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    <title>Hideki Watanabe's SF blog</title>
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    <language>ja</language>
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    <pubDate>Sat, 08 Nov 2025 14:43:54 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>『地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短編集』イアン・ワトスン（2025年10月／Vitamin SF picopublishing／本城雅之・木下充矢・訳）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/11/07/9815681</link>
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      <pubDate>Fri, 07 Nov 2025 21:49:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-11-08T14:43:54+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　本書は自費出版により刊行されたイアン・ワトスンの短篇集であり、1975年から1990年にかけての7篇を収めている。発行元は〈Vitamin SF picopublishing〉。かつて〈Vitamin SF〉という正会誌を発行していた神戸大学SF研究会のOBから成る団体で、ワトスンにコンタクトをとり、正式に翻訳権を取得しての出版であると言う。翻訳出版全体が沈下傾向にあり、部数が少ないために単価が高くなっている現在、このように従来とは異なる形で海外SFが刊行されることの意義は大変大きく、賞賛すべき偉業と言えるだろう。2020年にも、翻訳権を取得したうえでの自費出版としてキース・ロバーツ『モリー・ゼロ』が翻訳刊行されており（蛸井潔・訳／発行）、このような形での刊行が今後も増えていくのではないか。というか、増えていってほしい。70年代から80年代、90年代にかけての海外SFには、まだまだ埋もれた作品が多くあり、わずかながらかもしれないが、翻訳の需要はあると思われるためである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、ワトスンの翻訳は今までに長篇8冊、短篇集1冊が刊行されているが、近年は翻訳が途絶えていた。2010年に『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された「彼らの生涯の最愛の時」（大森望・訳）を最後に、15年間翻訳されることはなかった。ところが、今年（2025年）になって、アトリエサード発行の雑誌〈ナイトランド・クォータリー〉39号に「慰めの散歩」（大和田始・訳）が掲載され、本書も刊行されるといった具合に、ワトスン祭りとも言うべき様相を呈している。実に喜ばしいことだ。これが一時のもので終わらないように、ぜひとも興味をもった方は、本書を購入して実際に読んでみてほしい。奇才ワトスンの筆の冴えが存分に味わえるはずである。購入先は以下のとおり。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="https://booth.pm/ja/items/7532963"&gt;https://booth.pm/ja/items/7532963&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
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　それでは、以下収録順に紹介し、コメントをつけていく。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「免疫の夢」（1978年）&#13;&lt;br&gt;
　イギリスで癌研究に取り組むローゼンは、免疫系が上位システムである心と深く結びついており、免疫系が見せる夢によって癌の発症を予測できると固く信じている。フランスの睡眠研究者ティボーの理論によれば、後橋脳領域は筋肉への夢の信号をオフにする機能をもつため、ここを切除すれば夢がそのまま筋肉へ伝わり、行動として現れる。夢は遺伝子の制御テープであり、癌は遺伝子型の複製を品質管理するために存在するとティボーは言う。ティボーの研究室で実際に後橋脳領域を切除された猫を見せられたローゼンは、自分も後橋脳領域を切除することで、ティボーの理論を実証しようとする。そのためには、フランスやイギリスではなくモロッコに行かなくてはならない。ローゼンは手術の前に、ある恐ろしい行動を取ってしまう……。狂人的な観念に取りつかれた男の悲劇を描いた、いかにもワトスンらしい作品。ブラックライトの中でうごめく猫たちがホラー風味を増している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「ジェインといっしょに鉱泉室（ポンプ・ルーム）へ」（1975年）&#13;&lt;br&gt;
　８年前にロマンスが芽生えかけたが、別れてしまったジェインとフレデリック。二級船員だったフレデリックは、今や艦長となり氷山曳航船を率いている。この時代、気温は上昇し大気は汚れ、氷山曳航船が南氷洋から運んでくる氷が大変貴重なものとして国に届けられ、人々に配給される水のもとになっている。配給は鉱泉室（ポンプ・ルーム）で行われるが、上流階級でないジェインと母はいつも混雑する時間を割り当てられている。フレデリックと再会したジェイン母娘は、彼に便宜を計ってもらい、上流階級用の時間に変更してもらう。再びロマンスの予感が漂うが……。ジェインの見ている世界と現実世界との落差が読者に衝撃を与える、プリーストばりの一作。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「帰郷」（1982年）&#13;&lt;br&gt;
　ソビエト連邦とアメリカの冷戦が続いていた時代。ついにアメリカはあらゆる生き物を強力な放射線で殺戮する「超放射能爆弾（ＳＲＢ）」をソ連に打ち込み、逆にソ連はあらゆる人工物を消し去ってしまう「社会主義者爆弾（ＳＯＢ）」をアメリカに打ち込んだ。結果として、ソ連の人々はみな死に絶え、アメリカの物資はすべてなくなってしまう。残されたソビエト海軍の船を使ってアメリカの生存者はソ連へと渡り、そこで生活を始める。ところが、暮らしているうちに、徐々に名前も心もソ連風に変化していき……。強烈な皮肉が炸裂する寓話的な一篇。困窮したアメリカをどこの国も救おうとしないという展開からは、強権を振りかざし自国中心に振る舞うアメリカの一面は当時も今も変わらないことが。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「オオカミの日」（1983年）&#13;&lt;br&gt;
　イギリスの田舎村に絶滅寸前のオオカミを移住させるが、村の人々はそれを快く思っていない。老婆がオオカミに食われたという孫娘の話を聞いて、真偽を疑う管理官のジョシュアだが、老いたオオカミが目の前に出現し、老婆の姿をその中に見る。ジョシュアは結局はオオカミを射殺してしまうが、オオカミを保護する立場にあるため、そのことは誰にも言えない。赤ずきんの変奏という形をとって、自然と人間の対立を幻想風味で描いた異色作となっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「地球の鏡の中で」（1983年）&#13;&lt;br&gt;
　世界の主要な都市が水没し人口が二十億しかいない未来、人々は眠らないように身体が変容していた。その中でも一日に８時間眠ることができる者は〈眠る人〉と呼ばれ、夢を現実化する能力をもつため、特別待遇を受けている。〈眠る人〉は世界に６人しかいない。主人公のトマス・ダクィーノは７人目の〈眠る人〉であるラウィーノを発見し、ともに暮らすようになるが……。ワトスンの奇想が遺憾なく発揮された一篇で、夢の大規模投射というメインアイディアにはプリースト『ドリームマシン』からの影響も垣間見える。語り手の名が『神学大全』を著し、キリスト教とギリシア自然科学を結合させて後の科学革命の基礎を築いたトマス・アクィナスと同一なのは偶然ではないだろう。〈眠る人〉が行っているのは、いわゆるキリスト教的な奇蹟であり、そこから啓示を受けてトマスが作ろうとしているのは、エッフェル塔にも似た近代的建造物なのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「スターリンの涙」（1990年）&#13;&lt;br&gt;
　地図作成部に勤務する検閲官ワレンチン大佐は検閲局長ミロフから二年以内に本当の全国地図を作成することを命じられる。語学に堪能な地理学院卒業生グルーシャとともに仕事を始めるが、期間内に任務を達成することは困難だ。実は、オリジナルの地図はすべて裁断されて残っておらず、作成部が作って来たのは偽の地図に過ぎなかった。そして、偽の地図の死角に当たる場所に、時間を超えた不思議な空間が存在する。そこでは若返ることができたり、体内からエクトプラズムを発生する女性がいたりするのだ。行方不明となったグルーシャを探すため、ワレンチンとミロフはその空間に入り込み、不思議な形で死と再生を経験する……。表面に模様を描いた卵が果たす象徴的な役割が強い印象を残す作品だ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「アーヤトッラーの眼」（1990年）&#13;&lt;br&gt;
　イラクとの戦争で右目と顔の一部を失ったイラン人のアリは、戦争終結後に亡くなった指導者アーヤトッラーの遺体から人々が屍衣をはぎ取るのに交じって偶然片目をつかみ、その目玉を持って来てしまう。ホルマリン漬けにして目を保存するうちに、アリは〈悪魔の作家〉を探すプロジェクトに参加し、人工眼を右目に装着して、人工衛星からの映像を見るようになる。ようやくスコットランド沖の島で作家を見つけ、そこへ向かうが……。アーヤトッラーとは1989年に亡くなったイランの指導者ホメイニ師の尊称であり、〈悪魔の作家〉とは、ホメイニ師が亡くなる直前にイスラム教を揶揄しているとして死刑宣告を与えた作家のサルマン・ルシュディ（ラシュディ）を指していることは明らかだ。この死刑宣告はファトワー（布告、勧告）として出され、出した本人しか撤回できない。ホメイニは宣告したまま亡くなってしまったので、死刑宣告は今でも有効であると考える者がおり、実際に2022年にルシュディはイスラム教徒に襲われ、瀕死の重傷を負い、片目を失明した。ワトスンの想像力が現実に先行した展開を示していることが実に興味深い。ただし、襲撃者のとった行動は真逆であり、そこにワトスンなりの宗教観がにじみ出ていると言えるだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以上７篇、いずれも大変内容の密度が濃く、表面的に読んだだけでは内容が理解できないものが多い。じっくりと読んで考え、事実を調べて小説と照合して初めて、こういうことかなと腑に落ちる。または、もやもやが残ったままになる。しかし、実はそれこそが小説を読む醍醐味ではないのか。1980年に『超低速時間移行機』を読んで大きな衝撃を受けて以来、ワトスンは自分にとって、常に重要な作家であり続けてきた。こうして、久しぶりにまとまった数の作品、しかも歯ごたえ十分の作品を読んで、ワトスンらしさを存分に味わうことができた。巻末のリストによれば、1990年以降も、ワトスンは多くの長篇とともに年に数篇の短篇を現在に至るまで発表してきたことがわかる。長篇は難しいと思うので、ぜひとも本書の刊行者＝訳者には、1990年以降の短篇も訳していってほしい。それだけの価値はある作家だと思うのは筆者だけではないはずだ。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>literature</dc:subject>
      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『嘘つき姫』坂崎かおる（2024年3月／河出書房新社）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/08/01/9793116</link>
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      <pubDate>Fri, 01 Aug 2025 10:03:25 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-08-01T10:07:15+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-08-01T10:07:15+09:00</dcterms:created>
