『壊れゆく世界の哲学 フィリップ・K・ディック論』(2021)ダヴィッド・ラブジャード/堀千晶・訳(2023年10月/月曜社) ― 2026-08-19 18:02
ドゥルーズの研究者として知られる著者が、ディックについて、主に哲学的な面から論じた評論集。決して難解ということはなく、むしろ広範囲にディックの様々な面を取り上げていて、むしろディックの入門書として適しているのではないかと思われる。
著者は、前提として、世界をとおして思考するのがSFであるというところから出発する。遠くの銀河、パラレル・ワールド、ホロコースト後の世界。SFが、多くの場合ステレオタイプの作中人物しか生みだせないのも、世界がどんなどのような法則にしたがっているかを理解させてくれるなら、どんな人物でもいいからである。また、「科学」は私達を遠くの世界へ連れ出すための手段にすぎず、科学と技術はSFにとって二次的なものにとどまる。同様に別世界を構想する思考形態――神話、形而上学、宗教――とSFが親和性を持つのも、いずれも新たな世界を構想し世界をとおして思考していくからなのだ、と。
これを踏まえて、ディック作品の特色を見ていくと、ディック自身の言葉にあるとおり、SF作家は「二日後に崩壊することのない世界を構築しなければならない」のに、彼は「二日経つとほんとうに粉々に砕け散ってしまう世界を創造するのが好き」(『フィリップ・K・ディックのすべて』)なのだ、ということになる。「アジャストメント」「展示品」『時は乱れて』などに見られるように現実崩壊感覚(この確かな現実が模造品に過ぎないとわかったときの錯乱)を繰り返しディックは描いているが、彼は、新たな可能世界を想像することではなく、「現実的なものの深層へと降りてゆき、どのような新しい錯乱が駆動しているかを見究めること」を重要視している、と著者は言う。錯乱の力は現実の概念そのものを揺さぶる。現実世界が唯一のものならば、錯乱は二次的で病理的なものにならざるを得ないが、SFのように様々な可能世界を探究するジャンルであれば、現実に優位性はない。フーコーが『精神医学の権力』で述べたように、精神医学者が現実の形態を強要することに対して、患者は「根絶しえない確信」をもって支配的現実に対抗する。ディックは狂人ではなかったが、とりわけ、一九七四年二月の神秘体験以降、宗教的な妄想体験を経て精神病期を経験した人物(『アルベマス』のニコラス・ブレイディ、『ヴァリス』のホースラヴァー・ファット)と、彼を心配するSF作家(ディック)の両方を作品に登場させて、錯乱した可能性と支配的現実との闘いを描いた。ディックは、狂気に肩入れし、支配的現実の欺瞞を暴こうとしているのか、医者に肩入れし、支配的現実を受け入れたうえで現実もまた妄想に閉じこめられていることを示そうとしたのか、という問いが本書の「序」で立てられ、以下の本論で検証されていく。
第一章「諸世界」では、まず『シミュラクラ』『宇宙の眼』をもとに、主観的世界と客観的世界との対立を見ていく。人はそれぞれ世界をもっていて、客観的世界に帰属している者は誰もいないというのがディックの一貫した立場である。『アルファ系衛星の氏族たち』では、パラノイア、躁病、分裂症と様々な精神疾患を持つ氏族たちが暮らす衛星が登場するが、これは地球の似姿に他ならない。
第二章「因果」では、ディック作品における因果律解体を二つの作品で例示する。一つは、『太陽クイズ』(『偶然世界』)において、ゲーム理論の確率論によって政治権力が任意の市民に賦与される点。もう一つは、『高い城の男』において、『易経』によって因果的連関がない二人の男が運命づけられる点である。後者においては、二人の男は別々に『易経』を紐解き、同じ卦を得て行動したため、そこには因果関係ではなく、同期性(シンクロニシティ)が生じる。『高い城の男』中の枢軸国が勝利した世界と『イナゴ身重く横たわる』中の連合国が勝利した世界(われわれの現実とも異なっている)との関係は因果律では説明できず、同期性が作用しており、それゆえ交流が可能となるのだ、という著者の指摘は興味深い。
第三章「思考する事物」では、崩壊した世界におけるアイデンティティ確立の問題を取り上げる。ディックの世界では、人は自分の生きている世界そのものであり、世界が消滅すると、その人も存在しなくなる(「逃避シンドローム」)。心と世界は一体化しており、その世界は集合的無意識によって決められ、世界に幻覚的な形態をまとわせている(『フロリクス8から来た友人』)。『スキャナー・ダークリー』では、主人公フレッドは、右脳と左脳を切断して意識の統合を失わせる麻薬を摂取し、人格が分裂してしまう。神秘体験後のディックが、西暦七〇年のローマ帝国に住むトマスという別人格を生んだのも、集合的無意識の太古の記憶が浮上してきて、妄想を通じた「治癒や再構成の試み」をしているようだと著者は言う。ロックは人格の同一性を記憶の連続性によって基礎づけたが、ディックにおいては、記憶喪失、偽の記憶(「トータル・リコール」)が常に発生しており、人格は不安定となる。デカルトは「われ思う」を「思考する事物」に関連づけたが、ディックにおいては、人は人間自体が機械と化すことを恐れており、「にせもの」に見られるように、「思考する事物」が機械であること、アンドロイドであることが不安の源泉となる。因果律同様、自同律も崩壊した中で、妄想こそが「粘り強い治癒の努力」であり、希望を抱く人物の伴侶だと結論づけるこの章は、本書の中でも圧巻である。
第四章「幻想的なもの」では、ディックと幻想小説との関連が論じられる。SFが一つの世界を理性的に構想するのに対し、幻想小説はつねに二つの世界のあいだでの衝突の経験をつくりだす。この衝突は、たえず非合理的なものに突きあたり、ゆらぎのうちに宿るものが幻想性である(フロイトはこれを「不気味なもの」と呼んだ)。作中人物に超自然的な出来事が起きた場合、錯覚や空想の産物なのか、未知の世界の法則に従っているのかはわからない。夢と現実が区別できるのは、判断力の優位が確立されているからだ。サルトルは、夢見る人は「世界内存在」を失っていると述べたが、だからこそ夢見る人には非現実的なこと=偽物は存在しない。夢は覚醒と睡眠とのあいだの第三の状態である。ディックの作品において、この状態は、麻薬、精神障害、心理操作などによって獲得される。遠くの銀河、スペースシップ、地球外生命体の背後には、幻想的なものが潜んでおり、ディックはたえずそこに合流しようとする。黒澤明やブニュエルの映画に出てくる「夢」は現実に干渉することのない別世界であり「綺想的なもの(ファンタスマティック)」、ディックやリンチの描く「夢」はリアルな別の世界そのものであり「幻想的なもの(ファンタスティック)」である。ライプニッツの合理的な排除原理に対してシモンドンとドゥルーズが示したのは、特定の条件下でのみそれが成立するということだった。前個体的な世界では、世界は流動的であり、夢と現実は両立する。ドゥルーズの言う「包含的な離接」がディックの世界には見られるのである。
第五章「エントロピーと退行」では、ディック作品における「退行」が扱われる。『ユービック』では、人間が老いていくだけでなく、飛行機や自動車などの事物も時間に逆行して古くなっていく。技術と科学の「進歩」がSFの深層的傾向であるなら、『ユービック』はアンチSFである。『火星のタイム・スリップ』では、精神医学者ビンスワンガーの唱えた「墓穴世界」を援用し、人ではなく、世界それ自体が精神病的な基底を有している様を描く。ディックにおける「退行」は、たんなる後戻りではなく、すべての全面解体に立脚した未来へのヴィジョンでもある。未来に向かってひたすら破壊と死を欲望することはディックにおけるニヒリズムの形態のひとつだ(「非O」)。ディックはエントロピー(の増大)と活発に闘うが、バラードは諦念をもって受け容れる。
第六章「世界を掌握する者たち」では、ディック作品で世界をコントロールするのは誰かという問題が考察される。「世界のすべては彼女のために」に示されているように、ディックの作中人物は、自身がすべてを決定し自分自身の世界の中で生きようとするが、うまく行かない。「あらゆる世界は、その外観をつくりだし、コントロールする人のものである」。従って、世界の外観は所与のものではなく、他者によって投射されたものだ。〈主体/世界〉の二項関係は〈発信者/受信者〉の二項関係へとずれていく。ディックに情報理論が適合するのはそのためだ。情報学的観念論は脱物質化へと至る。情報化は全面的な透明性を可能にし、隣人の思考は解読可能なものとなる。脱物質化と相関して、世界とその住人の人工物化が進展する。情報、生、人間、機械が同一平面上に乗せられる。広告、メディア、コンピュータが「外部」世界を乗っ取り、心の「内部」世界も乗っ取ろうとする。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』では、麻薬の売人が神のように振る舞い、世界をコントロールしている。今や、世界掌握者は、まえもって存在する秩序を人々に押しつけるのではなく、現実を連続的に算出し続け、たえざる変化を人々にもたらす。このあたりは、ドゥルージアンとしての著者の分析が冴えるところだ。
第七章「人工世界」では、ディックの描く偽の世界が考察される。ディックが生涯を過ごしたカリフォルニアは「まがいもの」に満ちており、伝統も誇りも倫理もないとディック自身は語っている。ポップ・アートは見せかけを増殖させることで、空虚感や模造品としての性格を浮彫りにするが、広告の多用(「CM地獄」)や複製の偏在(『死の迷路』『去年を待ちながら』「くずれてしまえ」)は、ディックを《ポップ》に接近させている。偽物の世界は、偽物自体を新たな現実に仕立てあげるだけの自律性を獲得する。偽物によって現実から世界を盗み取ることは、あらゆる植民地化が行う行為でもあり、『火星のタイム・スリップ』における先住民の扱いは、アメリカが《インディアン》にしたことに似ている。世界から排除された人たちは、あらゆる世界の外にある収容所にいるのだ。
