『地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短編集』イアン・ワトスン(2025年10月/Vitamin SF picopublishing/本城雅之・木下充矢・訳) ― 2025-11-07 21:49
本書は自費出版により刊行されたイアン・ワトスンの短篇集であり、1975年から1990年にかけての7篇を収めている。発行元は〈Vitamin SF picopublishing〉。かつて〈Vitamin SF〉という正会誌を発行していた神戸大学SF研究会のOBから成る団体で、ワトスンにコンタクトをとり、正式に翻訳権を取得しての出版であると言う。翻訳出版全体が沈下傾向にあり、部数が少ないために単価が高くなっている現在、このように従来とは異なる形で海外SFが刊行されることの意義は大変大きく、賞賛すべき偉業と言えるだろう。2020年にも、翻訳権を取得したうえでの自費出版としてキース・ロバーツ『モリー・ゼロ』が翻訳刊行されており(蛸井潔・訳/発行)、このような形での刊行が今後も増えていくのではないか。というか、増えていってほしい。70年代から80年代、90年代にかけての海外SFには、まだまだ埋もれた作品が多くあり、わずかながらかもしれないが、翻訳の需要はあると思われるためである。
さて、ワトスンの翻訳は今までに長篇8冊、短篇集1冊が刊行されているが、近年は翻訳が途絶えていた。2010年に『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された「彼らの生涯の最愛の時」(大森望・訳)を最後に、15年間翻訳されることはなかった。ところが、今年(2025年)になって、アトリエサード発行の雑誌〈ナイトランド・クォータリー〉39号に「慰めの散歩」(大和田始・訳)が掲載され、本書も刊行されるといった具合に、ワトスン祭りとも言うべき様相を呈している。実に喜ばしいことだ。これが一時のもので終わらないように、ぜひとも興味をもった方は、本書を購入して実際に読んでみてほしい。奇才ワトスンの筆の冴えが存分に味わえるはずである。購入先は以下のとおり。
https://booth.pm/ja/items/7532963
それでは、以下収録順に紹介し、コメントをつけていく。
「免疫の夢」(1978年)
イギリスで癌研究に取り組むローゼンは、免疫系が上位システムである心と深く結びついており、免疫系が見せる夢によって癌の発症を予測できると固く信じている。フランスの睡眠研究者ティボーの理論によれば、後橋脳領域は筋肉への夢の信号をオフにする機能をもつため、ここを切除すれば夢がそのまま筋肉へ伝わり、行動として現れる。夢は遺伝子の制御テープであり、癌は遺伝子型の複製を品質管理するために存在するとティボーは言う。ティボーの研究室で実際に後橋脳領域を切除された猫を見せられたローゼンは、自分も後橋脳領域を切除することで、ティボーの理論を実証しようとする。そのためには、フランスやイギリスではなくモロッコに行かなくてはならない。ローゼンは手術の前に、ある恐ろしい行動を取ってしまう……。狂人的な観念に取りつかれた男の悲劇を描いた、いかにもワトスンらしい作品。ブラックライトの中でうごめく猫たちがホラー風味を増している。
「ジェインといっしょに鉱泉室(ポンプ・ルーム)へ」(1975年)
8年前にロマンスが芽生えかけたが、別れてしまったジェインとフレデリック。二級船員だったフレデリックは、今や艦長となり氷山曳航船を率いている。この時代、気温は上昇し大気は汚れ、氷山曳航船が南氷洋から運んでくる氷が大変貴重なものとして国に届けられ、人々に配給される水のもとになっている。配給は鉱泉室(ポンプ・ルーム)で行われるが、上流階級でないジェインと母はいつも混雑する時間を割り当てられている。フレデリックと再会したジェイン母娘は、彼に便宜を計ってもらい、上流階級用の時間に変更してもらう。再びロマンスの予感が漂うが……。ジェインの見ている世界と現実世界との落差が読者に衝撃を与える、プリーストばりの一作。
「帰郷」(1982年)
ソビエト連邦とアメリカの冷戦が続いていた時代。ついにアメリカはあらゆる生き物を強力な放射線で殺戮する「超放射能爆弾(SRB)」をソ連に打ち込み、逆にソ連はあらゆる人工物を消し去ってしまう「社会主義者爆弾(SOB)」をアメリカに打ち込んだ。結果として、ソ連の人々はみな死に絶え、アメリカの物資はすべてなくなってしまう。残されたソビエト海軍の船を使ってアメリカの生存者はソ連へと渡り、そこで生活を始める。ところが、暮らしているうちに、徐々に名前も心もソ連風に変化していき……。強烈な皮肉が炸裂する寓話的な一篇。困窮したアメリカをどこの国も救おうとしないという展開からは、強権を振りかざし自国中心に振る舞うアメリカの一面は当時も今も変わらないことが。
「オオカミの日」(1983年)
イギリスの田舎村に絶滅寸前のオオカミを移住させるが、村の人々はそれを快く思っていない。老婆がオオカミに食われたという孫娘の話を聞いて、真偽を疑う管理官のジョシュアだが、老いたオオカミが目の前に出現し、老婆の姿をその中に見る。ジョシュアは結局はオオカミを射殺してしまうが、オオカミを保護する立場にあるため、そのことは誰にも言えない。赤ずきんの変奏という形をとって、自然と人間の対立を幻想風味で描いた異色作となっている。
「地球の鏡の中で」(1983年)
世界の主要な都市が水没し人口が二十億しかいない未来、人々は眠らないように身体が変容していた。その中でも一日に8時間眠ることができる者は〈眠る人〉と呼ばれ、夢を現実化する能力をもつため、特別待遇を受けている。〈眠る人〉は世界に6人しかいない。主人公のトマス・ダクィーノは7人目の〈眠る人〉であるラウィーノを発見し、ともに暮らすようになるが……。ワトスンの奇想が遺憾なく発揮された一篇で、夢の大規模投射というメインアイディアにはプリースト『ドリームマシン』からの影響も垣間見える。語り手の名が『神学大全』を著し、キリスト教とギリシア自然科学を結合させて後の科学革命の基礎を築いたトマス・アクィナスと同一なのは偶然ではないだろう。〈眠る人〉が行っているのは、いわゆるキリスト教的な奇蹟であり、そこから啓示を受けてトマスが作ろうとしているのは、エッフェル塔にも似た近代的建造物なのである。
「スターリンの涙」(1990年)
地図作成部に勤務する検閲官ワレンチン大佐は検閲局長ミロフから二年以内に本当の全国地図を作成することを命じられる。語学に堪能な地理学院卒業生グルーシャとともに仕事を始めるが、期間内に任務を達成することは困難だ。実は、オリジナルの地図はすべて裁断されて残っておらず、作成部が作って来たのは偽の地図に過ぎなかった。そして、偽の地図の死角に当たる場所に、時間を超えた不思議な空間が存在する。そこでは若返ることができたり、体内からエクトプラズムを発生する女性がいたりするのだ。行方不明となったグルーシャを探すため、ワレンチンとミロフはその空間に入り込み、不思議な形で死と再生を経験する……。表面に模様を描いた卵が果たす象徴的な役割が強い印象を残す作品だ。
「アーヤトッラーの眼」(1990年)
イラクとの戦争で右目と顔の一部を失ったイラン人のアリは、戦争終結後に亡くなった指導者アーヤトッラーの遺体から人々が屍衣をはぎ取るのに交じって偶然片目をつかみ、その目玉を持って来てしまう。ホルマリン漬けにして目を保存するうちに、アリは〈悪魔の作家〉を探すプロジェクトに参加し、人工眼を右目に装着して、人工衛星からの映像を見るようになる。ようやくスコットランド沖の島で作家を見つけ、そこへ向かうが……。アーヤトッラーとは1989年に亡くなったイランの指導者ホメイニ師の尊称であり、〈悪魔の作家〉とは、ホメイニ師が亡くなる直前にイスラム教を揶揄しているとして死刑宣告を与えた作家のサルマン・ルシュディ(ラシュディ)を指していることは明らかだ。この死刑宣告はファトワー(布告、勧告)として出され、出した本人しか撤回できない。ホメイニは宣告したまま亡くなってしまったので、死刑宣告は今でも有効であると考える者がおり、実際に2022年にルシュディはイスラム教徒に襲われ、瀕死の重傷を負い、片目を失明した。ワトスンの想像力が現実に先行した展開を示していることが実に興味深い。ただし、襲撃者のとった行動は真逆であり、そこにワトスンなりの宗教観がにじみ出ていると言えるだろう。