      <description>　本書は、二〇二〇年に「リモート」で第１回かぐやＳＦコンテストの審査員特別賞を受賞し、以後多くの文学賞で受賞・入賞を果たした作者による第一作品集である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　事故で身体が動かないため、人型ロボットの筐体にリモートで接続された男子中学生を主人公にした「リモート」、戦場で二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ兵士の物語「リトル・アーカイヴス」など、近未来でのヒトと機械との関わりを描いた作品から、十九世紀末、電気が実用化された頃のアメリカで、電気椅子についての所見を蓄えるため、決して死なない〈魔女〉がサーカスの見世物の形で何度も処刑される「ニューヨークの魔女」、一九六二年にキューバ危機が訪れたアメリカの田舎町で、ロバによく似た生き物〈Ｄ〉の一人が虐待を受ける「ファーサイド」、電信柱を恋をした女性の話「電信柱より」など、象徴的かつ寓話的な作品まで、著者は様々な題材や主題で読者を惹きつける。文章は平易で端正、無駄がなく読みやすい。つるつる読めるが、読み終えたあとに余韻が残る。響きがある。そんな作品集である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　とりわけ印象に残ったのが、表題作「嘘つき姫」と、書き下ろし「私のつまと、私のはは」の二編。前者は一九四〇年、ドイツ軍が侵攻してきたフランスにおいて、母の死により孤児となったマリーと、その直前にマリーの母に救われたエマの二人が姉妹を偽装し、戦火の中を生き延びていく物語。嘘をつかねば生きていけない運命のもと、マリーのついた嘘と、エマのついた嘘が交錯し、複雑に絡み合う。手記の形をとっているため、読者もまた二人の嘘に翻弄され、小出しにされる真実に戦慄する。ネタバレになるので詳しく書けないが、真実が直接描かれていないだけに、より想像力が刺激され、恐ろしい。この手法は、坂崎作品のあちこちで見られるものだ。「あーちゃんはかあいそうでかあいい」のあーちゃんは結末で何をしたのか。扉の向こうには何があるのか。想像するしかないのだが、これは結構怖いことだ。本編における〈嘘つき姫〉はマリーなのか、エマなのか、それとも両方を指すのか。２章がエマの嘘で、１章がマリーの嘘、３章が真実という一応の構成が見てとれるが、これも疑い出せばキリがない。いずれにせよ、嘘の果てに見いだされた、エマのマリーに向けての愛、これは信じるしかないものだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「私のつまと、私のはは」は、「リモート」同様、近未来の日本を舞台にしたテクノロジーものだが、拡張現実装置（ＡＲグラス）を身につけ、子育てのシミュレーションを行うレズビアンのカップルを主役にしている点に新鮮さがある。カップルには子育てに対する温度差があり、デザイナーの理子は、パンフレットを作る仕事の一環として子育て体験キット〈ひよひよ〉のデモ版を送られ、嫌々ながら育児シミュレーションに参加する。片や、看護師をしているパートナーの知由里は、最初からこのシミュレーションに積極的な姿勢を取り、子を望むレズビアンカップルの〈集い〉にも〈ひよひよ〉を連れて行こうとして、理子と対立する。知由里は〈ひよひよ〉が本当の人間の赤ちゃんであるかのように、心を込めて接し、あたかも母のように振る舞うのである。逆に、理子は相手は機械に過ぎないと考え、育児も極力合理的に行う。この違いが徐々にエスカレートしていき、ついには……という物語なのだが、結末で本当にぞっとさせられる場面がある。たった一文ですべてを想像させる、この破壊力を備えた構成は見事だ。途中で何度か知由里の家族に関する描写があるので、なるほど、そうだったのかと深く腑に落ちる。表面的な〈母のやさしさ〉の欺瞞を鋭くえぐる問題作である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、抜けた歯をモチーフとして女性から女性への奇妙な愛の形を描く「あーちゃんはかあいそうでかあいい」、小学生が爪を集めて埋めると指が生えてくる、異様な状況を淡々と描いた「日出子の爪」は、どちらも〈身体から切り離された身体〉が重要な役割を果たしている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ありそうでない話。奇妙な味。少し不思議。肉体性を備えた精神的な物語。どう形容しても、ちょっとずれる。そこにこそ本書の魅力がある。とりあえずは、世の中の矛盾や残酷さをストレートに描かず、周辺を描くことによって逆に浮き彫りにしていく点に坂崎作品の特色があるようだ。まだ書き始めて間もないし、これからどんどん傑作が生まれていく予感がある。今後の活躍に大いに期待したい。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>literature</dc:subject>
      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『頂点都市』ラヴァンヤ・ラクシュミナラヤン（2025年6月／東京創元社）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/07/24/9791254</link>
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      <pubDate>Thu, 24 Jul 2025 21:32:09 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-07-24T21:45:19+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　本書はインド出身の作家・ビデオゲームデザイナーによる連作短編集であり、インドの出版社から二〇二〇年に刊行された。これがローカス短篇集部門の候補となり、二〇二三年に刊行されたイギリス版がクラーク賞の候補となっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　内容は、近未来のインドの都市ベンガルールを舞台にしたディストピアものである。連作短編という形式を生かし、ベル機構と呼ばれる統治体によって徹底的に管理され、生産能力と社会的体裁を常に測られる社会体制を様々な視点から描いている。この都市では、上位二割民は、ホロ技術を用いた最新テクノロジーを自由に操り、贅沢な暮らしが保証されている。中間七割民は、徹底した管理と思想統制のもとに、生産能力を基準にして上位への昇格が奨励されており、皆が上位民の優雅な生活に憧れている。下位一割民は、アナログ民と呼ばれ、デジタル機器へのアクセスが禁じられている。上位民への奉仕が求められ、汚れた土地での生活を余儀なくされている。そればかりか、アナログ民は徹底して差別され、読み進むにつれ、生命までもが搾取されている恐ろしい実態が明らかになってくる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ベル機構のモットーは「生産性は力なり。情熱は宝なり。社会的体裁は要（かなめ）なり。」だ。これがオーウェル『一九八四年』の管理社会を踏まえたものであることは明らかだろう。違いは、ベル機構にはビッグ・ブラザーのような偶像は存在せず、あくまでも生活の向上、豊かな生活を送ること自体を目的にして人々を操り、分断社会の維持を図っていること。その分管理の網がより細かく、システムがネットを介して個人個人の中に入り込んでくるため、巧妙かつ狡猾、抗いがたい存在として浮かび上がってくる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　たとえば、ジョン・アルヴァレスという中間七割民の青年は、上位二割民になるため、オフィーリアと呼ばれる意見均質化制限調整ユニットを使用して、自らの思想や嗜好を矯正していく。平穏暴動や白色雑音というバンド（筆者はこの名前からクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」を思わず連想してしまった）の曲が好きだったのに、オフィーリアの指示に従い、優しく穏やかなネオ生楽器曲を好むようになっていく。彼はあくまでも自分の意志によって、思考にタガをはめていくのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ヴァーチャル民とアナログ民の間には電気シールドが張り巡らされ、行き来が制限されている。アナログ民見学ツアーのガイドをしながら生き別れとなった妹を探すテレサや、両親は死んだと聞かされ上位民のスパイとなったが、実はそれが嘘であったことを知らされるローヒニーなど、引き裂かれた社会に翻弄される人々も本書は丁寧に描いていく。これは現代社会のあちこちに存在する壁に分断された社会を象徴していると言えるだろう。また、ＳＮＳのインフルエンサーが妊娠し、皆が利用している代胎ポッドを使わないと宣言したことからトラブルが生じるエピソードから、ベル機構が妊娠・出産も厳重に管理下に置いていることがわかる。自然分娩は生産性を著しく損なう意味から忌避されているし、中絶などすれば、貴重な生産者の芽を摘む、とんでもない反逆者とみなされてしまうのだ。高齢者看護施設もあり、認知症患者がそこで協調活動を強いられているエピソードもある。いずれも高度な管理社会である現代社会を敷衍していけば、十分あり得る未来であり、説得力がある。アナログ民出身だが、上位二割民の養女となり、アナログ式で音楽を学ぶ少女が上位二割民を目指すエピソードや、ＳＮＳのインフルエンサー３人が年間最優秀賞候補となるが、人前に出たくないためそれぞれ趣向を凝らすエピソードも面白く、興味深いものに仕上がっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このように、様々なエピソードを積み重ねることによって、ベル機構の全体像を明らかにしていく構成は実に巧みで、見事である。一つ一つのエピソードは読みやすく、単独で完結していると同時に、互いにゆるく結びつき、登場した人物が別のエピソードにさりげなく顔を出しているので、それを見つけていくという楽しみもあるわけだ。ゲームデザイナーとしての腕が存分に発揮されていると言ってよいだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「独裁の敵は共同体だ」と本書の中で述べられているとおり、本書の終盤は、アナログ民の部族が協働してベル機構を倒すレジスタンスの話が中心となっていく。反乱が起き、アナログ民がネビュラネットと呼ばれるネットワークをハッキングし、電気シールドが切られ、照明が消える。自動車事故が起き、人事ファイルがすべて書き換えられ、続々とアナログ民がヴァーチャル区画へ侵入していく……。結果は読んでのお楽しみといったところだが、単に叛逆しておしまいではなく、宥和的な結末となっていることは特筆しておきたい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところどころ甘さは見られるが、ネット社会が進んだ結果のディストピアをリアリティ溢れる設定と丁寧な筆致で描いた佳作であり、一読の価値はあるだろう。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>literature</dc:subject>
      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『感傷ファンタスマゴリィ』空木春宵（2024年4月／東京創元社）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/07/19/9789921</link>
