私的名古屋SFファンダム史01(1976)2012-01-12 23:02

 どこから始めようか。双子の弟とともに手塚・石ノ森漫画と岩崎書店を始めとするSFジュブナイルを読んで育ち、筒井康隆『SF教室』で決定的に「SF」という存在を認識するに至った小学生時代? クラスに漫画好きな子やSF好きな子を見つけては仲間に引っ張り込み、COMを古本屋で見つけて皆でたくさん購入しては「COM分配会議」なんていうのを開いていた中学時代? とりあえず、その辺りから始めてみよう。

 少年漫画しか購入していなかった自分達が大人向けのSFを購入するようになるのが、1976年、中一の夏。このことは昔「ノヴァクォータリー」というファンジンに書いたことがあるので、そちらを見てほしい。

http://www.page.sannet.ne.jp/toshi_o/NOVAQ/watanabe.htm

 その年の冬、12月には萩尾望都の『ポーの一族』を購入し、夢中になる。これは確か同じクラスの女の子が萩尾や竹宮恵子などをよく読んでいて、どんな話なんだろうと思ったことがきっかけだったと思う。当時の日記を見ると、1976年12月11日には名古屋市立北図書館で『'72日本SFベスト集成』『'74日本SFベスト集成』『たんぽぽのお酒』『刑事コロンボ・祝砲の挽歌』を借りて、12月12日に『火の鳥5』『ポーの一族1』『ギルガメッシュ1』を購入している。手塚・石ノ森から徐々に萩尾・竹宮ら所謂「24年組」へと漫画の関心が移り、ブラッドベリの幻想性に酔い、コロンボの論理性にしびれる。そんな頃だった。(続く)

私的名古屋SFファンダム史02(1976-1977)2012-01-15 21:21

 1976年(中学一年生)の12月で忘れられない出来事と言えば、国語の先生(香村という女の先生だった)にハヤカワSFシリーズを借りたことである。ミステリやSFをよく読んでいた方で、こちらが夏休みに読んだ本として『非Aの世界』などを挙げていたら「難しいのを読んでるねえ」と感心してくれた、温厚な良い先生であった。日記を見ると12月22日にブラウン『天の光はすべて星』『SFマガジンベストNo4』小松左京『星殺し』の3冊を借りている。確か「図書館の本を全部読んでから、こういうのは読んでほしいけどね」と言いながら貸してくれたように記憶している。先生、さすがに図書館の本全部は無理だと思います。ブラウンと短編集ということで初心者向けにという意図が感じられなくもないが、多分たまたま持っていた本を貸してくれたのだと思う。当時、本屋からはもはやHSFSは姿を消し、図書館でも新しいもの以外はあまり置いてなかったので、古い銀背をじっくり見たのは初めてだったのだろう。結構感動した覚えがある。特に『SFMベスト』の表紙はお気に入りで、今でもこれを見るとSFを読み始めた頃の瑞々しい気持ちが甦る(ような気がする)。肝心の中身はというと、『ベスト』に載っていた半村良「収穫」と小松左京の月SF「割れた鏡」なんかが印象に残っている程度。ブラウンはひょっとして読まずに返したのでは。「星殺し」や「袋小路」なんかはちょっと中学一年生には難しかったんじゃないかな。

 さて、年が明けて1977年の1月3日、いつも文庫や漫画を買っていた大曽根の本屋(耕文堂)で初めて「SFマガジン」との出会いを果たす。忘れもしない1977年2月号(特集・これがSFだ!)で、表紙はソコロフの宇宙ドーム。多分いつも置いてあったのに、何故かこの時まで気づかなかったのだ。近刊予告で『地球の長い午後』と『発狂した宇宙』を見たときは本当にうれしかったね。これで、『SF教室』で名のみ知っていた作品を読むことができる! 翌日にはお年玉で『地球幼年期の終わり』『分解された男』『沈んだ世界』他バラード6冊、『悪魔の星』『宇宙の小石』など創元をどさどさと買い込んでいる。とにかくSFと見るや何でも買っていたのだ。読む本は全て面白く、未来は無限に輝かしく広がっていた。こうなってくると、読むだけで満足できなくなるのがSFファンの性である。2月22日には、ファングループへの手紙を初めて出している。毎月買っていた「マンガ少年」(「SFマガジン」は立ち読みだけで、まだ買っていなかった)に広告を載せていた「BBFC」というグループで、返信用封筒を送れば会誌がもらえるとのこと。これなら敷居が低そうだと思ったのだ。6日後には早速会誌が送られてきた。しかし、それはたったの紙切れ一枚。日記に「失望したようなうれしいような……」とあるように、複雑な気持ちだった。(続く)

