アンビ新年会2012-01-07 23:23

 毎年恒例、アンビの新年会である。アンビと言ってもわからない方のために書いておくと、これは1980年に結成されたローカルSFファングループ「KDF」が1982年に「アンビヴァレンス」と改名したもので、その後、名大SF研、南山文学研SF班、岐阜大SF研とメンバーを広げながら続いてきたもの。最近は8月末と1月初めの年2回の集まりだけになってしまったが、まあ、続けることに意義があるということで、これぐらいがいいんじゃないかと思っている。いつもは名駅か栄に集まっているのだが、今回は趣向を変えて、鶴舞のインド料理屋にて開催。9名+後から2名追加。二次会は「笑笑」へ。

 話は主に昨年度の収穫作品について。SFは『ダールグレン』『プランク・ダイヴ』『ねじまき少女』『奇跡なす者たち』などなど(忘れていた自分のマイ・ベストはこの順でした。5位は『スティーヴ・フィーバー』。次点に『ブラッドベリ年代記』『翼あるもの』です)。このミス1位の『ジェノサイド』にはTくんの詳細な解説が入り、2位の『折れた竜骨』にはM夫の詳しい説明が入る。『折れた竜骨』は早速読んでみよう。H谷さんは相変わらずバリバリ読んでいる。去年読んだ本は210冊を超えたとか、すごいなあ。こちらは70冊超えが精一杯。もっと見習わなくては。K一くんは映画をバリバリ観ている。これも見習おう。Hくんがいなかったので、アニメの話はあまり出来ず(個人的に昨年のSFベスト1は実は「まどか☆マギカ」なのでした。これについてはまた詳しく書きます)。

 店の料理が食べ放題コースだったので、どんどん注文してしまう。カレーもおいしく(エビとほうれん草最高でした)、タンドールチキン、シークカバブ、どれもよし。ナンを食べ過ぎて、お腹が苦しい。いや、大満足でした。K一くん、幹事いつもありがとう。また次は夏に会いましょう!

長谷邦夫『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』2012-01-08 23:00

 もはや少なくなってきたトキワ荘時代の生き残り、パロディ漫画製作者にして漫画界の生き証人、長谷邦夫の自伝である。2012年1月10日発行だから、まだ出たばかり。水声社刊なので、あまり普通の本屋には置いていないかもしれないが、アマゾンで入手可能である。

 先日実物を石ノ森萬画展で見てきたばかりの『墨汁一滴』について、なぜ2号の版型が横長だったのかも本書を読んで謎が解けた。何のことはない、郵便で回覧していたので版型を小さくして郵送料金を安くあげようとする工夫だったのだ! 本書にはこうした現場にいた者でないとわからないような細かいエピソードが無数に散りばめられており、著者の記憶(記録)の細かさにはいつも感心させられる。石ノ森、赤塚との出会い、手塚治虫の仕事場への訪問など漫画黎明期のエピソードについては、『漫画に愛を叫んだ男たち』(2004年、清流出版)に既に詳しく語られており、そちらを読んだ方が面白い。赤塚との共同作業、そして別れに至るまでも詳細に綴られており、漫画ファン必読の名著と言えよう。それに対して本書は「自伝」と銘打ってあるだけに、何にでも興味を持ち渦中へ飛び込んでいく著者の性格のまま、題材は漫画だけでなく、SF、ジャズ、現代詩、演劇、映画とどんどん広がっていく。山下洋輔トリオとともにドイツへ出かけた話など個々のエピソードは実に面白いのだが、話があまりに広がり過ぎて、時間が飛んだり戻ったり、話が横へそれたりして、まとまりがついていない。ちょっと読むのはしんどかった。それが人生だと言われればそうなのだが、せめて章立てをジャンルごとにして読ませるとか、工夫があってもよかったのではないだろうか。全体を損なうほどではないのだが、『猿人ジョー・ヤング』と『キング・コング』のストーリーを混同していたり(227頁)、『漫画少年』がB4判で刊行されていたり(53頁)、室町書房のSFシリーズが1965年に刊行されていたり(104頁、正しくは1955年)、結構あちこちにケアレスミスがある。これらは編集がちょっとチェックをすればわかることなので、全体の構成もそうなのだが、赤塚のブレーンとチェックを長谷が務めてきたように、長谷のチェック役が誰かいれば、もっとよい本になったのではないかと思わされた。

 その点、前述の『漫画に愛を叫んだ男たち』は漫画について絞ってコンパクトにまとまっており、本書を読む前に、まずはこちらから読むことをお薦めしたい。アマゾンでまだ入手可能である。