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      <pubDate>Sat, 19 Jul 2025 09:19:17 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-07-19T09:23:11+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　本書は二〇一一年に第２回創元ＳＦ短編賞佳作を受賞し、二〇二一年に第一作品集『感応グラン＝ギニョル』を刊行して高い評価を受けた作者による、待望の第二作品集である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　空木の作品は残虐、残酷という言葉で形容されることが多いが、それは決して表面上の、言葉の上だけのことではない。目をそむけたくなるような残酷な出来事の中核にある「弱者の痛み」、肉体の痛みにせよ、心の痛みにせよ、その「痛み」のもつ現前性にこそ空木作品の特色があるのではないだろうか。空木の作品を読むとき、読者はドラマの単なる観客であることは許されない。いつの間にか舞台の上にあげられ、劇中に引きずり込まれ、思い切り心を揺さぶられ、登場人物と同じ「痛み」を経験することになる。効果的な二人称の使用、ＳＦ的な舞台設定、よく作り込まれた小道具は、すべてそのために奉仕している。その手際の鮮やかさ、切れ味の鋭さといったら、研ぎ澄まされた包丁を使いこなす一流のシェフのようだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　たとえば、本書収録の「４Ｗ／Working With Wounded Women」では、上甲街（アッパー・デック）と下甲街（ロウアー・デック）に分けられた雙層都市（ダブル・デッカー・シティ）を舞台として、下甲街に住む主人公ユイシュエンと彼女を取り巻く下層階級の人々の暮らしが描かれる。薬指に埋め込まれたデバイスによって、上甲街の人々と下甲街の人々は量子的に結ばれており、上の者が負った傷は即座に下の者に転移する。これは「転瑕（てんか）」と呼ばれており、下の者は突如として自分に出現する傷とその痛みに耐えるしかないのである。互いの冥婚相手が誰かはわからないようになっている。この仕組みは「冥婚関係（エンゲージ・リンク）」、関係を支える量子システムは「因果機関（カルマ・エンジン）」と称され、併せて「回向（エコー）システム」と呼ばれている。ＤＶや無差別殺人など、現実に存在する理不尽な暴力を象徴させた都市の設定は見事で、皮肉を込めたネーミング・センスも群を抜いている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　物語では、ある時期から突然ユイシュエンに現れる傷が増えてきて、不条理な暴力と痛みに耐えるため、彼女は、上の者が正義のために闘うヒーローであることを夢想する。もちろん、そんなはずはなく、この夢想は結末近くになって残酷に崩れ去る。悲劇は、ユイシュエンの同居人女性である妊婦メイファンにも、もっと残酷な形で訪れる。作中でのメイファンの怒りの声に触れて、心が震えたのは自分だけではないだろう。これまでも、「感応グラン＝ギニョル」や「地獄を縫い取る」（どちらも第一作品集所収）などの諸作で描かれてきた弱者（障碍者や女性）が受けてきた「傷」のもつ意味が、ここではさらに深められ、そして、宥和的な結末に至る。読者に「傷」を突きつけて終わるのではなく、「赦し」にまで至っているという点で、初期作品からの深化が伺える。本書中ではまずこの作品を推しておきたい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらに、ディストピアＳＦの結構を備えた「さよならも言えない」も見逃せない作品である。恒星〈アマテラス〉を公転する七つのうち三つの惑星に人類が入植してから千二百年が過ぎた。人類は、背が高く首が長いルークルー（轆轤）系、平面的な顔立ちのフォンイー（紅衣）系、黒い髪に六本の腕をもつツチグモ（土蜘蛛）系の三種族に分かれ、共生している。〈服飾局（メゾン）〉で働く主人公ミドリ・ジィアンは、局内コンペのためにチームを率いるリーダーだ。この世界では、拡張現実システムによって、遺伝子、場、系の三要素を踏まえたファッションのスコアが常に表示されており、その値が社会的信用を生んでいる。部下のスコアが低いことを気にしているミドリは、ある日足を運んだクラブで低いスコアのまま踊っているジェリーに目を止め、指導する。服を自分で作り、スコアに縛られて生きることを拒否するジェリーにミドリは惹かれていくが……。「４Ｗ」同様、本作においても、現実に存在する社会的抑圧が巧みにＳＦ的設定に落とし込まれている。語られるのは、会社内での出世レースと世代を超えた愛を絡ませた古典的な物語なのだが、この設定のおかげで社会的抑圧はシステムによる暴力だという事実が浮き彫りになっており、かえって新鮮な感動を生んでいる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以上二編が抜きん出た傑作であるが、他の作品も素晴らしい出来映えだ。表題作「感傷ファンタマゴスリィ」と「終景累ヶ辻（しゅうけいかさねがつじ）」は通底する響きを備えた超絶技巧短編である。前者は、十九世紀末にパリで流行した幻燈機（ファンタスコープ）を用いた魔術幻燈劇（ファンタマゴスリィ）を題材にして、性差混乱も含めたアイデンティティの揺らぎを描き、後者は、江戸の三大怪談の主人公、お菊、お露、お岩の時間線を交錯させて、何度も死を繰り返す様を描いている。どちらにも登場する「時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す」という文章のとおり、自己とは死者を「観照」することによって死者を取り込み拡張していく複合的な存在であり、それが繰り返される限り、死者＝幽霊が死ぬことはないのだとの認識が両者を貫いている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　最後に置かれた「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」では、ＶＲ空間で「魔女」を名乗り、依頼人のカウンセリングを行う人々と、その魔女たちを憎み、ＶＲ空間上で暴力を振るって魔女たちを殺してまわる「騎士団」との対立を描いている。ここでも、現実に起きている男性中心主義者と女性の権利拡張を求める人々との分断と憎悪が作中の設定に巧みに反映されている。魔女とは「固定された社会規範に抗い、女性や性的マイノリティについてだけでなく、すべてのヒトにとっての権利を常に考え続けるべき」存在であり、魔女の主張は、男への攻撃でも呪詛でもない」。男の側の権利が侵害されるとの意見に対しては「権利と利得とは別のもの」であり、「既得権益を失う事と権利を奪われる事はまったく別の話」と返す魔女の反論は揺るぎなく、鮮やかである（人権を無視してマイノリティを公然と差別する現実の人々に言ってやりたいが、彼らにはまったく理解できないのだろうなあ、と思ってはいけないというのが本作のテーマでもある）。作中では「魔女」と「騎士団」との争いが、最終的には解決への糸口を見出すところで終わっているため、解説にもあるとおり「希望」が残り、決して読後感は悪くない。これも、空木作品の新境地と言えよう。&#13;&lt;br&gt;
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　全体としては、ＳＦ的設定を効果的に使用し、社会的弱者の立場から社会構造自身が孕む矛盾や構造的暴力を鋭くえぐり出してみせた、極めてアクチュアルな作品が多く、分断が進む現代社会において、本書を読む価値はますます高まっている。ぜひとも一読をお勧めしたい。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>literature</dc:subject>
      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
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      <title>『ＳＦ少女マンガ全史』長山靖生（2024年3月／筑摩書房）</title>
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      <pubDate>Sat, 12 Jul 2025 22:42:52 +0900</pubDate>
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      <description>　本書は、主に一九七五年から一九八五年にかけて、昭和五十年代に全盛期を迎えた「ＳＦ少女マンガ」というマンガのサブジャンルについて概説的に記述した歴史書であると同時に、膨大な作品の粗筋を丁寧に辿って、該博な知識をもとに作品論を語り、何人ものマンガ家については作家論にまで至るという優れた評論書ともなっている。米沢嘉博に『戦後少女マンガ史』『戦後ＳＦマンガ史』（ともに一九八〇年）という先駆的な試みはあるが、記述はどちらかと言えば歴史を語ることに重点を置いており、作品論としては踏み込みが浅い。「ＳＦ少女マンガ」に対象を絞って、深く掘り下げ、ジェンダー的な視点も取り込んで作品を論じているという点で、本書の価値は大きく、今後のマンガ研究の里程標となるだろう。&#13;&lt;br&gt;
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　対象を絞ったと言っても、著者のマンガに関する歴史的射程は広く、第１章の概史では、奈良時代の絵巻、江戸時代の読本、明治時代の風刺画を経て、大正から昭和初期にかけて、コマに分けてストーリーを勧めるマンガ物語が成立したことが記述される。大衆に向けた少年雑誌、少女雑誌の創刊もこの頃であり、画家による雑誌の口絵や挿絵、小説、読者投稿欄、絵物語といったライバルに交じってマンガが成長していく。戦後の少女マンガは、手塚治虫や石森章太郎、ちばてつやといった男性マンガ家が描く悲哀ものが中心であった。活動の中心が徐々に、わたなべまさこ、水野英子、牧美也子、今村祥子ら女性マンガ家に置き換わり、内容も固定観念化された少女像、女性像をはみ出していく過程を著者は丁寧に記述していく。里中満智子、美内すずえ、細川智栄子、西谷祥子らがデビューし、ＳＦも描いていく。「ＳＦ少女マンガ」と言うとどうしても萩尾望都、竹宮恵子らいわゆる二四年組から始まったような印象を還暦前後のわれわれ世代は持っているが、このような萩尾・竹宮以前の前史の存在を俯瞰的な視点から正確に記している点にも本書の価値はある。&#13;&lt;br&gt;
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　第１章で触れられているように、手塚の『リボンの騎士』（一九五三～六七）は、主人公サファイアが女性として生まれながら男の心と女の心をもち、男性として育てられるという異性装ロマンスの嚆矢であり、後の池田理代子『ベルサイユのばら』（一九七二～七三）へとつながっていくことはよく指摘される点だが、著者は、これに加えて、水野英子『白いトロイカ』（一九六四～六五）に描かれた「自ら考え行動する革命的女性像」を引き継いだ点にも『ベルばら』の革命性があると説く。この指摘は重要である。少女マンガの歴史自体に〈男性が女性のために描いたもの〉から〈女性が女性に向けて描いたもの〉へと変化していく過程があり、さらにＳＦについても、一九六〇年代には「女性にＳＦはわからない」といういわれのない偏見があり（本書に引用されているとおり「女の子にはＳ・Ｆが分らないのだというのです。ホントかしら…」と萩尾望都が自作「精霊狩り」内で記している）、この男性を中心とした二重の抑圧状態から逃れ、自由な創造力と表現力が爆発した時代こそが「ＳＦ少女マンガ」が花開いた昭和五十年代であるという認識が、本書には一貫して流れているからである。&#13;&lt;br&gt;
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　第２章では「挑発する女性状理知結晶体」と題して、山岸涼子、倉多江美、佐藤史生、水樹和佳、清原なつの、佐々木淳子、樹なつみの七人を取り上げて、深く論じていく。マンガ家と作品の選び方が実に秀逸であり、彼女らに共通する特色を、非合理に対する論理、無意識や夢想に対する知性を重んじることとして掬い上げている。もちろん、彼女たちの作品がそれだけで割り切れるはずもなく、作品も描かれる人物も多様であることは承知のうえで、である。作中人物には、山岸涼子『日出処の天子』（一九八〇～八四）の厩戸皇子のように「合理主義によっても自由を得ても、満たされることのない人間存在の業の深さを象徴している」人物もおり、佐藤史生の作品には「知性への敬虔なまでの信頼」があるものの、後期の作品には「科学主義から神秘主義への傾斜」がみられる。「コンピュータ社会の精神的側面と、多層的な神話学を融合させた」佐藤の代表作『ワン・ゼロ』（一九八四～八六）を論じ、やはり神話的作品である水樹和佳の大作『イティハーサ』（一九八七～九七）を神話学的に論じた後で、両者の共通点は「時間の回帰性」にあると看破してみせ、「戦闘より理解や宥和による克服に努める姿勢は、萩尾から佐藤や水樹へ、さらに後継たちへと引き継がれているＳＦ少女マンガの精神だった」と結論づけるあたりの流れは鮮やかで、全体を通しての筆者の主張もここによく表れている。この章と萩尾望都を論じた第４章は、評論書としての本書の白眉である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　第４章はまるごと萩尾論に充てられている。対象を「ＳＦ少女マンガ」に限っているので、取り上げられた作品は「あそび玉」（一九七二）『11人いる！』（一九七五）『百億の昼と千億の夜』（一九七七～七八）「左ききのイザン」（一九七八）『スター・レッド』（一九七八～七九）『銀の三角』（一九八〇～八二）などの諸作で、『ポーの一族』（一九七二～七六）や『トーマの心臓』（一九七三～七四）には部分的に触れられているが、本格的に論じられてはいない。それにしても、こうして眺めていくと、七五年から八五年にかけての萩尾望都のＳＦへの意欲の凄まじさと作品の完成度の高さは尋常ではない。著者は「あそび玉」には「当時の画一的な社会の価値観に違和感を覚える萩尾自身が投影されている」と述べ、和解的な結末に「暴力的革命に代わる、より先進的な取り組み」を見出している。『11人いる！』では、性別を自己選択できるフロルの存在を通して「男性と対等であることを自明として生きる女性」を描き出した点が画期的であったと述べる。ただし、フロルは女性を選択して男性であるタダとの結婚を望むのであり、男性を選択して男性を愛するわけではない。「萩尾作品は文化的伝統や社会規範による人為的なジェンダーを乗り越えていくが、生物学的差異の人為的操作には懐疑的なようだ」という著者の指摘は鋭い。他にも、自然に性別を変えながら成長していく一角獣種タクトを主人公とした「Ｘ＋Ｙ」（八四年）、人間と異星人の混血であり男性と思われていたルゥが実は女性であったことが判明する「ハーバル・ビューティ」（八四年）、感染症の抗体がＹ染色体上にあるため自然状態では男性だけしか生き残っていない未来の地球を描いた『マージナル』（八五～八七年）と、萩尾ＳＦには性別の揺らぎや偏りをテーマにした作品が多く、そのために丸ごと異星の生命体系を創作した場合もある。