第八章「デジタル人間(あるいはアンドロイドとは何か)」では、人間と機械の区別が取り上げられる。原題はサーヴィス社会であり、すべては機械によって操作されている。自動化が権力を握り、権力はプログラムの中に移行した。機会は人間化し、人間は機械と同じくらい非人間的となる(『あなたをつくります』)。人間を特徴づけるのは感情移入(共感)だとディックは繰り返し述べるが、それこそプログラミングの全般化に対して人間の内部から抵抗するものである。ウィリアム・バロウズは、イメージを生む「言葉」をウイルスと定義したが、ディックとバロウズはともにコージブスキーを読んでいた。コージブスキーは、非言語的な体験から生じる創造性を重んじた(右脳の優位)。感情移入は諸世界の間の行き来を可能にし、協同組合を作り上げていくが、言語をもととする官僚制は諸世界をしゃぶりつくし、自分の取り分を採取する。ディックが音楽(=反言語)を特権視したのもこれが理由であろう。七四年から八年に渡り書かれた『釈義』からは、ディックはSFを見限り、宗教的秘教主義に乗り換えた印象を受けるが、この時期に書かれた小説は、宗教をSFの領域に組み込んだものだ。彼はあらゆるSFの奥底にひそむ宗教や神話の誘惑を浮彫りにしたのである。
第九章「狩りとパラノイア」では、ディックとアメリカ史との関連が語られる。ディック作品には多くのパラノイアが登場するが、冷戦とともに醸成されたアメリカ社会の雰囲気が理由のひとつに挙げられる。広告の浸透もそれを促進した。パラノイアは自分の世界から外に出られない。他人の出現は自分の全能性をおびやかすため、常に他者を孤立させようとする。不信、共感の欠如、誤った仮定に基づく推論がパラノイアを特徴づける(「スパイはだれだ」)。メルヴィルの鯨狩り、ホーソーンのインディアン狩りなどに続くアメリカ文学史の伝統にディックはアンドロイド狩りで参加した。米国史自体が、黒人狩り、魔女狩り、共産主義者狩りといったパラノイアによる狩りの継起としてあらわれる。しかし、狩る側が獲物ではないと狩人に保証するものは何か、ディックの作品はこの問題を突きつけてくる(『アンドロ羊』『スキャナー・ダークリー』)。
第十章「生と死のあいだで」では、政治体の永遠性が論じられる。ディック作品では、冒頭からよく人が死ぬ(「ラウタヴァーラ事件」『ユービック』)。生きている人間の内面が死んでいる作品はあまたあるが、ディックの関心は、死んでしまった人間が、それでも生き続けているケースにある。『去年を待ちながら』の独裁者モリナーリは何度も死ぬが、その度にパラレルワールドの身体を利用することによって、人間的な有機体と神的な政治体を統合させる。『ドクター・ブラッドマネー』におけるホッピーのように、この統合は恩寵によるものではなく、麻薬や医療技術によるものが多い点にディックの特色がある。こうした「双生体」のイメージは、模造の政治的人物へとずらされ(『シミュラクラ』の大統領、『最後から二番目の真実』の護民官)、政治体は情報によって生み出されるアヴァターとなる。ニクソンは有機的身体とパラノイア的な政治体の両方を持っていたため、ディックは彼に魅せられていた。ニクソンの失権は、ディックにとって幸福の前兆だったのではないかと著者は言う。『ユービック』のジョリーは、人々の生命エネルギーを吸い取って生きているが、それは、機械やアンドロイドやニクソンと共通する、寄生する政治体なのだ。
第十一章「ブリコラ-ジュすること(あるいはランダムな変数)」では、生き延びる方法が語られる。SFは、戦争、疾病、地球外からの侵略、核爆発などのカトストロフィ以後を描く。ディックは核戦争後の世界をよく描いたが、例外的に『ドクター・ブラッドマネー』では、核爆発そのものを「主観的」に描いている。戦争後の世界で、苦境から抜け出すために力を尽くす普通の人がディックの作中人物には多い。主役は、レコード屋、修理士、陶工、タイヤの溝堀り職人などであり、ブリコラージュする人々である。事前の計画を持つエンジニアとは違って、彼らは多様なものを大量に貯め込み、手持ちの材料と対話しながら、有用性を見つけていく。制限のなかで、手持ちの材料との親和性や共感関係を感じとる。これは右脳に依拠する活動であり、非言語的で、技術支配(テクノクラシー)と対抗する。「変数人間」に登場する修理士は、まさしくブリコラージュする人である。再利用と逸脱はブリコラージュの本質的な側面であり、芸術家、贋造者、ハッカーに通じる。彼らの目的は、諸世界を行き来することだ。修繕することは元の世界を復元することではなく、新たな諸世界が交わる場を創造し、「共感の循環を後押ししながら、活気に満ちた連続体のかたちを創造すること」なのだ。レヴィ=ストロースはブリコラージュを神話的思考と接近させたが、SFにおける地球外生命体、冒険家、スペースシップ、超近代的なテクノロジーは、一連の「神話素」と言える。ディックはあらゆる「神話素」を逸脱させ、多数の作品を書いた。ブリコラージュする人とは、ディック自身のことではないか。ブリコラージュとは妄想の別名であり、妄想とは、修繕を行う分裂症的なブリコラージュの一種ではないかと述べて、著者は論を終える(三章参照)。見事な結びである。
総じて、ディック作品に関するトピックを万遍なく取り上げ、具体的な作品を例示しながら論じていく姿勢には無理がなく、好感が持てる。精神分析や哲学を援用した視点に、はっとさせられるところが多く、特に、妄想を「治癒」として積極的な意味を見出した三章、ドゥルーズの概念を用いてディック作品の特色を論じた四章・六章、ブリコラージュとの共通性を見出した十一章は特筆すべきだろう。アメリカ史やアメリカ文学史との対比も、よくある視点とは言え、ディックの本質を見事に突いている。D・H・ロレンスの手紙(九章)やウィリアム・ジェイムズの引用(十一章)は、まるでディックの言葉そのものだ。右脳・左脳の二項対立はもはや古びているのではないかとか、エントロピーの用い方とか首をひねるところもあるが、全体としては良く出来たディック論になっており、今後のディック研究の基本的文献としてお勧めしておきたい。
最後に、文章表現について、気になったことを二つ。出版界の趨勢なのかもしれないが、「じぶん」「かんぜん」「かんぺき」をひらがな表記にするのは、読者にとって読みにくいということと、並列の「~たり」を最初にしか使っていない箇所が散見されるということ。この二つについては、訳者側の問題か校正側の問題かわからないが、今後の改善が望まれる。
著者は、前提として、世界をとおして思考するのがSFであるというところから出発する。遠くの銀河、パラレル・ワールド、ホロコースト後の世界。SFが、多くの場合ステレオタイプの作中人物しか生みだせないのも、世界がどんなどのような法則にしたがっているかを理解させてくれるなら、どんな人物でもいいからである。また、「科学」は私達を遠くの世界へ連れ出すための手段にすぎず、科学と技術はSFにとって二次的なものにとどまる。同様に別世界を構想する思考形態――神話、形而上学、宗教――とSFが親和性を持つのも、いずれも新たな世界を構想し世界をとおして思考していくからなのだ、と。
これを踏まえて、ディック作品の特色を見ていくと、ディック自身の言葉にあるとおり、SF作家は「二日後に崩壊することのない世界を構築しなければならない」のに、彼は「二日経つとほんとうに粉々に砕け散ってしまう世界を創造するのが好き」(『フィリップ・K・ディックのすべて』)なのだ、ということになる。「アジャストメント」「展示品」『時は乱れて』などに見られるように現実崩壊感覚(この確かな現実が模造品に過ぎないとわかったときの錯乱)を繰り返しディックは描いているが、彼は、新たな可能世界を想像することではなく、「現実的なものの深層へと降りてゆき、どのような新しい錯乱が駆動しているかを見究めること」を重要視している、と著者は言う。錯乱の力は現実の概念そのものを揺さぶる。現実世界が唯一のものならば、錯乱は二次的で病理的なものにならざるを得ないが、SFのように様々な可能世界を探究するジャンルであれば、現実に優位性はない。フーコーが『精神医学の権力』で述べたように、精神医学者が現実の形態を強要することに対して、患者は「根絶しえない確信」をもって支配的現実に対抗する。ディックは狂人ではなかったが、とりわけ、一九七四年二月の神秘体験以降、宗教的な妄想体験を経て精神病期を経験した人物(『アルベマス』のニコラス・ブレイディ、『ヴァリス』のホースラヴァー・ファット)と、彼を心配するSF作家(ディック)の両方を作品に登場させて、錯乱した可能性と支配的現実との闘いを描いた。ディックは、狂気に肩入れし、支配的現実の欺瞞を暴こうとしているのか、医者に肩入れし、支配的現実を受け入れたうえで現実もまた妄想に閉じこめられていることを示そうとしたのか、という問いが本書の「序」で立てられ、以下の本論で検証されていく。
第一章「諸世界」では、まず『シミュラクラ』『宇宙の眼』をもとに、主観的世界と客観的世界との対立を見ていく。人はそれぞれ世界をもっていて、客観的世界に帰属している者は誰もいないというのがディックの一貫した立場である。『アルファ系衛星の氏族たち』では、パラノイア、躁病、分裂症と様々な精神疾患を持つ氏族たちが暮らす衛星が登場するが、これは地球の似姿に他ならない。
第二章「因果」では、ディック作品における因果律解体を二つの作品で例示する。一つは、『太陽クイズ』(『偶然世界』)において、ゲーム理論の確率論によって政治権力が任意の市民に賦与される点。もう一つは、『高い城の男』において、『易経』によって因果的連関がない二人の男が運命づけられる点である。後者においては、二人の男は別々に『易経』を紐解き、同じ卦を得て行動したため、そこには因果関係ではなく、同期性(シンクロニシティ)が生じる。『高い城の男』中の枢軸国が勝利した世界と『イナゴ身重く横たわる』中の連合国が勝利した世界(われわれの現実とも異なっている)との関係は因果律では説明できず、同期性が作用しており、それゆえ交流が可能となるのだ、という著者の指摘は興味深い。