以上7篇、いずれも大変内容の密度が濃く、表面的に読んだだけでは内容が理解できないものが多い。じっくりと読んで考え、事実を調べて小説と照合して初めて、こういうことかなと腑に落ちる。または、もやもやが残ったままになる。しかし、実はそれこそが小説を読む醍醐味ではないのか。1980年に『超低速時間移行機』を読んで大きな衝撃を受けて以来、ワトスンは自分にとって、常に重要な作家であり続けてきた。こうして、久しぶりにまとまった数の作品、しかも歯ごたえ十分の作品を読んで、ワトスンらしさを存分に味わうことができた。巻末のリストによれば、1990年以降も、ワトスンは多くの長篇とともに年に数篇の短篇を現在に至るまで発表してきたことがわかる。長篇は難しいと思うので、ぜひとも本書の刊行者=訳者には、1990年以降の短篇も訳していってほしい。それだけの価値はある作家だと思うのは筆者だけではないはずだ。
さて、ワトスンの翻訳は今までに長篇8冊、短篇集1冊が刊行されているが、近年は翻訳が途絶えていた。2010年に『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された「彼らの生涯の最愛の時」(大森望・訳)を最後に、15年間翻訳されることはなかった。ところが、今年(2025年)になって、アトリエサード発行の雑誌〈ナイトランド・クォータリー〉39号に「慰めの散歩」(大和田始・訳)が掲載され、本書も刊行されるといった具合に、ワトスン祭りとも言うべき様相を呈している。実に喜ばしいことだ。これが一時のもので終わらないように、ぜひとも興味をもった方は、本書を購入して実際に読んでみてほしい。奇才ワトスンの筆の冴えが存分に味わえるはずである。購入先は以下のとおり。
https://booth.pm/ja/items/7532963
それでは、以下収録順に紹介し、コメントをつけていく。
「免疫の夢」(1978年)
イギリスで癌研究に取り組むローゼンは、免疫系が上位システムである心と深く結びついており、免疫系が見せる夢によって癌の発症を予測できると固く信じている。フランスの睡眠研究者ティボーの理論によれば、後橋脳領域は筋肉への夢の信号をオフにする機能をもつため、ここを切除すれば夢がそのまま筋肉へ伝わり、行動として現れる。夢は遺伝子の制御テープであり、癌は遺伝子型の複製を品質管理するために存在するとティボーは言う。ティボーの研究室で実際に後橋脳領域を切除された猫を見せられたローゼンは、自分も後橋脳領域を切除することで、ティボーの理論を実証しようとする。そのためには、フランスやイギリスではなくモロッコに行かなくてはならない。ローゼンは手術の前に、ある恐ろしい行動を取ってしまう……。狂人的な観念に取りつかれた男の悲劇を描いた、いかにもワトスンらしい作品。ブラックライトの中でうごめく猫たちがホラー風味を増している。
「ジェインといっしょに鉱泉室(ポンプ・ルーム)へ」(1975年)
8年前にロマンスが芽生えかけたが、別れてしまったジェインとフレデリック。二級船員だったフレデリックは、今や艦長となり氷山曳航船を率いている。この時代、気温は上昇し大気は汚れ、氷山曳航船が南氷洋から運んでくる氷が大変貴重なものとして国に届けられ、人々に配給される水のもとになっている。配給は鉱泉室(ポンプ・ルーム)で行われるが、上流階級でないジェインと母はいつも混雑する時間を割り当てられている。フレデリックと再会したジェイン母娘は、彼に便宜を計ってもらい、上流階級用の時間に変更してもらう。再びロマンスの予感が漂うが……。ジェインの見ている世界と現実世界との落差が読者に衝撃を与える、プリーストばりの一作。
「帰郷」(1982年)
ソビエト連邦とアメリカの冷戦が続いていた時代。ついにアメリカはあらゆる生き物を強力な放射線で殺戮する「超放射能爆弾(SRB)」をソ連に打ち込み、逆にソ連はあらゆる人工物を消し去ってしまう「社会主義者爆弾(SOB)」をアメリカに打ち込んだ。結果として、ソ連の人々はみな死に絶え、アメリカの物資はすべてなくなってしまう。残されたソビエト海軍の船を使ってアメリカの生存者はソ連へと渡り、そこで生活を始める。ところが、暮らしているうちに、徐々に名前も心もソ連風に変化していき……。強烈な皮肉が炸裂する寓話的な一篇。困窮したアメリカをどこの国も救おうとしないという展開からは、強権を振りかざし自国中心に振る舞うアメリカの一面は当時も今も変わらないことが。
「オオカミの日」(1983年)
イギリスの田舎村に絶滅寸前のオオカミを移住させるが、村の人々はそれを快く思っていない。老婆がオオカミに食われたという孫娘の話を聞いて、真偽を疑う管理官のジョシュアだが、老いたオオカミが目の前に出現し、老婆の姿をその中に見る。ジョシュアは結局はオオカミを射殺してしまうが、オオカミを保護する立場にあるため、そのことは誰にも言えない。赤ずきんの変奏という形をとって、自然と人間の対立を幻想風味で描いた異色作となっている。
「地球の鏡の中で」(1983年)
世界の主要な都市が水没し人口が二十億しかいない未来、人々は眠らないように身体が変容していた。その中でも一日に8時間眠ることができる者は〈眠る人〉と呼ばれ、夢を現実化する能力をもつため、特別待遇を受けている。〈眠る人〉は世界に6人しかいない。主人公のトマス・ダクィーノは7人目の〈眠る人〉であるラウィーノを発見し、ともに暮らすようになるが……。ワトスンの奇想が遺憾なく発揮された一篇で、夢の大規模投射というメインアイディアにはプリースト『ドリームマシン』からの影響も垣間見える。語り手の名が『神学大全』を著し、キリスト教とギリシア自然科学を結合させて後の科学革命の基礎を築いたトマス・アクィナスと同一なのは偶然ではないだろう。〈眠る人〉が行っているのは、いわゆるキリスト教的な奇蹟であり、そこから啓示を受けてトマスが作ろうとしているのは、エッフェル塔にも似た近代的建造物なのである。
「スターリンの涙」(1990年)
地図作成部に勤務する検閲官ワレンチン大佐は検閲局長ミロフから二年以内に本当の全国地図を作成することを命じられる。語学に堪能な地理学院卒業生グルーシャとともに仕事を始めるが、期間内に任務を達成することは困難だ。実は、オリジナルの地図はすべて裁断されて残っておらず、作成部が作って来たのは偽の地図に過ぎなかった。そして、偽の地図の死角に当たる場所に、時間を超えた不思議な空間が存在する。そこでは若返ることができたり、体内からエクトプラズムを発生する女性がいたりするのだ。行方不明となったグルーシャを探すため、ワレンチンとミロフはその空間に入り込み、不思議な形で死と再生を経験する……。表面に模様を描いた卵が果たす象徴的な役割が強い印象を残す作品だ。
「アーヤトッラーの眼」(1990年)
イラクとの戦争で右目と顔の一部を失ったイラン人のアリは、戦争終結後に亡くなった指導者アーヤトッラーの遺体から人々が屍衣をはぎ取るのに交じって偶然片目をつかみ、その目玉を持って来てしまう。ホルマリン漬けにして目を保存するうちに、アリは〈悪魔の作家〉を探すプロジェクトに参加し、人工眼を右目に装着して、人工衛星からの映像を見るようになる。ようやくスコットランド沖の島で作家を見つけ、そこへ向かうが……。アーヤトッラーとは1989年に亡くなったイランの指導者ホメイニ師の尊称であり、〈悪魔の作家〉とは、ホメイニ師が亡くなる直前にイスラム教を揶揄しているとして死刑宣告を与えた作家のサルマン・ルシュディ(ラシュディ)を指していることは明らかだ。この死刑宣告はファトワー(布告、勧告)として出され、出した本人しか撤回できない。ホメイニは宣告したまま亡くなってしまったので、死刑宣告は今でも有効であると考える者がおり、実際に2022年にルシュディはイスラム教徒に襲われ、瀕死の重傷を負い、片目を失明した。ワトスンの想像力が現実に先行した展開を示していることが実に興味深い。ただし、襲撃者のとった行動は真逆であり、そこにワトスンなりの宗教観がにじみ出ていると言えるだろう。