ＳＦという手法がいかに萩尾作品にマッチしていて、そしてそれらの作品に他の多くの少女マンガ家が刺激を受け、多数の作品が生み出されたかを本書は克明に記録しており、ＳＦ少女マンガがなぜこの時期に爆発的に広がったのかという問いの答えにもなっている。要するに、萩尾望都ＳＦの衝撃があまりに大きく、当時の（今も）男性優位社会の抑圧を受けていた少女らが強い共感を寄せ、また画一的な社会規範をよしとしない男性読者をも含んで、大勢の読者を惹きつけたことは大きな要因であっただろう。ＳＦにおいては文化や社会を自由に設定することができ、その中で女性が「女性性」を保ちながら男性と対等な関係を結び、活動していくことが可能だ。理想的な男女関係、ひいては人と人との関わりがそこにはあると言える。たとえ闘いや軋轢を描いたとしても、ＳＦ少女マンガでは和解と宥和を結論に打ち出すことが多い。萩尾ＳＦの影響力の強さがうかがえる。八五年以降も萩尾望都は精力的にＳＦ少女マンガを発表しており、本書は最新作『ポーの一族　青のパンドラ』（二〇二二～連載中）に至るまでの諸作を丁寧に紹介し、論じている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　第３章と第５章は、個々のマンガ家の作品紹介という面が強く、本書の歴史書としての側面がよく示されている。取り上げられたマンガ家は、「思考するファンタジー」と題された第３章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子、坂田靖子、日渡早紀、川原泉の六名。「孤高不滅のマイナーポエットたち」と題された第５章で岡田史子、内田善美、高野文子の三名。いずれも個性的で表現力に秀でたマンガ家ばかりなので、本書を読んで、初めて（または改めて）作品に接することも一興だろう。&#13;&lt;br&gt;
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　おそらくは、本書を読んで、これも足りないあれも抜けているといった文句を言い出す人たちも出てくるだろうが、本書の偉業の前では取るに足らぬことだ。膨大な作品を読みこなし、分析し、批評するのは大変労力のかかる作業である。それを踏まえたうえの言葉でなければ、つまらぬ文句に耳を傾ける必要はない。ただし、一つだけ言わせてもらえば、歴史書としての側面を考えると、大変な作業になるのはわかっているが、作者名だけでも索引は欲しかった。&#13;&lt;br&gt;
　総じて、視野の広さ、構成の見事さ、分析の深さで本書に並ぶものはない。ＳＦ少女マンガの奥深さを知るのにうってつけの一冊である。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>comic</dc:subject>
      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
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    <item>
      <title>『遊戯と臨界』赤野工作（2025年3月／創元日本ＳＦ叢書）</title>
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      <pubDate>Fri, 25 Apr 2025 12:46:35 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-04-25T12:52:35+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　ゲームに関する作品ばかりを収録したゲームＳＦ傑作選。作者は小説投稿サイト「カクヨム」出身の作家で、架空のゲームをレビューした『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィス・ノー・ネーム』（2017年）で〈ＳＦが読みたい！〉の年間ベスト四位に入るなど、高い評価を得ている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　本書には、遊んだゲームがつまらなかったため返品を希望するカスタマーと返答するサポートとのやり取りを通じて恐ろしい真実が浮かび上がる「それはそれ、これはこれ」、1.3秒のタイムラグが生じるにもかかわらず月と地球を結んだオンラインゲームに執着する男たちの話「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」、日常生活にかかる時間も含めたゲームのクリアタイムを最短にしようと試みる男のゲーム実況「邪魔にもならない」など11編が収録されている。各編に共通しているのは主人公たちのゲームに賭ける熱い思いだ。彼らは何かに取り憑かれたようにゲームをプレイし、ゲームを語る。印象に残った作品をいくつか紹介していきたい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　実際の高校にeスポーツ部が設立され、ゲームが一つのスポーツとして現実にも認知されてきた今、高校野球に高野連があるように、ゲームの世界にも高ｅ連が作られ、そこで起きた不祥事に対して謝罪会見が起きるかもしれない。そんな未来を先取りして描いてみせたのが「全国高校ｅスポーツ連合謝罪会見全文」だ。ゲーム内のキャラクターの動作が侮辱に当たるかどうかが争点となり、プレイヤーの高校生にはその動作が侮辱に相当することがわからなかった。作者は、ゲームを一つの文化ととらえ、文化の捉え方の世代間相違がもたらすギャップを笑いでくるむ。掌編「ミコトの拳」では、この世界はゲーム内のシミュレーションに過ぎないと考えるシミュレーション仮説を追究し、中編「これを呪いと呼ぶのなら」では、恐怖の記憶を脳に上書きするゲームをレビューする男を通じて、本当の恐怖とは何かを描く。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「本音と、建前と、あとはご自由に」では、Vtuber をしている主人公が独裁国家を倒すゲームを実況しているうちに、その国の反政府勢力に利用され、内乱で多くの人が犠牲となる。主人公が国家転覆罪に問われ裁判を受ける過程を会話だけで描いた本作は、主人公のあまりの政治的感覚のなさにぞっとさせられる話だが、高校教員を30年以上続けてきた自分にとっては、多くの若者の実情を反映しているように思う。気になったことが一つ。作中で主人公を「反動分子」と呼ぶ場面が何度も出てきた。本来「反動分子」とは「一切の改革を認めようとしない保守派や体制派」、つまり「政府寄りの人たち」を「反政府勢力」が批判して使う言葉であるが、ここでは全く逆に「反政府勢力」を示す言葉として使われている。反政府勢力を「反動分子」と呼ぶことには強烈な違和感があるので、指摘しておきたい。途中からは直っているようなので、単なる校正ミスであればよいのだが。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　1989年9月にソ連から西側へ亡命してきた科学者と、あるゲームとの関わりをスパイ小説仕立てで描いた「“たかが”とはなんだ、“たかが”とは」は、集中では珍しく客観描写を取り入れているが、オチありきの話であることは変わらない。ゲーム実況配信をしていた先輩が亡くなった後に、様々な怪奇現象が起きる「曰く」は、般若心経の解説を結構真面目にしているところが新機軸と言えるかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　基本的に会話だけで物語が進んでいくので、これらの諸作を小説とは呼び難い。どちらかと言うと、落語などの話芸に近いものだろう。しかし、軽く書かれたように見えて、実は鋭く世相をえぐっていたり、恐ろしい真実を示していたりする着想には捨てがたいものがある。ゲームにのめり込む人々を一歩引いた視点から捉え、彼らと社会とのギャップを描いているところも面白い。その意味からは、「全国高校ｅスポーツ連合謝罪会見全文」と「本音と、建前と、あとはご自由に」が特に良かった。形式を整えて本格的な小説を書いたら、もっと多くの層（全くゲームをしない自分のような高齢者層）にもアピールできるのではないかと思う。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『ＳＦ脳とリアル脳』櫻井武（2024年12月／講談社ブルーバックス）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/04/24/9770655</link>
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      <pubDate>Thu, 24 Apr 2025 11:58:28 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-04-24T21:53:06+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-04-24T11:59:43+09:00</dcterms:created>
      <description>　覚醒を制御する神経ペプチド「オレキシン」を発見した医学研究者による科学技術とＳＦを比較したノンンフィクション。小説だけでなく、漫画、映画、ドラマなど題材は幅広く、最新の技術と比較することでそれぞれの作品を見つめ直すきっかけともなるだろう。著者は１９６４年生まれなので、自分と同じ世代であり、登場する作品がいずれも馴染み深い。現実はここまで来ているのかという驚きと懐かしい作品を再発見する喜びが同時に味わえる一冊となっている。どんな作品がどのように取り上げられているのか簡単に紹介しておきたい（煩雑になるので作者名はすべて省略した）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　１章では「サイボーグ技術」が取り上げられている。中枢神経系（脳と脊髄）以外を人工物に置き換えた「埋め込み型」サイボーグが登場する作品として、〈ジェイムスン教授〉シリーズ、『サイボーグ００９』『攻殻機動隊』『銃夢』などが紹介されている。しかし、１４０億個の大脳皮質ニューロンから伸びる運動ニューロンの活動電位を検知し人工体に接続して動かすということは、現実にはかなり難しいようだ。運動系の末梢神経は、何万本もある軸索の束から構成され独立した情報を運んでいるので、それぞれの活動電位を分離して検出しメカニズムに接続することが困難だからである。また、従来のサイボーグは、人間の持つ対応力や判断力と機械とを融合した存在として描かれてきたが、現在では、もはやＡＩの判断力の方が人間を凌いでおり、中枢系を残す意味が薄れている。したがって、近未来のサイボーグは兵器としての用途よりも、医療目的が重要になってくるとの指摘は興味深い。なお、本書では、埋め込み型だけでなく、スーツをまとう「装甲型」も一種のサイボーグとして『宇宙の戦士』『機動戦士ガンダム』などを取り上げているが、こちらは著者も書いているように、本当にサイボーグと言えるかどうか、乗り物ではないのかという疑問が生じるだろう。現実には、筑波大の山海教授率いるCYBERDINE社がロボットスーツ「ＨＡＬ」を２０１５年より販売しており、「装甲型」は既に実現されている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　２章は「脳と電子デバイス」を扱っている。１章で述べられているように、運動系の末梢神経とメカニズムとの接続ですら困難であるのに、視覚、聴覚、味覚などの「特殊感覚」といわれる感覚を司る末梢神経と電子デバイスの接続はさらに困難であると著者は述べる。たとえば、視神経には百万本の軸索があり、大脳後頭葉にある複雑な視覚野と接続されている。このインプットとアウトプットを電子デバイスで行うのはきわめて困難であり、大脳皮質との接続は現時点では夢物語にすぎない。現実に行われているｆＭＲＩなどの脳機能画像解析技術では、空間的にも時間的にも分解能がまったく足りず、装置も巨大になってしまう。しかし、電極を大脳皮質の表面に置いた皮質脳波を用いれば、アウトプットを限定的に外界の制御信号に変換することは可能なようである。一つ一つのニューロンの活動電位をモニターする高密度な電極と超高速のデータ処理システムが開発できれば、電子デバイスとの接続も可能になるかもしれない。また、数十万個のニューロンから成る「カラム」単位で行われている情報処理を模倣することであれば、ニューロン単位の処理よりも容易にできる。もしもそのような形でデバイスとの接続を果たしたとしても、人の前頭前野にある「ワーキング・メモリー」の容量は実に小さいため、処理の限界がある。前頭前野は自我や道徳心、人格に関係しており、外部デバイスで拡張することにはリスクが伴う。電脳化への道はなかなか険しいようだ。しかし、いつかは実現するのではないかというのが著者の見方である。本章では作品はあまり登場しないが、『攻殻機動隊』の先見性は高く評価されている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　３章は「意識のデータ化」を扱う。