結婚式&披露宴2012-03-04 21:31

 結婚式に出るなんて何年ぶりだろう。10年ほど前に教え子同志が結婚したときに仲人をして以来かもしれない。今日は、6年前に卒業した教え子の結婚式が名古屋・白壁の結婚式場で行われた。文芸部顧問&生徒会顧問としてつき合いのあった女子生徒で、大変明るく元気、文才もあり、生徒会長もしていたというバイタリティ溢れる生徒であった。卒業してからも文芸会と称して当時の同級生2名とともに年数回会っていたため、今回の式にも呼んでもらえたのである。教師冥利に尽きるとはまさにこのことだ。

 結婚式に縁遠くなっていたので、今回の披露宴がどれほど標準的なのかはわからないが、少なくとも演出が凝りに凝っていたことは間違いない。開式までの間の待ち時間はロビーで二人が撮影したデジカメ写真のスライドショー、式場のあちこちには二人が好きだという「不思議の国のアリス」をモチーフにした飾りが展示され、テーブルのライトはキャンドルではなく、写真に載せたようなLED照明で輝く幻想的なライトを魔法の杖を一振りしてつけるという手の込んだ演出つき、余興は音大出身者三人組による本格的なメンデルスゾーン「歌の翼に」などなど。両家のお祖母さんにエスコートされてのお色直し退場など、泣かせ所も多数。いや、もう、まさに「不思議の国」に紛れ込んだかのような気にさせられてしまいましたよ。ラストには当日の様子を撮影・編集したビデオを二人の出あうきっかけとなったアーティスト、じまんぐの曲に乗せて流して、これまた感動的なフィナーレ。お世辞抜きで素晴らしい式でした。お二人には、心からおめでとう。呼んでくれて本当にありがとう。

 P.S. 結婚してもまた文芸会開こうね。

小松左京その3(女シリーズ・芸道もの)2012-03-05 00:00

 本年も昨年に引き続き、小松左京の旧作を読んでいく。実は女シリーズ・芸道ものは若い頃はほとんど読んでおらず、今回初めて読んでみた。結論から言えば、女シリーズは出来不出来の差が大きい。「ハイネックの女」「昔の女」などホラー系統の作品は残念ながらフォーミュラ・フィクションを脱しきれていない。「写真の女」のオチはあんまりだと思うし、「歌う女」はもう少しひねれば傑作になったかもと惜しまれる作品だ。芸道ものには、それほどハズレはない。ハルキ文庫版で『くだんのはは』と『高砂幻戯』の二冊を読めば、女シリーズは10編全てを、芸道ものは全12編のうち10編を読むことができる。全て読んでみて、傑作と思ったのは以下の三篇である。

