『嘘つき姫』坂崎かおる(2024年3月/河出書房新社)2025-08-01 10:03

『嘘つき姫』坂崎かおる
 本書は、二〇二〇年に「リモート」で第1回かぐやSFコンテストの審査員特別賞を受賞し、以後多くの文学賞で受賞・入賞を果たした作者による第一作品集である。

 事故で身体が動かないため、人型ロボットの筐体にリモートで接続された男子中学生を主人公にした「リモート」、戦場で二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ兵士の物語「リトル・アーカイヴス」など、近未来でのヒトと機械との関わりを描いた作品から、十九世紀末、電気が実用化された頃のアメリカで、電気椅子についての所見を蓄えるため、決して死なない〈魔女〉がサーカスの見世物の形で何度も処刑される「ニューヨークの魔女」、一九六二年にキューバ危機が訪れたアメリカの田舎町で、ロバによく似た生き物〈D〉の一人が虐待を受ける「ファーサイド」、電信柱を恋をした女性の話「電信柱より」など、象徴的かつ寓話的な作品まで、著者は様々な題材や主題で読者を惹きつける。文章は平易で端正、無駄がなく読みやすい。つるつる読めるが、読み終えたあとに余韻が残る。響きがある。そんな作品集である。

 とりわけ印象に残ったのが、表題作「嘘つき姫」と、書き下ろし「私のつまと、私のはは」の二編。前者は一九四〇年、ドイツ軍が侵攻してきたフランスにおいて、母の死により孤児となったマリーと、その直前にマリーの母に救われたエマの二人が姉妹を偽装し、戦火の中を生き延びていく物語。嘘をつかねば生きていけない運命のもと、マリーのついた嘘と、エマのついた嘘が交錯し、複雑に絡み合う。手記の形をとっているため、読者もまた二人の嘘に翻弄され、小出しにされる真実に戦慄する。ネタバレになるので詳しく書けないが、真実が直接描かれていないだけに、より想像力が刺激され、恐ろしい。この手法は、坂崎作品のあちこちで見られるものだ。「あーちゃんはかあいそうでかあいい」のあーちゃんは結末で何をしたのか。扉の向こうには何があるのか。想像するしかないのだが、これは結構怖いことだ。本編における〈嘘つき姫〉はマリーなのか、エマなのか、それとも両方を指すのか。2章がエマの嘘で、1章がマリーの嘘、3章が真実という一応の構成が見てとれるが、これも疑い出せばキリがない。いずれにせよ、嘘の果てに見いだされた、エマのマリーに向けての愛、これは信じるしかないものだろう。

 「私のつまと、私のはは」は、「リモート」同様、近未来の日本を舞台にしたテクノロジーものだが、拡張現実装置(ARグラス)を身につけ、子育てのシミュレーションを行うレズビアンのカップルを主役にしている点に新鮮さがある。カップルには子育てに対する温度差があり、デザイナーの理子は、パンフレットを作る仕事の一環として子育て体験キット〈ひよひよ〉のデモ版を送られ、嫌々ながら育児シミュレーションに参加する。片や、看護師をしているパートナーの知由里は、最初からこのシミュレーションに積極的な姿勢を取り、子を望むレズビアンカップルの〈集い〉にも〈ひよひよ〉を連れて行こうとして、理子と対立する。知由里は〈ひよひよ〉が本当の人間の赤ちゃんであるかのように、心を込めて接し、あたかも母のように振る舞うのである。逆に、理子は相手は機械に過ぎないと考え、育児も極力合理的に行う。この違いが徐々にエスカレートしていき、ついには……という物語なのだが、結末で本当にぞっとさせられる場面がある。たった一文ですべてを想像させる、この破壊力を備えた構成は見事だ。途中で何度か知由里の家族に関する描写があるので、なるほど、そうだったのかと深く腑に落ちる。表面的な〈母のやさしさ〉の欺瞞を鋭くえぐる問題作である。

 また、抜けた歯をモチーフとして女性から女性への奇妙な愛の形を描く「あーちゃんはかあいそうでかあいい」、小学生が爪を集めて埋めると指が生えてくる、異様な状況を淡々と描いた「日出子の爪」は、どちらも〈身体から切り離された身体〉が重要な役割を果たしている。

 ありそうでない話。奇妙な味。少し不思議。肉体性を備えた精神的な物語。どう形容しても、ちょっとずれる。そこにこそ本書の魅力がある。とりあえずは、世の中の矛盾や残酷さをストレートに描かず、周辺を描くことによって逆に浮き彫りにしていく点に坂崎作品の特色があるようだ。まだ書き始めて間もないし、これからどんどん傑作が生まれていく予感がある。今後の活躍に大いに期待したい。

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