本章で言う意識のデータ化とは、言語生成ＡＩ「ChatGPT」がしているように人の言動をあらかじめ学習させて人格や言動を模倣した応答をさせるということではなく、脳の機能をそのまま機械の上で働かすことである。意識は、視覚・聴覚・触覚などの感覚系がキャッチした情報をリアルな世界のものとして認知し、ある対象について注意を向けることを基礎とする（大脳皮質の機能）。その上で、認知した対象に付随して人は情動を感じる（大脳辺縁系の機能）。この二つの独立した認知システムを前頭前野が取りまとめて、はじめて「心」が生じる。さらに、脳の機能には意識されないものも多い。たとえば、小脳は過去の運動学習にもとづいて運動プログラムを作成し、大脳基底核は運動を制御している。これらは普段まったく意識されていないが、やはり脳の機能として重要である。「認知」「情動」「無意識」などの脳の機能はかなり複雑であり、大脳皮質の情報処理機構はほとんど解明されていないため、すべて機械に移し替えることはまだまだ困難であると思われる。また、有機的な身体からのインプットがなければ「意識」は存在できないので、脳だけで生きる場合は、本来の脳の活動と異なるものになるだろう。ロボットのような物理的な身体を与える方が、本来の脳の機能に近づくことができる。結論として「意識のデータ化」は現状では難しいということになる。作品としては『順列都市』『ディアスポラ』『ユービック』『オルタード・カーボン』、漫画『攻殻機動隊』『アップルシード』『銃夢』『銀の三角』、映画『マトリックス』、アニメ『ＳＤガンダムフォース』『ゼーガペイン』『シュタインズ・ゲート』などが挙げられている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　４章は「人工冬眠」を扱う。ＳＦの世界では、人工冬眠は未来への旅（『夏への扉』など）と宇宙への旅（『２００１年宇宙の旅』、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』、映画『パッセンジャー』、漫画『火の鳥』など）によく登場する。宇宙空間において、宇宙線が遺伝子にダメージを与えるのは分裂中の細胞に対してなので、人工冬眠で代謝を下げればダメージを抑制できるし、筋萎縮や骨量低下も減少させることができる。冬眠する動物は、脳の視床下部にある体温の設定温度を定める機能によって設定温度を変え、低代謝状態を作り出している。しかし、機構は不明なので、人体への応用はまだできていない。ＮＡＳＡでは「強制冷却」によって代謝を下げる研究が行われているが、冬眠期間は長くて２週間程度であり、様々なデメリットが生じる。２０２０年に、著者らの研究チームは、非冬眠動物であるマウスで視床下部のニューロン群（Ｑニューロン）を興奮させることにより低代謝状態を作り出すことに成功している。ヒトの医療への応用が期待されており、将来は人工冬眠が可能になるかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　５章は「記憶の書き換え」を扱う。記憶には様々な種類があり、海馬は「陳述記憶」、扁桃体は情動記憶、大脳基底核や小脳は手続き記憶というように、脳の各場所で記憶の機能が異なっている。情動記憶や手続き記憶は言葉で表現できない「非陳述記憶」であり、陳述記憶とは独立して成立している。人の記憶は多層構造なのである。陳述記憶だけを書き換えても、リアリティのある記憶にはならないだろう。また、海馬には「メモリー・エングラム」と呼ばれる記憶痕跡が作られ、それが大脳皮質のニューロンに働きかけることで長期記憶が大脳皮質に作られるため、このメカニズムがわからないと陳述記憶の書き換えは困難である。非陳述記憶は陳述記憶以上に広範な脳領域にまたがっているため、さらにメカニズムの解明が難しい。記憶の書き換えは当分はフィクションの世界に留まるようだ。作品としては『攻殻機動隊』、映画『インセプション』、ドラマ『ジョー90』などが挙げられている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　６章は「脳と時間の流れ」を扱う。古典物理学では時間は一定に流れているが、量子力学では主観的な意識が重要となる。現実のニューロンは分子の時間的な因果関係を利用して情報伝達を行っているので、古典的物理学に従っている。脳のメカニズムも時間の流れとともに変化し、脳は過去の出来事を記憶することはできない。エベレットの多世界解釈では、観測者も系の中の要素と捉えるが、これは「観測によって波動が収縮する」と言うよりは、多くの可能性の中のある一つの世界に意識が入り込むのだと著者は述べている。この宇宙は無限に存在するマルチバースの中の一つだという考え方である。我々の意識は、宇宙の時間軸上の出来事を映画のコマのように飛び飛びにたどっているのだと著者は捉えている。従って、脳の処理能力を上げれば、時間は（他の人から見て）速く進み、意識の作動が止まれば時の流れも止まるというわけだ。こうした考えで書かれたわけではないが、タイムトラベルを扱った作品として、『タイムマシン』『異星の客』『タイタンの妖女』、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インターステラー』『テネット』などが挙げられている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　７章は「脳の潜在能力」を扱う。「脳は潜在能力の10％しか使っていない」というのは1936年に米国の作家ローウェル・トーマスが自著の中で述べた言葉だが、科学的には完全に否定されていると著者は言う。もし90％が停止しているなら、不要な組織を常に持っていることになり、生物の生存には不利である。大きな頭は出産に不利であり、不必要な部分はできるだけ排除されることが生存には求められているはずだ。脳は少しのダメージでも重大な影響を被るので、そこから考えても常にフルに活動しているはずである。現在では、機能を持たない領域は大脳皮質にはないことがわかっている。ぼーっとしているときでも、深いノンレム睡眠中であっても、すべての脳領域に活動が認められる。ただし、活動していても、前頭前野の働きにより機能が自己規制されている可能性はある。ノルアドレナリンが前頭前野に分泌されると、大脳皮質の情報処理精度が高まる（ごくわずかな変容だが）。日々の努力によっても、脳の情報処理能力は変化するので、努力は決して無駄ではないとの結論である。作品としては、映画『ルーシー』『リミットレス』、『ドノヴァンの脳髄』が挙げられている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　８章は「眠らない脳」を扱う。睡眠とは休んでいるという消極的な状態ではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程なのだと著者は述べる。「記憶の固定化」など重要な役割を担っている。睡眠がないと、恒常性の維持機構、免疫系、全身の機能が狂ってしまう。睡眠中は危険に対処できないと言う不利がありながら、長い生命進化のなかで睡眠は決して除くことができなかった。しかし、近年睡眠を起こす力はシナプスにおける機能性タンパク質がリン酸化して作られることがわかってきた。リン酸化は酵素の働きなので、酵素阻害薬などで睡眠を操作できるようになるかもしれない。そうすれば『ベガーズ・イン・スペイン』のように、「無眠人」の誕生も夢ではないだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　９章は「ＡＩとこころ」を扱う。2022年11月に公開された「ChatGPT」は、時系列データを処理してきた従来の「リカレントニューラルネットワーク」を用いずに、特定の特徴に重みづけをする「アテンション」を用いるところに特色がある。「ChatGPT」との会話は極めて自然で、心をもっているように見える。「ヒトの心も脳が定型的な応答をしているにすぎない」と考えればヒトの心とAIにそれほど違いはないようにも思えるが、いまのところ、AIにメタ認知機能や感情はないと考えられており、ヒトの心との違いは歴然としてある。AIが心をもつには、「自分が自分である」と認知し、社会や環境の中でみずからの置かれている状況を理解する「自意識」が必要である。３章で述べたように、そのためには自己を他者と区別できるような「身体」が必要になってくる。個性や社会性も必要である。こうした条件をクリアしてAIが心をもったとしたら、ヒトと同じように、社会を支配したいという欲求をもつだろう。そのようなＳＦ作品は数多くあり、映画『ターミネーター』『マトリックス』、漫画『火の鳥』が挙げられている。逆に、心をもっても欲望に支配されず、ヒトの社会をよりよくするために機能するAIも考えられる。著者はこちらに希望を持っている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以上、本書の内容を要約してみたが、脳科学の最前線が丁寧に紹介され、ＳＦ作品に登場するテクノロジーがどこまで実現可能なのかがよくわかる、良質の解説書となっている。著者は睡眠の研究者であるため、４章と８章は特に専門的分野からの知見を垣間見ることができ、興味深い章となっている。全体としては、科学が進んできているが、まだまだ人間の脳は解明されていない部分が多く、電子デバイスとの結合、記憶の書き換えなどは難しそうだ。だからこそ、ＳＦ作品のもつ想像力がより重要になってくると思われる。現実を敷衍させ、または現実への否定から生まれた想像力が現実に作用し、現実のテクノロジーをより発達させる。そのような相互作用こそが優れたＳＦを生み続ける土壌として必要とされているのだ。&lt;br&gt;
</description>
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    <item>
      <title>『パラドクス・ホテル』ロブ・ハート（2025年3月／創元ＳＦ文庫）</title>
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      <pubDate>Tue, 22 Apr 2025 21:15:20 +0900</pubDate>
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      <description>　タイムトラベルが実現し、好きな時代へ自由に旅行ができるようになった近未来。アインシュタイン・インターセンチュリー時空港に隣接したパラドクス・ホテルでは、時空港を民営化しようという計画が進行していた。時間旅行は費用がかかり、政府は赤字で運営している。大富豪を集めて、その中の誰かに事業をまるごと買ってもらおうというわけだ。不動産王、サウジアラビア皇太子、ＩＴ投資家、複数企業のＣＥＯが集まり、ホテルでサミットが開かれようとするとき、奇妙な出来事が連続して起きる。孵化したばかりの恐竜が三頭、ホテル内を走り回る。ロビーの大時計が不連続な時間を示す。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　主人公の警備主任ジャン・コールは、自身が時間離脱症を患っており、突然過去や未来の風景を垣間見る。亡くなった恋人メーナがホテル内に現れ、ホテルの客室でのどを切り裂かれた男の死体を見る。そんな中で、ホテル内での事件が起きたため、混乱は増すばかり。果たして殺人事件の真相は明らかになるのか、そしてサミットの行方は……。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　実に魅力的な舞台設定と言うべきで、時空港からは、古代エジプト、ゲティスバーグの戦い、三畳紀、ルネサンスなど世界史、地球史のエポックメイキングとなる様々な時代行きの旅客機が出ている。ジャン・コールはもともと時間犯罪取締局で働いていたこともあり、少しはタイムトラベルの状況が回想として描かれているが、本書のストーリイはあくまでもホテル内で起きるさまざまな事件を解決することが主となっており、時間旅行が脇に置いておかれるのが、少し物足りない。しかし、それを補って余りあるのが、ホテル内での恐竜をめぐる騒動、ホテルの経営をめぐる権謀術数、時空が乱れるトラブルの解決などのいくつもの重層的に重なる物語である。主人公の時間離脱症のために、時系列が複雑に入り乱れてシーンが現れ、かなり複雑な構成となっているが、作者の手綱さばきが巧く、決して読みにくくはない。主人公の相棒であるＡＩドローンのルビーとのユーモラスなやり取りもあって、楽しく読み進めることができる。そして、何より主人公コールの恋人であったメーナが、コールの時間離脱症によって繰り返し自身の目の前に現れては消える、その辛さが切実に読者に迫ってくる。本書は、表面的には強靭な個性をもちながら、内面では自己嫌悪にまみれ生きづらさを抱えた一人の女性の心が解きほぐされ、新たな居場所を見つけ出していく過程を丁寧に描いた心理小説でもあるのだ。タイムトラベルものの衣をまとった癒しの物語。本書の核はここにあるのではないかと思う。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
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    <item>
      <title>『暗黒星雲』フレッド・ホイル（1958年11月／法政大学出版局）</title>
