『地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短編集』イアン・ワトスン(2025年10月/Vitamin SF picopublishing/本城雅之・木下充矢・訳)2025-11-07 21:49

 本書は自費出版により刊行されたイアン・ワトスンの短篇集であり、1975年から1990年にかけての7篇を収めている。発行元は〈Vitamin SF picopublishing〉。かつて〈Vitamin SF〉という正会誌を発行していた神戸大学SF研究会のOBから成る団体で、ワトスンにコンタクトをとり、正式に翻訳権を取得しての出版であると言う。翻訳出版全体が沈下傾向にあり、部数が少ないために単価が高くなっている現在、このように従来とは異なる形で海外SFが刊行されることの意義は大変大きく、賞賛すべき偉業と言えるだろう。2020年にも、翻訳権を取得したうえでの自費出版としてキース・ロバーツ『モリー・ゼロ』が翻訳刊行されており(蛸井潔・訳/発行)、このような形での刊行が今後も増えていくのではないか。というか、増えていってほしい。70年代から80年代、90年代にかけての海外SFには、まだまだ埋もれた作品が多くあり、わずかながらかもしれないが、翻訳の需要はあると思われるためである。

 さて、ワトスンの翻訳は今までに長篇8冊、短篇集1冊が刊行されているが、近年は翻訳が途絶えていた。2010年に『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された「彼らの生涯の最愛の時」(大森望・訳)を最後に、15年間翻訳されることはなかった。ところが、今年(2025年)になって、アトリエサード発行の雑誌〈ナイトランド・クォータリー〉39号に「慰めの散歩」(大和田始・訳)が掲載され、本書も刊行されるといった具合に、ワトスン祭りとも言うべき様相を呈している。実に喜ばしいことだ。これが一時のもので終わらないように、ぜひとも興味をもった方は、本書を購入して実際に読んでみてほしい。奇才ワトスンの筆の冴えが存分に味わえるはずである。購入先は以下のとおり。

https://booth.pm/ja/items/7532963

 それでは、以下収録順に紹介し、コメントをつけていく。

「免疫の夢」(1978年)
 イギリスで癌研究に取り組むローゼンは、免疫系が上位システムである心と深く結びついており、免疫系が見せる夢によって癌の発症を予測できると固く信じている。フランスの睡眠研究者ティボーの理論によれば、後橋脳領域は筋肉への夢の信号をオフにする機能をもつため、ここを切除すれば夢がそのまま筋肉へ伝わり、行動として現れる。夢は遺伝子の制御テープであり、癌は遺伝子型の複製を品質管理するために存在するとティボーは言う。ティボーの研究室で実際に後橋脳領域を切除された猫を見せられたローゼンは、自分も後橋脳領域を切除することで、ティボーの理論を実証しようとする。そのためには、フランスやイギリスではなくモロッコに行かなくてはならない。ローゼンは手術の前に、ある恐ろしい行動を取ってしまう……。狂人的な観念に取りつかれた男の悲劇を描いた、いかにもワトスンらしい作品。ブラックライトの中でうごめく猫たちがホラー風味を増している。

「ジェインといっしょに鉱泉室(ポンプ・ルーム)へ」(1975年)
 8年前にロマンスが芽生えかけたが、別れてしまったジェインとフレデリック。二級船員だったフレデリックは、今や艦長となり氷山曳航船を率いている。この時代、気温は上昇し大気は汚れ、氷山曳航船が南氷洋から運んでくる氷が大変貴重なものとして国に届けられ、人々に配給される水のもとになっている。配給は鉱泉室(ポンプ・ルーム)で行われるが、上流階級でないジェインと母はいつも混雑する時間を割り当てられている。フレデリックと再会したジェイン母娘は、彼に便宜を計ってもらい、上流階級用の時間に変更してもらう。再びロマンスの予感が漂うが……。ジェインの見ている世界と現実世界との落差が読者に衝撃を与える、プリーストばりの一作。

「帰郷」(1982年)
 ソビエト連邦とアメリカの冷戦が続いていた時代。ついにアメリカはあらゆる生き物を強力な放射線で殺戮する「超放射能爆弾(SRB)」をソ連に打ち込み、逆にソ連はあらゆる人工物を消し去ってしまう「社会主義者爆弾(SOB)」をアメリカに打ち込んだ。結果として、ソ連の人々はみな死に絶え、アメリカの物資はすべてなくなってしまう。残されたソビエト海軍の船を使ってアメリカの生存者はソ連へと渡り、そこで生活を始める。ところが、暮らしているうちに、徐々に名前も心もソ連風に変化していき……。強烈な皮肉が炸裂する寓話的な一篇。困窮したアメリカをどこの国も救おうとしないという展開からは、強権を振りかざし自国中心に振る舞うアメリカの一面は当時も今も変わらないことが。