以上7篇、いずれも大変内容の密度が濃く、表面的に読んだだけでは内容が理解できないものが多い。じっくりと読んで考え、事実を調べて小説と照合して初めて、こういうことかなと腑に落ちる。または、もやもやが残ったままになる。しかし、実はそれこそが小説を読む醍醐味ではないのか。1980年に『超低速時間移行機』を読んで大きな衝撃を受けて以来、ワトスンは自分にとって、常に重要な作家であり続けてきた。こうして、久しぶりにまとまった数の作品、しかも歯ごたえ十分の作品を読んで、ワトスンらしさを存分に味わうことができた。巻末のリストによれば、1990年以降も、ワトスンは多くの長篇とともに年に数篇の短篇を現在に至るまで発表してきたことがわかる。長篇は難しいと思うので、ぜひとも本書の刊行者=訳者には、1990年以降の短篇も訳していってほしい。それだけの価値はある作家だと思うのは筆者だけではないはずだ。
『嘘つき姫』坂崎かおる(2024年3月/河出書房新社) ― 2025-08-01 10:03
本書は、二〇二〇年に「リモート」で第1回かぐやSFコンテストの審査員特別賞を受賞し、以後多くの文学賞で受賞・入賞を果たした作者による第一作品集である。
事故で身体が動かないため、人型ロボットの筐体にリモートで接続された男子中学生を主人公にした「リモート」、戦場で二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ兵士の物語「リトル・アーカイヴス」など、近未来でのヒトと機械との関わりを描いた作品から、十九世紀末、電気が実用化された頃のアメリカで、電気椅子についての所見を蓄えるため、決して死なない〈魔女〉がサーカスの見世物の形で何度も処刑される「ニューヨークの魔女」、一九六二年にキューバ危機が訪れたアメリカの田舎町で、ロバによく似た生き物〈D〉の一人が虐待を受ける「ファーサイド」、電信柱を恋をした女性の話「電信柱より」など、象徴的かつ寓話的な作品まで、著者は様々な題材や主題で読者を惹きつける。文章は平易で端正、無駄がなく読みやすい。つるつる読めるが、読み終えたあとに余韻が残る。響きがある。そんな作品集である。
とりわけ印象に残ったのが、表題作「嘘つき姫」と、書き下ろし「私のつまと、私のはは」の二編。前者は一九四〇年、ドイツ軍が侵攻してきたフランスにおいて、母の死により孤児となったマリーと、その直前にマリーの母に救われたエマの二人が姉妹を偽装し、戦火の中を生き延びていく物語。嘘をつかねば生きていけない運命のもと、マリーのついた嘘と、エマのついた嘘が交錯し、複雑に絡み合う。手記の形をとっているため、読者もまた二人の嘘に翻弄され、小出しにされる真実に戦慄する。ネタバレになるので詳しく書けないが、真実が直接描かれていないだけに、より想像力が刺激され、恐ろしい。この手法は、坂崎作品のあちこちで見られるものだ。「あーちゃんはかあいそうでかあいい」のあーちゃんは結末で何をしたのか。扉の向こうには何があるのか。想像するしかないのだが、これは結構怖いことだ。本編における〈嘘つき姫〉はマリーなのか、エマなのか、それとも両方を指すのか。2章がエマの嘘で、1章がマリーの嘘、3章が真実という一応の構成が見てとれるが、これも疑い出せばキリがない。いずれにせよ、嘘の果てに見いだされた、エマのマリーに向けての愛、これは信じるしかないものだろう。
「私のつまと、私のはは」は、「リモート」同様、近未来の日本を舞台にしたテクノロジーものだが、拡張現実装置(ARグラス)を身につけ、子育てのシミュレーションを行うレズビアンのカップルを主役にしている点に新鮮さがある。カップルには子育てに対する温度差があり、デザイナーの理子は、パンフレットを作る仕事の一環として子育て体験キット〈ひよひよ〉のデモ版を送られ、嫌々ながら育児シミュレーションに参加する。片や、看護師をしているパートナーの知由里は、最初からこのシミュレーションに積極的な姿勢を取り、子を望むレズビアンカップルの〈集い〉にも〈ひよひよ〉を連れて行こうとして、理子と対立する。知由里は〈ひよひよ〉が本当の人間の赤ちゃんであるかのように、心を込めて接し、あたかも母のように振る舞うのである。逆に、理子は相手は機械に過ぎないと考え、育児も極力合理的に行う。この違いが徐々にエスカレートしていき、ついには……という物語なのだが、結末で本当にぞっとさせられる場面がある。たった一文ですべてを想像させる、この破壊力を備えた構成は見事だ。途中で何度か知由里の家族に関する描写があるので、なるほど、そうだったのかと深く腑に落ちる。表面的な〈母のやさしさ〉の欺瞞を鋭くえぐる問題作である。
また、抜けた歯をモチーフとして女性から女性への奇妙な愛の形を描く「あーちゃんはかあいそうでかあいい」、小学生が爪を集めて埋めると指が生えてくる、異様な状況を淡々と描いた「日出子の爪」は、どちらも〈身体から切り離された身体〉が重要な役割を果たしている。
ありそうでない話。奇妙な味。少し不思議。肉体性を備えた精神的な物語。どう形容しても、ちょっとずれる。そこにこそ本書の魅力がある。とりあえずは、世の中の矛盾や残酷さをストレートに描かず、周辺を描くことによって逆に浮き彫りにしていく点に坂崎作品の特色があるようだ。まだ書き始めて間もないし、これからどんどん傑作が生まれていく予感がある。今後の活躍に大いに期待したい。
事故で身体が動かないため、人型ロボットの筐体にリモートで接続された男子中学生を主人公にした「リモート」、戦場で二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ兵士の物語「リトル・アーカイヴス」など、近未来でのヒトと機械との関わりを描いた作品から、十九世紀末、電気が実用化された頃のアメリカで、電気椅子についての所見を蓄えるため、決して死なない〈魔女〉がサーカスの見世物の形で何度も処刑される「ニューヨークの魔女」、一九六二年にキューバ危機が訪れたアメリカの田舎町で、ロバによく似た生き物〈D〉の一人が虐待を受ける「ファーサイド」、電信柱を恋をした女性の話「電信柱より」など、象徴的かつ寓話的な作品まで、著者は様々な題材や主題で読者を惹きつける。文章は平易で端正、無駄がなく読みやすい。つるつる読めるが、読み終えたあとに余韻が残る。響きがある。そんな作品集である。
とりわけ印象に残ったのが、表題作「嘘つき姫」と、書き下ろし「私のつまと、私のはは」の二編。前者は一九四〇年、ドイツ軍が侵攻してきたフランスにおいて、母の死により孤児となったマリーと、その直前にマリーの母に救われたエマの二人が姉妹を偽装し、戦火の中を生き延びていく物語。嘘をつかねば生きていけない運命のもと、マリーのついた嘘と、エマのついた嘘が交錯し、複雑に絡み合う。手記の形をとっているため、読者もまた二人の嘘に翻弄され、小出しにされる真実に戦慄する。ネタバレになるので詳しく書けないが、真実が直接描かれていないだけに、より想像力が刺激され、恐ろしい。この手法は、坂崎作品のあちこちで見られるものだ。「あーちゃんはかあいそうでかあいい」のあーちゃんは結末で何をしたのか。扉の向こうには何があるのか。想像するしかないのだが、これは結構怖いことだ。本編における〈嘘つき姫〉はマリーなのか、エマなのか、それとも両方を指すのか。2章がエマの嘘で、1章がマリーの嘘、3章が真実という一応の構成が見てとれるが、これも疑い出せばキリがない。いずれにせよ、嘘の果てに見いだされた、エマのマリーに向けての愛、これは信じるしかないものだろう。
