『SF脳とリアル脳』櫻井武(2024年12月/講談社ブルーバックス)2025-04-24 11:58

『SF脳とリアル脳』櫻井武
 覚醒を制御する神経ペプチド「オレキシン」を発見した医学研究者による科学技術とSFを比較したノンンフィクション。小説だけでなく、漫画、映画、ドラマなど題材は幅広く、最新の技術と比較することでそれぞれの作品を見つめ直すきっかけともなるだろう。著者は1964年生まれなので、自分と同じ世代であり、登場する作品がいずれも馴染み深い。現実はここまで来ているのかという驚きと懐かしい作品を再発見する喜びが同時に味わえる一冊となっている。どんな作品がどのように取り上げられているのか簡単に紹介しておきたい(煩雑になるので作者名はすべて省略した)。

 1章では「サイボーグ技術」が取り上げられている。中枢神経系(脳と脊髄)以外を人工物に置き換えた「埋め込み型」サイボーグが登場する作品として、〈ジェイムスン教授〉シリーズ、『サイボーグ009』『攻殻機動隊』『銃夢』などが紹介されている。しかし、140億個の大脳皮質ニューロンから伸びる運動ニューロンの活動電位を検知し人工体に接続して動かすということは、現実にはかなり難しいようだ。運動系の末梢神経は、何万本もある軸索の束から構成され独立した情報を運んでいるので、それぞれの活動電位を分離して検出しメカニズムに接続することが困難だからである。また、従来のサイボーグは、人間の持つ対応力や判断力と機械とを融合した存在として描かれてきたが、現在では、もはやAIの判断力の方が人間を凌いでおり、中枢系を残す意味が薄れている。したがって、近未来のサイボーグは兵器としての用途よりも、医療目的が重要になってくるとの指摘は興味深い。なお、本書では、埋め込み型だけでなく、スーツをまとう「装甲型」も一種のサイボーグとして『宇宙の戦士』『機動戦士ガンダム』などを取り上げているが、こちらは著者も書いているように、本当にサイボーグと言えるかどうか、乗り物ではないのかという疑問が生じるだろう。現実には、筑波大の山海教授率いるCYBERDINE社がロボットスーツ「HAL」を2015年より販売しており、「装甲型」は既に実現されている。

 2章は「脳と電子デバイス」を扱っている。1章で述べられているように、運動系の末梢神経とメカニズムとの接続ですら困難であるのに、視覚、聴覚、味覚などの「特殊感覚」といわれる感覚を司る末梢神経と電子デバイスの接続はさらに困難であると著者は述べる。たとえば、視神経には百万本の軸索があり、大脳後頭葉にある複雑な視覚野と接続されている。このインプットとアウトプットを電子デバイスで行うのはきわめて困難であり、大脳皮質との接続は現時点では夢物語にすぎない。現実に行われているfMRIなどの脳機能画像解析技術では、空間的にも時間的にも分解能がまったく足りず、装置も巨大になってしまう。しかし、電極を大脳皮質の表面に置いた皮質脳波を用いれば、アウトプットを限定的に外界の制御信号に変換することは可能なようである。一つ一つのニューロンの活動電位をモニターする高密度な電極と超高速のデータ処理システムが開発できれば、電子デバイスとの接続も可能になるかもしれない。また、数十万個のニューロンから成る「カラム」単位で行われている情報処理を模倣することであれば、ニューロン単位の処理よりも容易にできる。もしもそのような形でデバイスとの接続を果たしたとしても、人の前頭前野にある「ワーキング・メモリー」の容量は実に小さいため、処理の限界がある。前頭前野は自我や道徳心、人格に関係しており、外部デバイスで拡張することにはリスクが伴う。電脳化への道はなかなか険しいようだ。しかし、いつかは実現するのではないかというのが著者の見方である。本章では作品はあまり登場しないが、『攻殻機動隊』の先見性は高く評価されている。