「旅する女」(『高砂幻戯』所収)
 四年前に失くしたあるものを探すために世界中を一人で旅する女、滝川夫人とタヒチのホテルで出会った「彼」は、二十年前の学生時代に付き合っていた水商売の女性を思い出す。滝川夫人は、ずっと彼が行方を探している彼女に似ていたのだ。どこが似ているのかと問う夫人に対して「彼」は答える。「私のとよく似ていながら、まったくちがった世界、すれちがうことはできても絶対に出あえないような世界を、一人で旅していらっしゃる所……」。求めても得られない何かを探しているという点で、夫人と「彼」は同一なのである。得られないとわかっていてもなお失われたものを求めざるを得ない人間の業の深さ、凄まじさ。これを本編の結末は見事にえぐり出し、読者に強烈な印象を残す幕切れとなっている。
「流れる女」(『くだんのはは』所収)
 おそらく金沢がモデルと思われる古都K市を舞台に、還暦間近の主人公の恋と義父の恋、息子の恋、三世代にまたがる恋が同時に描かれる。三年前に妻を亡くした「私」は、どう見ても三十代にしか見えない五十すぎの女性、芸事の師匠をしている小出ゆきと知り合い、恋に落ちる。同じく妻を亡くした八十近くの義父と暮らす「私」は、どうやらゆきと義父が会っていることに気づく。そんなとき、息子の一郎が芸者と結婚したいと連絡をしてきた。「私」が実際に会うことになった息子の結婚相手とは……。詳細な情景描写から始まって、お茶道具、小唄端唄など芸事の具体的な叙述に至るまで、本編は見事なリアリズムに貫かれている。このリアリズムがあってこそ、あっと驚く非現実的な結末の衝撃が保証されているわけだ。女シリーズの白眉というべき傑作である。
「天神山縁糸苧環(てんじんやまえにしのおだまき)」(『高砂幻戯』所収)
 上方落語の大物桂文都師匠(モデルは桂米朝)の弟子小文が真打ちに昇進することになり、その襲名披露興行で、師匠は封印していた大ネタ「立ち切れ」をやることになる。「立ち切れ」の中に出てくる芸者小糸と、若かりし文都を恋して非業の死を遂げた芸者小糸との人生とが絡み合い、もつれ合って、物語は文都演じる「立ち切れ」のクライマックスへと至る……。これ、ホントにいい話で、自分は結末付近でじわりと感動が湧き上がり、涙をこらえることができなかった。小松左京の作品で泣いたのは初めてかもしれない。山崎正和は文春文庫版『日本沈没』の解説で「この作者の本質は抒情詩人である」と鋭い指摘をしているが、本編などを読むとまさにその通りに思えてくる。

 以上三篇、未読の方はぜひとも読んでみてほしい。小説的完成度を放棄したと思われがちな小松左京ではあるが、その気になれば十分完成された小説を書くことができたのだということがわかってもらえると思う。ただし、考慮すべき点は、「流れる女」はピランデルロのある戯曲を元にしており、「天神山縁糸苧環」は落語「立ち切れ」の変奏曲に他ならないという事実である。「鷺娘」という芸道ものの中で、ノルウェー人のハンスに「日本固有のものって何だ?」と尋ねられた作家大杉(無論モデルは小松自身)が「日本オリジナルなものより、世界中から流れこんだいろんなエレメントの、後世へかけての受け入れ方、発展のさせ方、変形のしかたに、日本固有のものがあるかもしれない」と語っているが、まさにそのオリジナルに対する「発展のさせ方、変形のしかた」の巧さに、小松左京の魅力の一つはあるのではないだろうか。

萩尾望都『マンガのあなた SFのわたし』2012-03-10 21:21

 2012年2月28日発行の最新刊ではあるが、内容は1976年から1978年にかけて萩尾望都が行った対談を主とし、羽海野チカと行った語りおろしの最新対談をおまけとして収録した対談集である。

 『ポーの一族』が終了し、世のSFブームに呼応するかのように、萩尾望都が『百億の昼と千億の夜』や『スター・レッド』を連載している頃、即ち執筆活動が思い切りSFに振れている頃の対談であり、自分の世代には実に懐かしい内容となっている。ちょうど今自分が70年代後半の漫画状況、SF状況を振り返ってまとめている最中でもあり、そうした点からも興味深く読むことができた。石森章太郎ですら「SFのおもしろさはこういうスケールの大きさなんだよな、でもなかなかそういうスケールが、みんなに受け入れられないんだよ」と愚痴っていたりして、まだまだ当時のSFマンガが少数派であったことがうかがえる。手塚との対談(《別冊新評・SF新鋭七人特集号》掲載)、石森との対談(《マンガ少年》掲載)は1977年当時読んでいたので部分的に覚えていたが、小松左京との対談は初見。『日本沈没』上巻を読んだ後で萩尾望都の目が悪くなったなんて知らなかったなあ。1973年3月よりも後だから、『小鳥の巣』の後ぐらいか。ファンならよく知っているように、1973年~74年にかけて萩尾望都の絵柄は激しく変化している。これは『トーマ』の週刊連載の忙しさのせいだと思っていたのだけれど、ひょっとしたら、この目の悪化も影響しているのかもしれない。他にも、萩尾望都は藤岡琢也のファンだったとか、『ガラスの仮面』のアシスタントをしたため背景にタダとフロルが登場していたとか、面白ネタ満載。萩尾望都が吸血鬼に興味を持ったのは、石森「きりとばらとほしと」からだと自分は思い込んでいたのだが、実は横山光輝の『紅こうもり』からだったということもわかった。収録されたカットがきちんと初出時のものになっているなど、編集も丁寧で好感が持てる。これは、「図書の家」という萩尾望都研究室の協力によるものであろう。ただし、最初の人物紹介に生年しか記入していないのはいただけない。8人中4人は既に亡くなっているというのに、これではまだ生きているみたいに見えちゃうよ。何はともあれ、萩尾ファン必読の一冊である。