「私のつまと、私のはは」は、「リモート」同様、近未来の日本を舞台にしたテクノロジーものだが、拡張現実装置(ARグラス)を身につけ、子育てのシミュレーションを行うレズビアンのカップルを主役にしている点に新鮮さがある。カップルには子育てに対する温度差があり、デザイナーの理子は、パンフレットを作る仕事の一環として子育て体験キット〈ひよひよ〉のデモ版を送られ、嫌々ながら育児シミュレーションに参加する。片や、看護師をしているパートナーの知由里は、最初からこのシミュレーションに積極的な姿勢を取り、子を望むレズビアンカップルの〈集い〉にも〈ひよひよ〉を連れて行こうとして、理子と対立する。知由里は〈ひよひよ〉が本当の人間の赤ちゃんであるかのように、心を込めて接し、あたかも母のように振る舞うのである。逆に、理子は相手は機械に過ぎないと考え、育児も極力合理的に行う。この違いが徐々にエスカレートしていき、ついには……という物語なのだが、結末で本当にぞっとさせられる場面がある。たった一文ですべてを想像させる、この破壊力を備えた構成は見事だ。途中で何度か知由里の家族に関する描写があるので、なるほど、そうだったのかと深く腑に落ちる。表面的な〈母のやさしさ〉の欺瞞を鋭くえぐる問題作である。
また、抜けた歯をモチーフとして女性から女性への奇妙な愛の形を描く「あーちゃんはかあいそうでかあいい」、小学生が爪を集めて埋めると指が生えてくる、異様な状況を淡々と描いた「日出子の爪」は、どちらも〈身体から切り離された身体〉が重要な役割を果たしている。
ありそうでない話。奇妙な味。少し不思議。肉体性を備えた精神的な物語。どう形容しても、ちょっとずれる。そこにこそ本書の魅力がある。とりあえずは、世の中の矛盾や残酷さをストレートに描かず、周辺を描くことによって逆に浮き彫りにしていく点に坂崎作品の特色があるようだ。まだ書き始めて間もないし、これからどんどん傑作が生まれていく予感がある。今後の活躍に大いに期待したい。
『頂点都市』ラヴァンヤ・ラクシュミナラヤン(2025年6月/東京創元社) ― 2025-07-24 21:32
本書はインド出身の作家・ビデオゲームデザイナーによる連作短編集であり、インドの出版社から二〇二〇年に刊行された。これがローカス短篇集部門の候補となり、二〇二三年に刊行されたイギリス版がクラーク賞の候補となっている。
内容は、近未来のインドの都市ベンガルールを舞台にしたディストピアものである。連作短編という形式を生かし、ベル機構と呼ばれる統治体によって徹底的に管理され、生産能力と社会的体裁を常に測られる社会体制を様々な視点から描いている。この都市では、上位二割民は、ホロ技術を用いた最新テクノロジーを自由に操り、贅沢な暮らしが保証されている。中間七割民は、徹底した管理と思想統制のもとに、生産能力を基準にして上位への昇格が奨励されており、皆が上位民の優雅な生活に憧れている。下位一割民は、アナログ民と呼ばれ、デジタル機器へのアクセスが禁じられている。上位民への奉仕が求められ、汚れた土地での生活を余儀なくされている。そればかりか、アナログ民は徹底して差別され、読み進むにつれ、生命までもが搾取されている恐ろしい実態が明らかになってくる。
ベル機構のモットーは「生産性は力なり。情熱は宝なり。社会的体裁は要(かなめ)なり。」だ。これがオーウェル『一九八四年』の管理社会を踏まえたものであることは明らかだろう。違いは、ベル機構にはビッグ・ブラザーのような偶像は存在せず、あくまでも生活の向上、豊かな生活を送ること自体を目的にして人々を操り、分断社会の維持を図っていること。その分管理の網がより細かく、システムがネットを介して個人個人の中に入り込んでくるため、巧妙かつ狡猾、抗いがたい存在として浮かび上がってくる。
たとえば、ジョン・アルヴァレスという中間七割民の青年は、上位二割民になるため、オフィーリアと呼ばれる意見均質化制限調整ユニットを使用して、自らの思想や嗜好を矯正していく。平穏暴動や白色雑音というバンド(筆者はこの名前からクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」を思わず連想してしまった)の曲が好きだったのに、オフィーリアの指示に従い、優しく穏やかなネオ生楽器曲を好むようになっていく。彼はあくまでも自分の意志によって、思考にタガをはめていくのである。
ヴァーチャル民とアナログ民の間には電気シールドが張り巡らされ、行き来が制限されている。アナログ民見学ツアーのガイドをしながら生き別れとなった妹を探すテレサや、両親は死んだと聞かされ上位民のスパイとなったが、実はそれが嘘であったことを知らされるローヒニーなど、引き裂かれた社会に翻弄される人々も本書は丁寧に描いていく。これは現代社会のあちこちに存在する壁に分断された社会を象徴していると言えるだろう。また、SNSのインフルエンサーが妊娠し、皆が利用している代胎ポッドを使わないと宣言したことからトラブルが生じるエピソードから、ベル機構が妊娠・出産も厳重に管理下に置いていることがわかる。自然分娩は生産性を著しく損なう意味から忌避されているし、中絶などすれば、貴重な生産者の芽を摘む、とんでもない反逆者とみなされてしまうのだ。高齢者看護施設もあり、認知症患者がそこで協調活動を強いられているエピソードもある。いずれも高度な管理社会である現代社会を敷衍していけば、十分あり得る未来であり、説得力がある。アナログ民出身だが、上位二割民の養女となり、アナログ式で音楽を学ぶ少女が上位二割民を目指すエピソードや、SNSのインフルエンサー3人が年間最優秀賞候補となるが、人前に出たくないためそれぞれ趣向を凝らすエピソードも面白く、興味深いものに仕上がっている。
このように、様々なエピソードを積み重ねることによって、ベル機構の全体像を明らかにしていく構成は実に巧みで、見事である。一つ一つのエピソードは読みやすく、単独で完結していると同時に、互いにゆるく結びつき、登場した人物が別のエピソードにさりげなく顔を出しているので、それを見つけていくという楽しみもあるわけだ。ゲームデザイナーとしての腕が存分に発揮されていると言ってよいだろう。
「独裁の敵は共同体だ」と本書の中で述べられているとおり、本書の終盤は、アナログ民の部族が協働してベル機構を倒すレジスタンスの話が中心となっていく。反乱が起き、アナログ民がネビュラネットと呼ばれるネットワークをハッキングし、電気シールドが切られ、照明が消える。自動車事故が起き、人事ファイルがすべて書き換えられ、続々とアナログ民がヴァーチャル区画へ侵入していく……。結果は読んでのお楽しみといったところだが、単に叛逆しておしまいではなく、宥和的な結末となっていることは特筆しておきたい。
ところどころ甘さは見られるが、ネット社会が進んだ結果のディストピアをリアリティ溢れる設定と丁寧な筆致で描いた佳作であり、一読の価値はあるだろう。
内容は、近未来のインドの都市ベンガルールを舞台にしたディストピアものである。連作短編という形式を生かし、ベル機構と呼ばれる統治体によって徹底的に管理され、生産能力と社会的体裁を常に測られる社会体制を様々な視点から描いている。この都市では、上位二割民は、ホロ技術を用いた最新テクノロジーを自由に操り、贅沢な暮らしが保証されている。中間七割民は、徹底した管理と思想統制のもとに、生産能力を基準にして上位への昇格が奨励されており、皆が上位民の優雅な生活に憧れている。下位一割民は、アナログ民と呼ばれ、デジタル機器へのアクセスが禁じられている。上位民への奉仕が求められ、汚れた土地での生活を余儀なくされている。そればかりか、アナログ民は徹底して差別され、読み進むにつれ、生命までもが搾取されている恐ろしい実態が明らかになってくる。
ベル機構のモットーは「生産性は力なり。情熱は宝なり。社会的体裁は要(かなめ)なり。」だ。これがオーウェル『一九八四年』の管理社会を踏まえたものであることは明らかだろう。違いは、ベル機構にはビッグ・ブラザーのような偶像は存在せず、あくまでも生活の向上、豊かな生活を送ること自体を目的にして人々を操り、分断社会の維持を図っていること。その分管理の網がより細かく、システムがネットを介して個人個人の中に入り込んでくるため、巧妙かつ狡猾、抗いがたい存在として浮かび上がってくる。