第三章「思考する事物」では、崩壊した世界におけるアイデンティティ確立の問題を取り上げる。ディックの世界では、人は自分の生きている世界そのものであり、世界が消滅すると、その人も存在しなくなる(「逃避シンドローム」)。心と世界は一体化しており、その世界は集合的無意識によって決められ、世界に幻覚的な形態をまとわせている(『フロリクス8から来た友人』)。『スキャナー・ダークリー』では、主人公フレッドは、右脳と左脳を切断して意識の統合を失わせる麻薬を摂取し、人格が分裂してしまう。神秘体験後のディックが、西暦七〇年のローマ帝国に住むトマスという別人格を生んだのも、集合的無意識の太古の記憶が浮上してきて、妄想を通じた「治癒や再構成の試み」をしているようだと著者は言う。ロックは人格の同一性を記憶の連続性によって基礎づけたが、ディックにおいては、記憶喪失、偽の記憶(「トータル・リコール」)が常に発生しており、人格は不安定となる。デカルトは「われ思う」を「思考する事物」に関連づけたが、ディックにおいては、人は人間自体が機械と化すことを恐れており、「にせもの」に見られるように、「思考する事物」が機械であること、アンドロイドであることが不安の源泉となる。因果律同様、自同律も崩壊した中で、妄想こそが「粘り強い治癒の努力」であり、希望を抱く人物の伴侶だと結論づけるこの章は、本書の中でも圧巻である。
第四章「幻想的なもの」では、ディックと幻想小説との関連が論じられる。SFが一つの世界を理性的に構想するのに対し、幻想小説はつねに二つの世界のあいだでの衝突の経験をつくりだす。この衝突は、たえず非合理的なものに突きあたり、ゆらぎのうちに宿るものが幻想性である(フロイトはこれを「不気味なもの」と呼んだ)。作中人物に超自然的な出来事が起きた場合、錯覚や空想の産物なのか、未知の世界の法則に従っているのかはわからない。夢と現実が区別できるのは、判断力の優位が確立されているからだ。サルトルは、夢見る人は「世界内存在」を失っていると述べたが、だからこそ夢見る人には非現実的なこと=偽物は存在しない。夢は覚醒と睡眠とのあいだの第三の状態である。ディックの作品において、この状態は、麻薬、精神障害、心理操作などによって獲得される。遠くの銀河、スペースシップ、地球外生命体の背後には、幻想的なものが潜んでおり、ディックはたえずそこに合流しようとする。黒澤明やブニュエルの映画に出てくる「夢」は現実に干渉することのない別世界であり「綺想的なもの(ファンタスマティック)」、ディックやリンチの描く「夢」はリアルな別の世界そのものであり「幻想的なもの(ファンタスティック)」である。ライプニッツの合理的な排除原理に対してシモンドンとドゥルーズが示したのは、特定の条件下でのみそれが成立するということだった。前個体的な世界では、世界は流動的であり、夢と現実は両立する。ドゥルーズの言う「包含的な離接」がディックの世界には見られるのである。
第五章「エントロピーと退行」では、ディック作品における「退行」が扱われる。『ユービック』では、人間が老いていくだけでなく、飛行機や自動車などの事物も時間に逆行して古くなっていく。技術と科学の「進歩」がSFの深層的傾向であるなら、『ユービック』はアンチSFである。『火星のタイム・スリップ』では、精神医学者ビンスワンガーの唱えた「墓穴世界」を援用し、人ではなく、世界それ自体が精神病的な基底を有している様を描く。ディックにおける「退行」は、たんなる後戻りではなく、すべての全面解体に立脚した未来へのヴィジョンでもある。未来に向かってひたすら破壊と死を欲望することはディックにおけるニヒリズムの形態のひとつだ(「非O」)。ディックはエントロピー(の増大)と活発に闘うが、バラードは諦念をもって受け容れる。
第六章「世界を掌握する者たち」では、ディック作品で世界をコントロールするのは誰かという問題が考察される。「世界のすべては彼女のために」に示されているように、ディックの作中人物は、自身がすべてを決定し自分自身の世界の中で生きようとするが、うまく行かない。「あらゆる世界は、その外観をつくりだし、コントロールする人のものである」。従って、世界の外観は所与のものではなく、他者によって投射されたものだ。〈主体/世界〉の二項関係は〈発信者/受信者〉の二項関係へとずれていく。ディックに情報理論が適合するのはそのためだ。情報学的観念論は脱物質化へと至る。情報化は全面的な透明性を可能にし、隣人の思考は解読可能なものとなる。脱物質化と相関して、世界とその住人の人工物化が進展する。情報、生、人間、機械が同一平面上に乗せられる。広告、メディア、コンピュータが「外部」世界を乗っ取り、心の「内部」世界も乗っ取ろうとする。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』では、麻薬の売人が神のように振る舞い、世界をコントロールしている。今や、世界掌握者は、まえもって存在する秩序を人々に押しつけるのではなく、現実を連続的に算出し続け、たえざる変化を人々にもたらす。このあたりは、ドゥルージアンとしての著者の分析が冴えるところだ。
第七章「人工世界」では、ディックの描く偽の世界が考察される。ディックが生涯を過ごしたカリフォルニアは「まがいもの」に満ちており、伝統も誇りも倫理もないとディック自身は語っている。ポップ・アートは見せかけを増殖させることで、空虚感や模造品としての性格を浮彫りにするが、広告の多用(「CM地獄」)や複製の偏在(『死の迷路』『去年を待ちながら』「くずれてしまえ」)は、ディックを《ポップ》に接近させている。偽物の世界は、偽物自体を新たな現実に仕立てあげるだけの自律性を獲得する。偽物によって現実から世界を盗み取ることは、あらゆる植民地化が行う行為でもあり、『火星のタイム・スリップ』における先住民の扱いは、アメリカが《インディアン》にしたことに似ている。世界から排除された人たちは、あらゆる世界の外にある収容所にいるのだ。
第八章「デジタル人間(あるいはアンドロイドとは何か)」では、人間と機械の区別が取り上げられる。原題はサーヴィス社会であり、すべては機械によって操作されている。自動化が権力を握り、権力はプログラムの中に移行した。機会は人間化し、人間は機械と同じくらい非人間的となる(『あなたをつくります』)。人間を特徴づけるのは感情移入(共感)だとディックは繰り返し述べるが、それこそプログラミングの全般化に対して人間の内部から抵抗するものである。ウィリアム・バロウズは、イメージを生む「言葉」をウイルスと定義したが、ディックとバロウズはともにコージブスキーを読んでいた。コージブスキーは、非言語的な体験から生じる創造性を重んじた(右脳の優位)。感情移入は諸世界の間の行き来を可能にし、協同組合を作り上げていくが、言語をもととする官僚制は諸世界をしゃぶりつくし、自分の取り分を採取する。ディックが音楽(=反言語)を特権視したのもこれが理由であろう。七四年から八年に渡り書かれた『釈義』からは、ディックはSFを見限り、宗教的秘教主義に乗り換えた印象を受けるが、この時期に書かれた小説は、宗教をSFの領域に組み込んだものだ。彼はあらゆるSFの奥底にひそむ宗教や神話の誘惑を浮彫りにしたのである。
第九章「狩りとパラノイア」では、ディックとアメリカ史との関連が語られる。ディック作品には多くのパラノイアが登場するが、冷戦とともに醸成されたアメリカ社会の雰囲気が理由のひとつに挙げられる。広告の浸透もそれを促進した。パラノイアは自分の世界から外に出られない。他人の出現は自分の全能性をおびやかすため、常に他者を孤立させようとする。不信、共感の欠如、誤った仮定に基づく推論がパラノイアを特徴づける(「スパイはだれだ」)。メルヴィルの鯨狩り、ホーソーンのインディアン狩りなどに続くアメリカ文学史の伝統にディックはアンドロイド狩りで参加した。米国史自体が、黒人狩り、魔女狩り、共産主義者狩りといったパラノイアによる狩りの継起としてあらわれる。しかし、狩る側が獲物ではないと狩人に保証するものは何か、ディックの作品はこの問題を突きつけてくる(『アンドロ羊』『スキャナー・ダークリー』)。
第十章「生と死のあいだで」では、政治体の永遠性が論じられる。ディック作品では、冒頭からよく人が死ぬ(「ラウタヴァーラ事件」『ユービック』)。生きている人間の内面が死んでいる作品はあまたあるが、ディックの関心は、死んでしまった人間が、それでも生き続けているケースにある。『去年を待ちながら』の独裁者モリナーリは何度も死ぬが、その度にパラレルワールドの身体を利用することによって、人間的な有機体と神的な政治体を統合させる。『ドクター・ブラッドマネー』におけるホッピーのように、この統合は恩寵によるものではなく、麻薬や医療技術によるものが多い点にディックの特色がある。こうした「双生体」のイメージは、模造の政治的人物へとずらされ(『シミュラクラ』の大統領、『最後から二番目の真実』の護民官)、政治体は情報によって生み出されるアヴァターとなる。ニクソンは有機的身体とパラノイア的な政治体の両方を持っていたため、ディックは彼に魅せられていた。ニクソンの失権は、ディックにとって幸福の前兆だったのではないかと著者は言う。『ユービック』のジョリーは、人々の生命エネルギーを吸い取って生きているが、それは、機械やアンドロイドやニクソンと共通する、寄生する政治体なのだ。
第十一章「ブリコラ-ジュすること(あるいはランダムな変数)」では、生き延びる方法が語られる。SFは、戦争、疾病、地球外からの侵略、核爆発などのカトストロフィ以後を描く。ディックは核戦争後の世界をよく描いたが、例外的に『ドクター・ブラッドマネー』では、核爆発そのものを「主観的」に描いている。戦争後の世界で、苦境から抜け出すために力を尽くす普通の人がディックの作中人物には多い。主役は、レコード屋、修理士、陶工、タイヤの溝堀り職人などであり、ブリコラージュする人々である。事前の計画を持つエンジニアとは違って、彼らは多様なものを大量に貯め込み、手持ちの材料と対話しながら、有用性を見つけていく。制限のなかで、手持ちの材料との親和性や共感関係を感じとる。これは右脳に依拠する活動であり、非言語的で、技術支配(テクノクラシー)と対抗する。「変数人間」に登場する修理士は、まさしくブリコラージュする人である。再利用と逸脱はブリコラージュの本質的な側面であり、芸術家、贋造者、ハッカーに通じる。彼らの目的は、諸世界を行き来することだ。修繕することは元の世界を復元することではなく、新たな諸世界が交わる場を創造し、「共感の循環を後押ししながら、活気に満ちた連続体のかたちを創造すること」なのだ。レヴィ=ストロースはブリコラージュを神話的思考と接近させたが、SFにおける地球外生命体、冒険家、スペースシップ、超近代的なテクノロジーは、一連の「神話素」と言える。ディックはあらゆる「神話素」を逸脱させ、多数の作品を書いた。ブリコラージュする人とは、ディック自身のことではないか。ブリコラージュとは妄想の別名であり、妄想とは、修繕を行う分裂症的なブリコラージュの一種ではないかと述べて、著者は論を終える(三章参照)。見事な結びである。