 3章は「意識のデータ化」を扱う。本章で言う意識のデータ化とは、言語生成AI「ChatGPT」がしているように人の言動をあらかじめ学習させて人格や言動を模倣した応答をさせるということではなく、脳の機能をそのまま機械の上で働かすことである。意識は、視覚・聴覚・触覚などの感覚系がキャッチした情報をリアルな世界のものとして認知し、ある対象について注意を向けることを基礎とする(大脳皮質の機能)。その上で、認知した対象に付随して人は情動を感じる(大脳辺縁系の機能)。この二つの独立した認知システムを前頭前野が取りまとめて、はじめて「心」が生じる。さらに、脳の機能には意識されないものも多い。たとえば、小脳は過去の運動学習にもとづいて運動プログラムを作成し、大脳基底核は運動を制御している。これらは普段まったく意識されていないが、やはり脳の機能として重要である。「認知」「情動」「無意識」などの脳の機能はかなり複雑であり、大脳皮質の情報処理機構はほとんど解明されていないため、すべて機械に移し替えることはまだまだ困難であると思われる。また、有機的な身体からのインプットがなければ「意識」は存在できないので、脳だけで生きる場合は、本来の脳の活動と異なるものになるだろう。ロボットのような物理的な身体を与える方が、本来の脳の機能に近づくことができる。結論として「意識のデータ化」は現状では難しいということになる。作品としては『順列都市』『ディアスポラ』『ユービック』『オルタード・カーボン』、漫画『攻殻機動隊』『アップルシード』『銃夢』『銀の三角』、映画『マトリックス』、アニメ『SDガンダムフォース』『ゼーガペイン』『シュタインズ・ゲート』などが挙げられている。

 4章は「人工冬眠」を扱う。SFの世界では、人工冬眠は未来への旅(『夏への扉』など)と宇宙への旅(『2001年宇宙の旅』、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』、映画『パッセンジャー』、漫画『火の鳥』など)によく登場する。宇宙空間において、宇宙線が遺伝子にダメージを与えるのは分裂中の細胞に対してなので、人工冬眠で代謝を下げればダメージを抑制できるし、筋萎縮や骨量低下も減少させることができる。冬眠する動物は、脳の視床下部にある体温の設定温度を定める機能によって設定温度を変え、低代謝状態を作り出している。しかし、機構は不明なので、人体への応用はまだできていない。NASAでは「強制冷却」によって代謝を下げる研究が行われているが、冬眠期間は長くて2週間程度であり、様々なデメリットが生じる。2020年に、著者らの研究チームは、非冬眠動物であるマウスで視床下部のニューロン群(Qニューロン)を興奮させることにより低代謝状態を作り出すことに成功している。ヒトの医療への応用が期待されており、将来は人工冬眠が可能になるかもしれない。

 5章は「記憶の書き換え」を扱う。記憶には様々な種類があり、海馬は「陳述記憶」、扁桃体は情動記憶、大脳基底核や小脳は手続き記憶というように、脳の各場所で記憶の機能が異なっている。情動記憶や手続き記憶は言葉で表現できない「非陳述記憶」であり、陳述記憶とは独立して成立している。人の記憶は多層構造なのである。陳述記憶だけを書き換えても、リアリティのある記憶にはならないだろう。また、海馬には「メモリー・エングラム」と呼ばれる記憶痕跡が作られ、それが大脳皮質のニューロンに働きかけることで長期記憶が大脳皮質に作られるため、このメカニズムがわからないと陳述記憶の書き換えは困難である。非陳述記憶は陳述記憶以上に広範な脳領域にまたがっているため、さらにメカニズムの解明が難しい。記憶の書き換えは当分はフィクションの世界に留まるようだ。作品としては『攻殻機動隊』、映画『インセプション』、ドラマ『ジョー90』などが挙げられている。

 6章は「脳と時間の流れ」を扱う。古典物理学では時間は一定に流れているが、量子力学では主観的な意識が重要となる。現実のニューロンは分子の時間的な因果関係を利用して情報伝達を行っているので、古典的物理学に従っている。脳のメカニズムも時間の流れとともに変化し、脳は過去の出来事を記憶することはできない。エベレットの多世界解釈では、観測者も系の中の要素と捉えるが、これは「観測によって波動が収縮する」と言うよりは、多くの可能性の中のある一つの世界に意識が入り込むのだと著者は述べている。この宇宙は無限に存在するマルチバースの中の一つだという考え方である。我々の意識は、宇宙の時間軸上の出来事を映画のコマのように飛び飛びにたどっているのだと著者は捉えている。従って、脳の処理能力を上げれば、時間は(他の人から見て)速く進み、意識の作動が止まれば時の流れも止まるというわけだ。こうした考えで書かれたわけではないが、タイムトラベルを扱った作品として、『タイムマシン』『異星の客』『タイタンの妖女』、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インターステラー』『テネット』などが挙げられている。