たとえば、ジョン・アルヴァレスという中間七割民の青年は、上位二割民になるため、オフィーリアと呼ばれる意見均質化制限調整ユニットを使用して、自らの思想や嗜好を矯正していく。平穏暴動や白色雑音というバンド(筆者はこの名前からクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」を思わず連想してしまった)の曲が好きだったのに、オフィーリアの指示に従い、優しく穏やかなネオ生楽器曲を好むようになっていく。彼はあくまでも自分の意志によって、思考にタガをはめていくのである。
ヴァーチャル民とアナログ民の間には電気シールドが張り巡らされ、行き来が制限されている。アナログ民見学ツアーのガイドをしながら生き別れとなった妹を探すテレサや、両親は死んだと聞かされ上位民のスパイとなったが、実はそれが嘘であったことを知らされるローヒニーなど、引き裂かれた社会に翻弄される人々も本書は丁寧に描いていく。これは現代社会のあちこちに存在する壁に分断された社会を象徴していると言えるだろう。また、SNSのインフルエンサーが妊娠し、皆が利用している代胎ポッドを使わないと宣言したことからトラブルが生じるエピソードから、ベル機構が妊娠・出産も厳重に管理下に置いていることがわかる。自然分娩は生産性を著しく損なう意味から忌避されているし、中絶などすれば、貴重な生産者の芽を摘む、とんでもない反逆者とみなされてしまうのだ。高齢者看護施設もあり、認知症患者がそこで協調活動を強いられているエピソードもある。いずれも高度な管理社会である現代社会を敷衍していけば、十分あり得る未来であり、説得力がある。アナログ民出身だが、上位二割民の養女となり、アナログ式で音楽を学ぶ少女が上位二割民を目指すエピソードや、SNSのインフルエンサー3人が年間最優秀賞候補となるが、人前に出たくないためそれぞれ趣向を凝らすエピソードも面白く、興味深いものに仕上がっている。
このように、様々なエピソードを積み重ねることによって、ベル機構の全体像を明らかにしていく構成は実に巧みで、見事である。一つ一つのエピソードは読みやすく、単独で完結していると同時に、互いにゆるく結びつき、登場した人物が別のエピソードにさりげなく顔を出しているので、それを見つけていくという楽しみもあるわけだ。ゲームデザイナーとしての腕が存分に発揮されていると言ってよいだろう。
「独裁の敵は共同体だ」と本書の中で述べられているとおり、本書の終盤は、アナログ民の部族が協働してベル機構を倒すレジスタンスの話が中心となっていく。反乱が起き、アナログ民がネビュラネットと呼ばれるネットワークをハッキングし、電気シールドが切られ、照明が消える。自動車事故が起き、人事ファイルがすべて書き換えられ、続々とアナログ民がヴァーチャル区画へ侵入していく……。結果は読んでのお楽しみといったところだが、単に叛逆しておしまいではなく、宥和的な結末となっていることは特筆しておきたい。
ところどころ甘さは見られるが、ネット社会が進んだ結果のディストピアをリアリティ溢れる設定と丁寧な筆致で描いた佳作であり、一読の価値はあるだろう。
『感傷ファンタスマゴリィ』空木春宵(2024年4月/東京創元社) ― 2025-07-19 09:19
本書は二〇一一年に第2回創元SF短編賞佳作を受賞し、二〇二一年に第一作品集『感応グラン=ギニョル』を刊行して高い評価を受けた作者による、待望の第二作品集である。
空木の作品は残虐、残酷という言葉で形容されることが多いが、それは決して表面上の、言葉の上だけのことではない。目をそむけたくなるような残酷な出来事の中核にある「弱者の痛み」、肉体の痛みにせよ、心の痛みにせよ、その「痛み」のもつ現前性にこそ空木作品の特色があるのではないだろうか。空木の作品を読むとき、読者はドラマの単なる観客であることは許されない。いつの間にか舞台の上にあげられ、劇中に引きずり込まれ、思い切り心を揺さぶられ、登場人物と同じ「痛み」を経験することになる。効果的な二人称の使用、SF的な舞台設定、よく作り込まれた小道具は、すべてそのために奉仕している。その手際の鮮やかさ、切れ味の鋭さといったら、研ぎ澄まされた包丁を使いこなす一流のシェフのようだ。
たとえば、本書収録の「4W/Working With Wounded Women」では、上甲街(アッパー・デック)と下甲街(ロウアー・デック)に分けられた雙層都市(ダブル・デッカー・シティ)を舞台として、下甲街に住む主人公ユイシュエンと彼女を取り巻く下層階級の人々の暮らしが描かれる。薬指に埋め込まれたデバイスによって、上甲街の人々と下甲街の人々は量子的に結ばれており、上の者が負った傷は即座に下の者に転移する。これは「転瑕(てんか)」と呼ばれており、下の者は突如として自分に出現する傷とその痛みに耐えるしかないのである。互いの冥婚相手が誰かはわからないようになっている。この仕組みは「冥婚関係(エンゲージ・リンク)」、関係を支える量子システムは「因果機関(カルマ・エンジン)」と称され、併せて「回向(エコー)システム」と呼ばれている。DVや無差別殺人など、現実に存在する理不尽な暴力を象徴させた都市の設定は見事で、皮肉を込めたネーミング・センスも群を抜いている。
物語では、ある時期から突然ユイシュエンに現れる傷が増えてきて、不条理な暴力と痛みに耐えるため、彼女は、上の者が正義のために闘うヒーローであることを夢想する。もちろん、そんなはずはなく、この夢想は結末近くになって残酷に崩れ去る。悲劇は、ユイシュエンの同居人女性である妊婦メイファンにも、もっと残酷な形で訪れる。作中でのメイファンの怒りの声に触れて、心が震えたのは自分だけではないだろう。これまでも、「感応グラン=ギニョル」や「地獄を縫い取る」(どちらも第一作品集所収)などの諸作で描かれてきた弱者(障碍者や女性)が受けてきた「傷」のもつ意味が、ここではさらに深められ、そして、宥和的な結末に至る。読者に「傷」を突きつけて終わるのではなく、「赦し」にまで至っているという点で、初期作品からの深化が伺える。本書中ではまずこの作品を推しておきたい。
さらに、ディストピアSFの結構を備えた「さよならも言えない」も見逃せない作品である。恒星〈アマテラス〉を公転する七つのうち三つの惑星に人類が入植してから千二百年が過ぎた。人類は、背が高く首が長いルークルー(轆轤)系、平面的な顔立ちのフォンイー(紅衣)系、黒い髪に六本の腕をもつツチグモ(土蜘蛛)系の三種族に分かれ、共生している。〈服飾局(メゾン)〉で働く主人公ミドリ・ジィアンは、局内コンペのためにチームを率いるリーダーだ。この世界では、拡張現実システムによって、遺伝子、場、系の三要素を踏まえたファッションのスコアが常に表示されており、その値が社会的信用を生んでいる。部下のスコアが低いことを気にしているミドリは、ある日足を運んだクラブで低いスコアのまま踊っているジェリーに目を止め、指導する。服を自分で作り、スコアに縛られて生きることを拒否するジェリーにミドリは惹かれていくが……。「4W」同様、本作においても、現実に存在する社会的抑圧が巧みにSF的設定に落とし込まれている。語られるのは、会社内での出世レースと世代を超えた愛を絡ませた古典的な物語なのだが、この設定のおかげで社会的抑圧はシステムによる暴力だという事実が浮き彫りになっており、かえって新鮮な感動を生んでいる。