米澤穂信『折れた竜骨』2012-01-09 23:13

 このミス昨年ベスト2。アンビ新年会でも話題になっていたので、早速読んでみた。十二世紀末のイングランド、ブリテン島の東にある小さな架空の島、ソロン島に舞台をとり、魔術師や魔法が存在する世界における殺人事件を取り扱った異色ミステリである。SFファン、ファンタジイ・ファンから見ると、ランドル・ギャレット『魔術師が多すぎる』やピアズ・アンソニイの《ザンス》シリーズなどでロジカルに魔法が存在するという設定は馴染み深いものがあるが、国内ミステリにおいては随分と思い切った設定と言えるだろう。

 北海交易を一手に制したエイルウィン家の当主、ローレント・エイルウィンののところへ傭兵が集まってくる場面から物語は始まる。どうやら、彼は近々恐るべき敵であるデーン人の襲撃があると考えているらしい。ブレーメンの騎士、ウエールズの弓手、マジャル人の女性、サラセン人の魔術師など、様々な者が集められ、当主との面会を果たすが、その晩彼は殺されてしまうのだ。一体誰が、何のために……? 事件を追うのは聖アンブロジウス病院兄弟団の騎士ファルクとその従者ニコラ。ローレントの娘アミーナが語り手の役を担う。犯人は魔術を使って〈走狗〉と呼ばれる身代わりを使いローレントを殺させたらしい。〈走狗〉はその後自分のしたことを忘れてしまうので、下手人捜しは至難の業である。しかし、ファルクは決然と言う。「たとえ誰かが魔術師であったとしても、また誰がどのような魔術を用いたとしても、それでも〈走狗〉は彼である、または彼ではない、という理由を見つけ出すのだ」と。ここに本書が本格ミステリとして成立している根拠がある。本書においては、魔法と言っても、厳然として作られたルールに縛られており、それに則って論理的に考えていけば、事件の解決に至るのだ。決してルールからはみ出したり、ルール自体を疑うこともなく、作品は見事に完結する。面白いことは面白いのだが、まあ、よくできたパズルみたいなもので、それ以上の深みがあるわけではない。語り手であるアミーナを始め、探偵役のファルクとニコラ、どのキャラクターも平板で、ちょっと物足りない気がする。知的遊戯としては十分及第点なのだが……。

 このミス上位にこのような作品が来るというのは少し驚きではある。綾辻行人ら新本格の登場のような衝撃はないけれど、こうして世代交代というのはゆるやかに進んでいくのかもしれない。

『魔法少女まどか☆マギカ』のSF性について2012-01-10 19:50

 先日も昨年最もSFらしさを感じた作品(の一つ、と一応しておこう)と評した『まどか☆マギカ』について書く。最初は卒業生との飲み会で、話題になったのを聞いてそんな作品があるんだなと思った程度。確か「キュウべえは悪い奴だ」とか言われていて、「キュウべえ? 何それ魔法少女もので時代劇のキャラ?」と全くイメージがわかなかったのだが、アンビの例会でも褒められていたので、じゃあ、観てみるかと一気に何本か続けて観たのだった。

 多くの人と同様、3話のラストで驚き、全然魔法少女にならないストーリー展開にこれはひょっとして傑作かもと思い始め、アウトローとしての杏子のキャラに惹かれ、どんどん作者の術中にはまっていく。作画は金田伊功・山下将仁マニアの自分にとって全く食指が動かないレベルの低さではあったが、これまた世評どおり劇団イヌカレーのデザインによる魔女の登場シーンには今までのアニメにはない斬新さを感じた。SFとしてではなく、よくできたアニメと思って観ていたのだが、これは違うと感じたのは9話だ。