総じて、ディック作品に関するトピックを万遍なく取り上げ、具体的な作品を例示しながら論じていく姿勢には無理がなく、好感が持てる。精神分析や哲学を援用した視点に、はっとさせられるところが多く、特に、妄想を「治癒」として積極的な意味を見出した三章、ドゥルーズの概念を用いてディック作品の特色を論じた四章・六章、ブリコラージュとの共通性を見出した十一章は特筆すべきだろう。アメリカ史やアメリカ文学史との対比も、よくある視点とは言え、ディックの本質を見事に突いている。D・H・ロレンスの手紙(九章)やウィリアム・ジェイムズの引用(十一章)は、まるでディックの言葉そのものだ。右脳・左脳の二項対立はもはや古びているのではないかとか、エントロピーの用い方とか首をひねるところもあるが、全体としては良く出来たディック論になっており、今後のディック研究の基本的文献としてお勧めしておきたい。
最後に、文章表現について、気になったことを二つ。出版界の趨勢なのかもしれないが、「じぶん」「かんぜん」「かんぺき」をひらがな表記にするのは、読者にとって読みにくいということと、並列の「~たり」を最初にしか使っていない箇所が散見されるということ。この二つについては、訳者側の問題か校正側の問題かわからないが、今後の改善が望まれる。
『星の海を駆ける 新世代スペース・オペラ傑作選』(2024)ジョナサン・ストラーン/編(2026年3月/東京創元社) ― 2026-07-16 20:48
1964年北アイルランドのベルファスト生まれ、現在はオーストラリア在住の編集者ジョナサン・ストラーンは、今最も信頼できるSFアンソロジストである。SFに関する該博な知識と深い愛情をもとに、幅広い視点から作品を選ぶ姿勢には常に感嘆させられる。何よりSFの歴史や先達に対する敬意が感じられる点が素晴らしい。本書の序文においても、ストラーンは、E・E・スミス、ハミルトンやヴォークトに始まるスペース・オペラの歴史を丁寧に辿りながら、『デューン』『神の目の小さな塵』といった60年代、70年代の作品、M・ジョン・ハリスンの The Centauri Device からイアン・M・バンクスの《カルチャー》シリーズといったイギリスSFの流れを押さえていく。チェリイとビジョルドを「批評的観点において重要な作家」と位置づけているのも意外で面白い。ストラーンが述べているように、2000年代半ばには、アレステア・レナルズやマコーリイら当時の新鋭による宇宙を舞台にした力作が続々と発表されて「ニュー・スペース・オペラ」と呼称された。アメリカの情報誌〈ローカス〉は2003年8月号で特集を組んでいる(日本でもレナルズなどかなり翻訳され〈SFマガジン〉が2005年12月号で「ニュー・スペース・オペラ特集」を組むなど、それなりの盛り上がりはあった)。ストラーンも、2007年と2009年にアンソロジー The New Space Opera とその続編をドゾワとともに編集して、ブームの盛り上げに一役買っている。このようにジャンル内では非常に盛り上がった「ニュー・スペース・オペラ」だったが、サイバーパンクのようなジャンル外への広がりはなかったように思われる。その後はどうなったのか。もちろん2010年代から2020年代にかけてもスペース・オペラは書き継がれ、新しい作家も続々と現れた。『叛逆航路』(2013)のアン・レッキー、『ナインフォックスの覚醒』(2016)のユーン・ハ・リー、『帝国という名の記憶』(2019)のアーカディー・マーティーンらはいずれも大宇宙を舞台にした冒険SFの優れた書き手であり、スペース・オペラの正当な継承者と言えるだろう。
本書は、レナルズら「ニュー・スペース・オペラ」世代から、こうした新しい世代の作家たちまでの2010年代の作品を幅広く収録し、さながら2010年代海外SF傑作選と言い換えてもおかしくないほど、SFの現在を代表する作家たちが勢ぞろいした秀逸な作品集となっている。
以下、14編中、印象に残った作品を紹介しておく。
「禅と宇宙船修理技術」(2017)トバイアス・S・バッケル(生年1979-)
敵との激しい戦闘が終わり勝利に沸き立つ中、肉体を捨てて蟹状整備形態ロボットとなり思考体として存在している「私」は、敵のCEOアーマンドに遭遇する。瀕死状態であったアーマンドに命令され、逆らえない私は彼を救うことになる。アーマンドは〈人類真形態〉の一員で、自己の肉体を保存することを何より重要視しているのだ。肉体と精神の対立に経済的対立(株主と労働者)が重ね合わされ、軍隊が一種の経済組織として存在しているという独自の設定が興味深い。禁じられている物質をこっそりコレクションしており、最後にはアーマンドに一矢報いるなど、妙に人間臭い「私」のキャラクターも魅力的だ。幅数千キロの三連回転リング、空中に浮かぶ都市、エクサジュールのエネルギー、ピコテクノロジー(もはやナノテクは旧式となっている)など惜しげもなく繰り出される大道具やアイディアも実に楽しく、同設定の物語をもっと読んでみたいという気にさせられた。
「ベラドンナの夜」(2017)アレステア・レナルズ(1966-)
銀河に様々な系統に分化した人類が広がっている遠未来。二十万年がかりの銀河周回を終えた人々が集まる千夜祭がティアス星で開かれ、オジギソウ系統のシャウラも参加する。リンドウ系統のマンテマが自分を明らかに無視しているにもかかわらず、部屋の前にベラドンナの花を毎晩置いていることに気づいたシャウラは、真意をマンテマに問うが……。煌びやかな舞台装置、次々と繰り出される独自の用語、そして揺らいでいく現実。短いながら『反転領域』にも通じるレナルズの特色がよく発揮されている好編だ。
「金属は暗闇の血のごとく」(2020)T・キングフィッシャー(1977-)
はるかな昔、ある惑星に一人で住む老人によって作られた善良な二体の巨大ロボット、ブラザーとシスターは、ナノマシンによって金属を食べて自分の身体を作り変えることができた。心臓病を患った老人は救援を呼び、悪い人間に会わないように二体を宇宙へ逃がす。しかし、二体は小惑星帯で、邪悪な第三ドローンに捕獲されてしまう。どうやって二体がドローンから逃れるかが本編の読みどころ。邪悪な存在に善が勝つためには、少しの悪が必要だというメッセージが打ち出され、ファンタジーで多くの賞を受賞してきた作者ならではのストーリーテリングの上手さが光る作品だ。
「包嚢」(2012)アリエット・ド・ボダール(1982-)
ボダールの邦訳短編集『茶匠と探偵』にも収録された作者の出世作で、2013年度のネビュラ賞を受賞している。星間勢力ギャラクティックから独立した〈長寿ステーション〉では、包嚢(イマーサー)と呼ばれる化身を人々がまとっている。ネットワーク接続された金属のメッシュを頭に載せて脳を同調させることにより、外見だけでなく、言語、身ぶり、習慣など異文化の特徴をまるごと再現できるのだ。〈長寿ステーション〉で暮らすロン族のキュイは、訪れたギャラクティックの客人の妻が同族であることを見抜き、救い出そうとする……。欧米社会に抑圧されてきたアジア系民族の自立と、男性に抑圧される女性の自立とをともに核にもった作品で、もやのようにまとわりついてくる支配民族(あるいは男性)の価値観を包嚢(イマーサー)で見事に表象し、妻の自立とキュイの自立が重ね合わされる結末までを、匂い立つような独自の文体で描き出している。
「善き異端者」(2019)ベッキー・チェンバーズ(1985-)
銀河系内のいくつもの種族が、同盟を結んで銀河共同体(GC)を構成している世界。主人公マスが所属するシアナット族は、ある年齢に達するとウィスパラーと呼ばれるウイルスに感染し、脳を組み替えて能力を増すようになっている。感染を拒否する者は異端者と言われ、別の惑星に流罪となる。感染する日を楽しみにして迎えたマスだったが……。毛皮を持ちネコずわりをする異星種族の話であるにもかかわらず、異端者になることの疎外感と苦しみ、そして結末での癒しが、まるで自分のことのように胸に迫ってくる。作者の他の作品同様、とても読みやすく、温かな眼差しに満ちている感動作だ。
「惑星執着者」(2023)サム・J・ミラー(1979-)
ゲートでつながった十二の銀河に九千万の人類が入植している遥かな未来。男娼のアランは、休暇中にメネリク・スターションで元兵士の武器商人二人と知り合いになり、親密になる。二人から得た情報を売りに行った先で、アランは通信が途絶し到達不能になっている自身の出身惑星ウクバルの硬貨を見つける。誰がこれを持っていたのか、探索を始めたアランを待ち受けていたものは……。魅力的な舞台設定、陰のある主人公、二転三転するストーリー展開に派手な戦闘シーンも加わり、これぞニュー・スペース・オペラといった感じの作品だ。故郷を求め続ける〈惑星執着者〉アランの気持ちが痛いほど伝わってくる。
「スキーズブラズニルの最後の旅」(2019)カリン・ティドベック(1977-)
突如としてヤドカリ船が人類の前に到来し、宇宙航行は新たな次元に入った。ヤドカリ船とは一種の生体宇宙船で、中に巨大なヤドカリのような異星生命体が入っており、異次元を航行することで深宇宙を旅することができる。幼い頃から冒険を夢見てきたサガは、自分の村にヤドカリ船〈スキーズブラズニル〉が訪れ、修理工を募集してきたことをきっかけに、船に乗り込み、冒険の旅に出る……。謎多き生命体であるヤドカリとコミュニケーションできる機関士ノヴィク、SFドラマに夢中な主人公サガなどのキャラがそれぞれいい味を出している。その架空SFドラマ『アンドロメダ・ステーション』のエピソードがいくつか紹介されているが、これも実に面白く、ぜひとも作者にノヴェライズしてもらいたいほどの出来の良さ。理屈抜きで楽しめる作品に仕上がっている。