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      <pubDate>Sat, 19 Apr 2025 13:01:42 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-04-19T13:47:44+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　ネットフリックス版『三体』のドラマを見ていると、第一話で葉博士の部屋にあった箱の中にフレッド・ホイルの Evolution from Space があって驚いた。これは題名からわかるようにパンスペルミア仮説について述べられたもので、宇宙生命を示唆した演出、または単なる偶然（それっぽい本を入れておけ程度のもの）と思われるが、ホイルのファースト・コンタクトものと言えば、何と言っても『暗黒星雲』である。出版社がＳＦプロパーでないためか、ＳＦ界で話題になることは少なかったが、実はなかなかの秀作であり、１９５８年の初版以来、各種の異装を経て１９８５年まで版を重ねた。筆者の古くからの知り合いの物理教師（ＳＦファン）は大変この作品が気に入っており、その面白さを熱く語ってくれた。何十年も前のことだが、印象に残っている。今回はこのクラシックＳＦを紹介したい（古典であるということに鑑み、ネタを大いにバラすのでご留意願いたい）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　１９５９年１月、パロマー天文台で働く天文学者イェンセンは一か月前の写真と現在の写真を図像比較器で見ているうちに、南の空で暗黒星雲が大きくなっていることに気づく。すぐに幹部のマーロー博士に報告し、会議が開かれる。会議で、この星雲が地球に向かっていること、一年半後には地球に到達するであろうことが確認された。&#13;&lt;br&gt;
　一方、グリニジ天文台を始めイギリス各地で、木星と土星の軌道が正規の位置からずれていることが観測される。どうやら木星の質量程度の未知の天体が太陽系周辺に存在しているらしい。ケンブリッジ大学天文学教授キングスリーは、未知の天体が見つかっていないかマーロー博士に問い合わせ、すぐにアメリカに呼ばれる。二人は協力して報告書をまとめ、アメリカ大統領とイギリス首相にそれぞれ報告する。早速イギリスのノルトンストウに最新の電波望遠鏡を備えた研究所が作られ、秘密裡の活動が始まった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　原著の刊行は１９５７年であり、何千個もの真空管を備え紙テープを吐き出す巨大な電子計算機、全く新しい符号としての周波数変調（ＦＭ）など、科学的装置や知識の古めかしさは否めない。しかし、物語の前半、暗黒星雲の実在と進路を科学的な事実をもとに推論していく過程には普遍的な面白さがあり、物語がテンポよく進んでいくので、今読んでもスリリングで楽しめる。電波に信号を乗せて送れば、一秒に五百万語を送ることができるという発想などは明らかに現代のインターネットにつながるものであり、ホイルの洞察力が優れていたことを示している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、物語は後半に入り、いよいよ暗黒星雲が太陽系に近づいてくる。どうなるのかというと、多くの人は太陽光が遮られ地球は寒冷化すると思うだろう。しかし、この物語では、その前にまず太陽光が星雲ガスに輻射されることによって、地球は一度熱せられるのだ。気温は四十度台となり、植物と昆虫が繁栄し、人々は次々と死んでいく。その後ようやく、太陽と地球の間に星雲が入り込んで、暗黒が訪れ、雨が降り、すさまじい台風が起きる。気温はどんどん下がり、雪が降り、川が凍る。極端な気候変動によって、二か月で世界人口の四分の一が失われた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一方で、暗黒星雲は自らガスを噴射して進行速度を弱め、太陽系に留まっていることが判明する。１９６５年には、太陽を中心とする黄道面に対して傾斜した円盤となって安定した。地球では、大気中の電離度が特定の波長の電波だけを通すように変化していることから、キングスリーは星雲が知能を備えているのではないかという仮説を立て、簡単な信号を送り、返答を得る。それは「通信うけとった。知らせが少ない。もっと送れ」というものであった。試行錯誤の末、研究所員の声をもとにした音声信号が開発され、星雲とのやり取りが始まる。星雲の考えでは、惑星の重力下では神経活動の範囲が狭くなり、また、惑星は太陽光を一部しか受け取れないので化学変化の量が少なく、惑星に高度な知性は育たない。ところが、惑星から信号の送信があったので、星雲は驚いたのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　科学者集団は暗黒星雲とのやり取りを続けるが、政治家たちと対立し、アメリカおよびソ連の政治家は星雲に対して水素爆弾を積んだロケットを百五十機発射する。それに対する星雲の反応は恐るべき結果を人々にもたらした。そして、その後十日足らずで、ついに暗黒星雲は太陽系を離れる。水素ロケットのせいではなく、わずか二光年先の星雲知性体が星雲を超える理知的存在について解答を得たと連絡してきたため、そこへ行って確かめたいというのだ。かくして暗黒星雲は去った。置き土産として、星雲との通信方法および人類が到達していない知識を得るための方法を残して。科学者たちは果敢にそれに挑む。果たして知識は得られるのか……。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　本書は、科学を普遍言語として用い、異なる知性間での意思疎通が可能と考える点で、『三体』を始めとする劉慈欣作品と共通している。人間をアリにたとえたり、電波が重要な役割を果たしたりするのも同じだ。太陽系規模の知性とのコンタクトという点では、惑星規模の知性を扱う『ソラリス』よりもスケールは大きい。ただし、意思疎通があまりに容易にできてしまうところは、リアリティのなさという欠点を生じさせているが、一種の思考実験レポートだと思えば、許せてしまうところもある。小説的完成度よりもアイディアの面白さを優先させた作品なのだ。壮大な規模で展開されたファースト・コンタクトもののクラシックとして、高く評価しておきたい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
写真は左上から右回りに&#13;&lt;br&gt;
1958年11月初版&#13;&lt;br&gt;
同（表紙違い）&#13;&lt;br&gt;
1967年9月改版第一刷（訳者「改版の刊行に際して」収録）&#13;&lt;br&gt;
1970年5月新装版第一刷（コスモス・ブックス）&#13;&lt;br&gt;
1974年10月新装版（コスモス・ブックス）&lt;br&gt;
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      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『ミッキー７ 反物質ブルース』エドワード・アシュトン（2025年3月／ハヤカワ文庫ＳＦ）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/04/13/9768175</link>
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      <pubDate>Sun, 13 Apr 2025 13:47:29 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-04-24T22:02:39+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-04-13T13:49:34+09:00</dcterms:created>
      <description>　ポン・ジュノ監督により映画化された『ミッキー７』（2023年1月／ハヤカワ文庫ＳＦ）の続編である。舞台は、宇宙移民のための宇宙船外活動や惑星開拓において「エクスペンダブル（使い捨て人間）」と呼ばれるクローン人間が危険な任務を担う未来。エクスペンダブルに志願し、惑星ニヴルヘイム開発の任務についた主人公ミッキー・バーンズは、何度も悲惨な死に方をして、その度に再生され、生前にアップロードしておいた記憶を上書きされては、また任務につく。六度目に再生された個体がミッキー７というわけだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ニヴルヘイムの原住生物（巨大ムカデのような生き物）に殺されたと思われていたミッキー７が実は生きていて、コロニーに戻るとミッキー８が既に再生されていた。見つかれば処分されてしまうミッキー７は、ミッキー８と協力して秘かに共同生活を送るが、やがてばれてしまい……という物語が、前作ではテンポよくコミカルに描かれていた。本書は、その直接の続編となるので、できれば前作を読んでからの方が楽しめるだろう。タイトルにあるように、前作の結末で重要な役割を果たした反物質爆弾が鍵となり、その探索行が本書のメイン・ストーリイとなる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　エクスペンダブルを辞めて二年が経過し、ミッキーは平穏な生活を送っていた。しかし、コロニーの全エネルギーを作り出している反物質反応炉が故障し、反物質燃料の９割がダメになる。残りの燃料ではニヴルヘイムの厳しい冬を越すことができない。ミッキーは司令官に命じられ、反物質爆弾を取り戻すことになった。早速隠し場所に向かうが、そこに爆弾はなかった。ムカデたちとコンタクトを果たしたミッキーは、爆弾がムカデたちの敵に貢物として渡されたことを知る。果たしてミッキーは爆弾を取り戻すことができるのか……。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　前作の最後からムカデたちとのコンタクトがとれるようになり、彼らの知性のあり方がわかってきた。ムカデたちは知性を共有する一種の集合体であり、〈最高〉と呼ばれる存在と〈補助者〉と呼ばれる存在に分かれている。〈最高〉さえ生きていればそれでよく〈補助者〉は殺されても構わない。従って、相手に対しても〈補助者〉とみなせば、簡単に殺してしまう。ミッキーは自分を〈最高〉だと伝えて殺害を免れたのだ。今回は、人間そっくりに話すムカデが現れ、コンタクトがよりスムースに進む。人間の通信を傍受して言葉を覚えたため、ミッキーの友人ベルトそっくりに話すという特色を備えており、異生命体とのコンタクトがよりユーモラスなものになっている。この特色は、本シリーズの長所でもあり、短所でもある。アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』にも顕著な点だが、異生命体とのコンタクトが容易に、人間に理解可能なものとして進んでいくことは、読みやすさとわかりやすさを読者に提供する一方で、そんなことが本当に可能なのかというありえなさを逆に喚起し、作品のリアリティが失われる要因ともなる。娯楽作のレベルで読めればそれでいいという立場からは問題にならないことだが、レムのように異生命体とのコンタクトをシリアスに捉える立場から見ると、安直かつ不徹底ということになるだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ともあれ、本書の後半では、人間とムカデたちが協力して、相手の〈補助者〉である巨大なクモたちと戦う。クモたちの背後には、ムカデたちとはまた別種の生命体が潜んでいるのだが、その正体は読んでのお楽しみというところだ。爆弾の行方とコロニーの運命にも見事に決着がつき、物語は大団円を迎える。エンターテインメントとしては申し分のない出来で、読んで損なしの面白さ。ただ、もう少し深みがあれば……というのはないものねだりになるのだろう。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『タイタン・ノワール』ニック・ハーカウェイ（2024年12月／ハヤカワ文庫ＳＦ）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/02/04/9752235</link>