「図書の家」URL
http://www.toshonoie.net/hagiken/index.html

 羽海野チカのことはよく知らなかったのだが、対談を読む限り、熱烈な萩尾ファンであり、萩尾望都が手塚・石森・矢代まさ子などの先人から学んだように、萩尾望都から多くのことを学んでいる様子が伝わってきて微笑ましく感じられた。『ハチミツとクローバー』読んでみようかな。

3月11日「セシウムがさいた」2012-03-11 11:18

 3月11日、あれから一年が過ぎた。以前も書いたが妹一家が仙台に住んでいるので他人事(ひとごと)ではない。

 昨日の朝日新聞朝刊に、日本に住む詩人アーサー・ビナードさんの埼玉での講演が中止になったという記事が出ていた。理由は「さいたさいたセシウムがさいた」という講演名が「福島県民を傷つける」などの抗議が40件寄せられたことだという。これもおかしな話だ。アーサー・ビナードと言えば、日本に住んで20年以上、日本文学への深い敬愛や言葉に対する分析の鋭さで知られる詩人である。『日本語ぽこりぽこり』で講談社エッセイ賞、『釣り上げては』で中原中也賞の受賞歴もあり、先日もブログに書いたベン・シャーンの第五福竜丸シリーズに文をつけて絵本に仕立てた『ここが家だ』で日本絵本賞も受賞している。権力に対しては断固抗議し、弱者への視点を決して忘れない。アーサー・ビナードさんの書く文章を少しでも読めば、そういう彼の姿勢は一目瞭然のはず。「セシウムがさいた」は、そのビナードさんがおそらく熟慮に熟慮を重ねてつけた講演名であり、決して県民を馬鹿にする意図があったわけではない。新聞にも「花が咲く喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故について伝えたい」と彼の言葉が掲載されており、「咲いた」と「裂いた」を掛けた講演名であることが明記されていた(掛詞だからこそ平仮名で記されていたのである)。

 問題点は二つある。一つはせっかくのビナードさんの意図が講演名を見た人に全く伝わっていないこと。実行委員会が「3.11後の安心をどう作り出すか」と副題をつけたにもかかわらず、見た人は「県民を馬鹿にしている」ととってしまったわけだ。これは見る人の側が短絡的な思考をしてしまっていることに問題がある。自分が傷ついたのならともかく、「福島県民を傷つける」とはそれこそ余計なおせっかいではないか。言葉以前に、厳然たる事実として福島県民は傷ついているのであり、この講演を行って、埼玉の人々に原発問題について考えてもらうことのどこに問題があるのか。たとえ講演名でえっと驚いたにしても、講演者と講演内容について思いをめぐらせることぐらいはしてから、抗議という行動を起こしてもよいのではないか。
 二つ目は実行委員会側の姿勢である。一度頼んで副題まで考えて実行しようとしたのだから、抗議者に対する説得を行ってでも実行すべきではなかったのだろうか。もし抗議者が当日実力行使に訴えると脅迫してきたのなら(それはそれで問題である)仕方ないとは思うが、報道を見る限りその事実はないようだ。前日になって中止しているので、ギリギリまで考えての結果だとは思うが、これで中止するぐらいなら、そもそもビナードさんに頼まない方がよかったのではないだろうか。