以上7編が筆者の印象に残った作品である。これで全体の半分となるが、他の作品(作家名だけ挙げておくと、ユーン・ハ・リー、アーカディー・マーティン、チャーリー・ジェーン・アンダーズ、セス・ディキンソン、ラヴィ・ティドハー、アーニャ・ジョアンナ・デニーロ、アン・レッキー)ももちろん楽しめるものに仕上がっている。最近のSFはどうなっているのかを概観するにもぴったりのアンソロジーであり、初心者にも、最近SFから遠ざかっていたベテランの読者にも、等しくお勧めできる作品集だ。
本書は、レナルズら「ニュー・スペース・オペラ」世代から、こうした新しい世代の作家たちまでの2010年代の作品を幅広く収録し、さながら2010年代海外SF傑作選と言い換えてもおかしくないほど、SFの現在を代表する作家たちが勢ぞろいした秀逸な作品集となっている。
以下、14編中、印象に残った作品を紹介しておく。
「禅と宇宙船修理技術」(2017)トバイアス・S・バッケル(生年1979-)
敵との激しい戦闘が終わり勝利に沸き立つ中、肉体を捨てて蟹状整備形態ロボットとなり思考体として存在している「私」は、敵のCEOアーマンドに遭遇する。瀕死状態であったアーマンドに命令され、逆らえない私は彼を救うことになる。アーマンドは〈人類真形態〉の一員で、自己の肉体を保存することを何より重要視しているのだ。肉体と精神の対立に経済的対立(株主と労働者)が重ね合わされ、軍隊が一種の経済組織として存在しているという独自の設定が興味深い。禁じられている物質をこっそりコレクションしており、最後にはアーマンドに一矢報いるなど、妙に人間臭い「私」のキャラクターも魅力的だ。幅数千キロの三連回転リング、空中に浮かぶ都市、エクサジュールのエネルギー、ピコテクノロジー(もはやナノテクは旧式となっている)など惜しげもなく繰り出される大道具やアイディアも実に楽しく、同設定の物語をもっと読んでみたいという気にさせられた。
「ベラドンナの夜」(2017)アレステア・レナルズ(1966-)
銀河に様々な系統に分化した人類が広がっている遠未来。二十万年がかりの銀河周回を終えた人々が集まる千夜祭がティアス星で開かれ、オジギソウ系統のシャウラも参加する。リンドウ系統のマンテマが自分を明らかに無視しているにもかかわらず、部屋の前にベラドンナの花を毎晩置いていることに気づいたシャウラは、真意をマンテマに問うが……。煌びやかな舞台装置、次々と繰り出される独自の用語、そして揺らいでいく現実。短いながら『反転領域』にも通じるレナルズの特色がよく発揮されている好編だ。
「金属は暗闇の血のごとく」(2020)T・キングフィッシャー(1977-)
はるかな昔、ある惑星に一人で住む老人によって作られた善良な二体の巨大ロボット、ブラザーとシスターは、ナノマシンによって金属を食べて自分の身体を作り変えることができた。心臓病を患った老人は救援を呼び、悪い人間に会わないように二体を宇宙へ逃がす。しかし、二体は小惑星帯で、邪悪な第三ドローンに捕獲されてしまう。どうやって二体がドローンから逃れるかが本編の読みどころ。邪悪な存在に善が勝つためには、少しの悪が必要だというメッセージが打ち出され、ファンタジーで多くの賞を受賞してきた作者ならではのストーリーテリングの上手さが光る作品だ。
「包嚢」(2012)アリエット・ド・ボダール(1982-)
ボダールの邦訳短編集『茶匠と探偵』にも収録された作者の出世作で、2013年度のネビュラ賞を受賞している。星間勢力ギャラクティックから独立した〈長寿ステーション〉では、包嚢(イマーサー)と呼ばれる化身を人々がまとっている。ネットワーク接続された金属のメッシュを頭に載せて脳を同調させることにより、外見だけでなく、言語、身ぶり、習慣など異文化の特徴をまるごと再現できるのだ。〈長寿ステーション〉で暮らすロン族のキュイは、訪れたギャラクティックの客人の妻が同族であることを見抜き、救い出そうとする……。欧米社会に抑圧されてきたアジア系民族の自立と、男性に抑圧される女性の自立とをともに核にもった作品で、もやのようにまとわりついてくる支配民族(あるいは男性)の価値観を包嚢(イマーサー)で見事に表象し、妻の自立とキュイの自立が重ね合わされる結末までを、匂い立つような独自の文体で描き出している。
「善き異端者」(2019)ベッキー・チェンバーズ(1985-)
銀河系内のいくつもの種族が、同盟を結んで銀河共同体(GC)を構成している世界。主人公マスが所属するシアナット族は、ある年齢に達するとウィスパラーと呼ばれるウイルスに感染し、脳を組み替えて能力を増すようになっている。感染を拒否する者は異端者と言われ、別の惑星に流罪となる。感染する日を楽しみにして迎えたマスだったが……。毛皮を持ちネコずわりをする異星種族の話であるにもかかわらず、異端者になることの疎外感と苦しみ、そして結末での癒しが、まるで自分のことのように胸に迫ってくる。作者の他の作品同様、とても読みやすく、温かな眼差しに満ちている感動作だ。
「惑星執着者」(2023)サム・J・ミラー(1979-)
ゲートでつながった十二の銀河に九千万の人類が入植している遥かな未来。男娼のアランは、休暇中にメネリク・スターションで元兵士の武器商人二人と知り合いになり、親密になる。二人から得た情報を売りに行った先で、アランは通信が途絶し到達不能になっている自身の出身惑星ウクバルの硬貨を見つける。誰がこれを持っていたのか、探索を始めたアランを待ち受けていたものは……。魅力的な舞台設定、陰のある主人公、二転三転するストーリー展開に派手な戦闘シーンも加わり、これぞニュー・スペース・オペラといった感じの作品だ。故郷を求め続ける〈惑星執着者〉アランの気持ちが痛いほど伝わってくる。
「スキーズブラズニルの最後の旅」(2019)カリン・ティドベック(1977-)
突如としてヤドカリ船が人類の前に到来し、宇宙航行は新たな次元に入った。ヤドカリ船とは一種の生体宇宙船で、中に巨大なヤドカリのような異星生命体が入っており、異次元を航行することで深宇宙を旅することができる。幼い頃から冒険を夢見てきたサガは、自分の村にヤドカリ船〈スキーズブラズニル〉が訪れ、修理工を募集してきたことをきっかけに、船に乗り込み、冒険の旅に出る……。謎多き生命体であるヤドカリとコミュニケーションできる機関士ノヴィク、SFドラマに夢中な主人公サガなどのキャラがそれぞれいい味を出している。その架空SFドラマ『アンドロメダ・ステーション』のエピソードがいくつか紹介されているが、これも実に面白く、ぜひとも作者にノヴェライズしてもらいたいほどの出来の良さ。理屈抜きで楽しめる作品に仕上がっている。
以上7編が筆者の印象に残った作品である。これで全体の半分となるが、他の作品(作家名だけ挙げておくと、ユーン・ハ・リー、アーカディー・マーティン、チャーリー・ジェーン・アンダーズ、セス・ディキンソン、ラヴィ・ティドハー、アーニャ・ジョアンナ・デニーロ、アン・レッキー)ももちろん楽しめるものに仕上がっている。最近のSFはどうなっているのかを概観するにもぴったりのアンソロジーであり、初心者にも、最近SFから遠ざかっていたベテランの読者にも、等しくお勧めできる作品集だ。
『名古屋SFアンソロジー』(発行人・阿下潮/2026年5月4日刊行) ― 2026-07-14 10:13
近年ローカルSFアンソロジーがいくつも刊行されている中、待望の『名古屋SFアンソロジー』が5月に刊行された。個人出版によるものだが、太田忠司氏、十三不塔氏ら名古屋出身・在住のプロ作家も寄稿しており、ハイ・レベルの作品集となっている。刊行を記念して、編者の阿下潮氏、解説の人間六度氏(名古屋市出身)、作品寄稿者である十三不塔氏(同)によるトークイベントが7月4日に名古屋の揚輝荘で行われ(名古屋の古書店 henn books 主催)、筆者も参加してきたので、そこで聞いた話も交えながら、本書を紹介していきたい。
本書刊行のきっかけは、『大阪SFアンソロジー』(Kaguya Books/2023)『京都SFアンソロジー』(同/2023)『東京下町SFアンソロジー』(同/2024)などの地域SFアンソロジーの刊行に刺激された阿下氏が、2025年5月にX(元twitter)で「名古屋SF描きたいよね」とつぶやいたことらしい。地域SFアンソロジーにおいても名古屋飛ばしが行われていたのだから、氏の憤懣ももっともなことである。これに2万ビュー越えの反応があり作成が決定。原稿募集をかけたところ、全23編が集まり、そこから厳選した13編を本書に収録したとのこと。
それにしても、名古屋SFアンソロジーがなかなか編まれなかったのは、名古屋という土地の持つ無個性さ、関東と関西という二極に分かれた文化的特性のどちらでもありどちらでもないという曖昧さが要因の一つにあることは間違いないだろう。人間六度氏が解説に書き、トークイベントでも述べていたように、名古屋には「何もない」とよく言われる。それはある程度満たされているために「帰属意識に縋らなければならない逼迫感がないのだ」(本書解説)と氏は述べているが、おそらくそれは正しい。古い作品になるが、同じく名古屋出身の作家、清水義範が名作「蕎麦ときしめん」(1984)の中で、名古屋人を「きしめん」にたとえ、個人(めん)が社会(汁)の中にどっぷりとつかっており個が喪失し社会へ埋没していると指摘し(汁と分離された「蕎麦」はもちろん東京人のアイデンティティ確立を示す)、その要因として、土地が豊かで食うことに困らず、住環境にも恵まれていることを挙げていたことが思い起こされる。40年前の作品ではあるが、その主張は今でも有効ではないだろうか。
これをSFと結びつけて考えれば、満たされているがゆえに、SFの本質的な特質と言うべき「進取の気性」や「フロンティア精神」と絡んでこないのが、名古屋という地域の特色であり、名古屋SFの難しさであったかもしれない。