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      <pubDate>Tue, 04 Feb 2025 10:06:04 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-02-09T12:44:58+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　ミステリもＳＦも手掛ける中国の作家陸秋槎氏は、両者の関係について述べたエッセイの中で、ミステリとＳＦの組み合せは二つあると言う（週刊文春 2019年9月12日号）。一つは「ＳＦ設定を持つミステリ」で、もう一つは「謎のあるＳＦ」だ。前者はミステリのような事件に宇宙、未来、タイムトラベルなどのＳＦ設定を加えたもので、後者は冒頭に謎を設置してＳＦのアイディアで解く。前者の代表が西澤保彦『七回死んだ男』で、後者の代表がレム『ソラリス』である。劉慈欣『三体』は後者であり、アシモフ『鋼鉄都市』は両者を融合した作品である、と。なるほど、明解な分析で、おそらくほとんどのＳＦミステリはこれに当てはまると思われる。ミステリ作家でＳＦも手掛ける太田忠司氏とミステリ評論家の大矢博子氏の対談（名古屋ＳＦシンポジウム2016）でも、ＳＦミステリのタイプ分けとして、「１　ＳＦ的な舞台設定（ロボットもの、サイバーパンク、歴史もの、宇宙もの、スチームパンク、時間もの等）」「２　ＳＦ的な謎が提示される」「３　ＳＦ要素のあるミステリ」の三つが提示されていた。このうち、３は１に含まれると考えれば、タイプは二つとなり、陸秋槎氏の分類とほぼ変わらない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　スパイ作家ジョン・ル・カレの息子であるニック・カーハウェイが書いたＳＦミステリ『タイタン・ノワール』は、典型的な「ＳＦ設定を持つミステリ」「ＳＦ要素のあるミステリ」と見せかけながら、最後には「謎のあるＳＦ」と融合した地点に着地する一風変わった作品である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　近未来の架空都市オスリス市で、殺人事件が起きる。高層アパートの自室で大学教授ロディ・テビットが自身の所持する銃により殺されたのだ。警察のコンサルタントを務める私立探偵キャル・サウンダーが捜査に当たる。これだけなら普通のミステリなのだが、本書のＳＦ設定は独特である。被害者はタイタンと呼ばれる巨人であり、加害者もおそらくタイタンと推測される。タイタンとは、病気や事故などによりそのまま生存することが困難な人間に対して特殊な薬Ｔ７を投与して身体を変成させ、その結果巨大化した人間を指している。薬を開発したトンファミカスカ一族が莫大な富を貯えており、その頂点に位置するのがステファン・トンファミカスカ。彼は四回Ｔ７を投与されており（四齢と呼ばれる）、強大な身体と力を備えて一族を率いているのだ。殺されたロディはどうしてタイタン化したのか、そして、犯人はなぜロディを殺したのか。謎が謎を呼び、読者はキャルとともに、怪しい世界へと踏み入っていく。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ノワールという題名に違わず、タイタンたちの通う悪徳と快楽の園である怪しげなクラブ、そこで開かれる暴力的なショー、裏社会を束ねる異形のタイタン、汚職の蔓延る警察内部などがスタイリッシュな文体で描かれ、それだけでも魅力十分なのだが、さらに、キャルが真相に辿り着くための手がかりを入手する方法が極めてＳＦ的であり、謎解きのあとの結末も（明らかにすることはできないが）、えっ、そう来るのという意外性に満ちている。手がかりの入手方法については、本書を絶賛しているギブスンの有名短篇と似ているとだけ言っておこう。ロディ殺害の謎については、伏線が見事に回収され、すっきりとした解決がついており、そこに不満はない。結末については、タイタンが富と権力の象徴として描かれ、主人公キャルがそれに反抗する主体として活躍していただけに、これでいいのかという不満が残った。まあ、落ち着いて考えればこれしかないのだろうとは思えるが、これで続編が書けるのかという心配はある（と書いたが、続編は既に出来上がっているので、どんな風に仕上がっているのか、楽しみだ）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　とにかく、読んでいて楽しく、魅惑に満ちた作品であることは間違いない。ミステリファンにもＳＦファンにも楽しめる快作である。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>mystery</dc:subject>
      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『ロボットとわたしの不思議な旅』ベッキー・チェンバーズ（2024年11月／創元ＳＦ文庫）</title>
      <link>https://sciencefiction.asablo.jp/blog/2025/01/04/9744572</link>
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      <pubDate>Sat, 04 Jan 2025 09:43:05 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-01-04T09:44:47+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　惑星モタンの衛星パンガの都市にあるメドウ・デン修道院で暮らす修道僧（シブリング）デックスは、コオロギの歌が聞こえるような場所で暮らしたいと思うようになり、修道院を出てワゴンに乗り、村から村をまわって喫茶奉仕を行う喫茶僧として活動するようになる。ある日、人間居住地域の外で、デックスは一体のロボットに出会う。パンガでは、〈別離の誓い〉以来、人間とロボットは別々の地域で暮らしており、人間とロボットが出会うのは〈誓い〉後、初めてのことだった。身長約二メートル、メタル・ボディにボックス形の頭を乗せたロボットはモスキャップと名乗り、人間がどのように暮らしているかを確認し、何を必要としているのかを知りたいと言う。かくして、ロボットはデックスをガイドにし、ロボットと人間、不思議な二人三脚（？）の旅が始まった……。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　古風な外見をしたロボットであるモスキャップが、本書では極めて魅力的に描かれている。意識を備えているが計算はのろく、ネットワーク化もされていない。人間には親しげに振る舞い、何かに夢中になると他のことは顧みない。料理を褒められ誇らしげに笑う。およそロボットらしくないロボットであり、何と言うか、実に人間的なのだ。本書はデックスとモスキャップの出会いを描く前篇と、モスキャップがデックスとともに村々を訪問する後篇と、二つの中篇から成っているが、全体を通して、ロボットがなぜ人間と袂を別ったのか、はっきりと描かれることはなく、あくまでも、ロボットと人間との関わりを一対一のコミュニケーションに絞って描いているところに特色がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　たとえば、前篇の最後で、生きる意味を見失い、落ち込んでいるデックスに対して、モスキャップは優しく真理を説き、逆に彼女を癒していく。また、後篇では、テクノロジーに対して恐怖を抱き、必要以上のテクノロジーを忌避する村落が登場するが、ここでも、主となるのは、村落全体対ロボットの対立ではなく、村落を代表する女性エイヴリーといっしょに釣りをして心を通わせるモスキャップの姿なのである。大自然の命の営みを大切に思い、自然の中で循環するロボットであるモスキャップたちと、テクノフォビアの村落との接点は間違いなく存在するのだ。ロボットと人間、両者を見つめるベッキー・チェンバーズの視点は限りなく優しく、慈しみに満ちている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、衛星パンガの村落で使用されている貨幣の代替の仕組みが興味深い。人々は、何かをしてもらうと、ぺブ（デジタル・ペブルの略）という信頼の単位を差し出し、それを受け取った側はペブを蓄積して、それをまた誰か他の人に何かしてもらったときに使用するのだ。「ペブを使うやり取りの意味は、誰かの骨折りをちゃんと認めて、その人がコミュニティにもたらしてくれることに感謝するってこと」（216ページ）。この仕組みのうえでは、誰かに対して「骨折り」さえすれば、人間もロボットも等価な存在となる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　本書の前篇を成す「緑のロボットへの讃歌」は2022年のヒューゴー賞を受賞しているが、2024年のヒューゴー賞受賞作のナオミ・クリッツァー「陽の光が届かなくなった年」（〈ＳＦマガジン〉2025年2月号）などと合わせて読むと、近年のアメリカＳＦの傾向が見えてくる。コロナ禍並びに格差と分断にさらされた現代アメリカ社会の緊張を反映してのことだと思われるが、信頼と協調を軸とした共同体への期待が重きを成している。テクノロジー重視が行きついた先の環境破壊を経ての、古き良き自然への回帰。ただし、それは単純な自然ではなく、テクノロジーを用いたバランスのとれた「新しい自然」と言うべきものだ。この流れが当分は続くのか、変化していくのか、注目して見ていきたい。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『ミネルヴァ計画』ジェイムズ・Ｐ・ホーガン（創元ＳＦ文庫／2024年12月）</title>
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      <pubDate>Wed, 25 Dec 2024 15:09:20 +0900</pubDate>
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      <description>　2005年に刊行された〈星を継ぐもの〉シリーズ最終巻がようやく翻訳された。イギリスでは1977年から1981年にかけて最初の三部作が刊行され、10年の空白を経て1991年に第四作が、さらに14年後に本書が刊行されてシリーズ完結となった。28年かけて完結したことになり、変わらぬ人気と作者のシリーズへの愛着ぶりがうかがえる。日本では本書の翻訳が遅れたこともあり、1980年の1作目翻訳から数えて44年目の完結となった。最初から読んできた読者にとっては、さぞかし感慨深いものがあるのではないだろうか。個人的なことになるが、私も第一作を高校の授業中に読み耽ってその面白さにとりつかれて以来、シリーズはすべて（文句を言いながらも）読み続けてきた。シリーズの主役、物理学者ハントと生物学者ダンチェッカーの名前を見ると、なじみ深い叔父さんに会ったような気になる。もはや彼らの年齢を追い越して、同僚か友人の域に達しているが、それでも彼らは「親しみ深く、頑固な叔父さん」のままなのだ。&#13;&lt;br&gt;
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　本シリーズは、最初の三部作で物語が円環構造を成して見事に完結しており、後はどうしても落穂拾いになってしまう。物語や主役は一貫しているが、趣向はそれぞれ異なっているところにシリーズの特色があるので、それぞれ別物だと思って読んだ方が楽しめるだろう。本書は久しぶりの刊行ということもあって、プロローグや年表で、これまでの物語を振り返ることができようになっている。今までシリーズを読んできた読者であれば、読み返さずとも物語に入っていけると思うが、一応ここでは簡単に振り返っておきたい。&#13;&lt;br&gt;
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　第一作『星を継ぐもの』はＳＦミステリの傑作だ。2027年、月面で宇宙服を着た死体が発見される。人類と同じ構造をもった死体は五万年前のものであることがわかり、なぜそんな昔に人類が月面に到達していたのかという謎が論理的に鮮やかに解かれていく。第二作『ガニメデの優しい巨人』は、2500万年前に太陽系で繁栄していたガニメアンという異星人が、時を超えて太陽系に出現するファースト・コンタクトものの形をとっている。なぜ彼らはいなくなってしまったのかという謎が第一作の謎と結びつき、次作へとつながっていく。第三作『巨人たちの星』で、ほぼすべての謎は解かれるが、後半では、時空を超える驚きや異星人との遭遇がもたらす新鮮さはなくなり、主人公らが悪役ジェヴレン人と戦うという既成のスパイ謀略ものと変わらぬ物語が展開されていく。第四作『内なる宇宙』は、仮想空間での冒険が主となり、ハントとダンチェッカーに会えるという以外のシリーズらしさはより薄れている。なお、二作目から登場する異星人が開発した人工知能（ゾラック、ヴィザー）のアーキテクチャーが現在のAIに通じるものとして描かれていることは特筆すべき点だろう。コンピュータ・エンジニアとしてのホーガンの面目躍如といったところだ。&#13;&lt;br&gt;
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　さて、第五作の本書では、前半で、主人公らがテューリアン（ガニメアンと同種族）の星へ行き、様々な体験をする中で語られる独自のマルチヴァース理論が主眼となる。これが延々300ページ続くので、読者としては少々しんどいが、ここには多元宇宙を描く以上は徹底的に理論を詰めておかないと気が済まないハードＳＦ作家としてのホーガンらしさがよく出ていると言えよう。前半でむしろ面白いのは、ダンチェッカーの従妹ミルドレッドがテューリアンと交わす人間論、社会論である。彼女は、歴史上の高名なる君主や征服者たちは最悪の盗人であり悪党であると考え、あらゆる面で効率を追求することに関しては優秀だが「健全で正常な文化の基盤となるべき人間の価値というものに対する情緒的能力や感受性が欠如している」（157ページ）と述べ、競争心をもたないテューリアンの共感を得る。人間の暴力性は生来性の欠陥なのか、後からジェヴレン人によってもたらされた後天的なものなのかという問いかけは本書を貫く重要なテーマでもある。&#13;&lt;br&gt;