 7章は「脳の潜在能力」を扱う。「脳は潜在能力の10%しか使っていない」というのは1936年に米国の作家ローウェル・トーマスが自著の中で述べた言葉だが、科学的には完全に否定されていると著者は言う。もし90%が停止しているなら、不要な組織を常に持っていることになり、生物の生存には不利である。大きな頭は出産に不利であり、不必要な部分はできるだけ排除されることが生存には求められているはずだ。脳は少しのダメージでも重大な影響を被るので、そこから考えても常にフルに活動しているはずである。現在では、機能を持たない領域は大脳皮質にはないことがわかっている。ぼーっとしているときでも、深いノンレム睡眠中であっても、すべての脳領域に活動が認められる。ただし、活動していても、前頭前野の働きにより機能が自己規制されている可能性はある。ノルアドレナリンが前頭前野に分泌されると、大脳皮質の情報処理精度が高まる(ごくわずかな変容だが)。日々の努力によっても、脳の情報処理能力は変化するので、努力は決して無駄ではないとの結論である。作品としては、映画『ルーシー』『リミットレス』、『ドノヴァンの脳髄』が挙げられている。

 8章は「眠らない脳」を扱う。睡眠とは休んでいるという消極的な状態ではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程なのだと著者は述べる。「記憶の固定化」など重要な役割を担っている。睡眠がないと、恒常性の維持機構、免疫系、全身の機能が狂ってしまう。睡眠中は危険に対処できないと言う不利がありながら、長い生命進化のなかで睡眠は決して除くことができなかった。しかし、近年睡眠を起こす力はシナプスにおける機能性タンパク質がリン酸化して作られることがわかってきた。リン酸化は酵素の働きなので、酵素阻害薬などで睡眠を操作できるようになるかもしれない。そうすれば『ベガーズ・イン・スペイン』のように、「無眠人」の誕生も夢ではないだろう。

 9章は「AIとこころ」を扱う。2022年11月に公開された「ChatGPT」は、時系列データを処理してきた従来の「リカレントニューラルネットワーク」を用いずに、特定の特徴に重みづけをする「アテンション」を用いるところに特色がある。「ChatGPT」との会話は極めて自然で、心をもっているように見える。「ヒトの心も脳が定型的な応答をしているにすぎない」と考えればヒトの心とAIにそれほど違いはないようにも思えるが、いまのところ、AIにメタ認知機能や感情はないと考えられており、ヒトの心との違いは歴然としてある。AIが心をもつには、「自分が自分である」と認知し、社会や環境の中でみずからの置かれている状況を理解する「自意識」が必要である。3章で述べたように、そのためには自己を他者と区別できるような「身体」が必要になってくる。個性や社会性も必要である。こうした条件をクリアしてAIが心をもったとしたら、ヒトと同じように、社会を支配したいという欲求をもつだろう。そのようなSF作品は数多くあり、映画『ターミネーター』『マトリックス』、漫画『火の鳥』が挙げられている。逆に、心をもっても欲望に支配されず、ヒトの社会をよりよくするために機能するAIも考えられる。著者はこちらに希望を持っている。

 以上、本書の内容を要約してみたが、脳科学の最前線が丁寧に紹介され、SF作品に登場するテクノロジーがどこまで実現可能なのかがよくわかる、良質の解説書となっている。著者は睡眠の研究者であるため、4章と8章は特に専門的分野からの知見を垣間見ることができ、興味深い章となっている。全体としては、科学が進んできているが、まだまだ人間の脳は解明されていない部分が多く、電子デバイスとの結合、記憶の書き換えなどは難しそうだ。だからこそ、SF作品のもつ想像力がより重要になってくると思われる。現実を敷衍させ、または現実への否定から生まれた想像力が現実に作用し、現実のテクノロジーをより発達させる。そのような相互作用こそが優れたSFを生み続ける土壌として必要とされているのだ。

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