以上二編が抜きん出た傑作であるが、他の作品も素晴らしい出来映えだ。表題作「感傷ファンタマゴスリィ」と「終景累ヶ辻(しゅうけいかさねがつじ)」は通底する響きを備えた超絶技巧短編である。前者は、十九世紀末にパリで流行した幻燈機(ファンタスコープ)を用いた魔術幻燈劇(ファンタマゴスリィ)を題材にして、性差混乱も含めたアイデンティティの揺らぎを描き、後者は、江戸の三大怪談の主人公、お菊、お露、お岩の時間線を交錯させて、何度も死を繰り返す様を描いている。どちらにも登場する「時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す」という文章のとおり、自己とは死者を「観照」することによって死者を取り込み拡張していく複合的な存在であり、それが繰り返される限り、死者=幽霊が死ぬことはないのだとの認識が両者を貫いている。
最後に置かれた「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」では、VR空間で「魔女」を名乗り、依頼人のカウンセリングを行う人々と、その魔女たちを憎み、VR空間上で暴力を振るって魔女たちを殺してまわる「騎士団」との対立を描いている。ここでも、現実に起きている男性中心主義者と女性の権利拡張を求める人々との分断と憎悪が作中の設定に巧みに反映されている。魔女とは「固定された社会規範に抗い、女性や性的マイノリティについてだけでなく、すべてのヒトにとっての権利を常に考え続けるべき」存在であり、魔女の主張は、男への攻撃でも呪詛でもない」。男の側の権利が侵害されるとの意見に対しては「権利と利得とは別のもの」であり、「既得権益を失う事と権利を奪われる事はまったく別の話」と返す魔女の反論は揺るぎなく、鮮やかである(人権を無視してマイノリティを公然と差別する現実の人々に言ってやりたいが、彼らにはまったく理解できないのだろうなあ、と思ってはいけないというのが本作のテーマでもある)。作中では「魔女」と「騎士団」との争いが、最終的には解決への糸口を見出すところで終わっているため、解説にもあるとおり「希望」が残り、決して読後感は悪くない。これも、空木作品の新境地と言えよう。
全体としては、SF的設定を効果的に使用し、社会的弱者の立場から社会構造自身が孕む矛盾や構造的暴力を鋭くえぐり出してみせた、極めてアクチュアルな作品が多く、分断が進む現代社会において、本書を読む価値はますます高まっている。ぜひとも一読をお勧めしたい。
空木の作品は残虐、残酷という言葉で形容されることが多いが、それは決して表面上の、言葉の上だけのことではない。目をそむけたくなるような残酷な出来事の中核にある「弱者の痛み」、肉体の痛みにせよ、心の痛みにせよ、その「痛み」のもつ現前性にこそ空木作品の特色があるのではないだろうか。空木の作品を読むとき、読者はドラマの単なる観客であることは許されない。いつの間にか舞台の上にあげられ、劇中に引きずり込まれ、思い切り心を揺さぶられ、登場人物と同じ「痛み」を経験することになる。効果的な二人称の使用、SF的な舞台設定、よく作り込まれた小道具は、すべてそのために奉仕している。その手際の鮮やかさ、切れ味の鋭さといったら、研ぎ澄まされた包丁を使いこなす一流のシェフのようだ。
たとえば、本書収録の「4W/Working With Wounded Women」では、上甲街(アッパー・デック)と下甲街(ロウアー・デック)に分けられた雙層都市(ダブル・デッカー・シティ)を舞台として、下甲街に住む主人公ユイシュエンと彼女を取り巻く下層階級の人々の暮らしが描かれる。薬指に埋め込まれたデバイスによって、上甲街の人々と下甲街の人々は量子的に結ばれており、上の者が負った傷は即座に下の者に転移する。これは「転瑕(てんか)」と呼ばれており、下の者は突如として自分に出現する傷とその痛みに耐えるしかないのである。互いの冥婚相手が誰かはわからないようになっている。この仕組みは「冥婚関係(エンゲージ・リンク)」、関係を支える量子システムは「因果機関(カルマ・エンジン)」と称され、併せて「回向(エコー)システム」と呼ばれている。DVや無差別殺人など、現実に存在する理不尽な暴力を象徴させた都市の設定は見事で、皮肉を込めたネーミング・センスも群を抜いている。
物語では、ある時期から突然ユイシュエンに現れる傷が増えてきて、不条理な暴力と痛みに耐えるため、彼女は、上の者が正義のために闘うヒーローであることを夢想する。もちろん、そんなはずはなく、この夢想は結末近くになって残酷に崩れ去る。悲劇は、ユイシュエンの同居人女性である妊婦メイファンにも、もっと残酷な形で訪れる。作中でのメイファンの怒りの声に触れて、心が震えたのは自分だけではないだろう。これまでも、「感応グラン=ギニョル」や「地獄を縫い取る」(どちらも第一作品集所収)などの諸作で描かれてきた弱者(障碍者や女性)が受けてきた「傷」のもつ意味が、ここではさらに深められ、そして、宥和的な結末に至る。読者に「傷」を突きつけて終わるのではなく、「赦し」にまで至っているという点で、初期作品からの深化が伺える。本書中ではまずこの作品を推しておきたい。
さらに、ディストピアSFの結構を備えた「さよならも言えない」も見逃せない作品である。恒星〈アマテラス〉を公転する七つのうち三つの惑星に人類が入植してから千二百年が過ぎた。人類は、背が高く首が長いルークルー(轆轤)系、平面的な顔立ちのフォンイー(紅衣)系、黒い髪に六本の腕をもつツチグモ(土蜘蛛)系の三種族に分かれ、共生している。〈服飾局(メゾン)〉で働く主人公ミドリ・ジィアンは、局内コンペのためにチームを率いるリーダーだ。この世界では、拡張現実システムによって、遺伝子、場、系の三要素を踏まえたファッションのスコアが常に表示されており、その値が社会的信用を生んでいる。部下のスコアが低いことを気にしているミドリは、ある日足を運んだクラブで低いスコアのまま踊っているジェリーに目を止め、指導する。服を自分で作り、スコアに縛られて生きることを拒否するジェリーにミドリは惹かれていくが……。「4W」同様、本作においても、現実に存在する社会的抑圧が巧みにSF的設定に落とし込まれている。語られるのは、会社内での出世レースと世代を超えた愛を絡ませた古典的な物語なのだが、この設定のおかげで社会的抑圧はシステムによる暴力だという事実が浮き彫りになっており、かえって新鮮な感動を生んでいる。
以上二編が抜きん出た傑作であるが、他の作品も素晴らしい出来映えだ。表題作「感傷ファンタマゴスリィ」と「終景累ヶ辻(しゅうけいかさねがつじ)」は通底する響きを備えた超絶技巧短編である。前者は、十九世紀末にパリで流行した幻燈機(ファンタスコープ)を用いた魔術幻燈劇(ファンタマゴスリィ)を題材にして、性差混乱も含めたアイデンティティの揺らぎを描き、後者は、江戸の三大怪談の主人公、お菊、お露、お岩の時間線を交錯させて、何度も死を繰り返す様を描いている。どちらにも登場する「時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す」という文章のとおり、自己とは死者を「観照」することによって死者を取り込み拡張していく複合的な存在であり、それが繰り返される限り、死者=幽霊が死ぬことはないのだとの認識が両者を貫いている。
最後に置かれた「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」では、VR空間で「魔女」を名乗り、依頼人のカウンセリングを行う人々と、その魔女たちを憎み、VR空間上で暴力を振るって魔女たちを殺してまわる「騎士団」との対立を描いている。ここでも、現実に起きている男性中心主義者と女性の権利拡張を求める人々との分断と憎悪が作中の設定に巧みに反映されている。魔女とは「固定された社会規範に抗い、女性や性的マイノリティについてだけでなく、すべてのヒトにとっての権利を常に考え続けるべき」存在であり、魔女の主張は、男への攻撃でも呪詛でもない」。男の側の権利が侵害されるとの意見に対しては「権利と利得とは別のもの」であり、「既得権益を失う事と権利を奪われる事はまったく別の話」と返す魔女の反論は揺るぎなく、鮮やかである(人権を無視してマイノリティを公然と差別する現実の人々に言ってやりたいが、彼らにはまったく理解できないのだろうなあ、と思ってはいけないというのが本作のテーマでもある)。作中では「魔女」と「騎士団」との争いが、最終的には解決への糸口を見出すところで終わっているため、解説にもあるとおり「希望」が残り、決して読後感は悪くない。これも、空木作品の新境地と言えよう。
