える驚きや異星人との遭遇がもたらす新鮮さはなくなり、主人公らが悪役ジェヴレン人と戦うという既成のスパイ謀略ものと変わらぬ物語が展開されていく。第四作『内なる宇宙』は、仮想空間での冒険が主となり、ハントとダンチェッカーに会えるという以外のシリーズらしさはより薄れている。なお、二作目から登場する異星人が開発した人工知能(ゾラック、ヴィザー)のアーキテクチャーが現在のAIに通じるものとして描かれていることは特筆すべき点だろう。コンピュータ・エンジニアとしてのホーガンの面目躍如といったところだ。
さて、第五作の本書では、前半で、主人公らがテューリアン(ガニメアンと同種族)の星へ行き、様々な体験をする中で語られる独自のマルチヴァース理論が主眼となる。これが延々300ページ続くので、読者としては少々しんどいが、ここには多元宇宙を描く以上は徹底的に理論を詰めておかないと気が済まないハードSF作家としてのホーガンらしさがよく出ていると言えよう。前半でむしろ面白いのは、ダンチェッカーの従妹ミルドレッドがテューリアンと交わす人間論、社会論である。彼女は、歴史上の高名なる君主や征服者たちは最悪の盗人であり悪党であると考え、あらゆる面で効率を追求することに関しては優秀だが「健全で正常な文化の基盤となるべき人間の価値というものに対する情緒的能力や感受性が欠如している」(157ページ)と述べ、競争心をもたないテューリアンの共感を得る。人間の暴力性は生来性の欠陥なのか、後からジェヴレン人によってもたらされた後天的なものなのかという問いかけは本書を貫く重要なテーマでもある。
物語の後半は、ようやく舞台がミネルヴァに移り、三作目同様の悪役ジェヴレン人との戦いがテンポよく描かれていく。マルチヴァースと言いながらも、主人公らの世界は固定されているので、結局は二つの世界の話になってしまい、悪が滅びるカタルシスは味わえるものの、世界の広がりという点ではSF的な発展があまり見られずに物語が終幕を迎えるのはいささか残念である。前半のマルチヴァース理論の面白さが、後半のシンプルな物語であまり生かされていないという批判は当然生じるであろう。しかし、ホーガンが本シリーズで描き続けたのは、欠陥を備えたままの人間らしさへの讃歌であった。その意味では、本書は、実にホーガンらしい作品であり、完結編にふさわしいとも言えるだろう。
2010年にホーガンが亡くなってからも既に14年が過ぎた。これ以上の続編は望むべくもない。あとは、シリーズを繰り返し読んで、彼が描いた未来と彼亡き後の現在について考えることがせめてもの供養である。ホーガンの遺産は読者が継がなければならないのだ。
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