さて、本書に集められた名古屋SFは、その困難をどのように乗り越えているのか、または特に乗り越えようとすることもなく自然体で名古屋とSFを結びつけているのか、順に見ていきたい。
※「タイトル」作者【名古屋のトピックス×SF的アイディア】を示したうえで、感想を記した。
「お前の血は何味噌だ」秋待諷月【赤味噌・赤だし味噌×新型ウイルス】
新型のMISOウイルスにより血液中に「血噌(けっそ)」という成分が新たに作られ、その感染者が味噌依存症になるというユニークなアイディアをもとに展開される切れ味鋭い奇想SF。患者が普段摂取している味噌の種類によって、依存する味噌の種類も決まるので、当然名古屋を中心とする東海地方在住民は「赤味噌」または「赤だし味噌」(両者は異なるので要注意)依存となる。これだけでも十分面白いのに、さらに死亡率の高い新型ウイルスとMISOウイルスを組み合わせることで、何にでも赤味噌をかけると揶揄されていた名古屋人の最底辺カーストを上位へとひっくり返したところに本篇の真骨頂があると言えよう。SF的な装置を使うことで、普段から優越感と劣等感が入り混じっている名古屋人の複雑な気持ちを見事にすくい取ってみせた、痛快な作品だ。
「聖なる干潟とサンセット」坂乃水【藤前干潟×〈渡り〉】
豊かな生態系を保持してきた藤前干潟の保存運動に関わった老婦人の思い出を「私」が聞くという構成を通じて、干潟保存の意義と個人の想いを残すことの意味が重ね合わされていく……。本書には、実際の名古屋の史跡や歴史を語ることに主眼を置いた作品がいくつかあるが、本篇もその一つとなる。『万葉集』で干潟の美しさを詠んだ高市黒人の和歌を引きながら、落ち着いた語り口で読ませる作品だ。SF度は低いものの、最後に、ある仕掛けが施されている。何の〈渡り〉かは実際に読んで確かめてみてほしい。
「まあいっぺん天下布武」太田忠司【織田信長×AI・クローン技術】
題名通り「まあいっぺん天下布武」というスローガンを無意味に繰り返して当選した名古屋市長(名古屋弁丸出しの下品な口調に、名古屋市民はK村元市長を連想せざるを得ない)に、AIとクローン技術を使って織田信長が現代に甦ったら……というアイディアを絡めて描いた作品。政治家の愚かさを思い切り皮肉ってみせる手際の鮮やかさは流石の一言。
「アイを受け取るもの」阿下潮【ナナちゃん人形×怪獣】
突然謎の怪獣が名古屋に飛来し、ミッドランドスクエアに取りついてビルを蹴って跳躍する。ビルは大名古屋ビルヂングに倒れ込み、次々とゲートタワー、セントラルタワーが崩壊していく……。本書中最大のスペクタクルが展開していくが、むしろ作者の狙いはそこにはなく、すべての人々を精神的に飲み込もうとする怪獣に対峙し、一体化を拒否する「ナナちゃん人形」の雄姿と強靭な意思を描くことにある。それぞれの独立した個性を大切にしていこう、その象徴としてのナナちゃん人形を大事にしていこうという作者の想いがひしひしと伝わってくる好篇である。
「ギャラクティック☆レイヤー」日比野心労【コスプレサミット×異星人】
名古屋では毎年大須と栄で「世界コスプレサミット」が開かれているが、これが宇宙規模に拡大されたら……という発想で描かれた楽しい作品。名古屋で開催される「銀河コスプレサミット」において、タコ型異星人による審査妨害が発生。運営委員会は改善のため、還暦を迎えた往年の名コスプレイヤー2名を招く……。作者はコスプレ好きの高校生がご当地ヒーロー復活に挑む「県北戦士アガキタイオン」(舞台は新潟)を執筆しており、本篇に登場する「アガキタイオン」のコスプレは、この自作をもとにしているようだ。とは言え、食い逃げ犯の宇宙海賊の名前などに名古屋ネタもしっかり入れており、経緯を知らなくとも楽しめる作品に仕上がっている。
「天満宮の封印」武石勝義【上野天満宮×アマツカミとの戦い】
ひょっとして名古屋市民以外には余り知られていないかもしれないが、平安時代に安倍清明は一時名古屋に住んでいたことがあると言われており、千種区の清明神社や清明町という地名にその名残がある。また、その際に清明一族が菅原道真の霊を祀った神社を建て、それが現在も千種区にある上野天満宮だと伝わっている。この伝承を踏まえて、今も続く人類とアマツカミとの争いを描き、日本中を駆け回ってアマツカミを封印してきた父が、名古屋に家を建てた息子に自らの人生を語るというのが本篇の構成である。父と子のすれ違いが現代風で面白く、本来は降臨するはずだった神の名前など細かな設定もよく出来ている。
「人鳥たちの四半世紀天下」七名菜々【名古屋港水族館×気候変動】
2025年、突如地球に氷河期が訪れるが、名古屋港水族館のペンギンたちは生き延び、天へのメッセージを送る……。科学的な設定や説得力は皆無なので、一つの寓話として読むべき作品だろう。かわいいペンギンたちの会話は存分に楽しめる。
「かつて名古屋は地上にあった」偲凪生【地下街×気候変動】
こちらは逆に暑くなりすぎて地下に避難した名古屋市民を描いている。2030年に地下に移住してから20年が過ぎ、新卒公務員の主人公は地上課に配属され、研修を受ける。地上には土を食べる異種族ツチクレが生息しており、公務員はヒーローとともに異種族と戦うのだ……。楽しめる作品ではあるが、ツチクレとは何か、200万市民はどのように地下に移住したのかなど、もう少し読者に説明が欲しかった。
「名古屋金シャチ盗難伝説」山本倫木【名古屋城×指向性エネルギー波】
岐阜を愛する岐大生が、名古屋城の金シャチを岐阜城に据えつけようと画策する話。少し未来の設定だが、この時代の金シャチは尻尾から水を噴出するように細工されている。これは実際にありそうな話で、面白いと思わされた。岐阜城に金シャチが取りつけられた(ように見える)場面では、ハイ・テクノロジーが効果的に使われている。
「本山原人の逆襲」淡中圏【本山原人×名大農学部の拡張】
名古屋大学に通う学生が広いキャンパス内を歩き回る話で、SF度は薄い。あえて言えば、近未来の名大農学部が東山動植物園を併合し実験動植物が流出したという設定にSFらしさがあると言えばあるが、それが間接的にしか物語に関わってこない点には不満が残る。本山原人というのは、1980年代前半に名古屋大学(当時の最寄り駅は「本山」)にうようよしていたファッション・センス皆無の男子大学生を揶揄して言った言葉。それももはや時の彼方の出来事であって、よくもまあ、このような言葉を引っ張り出してきたなと、当時本山原人と言われた筆者にとっては大変感慨深いものがある。第15回創元SF短編賞受賞の稲田一声氏が名大出身ということを知れたのは収穫であった。
「激走ドラゴンロード超!!」十三不塔【基幹バスレーン×交通寄生体】
名古屋には全国でも珍しく、市バスが道路の中央を走るバス路線が存在する。それが本篇の舞台である名古屋市営バス基幹2号系統、通称「基幹バスレーン」である。バスの乗客にとっては遅延なく進む路線であり、メリットが大きいが、横を走る自動車にとっては右折がしづらく、またレーンが空いていると自動車の出入りが常に発生し、危険極まりない。作中では、これを〈不条理な交通システム〉と呼び、ドライバーの混乱や焦燥などのネガティブな感情を取り込む交通寄生体なる存在を仮定しているが、これは実に秀逸な発想で、全国に存在する〈不条理な交通システム〉には必ず交通寄生体が裏にいるのだと言われると、なるほどそうかと納得してしまうほどの説得力がある。接客が苦手な女性タクシードライバー、むっちゃんのキャラも味があり、奇想SFとしてはもちろん、タイムトラベルを絡めた亡き夫をめぐる人情ものとしても読める、実に楽しい作品だ。
「ヴァイパーインフレーション」萬朶維基【蛇池(じゃいけ)×くずし字解読支援AI】
名古屋市西区比良には織田信長が大蛇を探したが見つけられなかったという蛇池(じゃいけ)及び蛇池神社がある。作者は、この蛇池伝説と、くずし字を読むための支援AI「ヨンデルー」とを効果的に結びつけて、ぞっとする物語を紡いでみせる。歴史小説の部分と支援AIの科学的アイディアがともにしっかりと描かれているため、現実に浮かび上がる大蛇にリアリティが生まれ、話に説得力がある。作者の筆力をうかがうことができる一作だ。
「セーラー服の白線が伸びる先に」長尾たぐい【熱田空襲×未来への思い】
第二次大戦時の空襲被害と言えば、1945年3月10日の東京大空襲(死者10万人)がまず挙げられるが、名古屋で言えば、1945年6月9日の熱田空襲(死者2000人)を忘れることはできない。一度出た警報が解除されて皆が職場に戻ったあとの突然の空襲であったこともあり、わずか10分足らずの間に2000人近くの死者が出たと言われている。工場に動員されていた多数の学生の犠牲があったことも記憶すべきだ。本篇は、熱田の軍需工場を回診している女医と動員された学徒との交流を描く。丁寧に取材したと思われ、4月から空襲当日までの日々が見事に再現されている。女医が亡くした娘の面影を回診先の女子高生に重ね、自由と未来について語る場面にはとりわけ心を打たれた。過去の上に現在は作られる。過去が見た未来に、果たして現在はふさわしい時代になっているのか、過去に逆行してはいないかを深く問いかけているように思われた。
以上13編、奇想あり、寓話あり、特撮あり、歴史あり、戦争ありで、実にバラエティに富んだアンソロジーとなっている。名古屋のトピックスもふんだんに盛り込まれ、名古屋を知らない人への名古屋案内といった役割も果たしてくれそうだ。集中のベストを選ぶとすると、奇想SFとしての完成度の高さから「お前の血は何味噌だ」「激走ドラゴンロード超!!」の二篇、戦争の重みが伝わる「セーラー服の白線が伸びる先に」の一篇、計三篇となるだろうか。もちろん他の作品も十分楽しめるので、ぜひご一読をお勧めしたい。