全体としては、SF的設定を効果的に使用し、社会的弱者の立場から社会構造自身が孕む矛盾や構造的暴力を鋭くえぐり出してみせた、極めてアクチュアルな作品が多く、分断が進む現代社会において、本書を読む価値はますます高まっている。ぜひとも一読をお勧めしたい。
『ビブリオフォリア・ラプソディ』高野史緒(2024年5月/講談社) ― 2024-08-31 12:13
本にまつわる話を5篇収録した短篇集。趣はそれぞれ異なっているが、どの短篇も書籍への思いが溢れるほど詰め込まれ、読み応えがある。とりわけ、冒頭の「ハンノキのある島で」は、本の出版に制限のかかった近未来において、地方都市へ帰郷した中年の女性作家の日常を淡々と描きながら 本の未来についての真剣な考察に踏み入っていく傑作で、強い印象を残す。
新刊の寿命が六年と限られ、保存書籍指定のないものは全て廃棄すると定めた「読書法」が施行された近未来。どうやって六年後に廃棄されるのかというと、四年から六年の間に完全分解するインクで印刷されているのだ。「読書法」によって、聖書、神話、シェイクスピアやドストエフスキーなどの古典は保存されるが、ミステリで言えば、施行後に残されたのはコナン・ドイルやクリスティの数冊だけであり、クイーンもディクスン・カーも残らない。SFに至っては、はっきりとは書かれていないが、アシモフの代表作は残るようなので、おそらくそれだけだろう(それが《黒後家蜘蛛》シリーズだったらSFは何も残らないことになるし、《ファウンデーション》だとしたら大変な皮肉である)。電子データは残されているのだが、国家の厳重な管理の基に置かれ、一般庶民は触れることができない。意外にもこの法律は、過去の作品と常に比較されてしまうクリエイターからの支持と、過去の読むべき本に翻弄される読者からの支持を得て、成立してしまうのだ。なるほど、作家の側からすると、せっかく良いアイデアを思いついても、過去にあったと言われてしまう危険を回避できるわけで、それなりのメリットがある。読者としても、本が置けないので新刊が買えないというデメリットから解放される。いいこと尽くめだ。って、ちょっと待った。それはやはり短絡的な考えであって、クイーンやカーにはクリスティにはない魅力があるわけだし、確かにドストエフスキーの偉大さにはかなわないかもしれないが、ハインラインにもクラークにも見るべき点はあるだろうし、ディックやヴォネガットやバラードやディレーニイやゼラズニイやウルフやプリーストのない世界ってつまらないのではないだろうか。と思った人がやはり(少数ながら)いたのだろう。「読書法」への反対運動は(少数ながら)存在した。
主人公の夫は、書籍の電子データを他のデータ上に拡散させるなどの違法活動に関わった罪で投獄されている。主人公の従兄弟四郎(別の短篇では主役となっている)の娘は、激烈な反対運動の末に自ら命を絶ってしまう。こうした反対派に囲まれて自らも反対の側にいる主人公の女性作家、久子の立ち位置は揺らいでいる。彼女は「読書法」の中で作家活動を続け、発禁処分を受けながらも書き続けていく。実作者として、制限付きではあっても書きたいものを書き、それが読者に読まれることを何より大切に思っているからだ。また、「読書法」成立以前から電子書籍には賛成の立場をとっている。つまり、紙の書籍にこだわることへの批判的な視座が彼女にはもともとあり、これはどちらかというと「読書法」側に近い。「読書法」が施行される前の「のどかな時代」(すなわち現代)に行われた国際会議において、久子は、もはや本好きの庶民ほど収納の限界に達しているのが現実だと説き、「庶民の狭い家に娯楽としての書籍が何千冊、何万冊もあるという事態は、人類史上初めてのことです」と語る。「小説が娯楽として売れ、小説を書いたらカネになるという事態そのものが、歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事だったのではないかと思うのです」と。なるほど、これは鋭い指摘であって、過去にない事態が勃発しているわけだ。ここには、明らかに書籍が売れなくなってきた現代への警鐘があり、また、今後どうしていけば本が残っていくのかを考えるための前提が示されている。本をめぐる旧来のシステムが限界に達しているとの認識から始めようということだ。だからと言って、もちろん「読書法」が最適の解答であるとは思えない。作中では、ブラッドベリ『華氏451度』を思わせる解決法も提示されるが、うまく行かない。では、いったい、どうすればいいのか。
作者の狙いの一つには、極端なシチュエーションを設定することによって、読者に本をめぐる困難な状況とその解決法をともに考えてほしいという願いがあると思われるが、それは見事に成功している。もう一つの狙いとして、「歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事」へのノスタルジイもあると思われるが、これも見事に成功している。主人公と同世代の本好きならば、誰もが心に自分なりの「共栄堂書店」を持っているだろう。主人公は最後に「ハンノキのある島」へと希望を託すのだが、読み終えた人が本好きであればあるほど、この希望を実現するにはどうすればいいかを考えざるを得ない。かく言う私もまた、自宅の本の山に囲まれ、途方に暮れながらも、考え続けていきたい。
いかん、一作に紙数を取り過ぎた。残りは簡単に紹介していく。「バベルより遠く離れて」は、想像力に富んだ言語である南チナ語の日本で唯一の翻訳者である主人公が、日本語の言霊で呪いを書きこまれ、それを解くために日本にやって来たフィンランド人と出会い、その呪いを解く方法を思いつく話。南シナとは何の関係もない、ユニークな言語である南チナ語が面白い。風を表す語が四十六もあったり、著名な作家の名がチャツネ・キムチ・メシウマであったり、学者が大真面目な顔つきでシャレを言うようなギャップのあるおかしさが漂っている。
「木曜日のルリユール」は、辛口の評論家として知られる主人公、森祐樹が、かつて自分が学生時代に執筆した『木曜日のルリユール』という作品が本屋に並んでいるのを見つけ、衝撃を受ける場面から始まる。ペンネームの一之森樹も、本の装幀も自分が考えていたとおり。内容も自分が書いたとおりだ。いったい、誰がどうやって出版したのか。祐樹は学生時代を過ごしたマンションを訪れ、そこで一人の男に出会う……。ドッペルゲンガーものの変奏曲として面白く読むことができた。祐樹が男との口論の過程で、本心を吐露する場面には心打たれるものがある。
「詩人になれますように」は、主人公である女子高生の詠美が、祖母からもらった勾玉に願いをかける話。祖母からは、二つの願いを叶えることができると聞き、彼女は詩人になりたいという願いをかける。すぐに祖母は亡くなったが、詠美は大学生のうちに詩集を二冊刊行し、どちらもベストセラーとなった。しかし、その後十一年ものスランプがあり、今では地方のOLとなって冴えない日々を過ごしている。久しぶりに祖母の勾玉を見つけた詠美は二つ目の願いをかけるが……。詩が書けなくなった主人公の焦燥と絶望がリアルに伝わってきて、しんどい気持ちにさせられるだけに、明るい結末に救われた気がした。集中もっとも感動させられた作品である。
「本の泉 泉の本」は〈SFマガジン〉掲載時に読んでいるが、こうして集中の最後に置かれると、また格別な趣がある。本好きの二人、ずんぐりした四郎とほっそりした敬彦のコンビが、広大な古書店(十階まである!)で、本を眺め解説を挟みながら次々と引き抜いていくという、それだけの話ではあるのだが、これがべらぼうに面白い。すべて架空の本と思われるが、タイトル、あらすじ、ディテールに至るまで、本当にありそうな趣向が凝らされており、この古書店は、特に昭和のミステリ、SFファンにとっては夢のような空間なのである。よくもまあ、ここまで考え付いたものだと感心させられる。二人のうち片方が本の山に消えてしまう結末には、モデルとなった故Hさんへの想いが込められているようで、感慨深いものがあった。