 【ここからネタバレ少々あり 気になる方はとばしてください】
 悲惨な運命を辿る魔法少女についてほむらが非情なセリフを口にする。「それでも人間か」とほむらに憤った杏子に対して彼女は冷然と言い放つのだ。「もちろんちがうわ、あなたもね」。ここ! ここで思わず「すげー」と感嘆の声が出たね、私は。人間でなくなったものの悲哀を描くことによって人間を逆に浮かび上がらせる、この手法をSFと呼ばずして何と呼ぶのか。また、この回で初めてインキュベーター(孵卵器、または細菌培養器)であるキュウべえが自身の狙いを明確にする。何と彼は宇宙の寿命を延ばすエネルギーを入手するために地球にやってきたのであり、そのエネルギーとして最も強いものが、少女の「希望が絶望に変化するときのエネルギー」だという。「希望と絶望の相転移」と呼ばれるこの突拍子もないアイディアは、もちろん科学的には無茶苦茶で、別の文脈で見かけたら一笑に付されるようなたわいないものなのだが、この話の流れのこのタイミングで登場すると、実に説得力がある。こうした非現実的な発想を論理の持つ力で如何にもありそうに見せかけるというのも優れたSFの持つテクニックの一つだ。少女たちの感情を切り刻み、非情なまでに徹底してロジカルな思考をする「キュウべえ」の存在がストーリーに緊張感をもたらし、その結果アクチュアリティが生じていることにも、人間という概念自体を外部から客体視するSFならではの視点が感じられる。さらに10話のタイムループ。ここに物語の全てが凝縮されており、その密度の濃さは並大抵ではない。この回にはベテラン・アニメーター梅津泰臣が参加しており、作画レベルも最高潮に達している。タイムループを使えば何でも優れたSFになるわけではないことは、「バブルでGo」を始めとするタイムトラベル映画の愚作の群れが証明している。優れたSFになるためには、タイムループに説得力があり必然性があること、それによって物語がより豊饒になることが求められる。『まどか☆マギカ』にはその全てがあるのだ。そして、11・12話の感動的なグランド・フィナーレ。いや、もうここまでやってくれたら言うことないよね。個人的には『エヴァ』、『カウボーイ・ビバップ』に並ぶTVアニメの傑作として心に残る作品となった。
【ここまでネタバレ少々あり 気になる方はとばしてください】

 全ての脚本を書いた虚淵玄は、「やれエントロピーだ宇宙だってSFくさいことを言ってますけれども。自分としてはSFではないと思ってるんですよ。/SFかSFじゃないかの分かれ目は、奇跡が起こるかどうかというところです。この話では明らかにエンディングで奇跡が起こってますからね」(「ニュータイプ」11年5月号、『ユリイカ』から孫引き)と語っており、本作品のSF性は否定している。しかし、このSF観は明らかに偏狭だ。「SFというジャンルの物語は理論や理屈がなければ成立しない」と思っている虚淵であるが、そう思っているなら、なおさら、奇跡が起きるエンディングに至るまでの論理的な演繹性が説得力を持てば、十分SFとして成立するのだということはわかっているのではないだろうか。まあ、本作がSFかどうかは実はどうでもいい。SFであってもつまらない作品はあるし、面白いものが全てSFだとも思わない。ただ、『まどか☆マギカ』は明らかに優れたSFの持つ特質を備えており、しかも傑作なのである(ちょっと褒めすぎかな)。

windows7のcd/dvd書き込みマスター方式について2012-01-11 23:09

 今日は仕事の話。必要があって、ディスクアットワンス方式で焼いたデータCDを某所へ送ることになった。1GB以下のデータならUSBメモリでやり取りすることが多いので、CDに焼いて送るなんて久しぶりのことである。昔はソフトで焼いていたのだが、まあ、今はOS標準の機能で焼けるからと思い、ブランクのCD‐Rを入れると自動で出てくる上の画面に従って焼いて送った。すると、先方から「これトラックアットワンスです。セッション終了してません」との返事。えっ? そうなの、「書き込み後に個別のファイルを編集したり削除したりすることはできません」って書いてあるから、てっきりディスクアットワンスのことだと思ったよ。しかも、「マスター」って書いてあるし。上の「ライブファイルシステム方式」が「パケットライト」のことだというのはわかるけれど、「マスター方式」が「トラックアットワンス」とはねえ。Vistaからの仕様らしいけれど、この勝手な命名とユーザー無視の傲慢な姿勢はどうよ。自分の非は棚に上げて、マイクロソフトに文句を言いたくなった。まあ、きちんと調べればすぐにわかったことなんだけどね。

 でも、じゃあ、windows7標準機能で「ディスクアットワンス」にしたいときは一体どうするのか? 標準ではできないのか? 左下の「選択方法の詳細」の最後を見ると、ファイルの書き込みをすれば自動的にセッションが閉じると書いてあるのだが、実際には閉じていない。もし閉じたとしても、それは「トラックアットワンス」のセッションを閉じただけなので、そもそも「ディスクアットワンス」とは違うわけである。windows標準仕様では「ディスクアットワンス」ができないというのが結論になるようなのだが、何か釈然としない。もし分かる人がいたら教えてください。