今回アンソロジーでは取り上げられなかった名古屋ネタもまだまだあると思う。食べ物関係で言えば、ウナギの味変が楽しめる伝統の「ひつまぶし」、藤井聡太がおやつに食したことで一躍名を挙げた「ぴよりん」。建築関係なら、トークライブの舞台となった「揚輝荘」、朝ドラ『虎に翼』のロケ地にも選ばれた「名古屋市政資料館」、川上貞奴邸を移築した「ぶんかのみち二葉館」。お寺関係では、日本で唯一釈迦の仏舎利(遺骨)を収めている「日泰寺」、高さ十五メートルを誇る名古屋大仏で有名な「桃厳寺」、岡本太郎作成、大胆なデザインが観る人の度肝を抜く「歓喜」という鐘がある「久国寺」など、小説のネタになりそうな題材が名古屋には多数ある。トークライブにて刊行が予告された『名古屋SFアンソロジー2(2とつけるとよくないらしいので、多分別タイトルになる予定)』に大いに期待したい。
本書刊行のきっかけは、『大阪SFアンソロジー』(Kaguya Books/2023)『京都SFアンソロジー』(同/2023)『東京下町SFアンソロジー』(同/2024)などの地域SFアンソロジーの刊行に刺激された阿下氏が、2025年5月にX(元twitter)で「名古屋SF描きたいよね」とつぶやいたことらしい。地域SFアンソロジーにおいても名古屋飛ばしが行われていたのだから、氏の憤懣ももっともなことである。これに2万ビュー越えの反応があり作成が決定。原稿募集をかけたところ、全23編が集まり、そこから厳選した13編を本書に収録したとのこと。
それにしても、名古屋SFアンソロジーがなかなか編まれなかったのは、名古屋という土地の持つ無個性さ、関東と関西という二極に分かれた文化的特性のどちらでもありどちらでもないという曖昧さが要因の一つにあることは間違いないだろう。人間六度氏が解説に書き、トークイベントでも述べていたように、名古屋には「何もない」とよく言われる。それはある程度満たされているために「帰属意識に縋らなければならない逼迫感がないのだ」(本書解説)と氏は述べているが、おそらくそれは正しい。古い作品になるが、同じく名古屋出身の作家、清水義範が名作「蕎麦ときしめん」(1984)の中で、名古屋人を「きしめん」にたとえ、個人(めん)が社会(汁)の中にどっぷりとつかっており個が喪失し社会へ埋没していると指摘し(汁と分離された「蕎麦」はもちろん東京人のアイデンティティ確立を示す)、その要因として、土地が豊かで食うことに困らず、住環境にも恵まれていることを挙げていたことが思い起こされる。40年前の作品ではあるが、その主張は今でも有効ではないだろうか。
これをSFと結びつけて考えれば、満たされているがゆえに、SFの本質的な特質と言うべき「進取の気性」や「フロンティア精神」と絡んでこないのが、名古屋という地域の特色であり、名古屋SFの難しさであったかもしれない。
さて、本書に集められた名古屋SFは、その困難をどのように乗り越えているのか、または特に乗り越えようとすることもなく自然体で名古屋とSFを結びつけているのか、順に見ていきたい。
※「タイトル」作者【名古屋のトピックス×SF的アイディア】を示したうえで、感想を記した。
「お前の血は何味噌だ」秋待諷月【赤味噌・赤だし味噌×新型ウイルス】
新型のMISOウイルスにより血液中に「血噌(けっそ)」という成分が新たに作られ、その感染者が味噌依存症になるというユニークなアイディアをもとに展開される切れ味鋭い奇想SF。患者が普段摂取している味噌の種類によって、依存する味噌の種類も決まるので、当然名古屋を中心とする東海地方在住民は「赤味噌」または「赤だし味噌」(両者は異なるので要注意)依存となる。これだけでも十分面白いのに、さらに死亡率の高い新型ウイルスとMISOウイルスを組み合わせることで、何にでも赤味噌をかけると揶揄されていた名古屋人の最底辺カーストを上位へとひっくり返したところに本篇の真骨頂があると言えよう。SF的な装置を使うことで、普段から優越感と劣等感が入り混じっている名古屋人の複雑な気持ちを見事にすくい取ってみせた、痛快な作品だ。
「聖なる干潟とサンセット」坂乃水【藤前干潟×〈渡り〉】
豊かな生態系を保持してきた藤前干潟の保存運動に関わった老婦人の思い出を「私」が聞くという構成を通じて、干潟保存の意義と個人の想いを残すことの意味が重ね合わされていく……。本書には、実際の名古屋の史跡や歴史を語ることに主眼を置いた作品がいくつかあるが、本篇もその一つとなる。『万葉集』で干潟の美しさを詠んだ高市黒人の和歌を引きながら、落ち着いた語り口で読ませる作品だ。SF度は低いものの、最後に、ある仕掛けが施されている。何の〈渡り〉かは実際に読んで確かめてみてほしい。
「まあいっぺん天下布武」太田忠司【織田信長×AI・クローン技術】
題名通り「まあいっぺん天下布武」というスローガンを無意味に繰り返して当選した名古屋市長(名古屋弁丸出しの下品な口調に、名古屋市民はK村元市長を連想せざるを得ない)に、AIとクローン技術を使って織田信長が現代に甦ったら……というアイディアを絡めて描いた作品。政治家の愚かさを思い切り皮肉ってみせる手際の鮮やかさは流石の一言。
「アイを受け取るもの」阿下潮【ナナちゃん人形×怪獣】
突然謎の怪獣が名古屋に飛来し、ミッドランドスクエアに取りついてビルを蹴って跳躍する。ビルは大名古屋ビルヂングに倒れ込み、次々とゲートタワー、セントラルタワーが崩壊していく……。本書中最大のスペクタクルが展開していくが、むしろ作者の狙いはそこにはなく、すべての人々を精神的に飲み込もうとする怪獣に対峙し、一体化を拒否する「ナナちゃん人形」の雄姿と強靭な意思を描くことにある。それぞれの独立した個性を大切にしていこう、その象徴としてのナナちゃん人形を大事にしていこうという作者の想いがひしひしと伝わってくる好篇である。
「ギャラクティック☆レイヤー」日比野心労【コスプレサミット×異星人】
名古屋では毎年大須と栄で「世界コスプレサミット」が開かれているが、これが宇宙規模に拡大されたら……という発想で描かれた楽しい作品。名古屋で開催される「銀河コスプレサミット」において、タコ型異星人による審査妨害が発生。運営委員会は改善のため、還暦を迎えた往年の名コスプレイヤー2名を招く……。作者はコスプレ好きの高校生がご当地ヒーロー復活に挑む「県北戦士アガキタイオン」(舞台は新潟)を執筆しており、本篇に登場する「アガキタイオン」のコスプレは、この自作をもとにしているようだ。とは言え、食い逃げ犯の宇宙海賊の名前などに名古屋ネタもしっかり入れており、経緯を知らなくとも楽しめる作品に仕上がっている。
「天満宮の封印」武石勝義【上野天満宮×アマツカミとの戦い】
ひょっとして名古屋市民以外には余り知られていないかもしれないが、平安時代に安倍清明は一時名古屋に住んでいたことがあると言われており、千種区の清明神社や清明町という地名にその名残がある。また、その際に清明一族が菅原道真の霊を祀った神社を建て、それが現在も千種区にある上野天満宮だと伝わっている。この伝承を踏まえて、今も続く人類とアマツカミとの争いを描き、日本中を駆け回ってアマツカミを封印してきた父が、名古屋に家を建てた息子に自らの人生を語るというのが本篇の構成である。父と子のすれ違いが現代風で面白く、本来は降臨するはずだった神の名前など細かな設定もよく出来ている。
「人鳥たちの四半世紀天下」七名菜々【名古屋港水族館×気候変動】
2025年、突如地球に氷河期が訪れるが、名古屋港水族館のペンギンたちは生き延び、天へのメッセージを送る……。科学的な設定や説得力は皆無なので、一つの寓話として読むべき作品だろう。かわいいペンギンたちの会話は存分に楽しめる。
「かつて名古屋は地上にあった」偲凪生【地下街×気候変動】
こちらは逆に暑くなりすぎて地下に避難した名古屋市民を描いている。2030年に地下に移住してから20年が過ぎ、新卒公務員の主人公は地上課に配属され、研修を受ける。地上には土を食べる異種族ツチクレが生息しており、公務員はヒーローとともに異種族と戦うのだ……。楽しめる作品ではあるが、ツチクレとは何か、200万市民はどのように地下に移住したのかなど、もう少し読者に説明が欲しかった。
「名古屋金シャチ盗難伝説」山本倫木【名古屋城×指向性エネルギー波】
岐阜を愛する岐大生が、名古屋城の金シャチを岐阜城に据えつけようと画策する話。少し未来の設定だが、この時代の金シャチは尻尾から水を噴出するように細工されている。これは実際にありそうな話で、面白いと思わされた。岐阜城に金シャチが取りつけられた(ように見える)場面では、ハイ・テクノロジーが効果的に使われている。
「本山原人の逆襲」淡中圏【本山原人×名大農学部の拡張】
名古屋大学に通う学生が広いキャンパス内を歩き回る話で、SF度は薄い。あえて言えば、近未来の名大農学部が東山動植物園を併合し実験動植物が流出したという設定にSFらしさがあると言えばあるが、それが間接的にしか物語に関わってこない点には不満が残る。本山原人というのは、1980年代前半に名古屋大学(当時の最寄り駅は「本山」)にうようよしていたファッション・センス皆無の男子大学生を揶揄して言った言葉。それももはや時の彼方の出来事であって、よくもまあ、このような言葉を引っ張り出してきたなと、当時本山原人と言われた筆者にとっては大変感慨深いものがある。第15回創元SF短編賞受賞の稲田一声氏が名大出身ということを知れたのは収穫であった。
「激走ドラゴンロード超!!」十三不塔【基幹バスレーン×交通寄生体】
名古屋には全国でも珍しく、市バスが道路の中央を走るバス路線が存在する。それが本篇の舞台である名古屋市営バス基幹2号系統、通称「基幹バスレーン」である。バスの乗客にとっては遅延なく進む路線であり、メリットが大きいが、横を走る自動車にとっては右折がしづらく、またレーンが空いていると自動車の出入りが常に発生し、危険極まりない。作中では、これを〈不条理な交通システム〉と呼び、ドライバーの混乱や焦燥などのネガティブな感情を取り込む交通寄生体なる存在を仮定しているが、これは実に秀逸な発想で、全国に存在する〈不条理な交通システム〉には必ず交通寄生体が裏にいるのだと言われると、なるほどそうかと納得してしまうほどの説得力がある。接客が苦手な女性タクシードライバー、むっちゃんのキャラも味があり、奇想SFとしてはもちろん、タイムトラベルを絡めた亡き夫をめぐる人情ものとしても読める、実に楽しい作品だ。
「ヴァイパーインフレーション」萬朶維基【蛇池(じゃいけ)×くずし字解読支援AI】