私的名古屋SFファンダム史03(1977)2012-01-19 20:49

「SFが読みたい!2012年版」のブックガイド執筆のため、数日休ませてもらいました。ようやく書き終えたので再開します。

 さて、初めて入手した同人誌が紙切れ一枚でがっかりしたことは前回書いた通り。上記写真ではよくわからないと思うが、「イエローページ」という題名の月刊情報誌で、黄色い紙に横書き4ページ。「火の鳥」TV化!? とか「タチカワGペン譲ります」なんて記事が載っており、SFというより漫画情報誌という感じである。神奈川県で発行されているが、大阪の著名なSF同人誌「星群」の宣伝も載っているので、何か関係があったのかもしれない。内容はともかく、このフォーマットは、実はこの4年後後に我々が発行したSF情報誌「TORANU TあNUKI」にかなり影響を与えている。4号(1977年2月発行)から10号(1977年12月発行)までは手元にあるので(6号欠)、それなりに面白く読んではいたのだろう。何といっても、切手を貼った返信用封筒を送るだけで現物が届き、実質無料だったのが大きい。5号(1977年3月発行)がSFマガジンのバックナンバー販売特集で、60年代のものに3000円とか、とんでもない値段がついている。「今までのSALEの中では安い値がつけてあり他所ではありません」なんて書いてあるのだが、いくらなんでもそんな馬鹿な話はないだろう。無知な中学生でもこの値段が法外だということはわかったので、すごく欲しかったのだが、一冊も購入してはいない。無料で情報誌を送っておいて、古本で儲けようなんて、これって一種の悪徳商法? この2カ月後には鶴舞の古本屋でSFマガジンのバックナンバーを見つけて(300円~500円ぐらいだった)、山のように買い込むことになるのだけれど、それは3000円に比べればすごく安いという意識も働いたのかもしれない。

 この年の3月末、初めて「SFマガジン」と「奇想天外」を新刊書店で買う。1977年5月号である。特に何が載っていたわけでもないが、SFMでは、野田さんの「私をSFに狂わせた画描きたち(エド・カーティア)」、安田均の「SFスキャナー(プリースト「スペース・マシン」紹介)」などのコラムを夢中で読んだ。この後もしばらくは、小説よりもコラムを読むために購入していたようなものである。漫画は相変わらず萩尾望都をむさぼり読んでいた。ちょうど最初の作品集(赤い表紙のやつ)が出始めた頃で、毎月一冊ずつ刊行されるのを楽しみに購入していたものだ。学研から出ていた「SFファンタジア」の1・2巻、「別冊奇想天外・SF再入門大全集」もちょうどこの頃の発刊で、大いに影響を受けている。この中一の終りから中二の初めにかけて、我々の海外SF志向はすっかり固まっていた。(続く)

私的名古屋SFファンダム史04(1977-1978)2012-01-22 20:03

 なかなか話が進みませんが、まあ気長にお付き合いください。

 1977年の夏にはアメリカでスター・ウォーズ第一作が公開されており、その熱狂が「奇想天外」や「SFマガジン」を通じて伝わって来た。あちこちの雑誌でSF特集やSF映画特集が組まれ、所謂SFブームがやって来たのである。同時に名古屋では、東京から少し遅れて漫画同人誌ブームも起きていた。それを象徴するのが、おそらくは1975年に東京でスタートしていた漫画同人誌即売会コミック・マーケットを意識したであろう「コミック・カーニバル」の開催である。手元のスクラップ帳に、コミック・カーニバル開催を伝える中日新聞(東京新聞の名古屋版、というか東京新聞が中日新聞の東京版)1977年12月6日の記事があるので、下記にアップしておく(一部伏字にしました)。