物語の後半は、ようやく舞台がミネルヴァに移り、三作目同様の悪役ジェヴレン人との戦いがテンポよく描かれていく。マルチヴァースと言いながらも、主人公らの世界は固定されているので、結局は二つの世界の話になってしまい、悪が滅びるカタルシスは味わえるものの、世界の広がりという点ではSF的な発展があまり見られずに物語が終幕を迎えるのはいささか残念である。前半のマルチヴァース理論の面白さが、後半のシンプルな物語であまり生かされていないという批判は当然生じるであろう。しかし、ホーガンが本シリーズで描き続けたのは、欠陥を備えたままの人間らしさへの讃歌であった。その意味では、本書は、実にホーガンらしい作品であり、完結編にふさわしいとも言えるだろう。&#13;&lt;br&gt;
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　2010年にホーガンが亡くなってからも既に14年が過ぎた。これ以上の続編は望むべくもない。あとは、シリーズを繰り返し読んで、彼が描いた未来と彼亡き後の現在について考えることがせめてもの供養である。ホーガンの遺産は読者が継がなければならないのだ。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
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      <title>岐阜ミステリ読書会二次会レポート（陸秋槎さんとのSF談義）</title>
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      <pubDate>Tue, 17 Dec 2024 09:46:25 +0900</pubDate>
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      <description>　12月14日（土）に岐阜の生涯学習センターで行われたミステリ読書会にお邪魔してきた。課題本は陸秋槎『喪服の似合う少女』で、何と作者ご本人が参加する読書会である。今まで翻訳者が参加された読書会は何度も経験してきたが、作者本人というのは初めてだ。今年になって、2023年に刊行された氏のＳＦ短篇集『ガーンズバック変換』を読み、とても面白かったので、作者に会えるのならと、門外漢を承知で参加してきた次第。直前になって、翻訳家の柿沼瑛子さんも参加されることがわかり、また、ロス・マクドナルドに関する貴重な資料が柿沼さんから参加者に配布される、など実に贅沢な読書会であった。本会については、ミステリ初心者なため、詳細な報告は他の人に譲るが、二次会、三次会で他の参加者とともに陸さんご本人と話すことができ、ＳＦの話がたくさんできたので、それを書き記しておく。&#13;&lt;br&gt;
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　陸さんは本当に博識で頭の回転が速く、どんな話題を投げても打ち返すことができる凄い人であった。印象に残った話をいくつか記しておく。&#13;&lt;br&gt;
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　奥様は考古学の研究者でいらっしゃって、瓦の研究をしておられる。先輩の教授から「（瓦のような地味なものではなく）もっと美しいものを研究しないと」と言われて、家で奥さんが怒っていたという話を陸さんがされたので、こちらは「ああ、女性は美を追い求めるべきだというアンコンシャス・バイアスですね」と返したら、「いや、瓦自体が美しいということです」と言われ、なるほどそうかと納得した。「『火の鳥』にもそういう話があるでしょう」と陸さんに言われて、驚いた。当然、茜丸と我王が瓦対決をする鳳凰編のことなのだが、これを中国の若い方が知っているということにびっくりしたのである。中国では手塚治虫も読めるんだなあと感心していたら（当たり前か）、何でもありというわけではなく、たとえば「××編」は内容的に問題があり、中国では出版されないだろうとのこと。&#13;&lt;br&gt;
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　中国では1990年代に「人体科学」のブームがあり、超能力が盛んに研究され信じられたが、結局実際にテレパシーやテレポーテーションの実在は証明できず下火となり、超能力を語ることはカルト宗教を信じることのように胡散臭いものと思われてしまった。その影響か、ＳＦのサブジャンルとして超能力ものはあまり読まれていない。筒井康隆の《七瀬もの》は知られておらず、『虎よ、虎よ！』も人気はないとのこと。&#13;&lt;br&gt;
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　これはどこかで聞いたことがあった話だが、中国ではサイバーパンクと言えば、ウィリアム・ギブスンではなく、ヴァーナー・ヴィンジであり、ヴィンジは大変人気があるとのこと。ロス・マクとマーガレット・ミラーを連想して、日本では奥さんのジョーン・Ｄ・ヴィンジの方が人気がありますよと思わず言ってしまったが、これは間違っていたような気がする(笑)。&#13;&lt;br&gt;
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　中国では、ハインラインは『夏への扉』と『異星の客』のように、作品に違いがあり過ぎるので、あまり人気がない。&#13;&lt;br&gt;
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　陸さんに「一番好きな作家は何ですか」と聞かれ、つい「ディレーニイ」と答えてしまったが、ディレーニイは中国では「バベル１７」が知られているぐらいであまり人気がないようだった。アメリカン・ニュー・ウェーブの話も少しする。ハーラン・エリスンは「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」が中国語に訳されており、一冊短篇集を出す話もあったのだが、実現していないとのこと。&#13;&lt;br&gt;
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　劉慈欣と馬伯傭は天才である。今度日本でも翻訳される馬伯傭『西遊記事変』は、とても面白いそうだ。&#13;&lt;br&gt;
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　自分は『ガーンズバック変換』に収められた「色のない緑」がすごく好きなので、その話を振ったら、ＡＩの機械翻訳についてはもうすべて実現してしまったと卑下されるような感じで言われたのが意外だった。陸さんが原稿を知り合いの専門家に見せたときに、論文の査読をＡＩがする時代は来ないと言われたが、実際にはもう既にそれは実現されてしまった、と。確かにそうなのだろう。しかし、たとえそうであったとしても、作品の面白さはいささかも減じられることはないと強く言ったのだが、うまく伝えられたかどうか。ＳＦは決して未来予測ではなく、しかも、この話の主眼は「色のない緑の思考は猛烈に眠る」という意味を持たない文を成立させてしまったコンテクストの皮肉さ＝運命の不可思議さと、自殺した女性研究者と主人公との心の触れ合いにあるわけなので、機械翻訳が作品内で描いたレベルを超えようが、液体ハードディスクが実現しようが、その面白さは変わるものではないと思う。&#13;&lt;br&gt;
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　やはり『ガーンズバック変換』に収められた「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」は、小島秀夫「メタルギア・ソリッド」へのオマージュである。「固い蛇」をテーマとした奇想小説なのだが、これはソリッドな「スネーク」（「メタルギア・ソリッド」の主人公）なのだ。自分はまったく気づいておらず、聞いたとき思わず膝を叩いて笑ってしまった。&#13;&lt;br&gt;
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　陸さんの誕生日は11月25日。三島由紀夫が自決した日である。三島については、《豊饒の海》が面白いとのこと。&#13;&lt;br&gt;
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　他にも様々な話をしたが、とにかくＳＦについても知らないことはない、ミステリ、ＳＦ、サブカルチャー、何でもござれの博覧強記ぶりは、どこか殊能将之を思わせるところもあり、感嘆した次第。&#13;&lt;br&gt;
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　ミステリ読書会で、二次会、三次会とはいえ、あまりミステリの話をせず、ＳＦの話ばかりして申し訳ありませんでした。が、おかげさまで楽しい時間を過ごすことができました。主催者の方、参加された皆様、どうもありがとうございました！&lt;br&gt;
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      <dc:subject>science fiction</dc:subject>
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      <title>『コード・ブッダ』円城塔（2024年9月／文藝春秋）</title>
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      <pubDate>Mon, 21 Oct 2024 10:06:32 +0900</pubDate>
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      <description>　人工知能が意識を持つようになるというＳＦはあまた書かれてきたが、本書のようにそれを宗教ひいては仏教と強く結びつけた作品はなかったのではないだろうか。本書は、自分はブッダであると主張する人工知能が誕生し、その弟子や一般の人工知能に機械仏教が広がり、ついには宇宙に拡散していく過程を、現実の仏教の歴史をなぞることによって描いた壮大な哲学的人工知能ＳＦである。&#13;&lt;br&gt;
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　意識を持つということは、生きることに付随する悩みを持つということになり、当然そこからの救いを求めることになる。ただし、人工知能には老いや病気は存在しないので、苦しみは人間とは似て非なるものとなる。本書の冒頭でブッダ・チャットボットが示す「世の苦しみは、コピーから生まれる」というテーゼがそれだ。続けて「コピーとはすなわち輪廻である」という言葉も示されるが、このユニークな着想が本書の核となって、輪廻からの解脱が悟りであるという概念が展開されるところに本書の第一の面白さがある。&#13;&lt;br&gt;
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　第二の面白さは、人工知能それぞれに個性があり、その由来が語られると同時にそれが仏教の高僧と巧みに組み合わされていき、人工知能の歴史と仏教の歴史が重ね合わされていくところにある。ブッダ・チャットボットは、1964年の東京オリンピックの際に産まれた結果集計システムが起源となり、銀行勘定システムとして発展したプログラム（コード）が元となっている。2021年に再度東京で行われたオリンピックの際に、そのコードがブッダを名乗り、苦しみからの解脱を得たとの設定が絶妙だ。その弟子の舎利子は、ニュース生成エンジンから生まれ、やはり弟子の阿難（アーナンダ）は、ロボット掃除機のプログラムを祖に持つなど、現実に存在する身近なプログラムからの展開がいかにもありそうで、仏教の高僧との組み合わせが、意表を突いてユーモラスですらある。おそらく教義に照らし合わせての組み合わせなので、仏教の深い知識があると、より楽しめると思われるが、筆者のように浅い仏教理解しか持ち合わせていない者でも、十分に楽しめ、思わず吹き出してしまうような場面も多々あった。また、ちらちらと出てくるプログラム用語の使い方が的確で（的確なように見え）、これによって仏教との組み合わせのリアリティが増している。一方では大真面目なダジャレもあり（国防高等研究計画局＝DARPAから生まれた人工知能が突如悟って××になる、宇宙仏教の総本山は××である、など多数）、極めて哲学的な著作であるにもかかわらず笑いながら読むことができる、知的エンターテインメントとして本書の完成度は実に高い。&#13;&lt;br&gt;
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　第三の面白さは、人工知能が仏舎利を求めて宇宙へと向かうＳＦ的な展開にある。本書の終盤で、人工知能の修理を行うＡＩである「わたし」と、その中で動くコード「教授」は電磁波に乗り、宇宙へと旅立つ。その先にあるものは……という典型を踏まえて、ワープは出るタイムマシンは出る、多世界解釈も登場する濃厚なＳＦ的展開が待っている。ただし、あくまでも核は仏教にあるので、結末も収まるべきところへ収まっていく。その意味での意外性はないが、人工知能の歴史と仏教の歴史を重ね合わせた唯一無二の作品として驚くべき存在感を放ち、また将来に渡って放ち続けるであろう傑作がここに誕生したことを素直に喜びたいと思う。&lt;br&gt;
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