永井豪『鬼 ―2889年の反乱―』2012-02-19 23:01

 『ジェノサイド』を読んで、大量虐殺を続ける人間のどうしようもない愚かさを描いた作品をいろいろと思いだしていたのだが、やはり自分の根本にあるのは永井豪の『デビルマン』ではないかという結論に達した(もちろんアニメではなく「少年マガジン」に連載された原作の方)。

 この作品の衝撃というのは凄まじく、今でも人間が馬鹿なことばかり繰り返していると(イスラエルがイランを攻撃すると脅したりね)、「お前らこそが悪魔だ」「地獄へ堕ちろ人間ども!」という5巻のセリフが見開きで炎を吐きだすデビルマンの姿とともに頭に浮かんでくるほどである。人間の敵として迫害されるデビルマンこそが人類の救世主であり、人間が悪魔そのものに見えてくるという逆転の発想に、小学生だった当時の自分は心の底からしびれてしまったわけだ。そして初期の設定をことごとく否定し、真実へとたどりつくまでの謎に満ちた後半の展開も実にスリリングであった。昔からあの展開はいつから考えてあったのだろうと不思議に思っていたのだが、永井豪がデビルマン執筆時を振り返る半自伝的マンガ『激マン!』が現在5巻まで刊行中であり(2010年5月~『漫画ゴラク』にて連載中)、これを読むと当時の様子が実によくわかる。飛鳥了が実は××だったという展開はやはり最初からの構想ではなく、後から思いついたものであったらしい。途中で思いついたにしては、このアイディアは完璧な着地点である。傑作が生まれるときというのは、こういう奇跡の瞬間があるものなのだ。後半の怒濤のような展開も、実は連載打ち切りを数カ月延ばしてもらってやっと描き上げることができたものだったという顛末が語られており、永井豪ファンというか、『デビルマン』ファンは必読の内容となっている。ただし、これ、半分ぐらいは『デビルマン』の内容を描き直しているので、既に単行本を持っている読者には無用の長物だし、これで初めて『デビルマン』を読む読者がいたらちょっと可哀想である。何といっても、『デビルマン』後半の魅力の大きな部分は、連載当時でなければ永井豪が描き得なかった、熱気のこもったダイナミックな画風にあるのだから。

 さて、前置きが長くなってしまったが、永井豪が初めてシリアスなSFに取り組んだとされる作品が「鬼 ―2889年の反乱―」(1970)である。人間の奴隷として虐待を受けてきた合成人間である「鬼」が人間に対して反乱を起こす物語であり、鬼の人間に対する問いかけ――「俺の心を鬼にしたのは誰だ?」というセリフは、デビルマンの人間に対する呪詛――「お前らこそ悪魔だ」というセリフと明瞭に響き合っている。結末は、人間への復讐を続ける鬼が、これでは自分も人間と同じではないかと気づく場面で終わっており、「1970年1月1日、未来人が鬼によせた偏見と侮蔑、それとまったくおなじ行為がおこなわれていないと断言できる人はいるだろうか」と作者は突如現代へと批判の矛先を向ける。さらに畳みかけるように作者は「あなたの一つ一つの行為が、未来においてだれかをおいつめ、だれかをあのはてしなき殺戮にかりたてようとしてはいないだろうか…」と書くのだが、こういう読者への問いかけで終わる漫画って、今はもうないよね。これから40年以上が経過した今でも、世界情勢は全く良くなっていない。ということはこの作品の狙いは今でも有効ということだ。未読の方はぜひご一読あれ。

コメント

_ スターライト ― 2012-02-21 07:37

永井豪の「鬼」を読んだ時のショックは、僕も忘れられません。週刊少年マガジンでなく、講談社から出ていた『永井豪SF傑作集2』で読み、ぶっとんでしまいました。懐かしいです。

_ 渡辺英樹 ― 2012-02-21 21:10

スターライトさんも読んでたんですね。これ、やはり傑作ですよね。他にも「ススムちゃん大ショック」とか「ミッドナイト・ソルジャー」とか永井豪は短編に傑作が多いなあ。

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