3月11日「セシウムがさいた」2012-03-11 11:18

 3月11日、あれから一年が過ぎた。以前も書いたが妹一家が仙台に住んでいるので他人事(ひとごと)ではない。

 昨日の朝日新聞朝刊に、日本に住む詩人アーサー・ビナードさんの埼玉での講演が中止になったという記事が出ていた。理由は「さいたさいたセシウムがさいた」という講演名が「福島県民を傷つける」などの抗議が40件寄せられたことだという。これもおかしな話だ。アーサー・ビナードと言えば、日本に住んで20年以上、日本文学への深い敬愛や言葉に対する分析の鋭さで知られる詩人である。『日本語ぽこりぽこり』で講談社エッセイ賞、『釣り上げては』で中原中也賞の受賞歴もあり、先日もブログに書いたベン・シャーンの第五福竜丸シリーズに文をつけて絵本に仕立てた『ここが家だ』で日本絵本賞も受賞している。権力に対しては断固抗議し、弱者への視点を決して忘れない。アーサー・ビナードさんの書く文章を少しでも読めば、そういう彼の姿勢は一目瞭然のはず。「セシウムがさいた」は、そのビナードさんがおそらく熟慮に熟慮を重ねてつけた講演名であり、決して県民を馬鹿にする意図があったわけではない。新聞にも「花が咲く喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故について伝えたい」と彼の言葉が掲載されており、「咲いた」と「裂いた」を掛けた講演名であることが明記されていた(掛詞だからこそ平仮名で記されていたのである)。

 問題点は二つある。一つはせっかくのビナードさんの意図が講演名を見た人に全く伝わっていないこと。実行委員会が「3.11後の安心をどう作り出すか」と副題をつけたにもかかわらず、見た人は「県民を馬鹿にしている」ととってしまったわけだ。これは見る人の側が短絡的な思考をしてしまっていることに問題がある。自分が傷ついたのならともかく、「福島県民を傷つける」とはそれこそ余計なおせっかいではないか。言葉以前に、厳然たる事実として福島県民は傷ついているのであり、この講演を行って、埼玉の人々に原発問題について考えてもらうことのどこに問題があるのか。たとえ講演名でえっと驚いたにしても、講演者と講演内容について思いをめぐらせることぐらいはしてから、抗議という行動を起こしてもよいのではないか。
 二つ目は実行委員会側の姿勢である。一度頼んで副題まで考えて実行しようとしたのだから、抗議者に対する説得を行ってでも実行すべきではなかったのだろうか。もし抗議者が当日実力行使に訴えると脅迫してきたのなら(それはそれで問題である)仕方ないとは思うが、報道を見る限りその事実はないようだ。前日になって中止しているので、ギリギリまで考えての結果だとは思うが、これで中止するぐらいなら、そもそもビナードさんに頼まない方がよかったのではないだろうか。

 などと強気のことを言っているのは、何を隠そう、実は3年前に自分がアーサー・ビナードさんに直接手紙を書き、名古屋で講演をしてもらったことがあるからである。一度氏の講演を聞き、『日本語ぽこりぽこり』などの著作を読んでこれは面白いと感じた私は、当時委員長を務めていた愛知県国語教育研究会名瀬地区の講演に、ビナードさんをぜひ呼びたいと考えたのだ。「きぼう的観測――ことばの宇宙を巡って」と題され宮澤賢治からルイス・キャロルまで縦横無尽に語られたこの講演は予想以上に面白く、また充実していた。忙しいスケジュールの中、安い講演料で来てもらい、申し訳ないと思う一方で、その暖かな人柄に少しでも触れることができ、本当に楽しいひと時であった。抗議されるような内容ではなかったので、一概に比較はできないが、もし自分が今回の実行委員会のメンバーであったら、開催を主張していたはず。ともあれ、言葉を発することとその受け取り方の難しさを感じさせられる事件であった。