以上五篇、どれも読んで損なしの傑作ばかり。作家、翻訳者、書評家、詩人、編集者と主役の職業もすべて違い、バラエティに富んでいるのもうれしい趣向だ。本好きなあなたなら、ぜひ手元に置いて何度も読み返すに足る、愛すべき作品集である。
新刊の寿命が六年と限られ、保存書籍指定のないものは全て廃棄すると定めた「読書法」が施行された近未来。どうやって六年後に廃棄されるのかというと、四年から六年の間に完全分解するインクで印刷されているのだ。「読書法」によって、聖書、神話、シェイクスピアやドストエフスキーなどの古典は保存されるが、ミステリで言えば、施行後に残されたのはコナン・ドイルやクリスティの数冊だけであり、クイーンもディクスン・カーも残らない。SFに至っては、はっきりとは書かれていないが、アシモフの代表作は残るようなので、おそらくそれだけだろう(それが《黒後家蜘蛛》シリーズだったらSFは何も残らないことになるし、《ファウンデーション》だとしたら大変な皮肉である)。電子データは残されているのだが、国家の厳重な管理の基に置かれ、一般庶民は触れることができない。意外にもこの法律は、過去の作品と常に比較されてしまうクリエイターからの支持と、過去の読むべき本に翻弄される読者からの支持を得て、成立してしまうのだ。なるほど、作家の側からすると、せっかく良いアイデアを思いついても、過去にあったと言われてしまう危険を回避できるわけで、それなりのメリットがある。読者としても、本が置けないので新刊が買えないというデメリットから解放される。いいこと尽くめだ。って、ちょっと待った。それはやはり短絡的な考えであって、クイーンやカーにはクリスティにはない魅力があるわけだし、確かにドストエフスキーの偉大さにはかなわないかもしれないが、ハインラインにもクラークにも見るべき点はあるだろうし、ディックやヴォネガットやバラードやディレーニイやゼラズニイやウルフやプリーストのない世界ってつまらないのではないだろうか。と思った人がやはり(少数ながら)いたのだろう。「読書法」への反対運動は(少数ながら)存在した。
主人公の夫は、書籍の電子データを他のデータ上に拡散させるなどの違法活動に関わった罪で投獄されている。主人公の従兄弟四郎(別の短篇では主役となっている)の娘は、激烈な反対運動の末に自ら命を絶ってしまう。こうした反対派に囲まれて自らも反対の側にいる主人公の女性作家、久子の立ち位置は揺らいでいる。彼女は「読書法」の中で作家活動を続け、発禁処分を受けながらも書き続けていく。実作者として、制限付きではあっても書きたいものを書き、それが読者に読まれることを何より大切に思っているからだ。また、「読書法」成立以前から電子書籍には賛成の立場をとっている。つまり、紙の書籍にこだわることへの批判的な視座が彼女にはもともとあり、これはどちらかというと「読書法」側に近い。「読書法」が施行される前の「のどかな時代」(すなわち現代)に行われた国際会議において、久子は、もはや本好きの庶民ほど収納の限界に達しているのが現実だと説き、「庶民の狭い家に娯楽としての書籍が何千冊、何万冊もあるという事態は、人類史上初めてのことです」と語る。「小説が娯楽として売れ、小説を書いたらカネになるという事態そのものが、歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事だったのではないかと思うのです」と。なるほど、これは鋭い指摘であって、過去にない事態が勃発しているわけだ。ここには、明らかに書籍が売れなくなってきた現代への警鐘があり、また、今後どうしていけば本が残っていくのかを考えるための前提が示されている。本をめぐる旧来のシステムが限界に達しているとの認識から始めようということだ。だからと言って、もちろん「読書法」が最適の解答であるとは思えない。作中では、ブラッドベリ『華氏451度』を思わせる解決法も提示されるが、うまく行かない。では、いったい、どうすればいいのか。
作者の狙いの一つには、極端なシチュエーションを設定することによって、読者に本をめぐる困難な状況とその解決法をともに考えてほしいという願いがあると思われるが、それは見事に成功している。もう一つの狙いとして、「歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事」へのノスタルジイもあると思われるが、これも見事に成功している。主人公と同世代の本好きならば、誰もが心に自分なりの「共栄堂書店」を持っているだろう。主人公は最後に「ハンノキのある島」へと希望を託すのだが、読み終えた人が本好きであればあるほど、この希望を実現するにはどうすればいいかを考えざるを得ない。かく言う私もまた、自宅の本の山に囲まれ、途方に暮れながらも、考え続けていきたい。
いかん、一作に紙数を取り過ぎた。残りは簡単に紹介していく。「バベルより遠く離れて」は、想像力に富んだ言語である南チナ語の日本で唯一の翻訳者である主人公が、日本語の言霊で呪いを書きこまれ、それを解くために日本にやって来たフィンランド人と出会い、その呪いを解く方法を思いつく話。南シナとは何の関係もない、ユニークな言語である南チナ語が面白い。風を表す語が四十六もあったり、著名な作家の名がチャツネ・キムチ・メシウマであったり、学者が大真面目な顔つきでシャレを言うようなギャップのあるおかしさが漂っている。
「木曜日のルリユール」は、辛口の評論家として知られる主人公、森祐樹が、かつて自分が学生時代に執筆した『木曜日のルリユール』という作品が本屋に並んでいるのを見つけ、衝撃を受ける場面から始まる。ペンネームの一之森樹も、本の装幀も自分が考えていたとおり。内容も自分が書いたとおりだ。いったい、誰がどうやって出版したのか。祐樹は学生時代を過ごしたマンションを訪れ、そこで一人の男に出会う……。ドッペルゲンガーものの変奏曲として面白く読むことができた。祐樹が男との口論の過程で、本心を吐露する場面には心打たれるものがある。
「詩人になれますように」は、主人公である女子高生の詠美が、祖母からもらった勾玉に願いをかける話。祖母からは、二つの願いを叶えることができると聞き、彼女は詩人になりたいという願いをかける。すぐに祖母は亡くなったが、詠美は大学生のうちに詩集を二冊刊行し、どちらもベストセラーとなった。しかし、その後十一年ものスランプがあり、今では地方のOLとなって冴えない日々を過ごしている。久しぶりに祖母の勾玉を見つけた詠美は二つ目の願いをかけるが……。詩が書けなくなった主人公の焦燥と絶望がリアルに伝わってきて、しんどい気持ちにさせられるだけに、明るい結末に救われた気がした。集中もっとも感動させられた作品である。
「本の泉 泉の本」は〈SFマガジン〉掲載時に読んでいるが、こうして集中の最後に置かれると、また格別な趣がある。本好きの二人、ずんぐりした四郎とほっそりした敬彦のコンビが、広大な古書店(十階まである!)で、本を眺め解説を挟みながら次々と引き抜いていくという、それだけの話ではあるのだが、これがべらぼうに面白い。すべて架空の本と思われるが、タイトル、あらすじ、ディテールに至るまで、本当にありそうな趣向が凝らされており、この古書店は、特に昭和のミステリ、SFファンにとっては夢のような空間なのである。よくもまあ、ここまで考え付いたものだと感心させられる。二人のうち片方が本の山に消えてしまう結末には、モデルとなった故Hさんへの想いが込められているようで、感慨深いものがあった。
以上五篇、どれも読んで損なしの傑作ばかり。作家、翻訳者、書評家、詩人、編集者と主役の職業もすべて違い、バラエティに富んでいるのもうれしい趣向だ。本好きなあなたなら、ぜひ手元に置いて何度も読み返すに足る、愛すべき作品集である。
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