 などと強気のことを言っているのは、何を隠そう、実は3年前に自分がアーサー・ビナードさんに直接手紙を書き、名古屋で講演をしてもらったことがあるからである。一度氏の講演を聞き、『日本語ぽこりぽこり』などの著作を読んでこれは面白いと感じた私は、当時委員長を務めていた愛知県国語教育研究会名瀬地区の講演に、ビナードさんをぜひ呼びたいと考えたのだ。「きぼう的観測――ことばの宇宙を巡って」と題され宮澤賢治からルイス・キャロルまで縦横無尽に語られたこの講演は予想以上に面白く、また充実していた。忙しいスケジュールの中、安い講演料で来てもらい、申し訳ないと思う一方で、その暖かな人柄に少しでも触れることができ、本当に楽しいひと時であった。抗議されるような内容ではなかったので、一概に比較はできないが、もし自分が今回の実行委員会のメンバーであったら、開催を主張していたはず。ともあれ、言葉を発することとその受け取り方の難しさを感じさせられる事件であった。

萩尾望都作品集『なのはな』2012-03-13 22:20

 3月12日発行の萩尾望都の漫画最新刊。あちこちで話題になっている「プルート夫人」など、放射性物質を擬人化して描いた三部作を始め、原発事故に関連した作品五編を収録した単行本である。三巻まで刊行されている短編シリーズ「ここではない★どこか」に属してはいるが、今までの新書版ではなく、ハードカバーでの刊行、表紙も箔押しの丁寧な造本であり、小学館の本気具合がうかがわれる。

 前回レビューした対談集でも「プルート夫人」については触れられていた。気熱をやってもらった後、体中のパーツがガシッとつながった感じになり、3時間でネームができてしまったのだという。なるほど、プルトニウムを妖艶な女性として登場させ、彼女に翻弄される男性達の情けなさを流れるような筆致で描いた本作は、近年の萩尾望都の淡々とした作品群の中では異様とも言える迫力に満ちている。逆にウランを気品あふれる貴公子として登場させ、彼の魅力に参ってしまう女性達を描いた「雨の音―ウラノス伯爵―」、再度プルトニウムをサロメとして登場させ、今度はプルトニウムの内面に入り込んでその恐ろしさを描いた「サロメ20××」と続けて読んでいくと、311の刺激が、萩尾望都の創作意欲に火をつけてしまった様子がよくわかる。どれも一気に読ませるパワーが感じられるのだ。読んでいるうちに、そう言えば、萩尾望都には社会問題を扱った作品が過去にもあったぞと思い出した。公害問題を描いた「かたっぽのふるぐつ」だ。ゆうという少年が喘息で死んでしまう話で、重い読後感を残す異色作だった。こんな作品まですらすら浮かんでくるとは、さすが人生で大切なことは萩尾望都で学んだ自分である(自画自賛)。『ポー』や『トーマ』のファンからしたら意外に思われるかもしれないが、もともと萩尾望都には社会的意識の強いところがあったのではないか。というか、萩尾望都っていうのは、何気ない日常を描くのが無茶苦茶上手い一方で、世界が日常だけでは成り立っていないということ、日常に裂け目が入り、非日常を垣間見せるその瞬間を作品に昇華させるのが実に上手い作家でもある。現実が非日常をもたらした311に対して、作品化せずにはいられなかったというのが正直なところなのだろう。

 派手な「プルート夫人」もいいけれど、チェルノブイリとフクシマを重ねて描いた表題作「なのはな」が実は一番傑作。1200円は少々高いかもしれないが、買って損のない一冊である。