「オオカミの日」(1983年)
 イギリスの田舎村に絶滅寸前のオオカミを移住させるが、村の人々はそれを快く思っていない。老婆がオオカミに食われたという孫娘の話を聞いて、真偽を疑う管理官のジョシュアだが、老いたオオカミが目の前に出現し、老婆の姿をその中に見る。ジョシュアは結局はオオカミを射殺してしまうが、オオカミを保護する立場にあるため、そのことは誰にも言えない。赤ずきんの変奏という形をとって、自然と人間の対立を幻想風味で描いた異色作となっている。

「地球の鏡の中で」(1983年)
 世界の主要な都市が水没し人口が二十億しかいない未来、人々は眠らないように身体が変容していた。その中でも一日に8時間眠ることができる者は〈眠る人〉と呼ばれ、夢を現実化する能力をもつため、特別待遇を受けている。〈眠る人〉は世界に6人しかいない。主人公のトマス・ダクィーノは7人目の〈眠る人〉であるラウィーノを発見し、ともに暮らすようになるが……。ワトスンの奇想が遺憾なく発揮された一篇で、夢の大規模投射というメインアイディアにはプリースト『ドリームマシン』からの影響も垣間見える。語り手の名が『神学大全』を著し、キリスト教とギリシア自然科学を結合させて後の科学革命の基礎を築いたトマス・アクィナスと同一なのは偶然ではないだろう。〈眠る人〉が行っているのは、いわゆるキリスト教的な奇蹟であり、そこから啓示を受けてトマスが作ろうとしているのは、エッフェル塔にも似た近代的建造物なのである。

「スターリンの涙」(1990年)
 地図作成部に勤務する検閲官ワレンチン大佐は検閲局長ミロフから二年以内に本当の全国地図を作成することを命じられる。語学に堪能な地理学院卒業生グルーシャとともに仕事を始めるが、期間内に任務を達成することは困難だ。実は、オリジナルの地図はすべて裁断されて残っておらず、作成部が作って来たのは偽の地図に過ぎなかった。そして、偽の地図の死角に当たる場所に、時間を超えた不思議な空間が存在する。そこでは若返ることができたり、体内からエクトプラズムを発生する女性がいたりするのだ。行方不明となったグルーシャを探すため、ワレンチンとミロフはその空間に入り込み、不思議な形で死と再生を経験する……。表面に模様を描いた卵が果たす象徴的な役割が強い印象を残す作品だ。

「アーヤトッラーの眼」(1990年)
 イラクとの戦争で右目と顔の一部を失ったイラン人のアリは、戦争終結後に亡くなった指導者アーヤトッラーの遺体から人々が屍衣をはぎ取るのに交じって偶然片目をつかみ、その目玉を持って来てしまう。ホルマリン漬けにして目を保存するうちに、アリは〈悪魔の作家〉を探すプロジェクトに参加し、人工眼を右目に装着して、人工衛星からの映像を見るようになる。ようやくスコットランド沖の島で作家を見つけ、そこへ向かうが……。アーヤトッラーとは1989年に亡くなったイランの指導者ホメイニ師の尊称であり、〈悪魔の作家〉とは、ホメイニ師が亡くなる直前にイスラム教を揶揄しているとして死刑宣告を与えた作家のサルマン・ルシュディ(ラシュディ)を指していることは明らかだ。この死刑宣告はファトワー(布告、勧告)として出され、出した本人しか撤回できない。ホメイニは宣告したまま亡くなってしまったので、死刑宣告は今でも有効であると考える者がおり、実際に2022年にルシュディはイスラム教徒に襲われ、瀕死の重傷を負い、片目を失明した。ワトスンの想像力が現実に先行した展開を示していることが実に興味深い。ただし、襲撃者のとった行動は真逆であり、そこにワトスンなりの宗教観がにじみ出ていると言えるだろう。

 以上7篇、いずれも大変内容の密度が濃く、表面的に読んだだけでは内容が理解できないものが多い。じっくりと読んで考え、事実を調べて小説と照合して初めて、こういうことかなと腑に落ちる。または、もやもやが残ったままになる。しかし、実はそれこそが小説を読む醍醐味ではないのか。1980年に『超低速時間移行機』を読んで大きな衝撃を受けて以来、ワトスンは自分にとって、常に重要な作家であり続けてきた。こうして、久しぶりにまとまった数の作品、しかも歯ごたえ十分の作品を読んで、ワトスンらしさを存分に味わうことができた。巻末のリストによれば、1990年以降も、ワトスンは多くの長篇とともに年に数篇の短篇を現在に至るまで発表してきたことがわかる。長篇は難しいと思うので、ぜひとも本書の刊行者=訳者には、1990年以降の短篇も訳していってほしい。それだけの価値はある作家だと思うのは筆者だけではないはずだ。