http://www.asahi-net.or.jp/~YU4H-WTNB/19771206.jpg

 これを読むとわかるとおり、コミック・カーニバルを計画したのは、東海高校漫研を母体としたグループ・ドガであり、当時の代表者は後のミステリ作家森博嗣である。森博嗣は、当時すでに名古屋の漫画同人界では知られた存在であり、名古屋大学漫研とグループ・ドガの両方に在籍して、独特の繊細なタッチと詩的な作風で人気を博していたのだが、筆者はまだそれを知らなかった(後に大ファンとなり、自分が名古屋大学に入ろうと思うきっかけになるのだが、それはまた別の話になる)。多分この記事の写真の真ん中にいるのが森氏ではないかと思う。漫画ファンの一中学生としては、何か面白そうな催しが地元名古屋で開かれるということで、早速出かけることにしたのである。1月22日の日曜日、大雪が降っていたが、クラスの友人2人と弟、計4人で栄の中日ビルまでお昼過ぎに何とかたどり着く。4階に上がると、既にものすごい人、人、人。人をかきわけていくつもの同人誌を見ていく。その中に『昇天するミミズ天使』という本が置いてあり、思わず「あっ、ミミズ天使!」(フレドリック・ブラウン「ミミズ天使」のことですね)と叫んだことから、そこにいたお兄さんと1時間ほど話すことになる。本の内容はすっかり忘れてしまったが、そのお兄さんはかなりのSF・漫画ファンで、柴野拓美の家に行ったことがあるとか、萩尾望都の話とかで随分盛り上がった。この人は、名古屋工業大学SM研(SF&漫研)の兼岩さんという人で、大変世話好きな親切な方であった。これを機にしばらく文通したり、この年の名古屋工業大学の文化祭に出かけていったりすることになる。たまたま出かけた漫画同人誌即売会で、期せずしてSFファンダムの洗礼を受けてしまったわけだ。まあ、これも運命というやつですね。今、書いていた気づいたのだが、今日は1月22日。ちょうど今から34年前の今日の出来事であった。(続く)

私的名古屋SFファンダム史05(1978)2012-01-28 21:07

 前回の続きで、時は1978年2月。我々(と書いているときは弟と自分を指す)のところにコミカ1で知り合った名工大SM研の兼岩さんから手紙が届いた。そこにはSM研の会報とともに、ハヤカワSFシリーズの全リストが同封されており、大変感激する。既にリストマニアへの道は始まっていたのである。何度か手紙のやり取りがあり、6月には名古屋工業大学の学校祭に行くことになった。手紙によると名工大SM研は『ガンマ3号 宇宙大作戦』『サンダーバード SOS原子旅客機』そして『スターウォーズ』の8mmダイジェスト版(日本公開の一ヶ月前であり、大変貴重なもの)の上映会を行っていたのだそうだが、全く記憶にないので、多分これらは観ていないはず。むしろ、ハヤカワSFシリーズや古い《SFマガジン》の展示を夢中になって見ていたことを、はっきりと覚えている。中学3年生だったので、大学のことなどよくわからないまま「将来は名古屋工業大学へ入る」と宣言して、そこにいた大学生たちを驚かせていたような気もする。父が名古屋工業大学の夜間を出ていたのでなじみ深く感じていて、自分たちもそこに入るものだと何となく思っていたのではないだろうか(実際は二人とも違う大学に入ることになるのだが)。

 この時期、TVやラジオ、雑誌ではやたらとSF特集が組まれ(6月9日には「独占!おとなの時間」のスター・ウォーズ特集で伊藤典夫、野田昌宏両氏の姿を初めて見ているし、6月11日の日曜スペシャルでは東京の大学SF研女子対抗による「SFクイズ」などというとんでもないものまで放映されている←《SFマガジン》78年8月号に野田さんによる詳細なレポート有)、7月にはついに「スター・ウォーズ」が公開された。7月末にはサンリオSF文庫も創刊しており、日記によれば、8月1日に『ビッグ・タイム』『辺境の惑星』『時は乱れて』『ノヴァ急報』の4冊を一挙に購入している。SF熱はいやが上にも高まり、もはや学校の友人たちと話すだけでは満足できなくなっていく。8月6日には、コミカ2が鶴舞の名古屋市公会堂に場所を変えて開かれ、もちろん参加しているのだが、漫画同人誌ばかりでSFファンジンはほとんどなく、兼岩さんには会えたものの、1回目ほどの感動はそこにはなかった。中学1年からの友人であり、SF仲間でもある大矢くんに誘われる形で、SFファングループの会合に初めて参加することになるのが、この年の12月。それは、スペースフォース名古屋支部の例会であった。(続く)