名古屋市西区比良には織田信長が大蛇を探したが見つけられなかったという蛇池(じゃいけ)及び蛇池神社がある。作者は、この蛇池伝説と、くずし字を読むための支援AI「ヨンデルー」とを効果的に結びつけて、ぞっとする物語を紡いでみせる。歴史小説の部分と支援AIの科学的アイディアがともにしっかりと描かれているため、現実に浮かび上がる大蛇にリアリティが生まれ、話に説得力がある。作者の筆力をうかがうことができる一作だ。
「セーラー服の白線が伸びる先に」長尾たぐい【熱田空襲×未来への思い】
第二次大戦時の空襲被害と言えば、1945年3月10日の東京大空襲(死者10万人)がまず挙げられるが、名古屋で言えば、1945年6月9日の熱田空襲(死者2000人)を忘れることはできない。一度出た警報が解除されて皆が職場に戻ったあとの突然の空襲であったこともあり、わずか10分足らずの間に2000人近くの死者が出たと言われている。工場に動員されていた多数の学生の犠牲があったことも記憶すべきだ。本篇は、熱田の軍需工場を回診している女医と動員された学徒との交流を描く。丁寧に取材したと思われ、4月から空襲当日までの日々が見事に再現されている。女医が亡くした娘の面影を回診先の女子高生に重ね、自由と未来について語る場面にはとりわけ心を打たれた。過去の上に現在は作られる。過去が見た未来に、果たして現在はふさわしい時代になっているのか、過去に逆行してはいないかを深く問いかけているように思われた。
以上13編、奇想あり、寓話あり、特撮あり、歴史あり、戦争ありで、実にバラエティに富んだアンソロジーとなっている。名古屋のトピックスもふんだんに盛り込まれ、名古屋を知らない人への名古屋案内といった役割も果たしてくれそうだ。集中のベストを選ぶとすると、奇想SFとしての完成度の高さから「お前の血は何味噌だ」「激走ドラゴンロード超!!」の二篇、戦争の重みが伝わる「セーラー服の白線が伸びる先に」の一篇、計三篇となるだろうか。もちろん他の作品も十分楽しめるので、ぜひご一読をお勧めしたい。
今回アンソロジーでは取り上げられなかった名古屋ネタもまだまだあると思う。食べ物関係で言えば、ウナギの味変が楽しめる伝統の「ひつまぶし」、藤井聡太がおやつに食したことで一躍名を挙げた「ぴよりん」。建築関係なら、トークライブの舞台となった「揚輝荘」、朝ドラ『虎に翼』のロケ地にも選ばれた「名古屋市政資料館」、川上貞奴邸を移築した「ぶんかのみち二葉館」。お寺関係では、日本で唯一釈迦の仏舎利(遺骨)を収めている「日泰寺」、高さ十五メートルを誇る名古屋大仏で有名な「桃厳寺」、岡本太郎作成、大胆なデザインが観る人の度肝を抜く「歓喜」という鐘がある「久国寺」など、小説のネタになりそうな題材が名古屋には多数ある。トークライブにて刊行が予告された『名古屋SFアンソロジー2(2とつけるとよくないらしいので、多分別タイトルになる予定)』に大いに期待したい。
『地球の鏡の中で イアン・ワトスン奇想短編集』イアン・ワトスン(2025年10月/Vitamin SF picopublishing/本城雅之・木下充矢・訳) ― 2025-11-07 21:49
本書は自費出版により刊行されたイアン・ワトスンの短篇集であり、1975年から1990年にかけての7篇を収めている。発行元は〈Vitamin SF picopublishing〉。かつて〈Vitamin SF〉という正会誌を発行していた神戸大学SF研究会のOBから成る団体で、ワトスンにコンタクトをとり、正式に翻訳権を取得しての出版であると言う。翻訳出版全体が沈下傾向にあり、部数が少ないために単価が高くなっている現在、このように従来とは異なる形で海外SFが刊行されることの意義は大変大きく、賞賛すべき偉業と言えるだろう。2020年にも、翻訳権を取得したうえでの自費出版としてキース・ロバーツ『モリー・ゼロ』が翻訳刊行されており(蛸井潔・訳/発行)、このような形での刊行が今後も増えていくのではないか。というか、増えていってほしい。70年代から80年代、90年代にかけての海外SFには、まだまだ埋もれた作品が多くあり、わずかながらかもしれないが、翻訳の需要はあると思われるためである。
さて、ワトスンの翻訳は今までに長篇8冊、短篇集1冊が刊行されているが、近年は翻訳が途絶えていた。2010年に『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された「彼らの生涯の最愛の時」(大森望・訳)を最後に、15年間翻訳されることはなかった。ところが、今年(2025年)になって、アトリエサード発行の雑誌〈ナイトランド・クォータリー〉39号に「慰めの散歩」(大和田始・訳)が掲載され、本書も刊行されるといった具合に、ワトスン祭りとも言うべき様相を呈している。実に喜ばしいことだ。これが一時のもので終わらないように、ぜひとも興味をもった方は、本書を購入して実際に読んでみてほしい。奇才ワトスンの筆の冴えが存分に味わえるはずである。購入先は以下のとおり。
https://booth.pm/ja/items/7532963
それでは、以下収録順に紹介し、コメントをつけていく。
「免疫の夢」(1978年)
イギリスで癌研究に取り組むローゼンは、免疫系が上位システムである心と深く結びついており、免疫系が見せる夢によって癌の発症を予測できると固く信じている。フランスの睡眠研究者ティボーの理論によれば、後橋脳領域は筋肉への夢の信号をオフにする機能をもつため、ここを切除すれば夢がそのまま筋肉へ伝わり、行動として現れる。夢は遺伝子の制御テープであり、癌は遺伝子型の複製を品質管理するために存在するとティボーは言う。ティボーの研究室で実際に後橋脳領域を切除された猫を見せられたローゼンは、自分も後橋脳領域を切除することで、ティボーの理論を実証しようとする。そのためには、フランスやイギリスではなくモロッコに行かなくてはならない。ローゼンは手術の前に、ある恐ろしい行動を取ってしまう……。狂人的な観念に取りつかれた男の悲劇を描いた、いかにもワトスンらしい作品。ブラックライトの中でうごめく猫たちがホラー風味を増している。
「ジェインといっしょに鉱泉室(ポンプ・ルーム)へ」(1975年)
8年前にロマンスが芽生えかけたが、別れてしまったジェインとフレデリック。二級船員だったフレデリックは、今や艦長となり氷山曳航船を率いている。この時代、気温は上昇し大気は汚れ、氷山曳航船が南氷洋から運んでくる氷が大変貴重なものとして国に届けられ、人々に配給される水のもとになっている。配給は鉱泉室(ポンプ・ルーム)で行われるが、上流階級でないジェインと母はいつも混雑する時間を割り当てられている。フレデリックと再会したジェイン母娘は、彼に便宜を計ってもらい、上流階級用の時間に変更してもらう。再びロマンスの予感が漂うが……。ジェインの見ている世界と現実世界との落差が読者に衝撃を与える、プリーストばりの一作。
「帰郷」(1982年)
ソビエト連邦とアメリカの冷戦が続いていた時代。ついにアメリカはあらゆる生き物を強力な放射線で殺戮する「超放射能爆弾(SRB)」をソ連に打ち込み、逆にソ連はあらゆる人工物を消し去ってしまう「社会主義者爆弾(SOB)」をアメリカに打ち込んだ。結果として、ソ連の人々はみな死に絶え、アメリカの物資はすべてなくなってしまう。残されたソビエト海軍の船を使ってアメリカの生存者はソ連へと渡り、そこで生活を始める。ところが、暮らしているうちに、徐々に名前も心もソ連風に変化していき……。強烈な皮肉が炸裂する寓話的な一篇。困窮したアメリカをどこの国も救おうとしないという展開からは、強権を振りかざし自国中心に振る舞うアメリカの一面は当時も今も変わらないことが。
「オオカミの日」(1983年)
イギリスの田舎村に絶滅寸前のオオカミを移住させるが、村の人々はそれを快く思っていない。老婆がオオカミに食われたという孫娘の話を聞いて、真偽を疑う管理官のジョシュアだが、老いたオオカミが目の前に出現し、老婆の姿をその中に見る。ジョシュアは結局はオオカミを射殺してしまうが、オオカミを保護する立場にあるため、そのことは誰にも言えない。赤ずきんの変奏という形をとって、自然と人間の対立を幻想風味で描いた異色作となっている。
「地球の鏡の中で」(1983年)
世界の主要な都市が水没し人口が二十億しかいない未来、人々は眠らないように身体が変容していた。その中でも一日に8時間眠ることができる者は〈眠る人〉と呼ばれ、夢を現実化する能力をもつため、特別待遇を受けている。〈眠る人〉は世界に6人しかいない。主人公のトマス・ダクィーノは7人目の〈眠る人〉であるラウィーノを発見し、ともに暮らすようになるが……。ワトスンの奇想が遺憾なく発揮された一篇で、夢の大規模投射というメインアイディアにはプリースト『ドリームマシン』からの影響も垣間見える。語り手の名が『神学大全』を著し、キリスト教とギリシア自然科学を結合させて後の科学革命の基礎を築いたトマス・アクィナスと同一なのは偶然ではないだろう。〈眠る人〉が行っているのは、いわゆるキリスト教的な奇蹟であり、そこから啓示を受けてトマスが作ろうとしているのは、エッフェル塔にも似た近代的建造物なのである。
「スターリンの涙」(1990年)
地図作成部に勤務する検閲官ワレンチン大佐は検閲局長ミロフから二年以内に本当の全国地図を作成することを命じられる。語学に堪能な地理学院卒業生グルーシャとともに仕事を始めるが、期間内に任務を達成することは困難だ。実は、オリジナルの地図はすべて裁断されて残っておらず、作成部が作って来たのは偽の地図に過ぎなかった。そして、偽の地図の死角に当たる場所に、時間を超えた不思議な空間が存在する。そこでは若返ることができたり、体内からエクトプラズムを発生する女性がいたりするのだ。行方不明となったグルーシャを探すため、ワレンチンとミロフはその空間に入り込み、不思議な形で死と再生を経験する……。表面に模様を描いた卵が果たす象徴的な役割が強い印象を残す作品だ。
「アーヤトッラーの眼」(1990年)
イラクとの戦争で右目と顔の一部を失ったイラン人のアリは、戦争終結後に亡くなった指導者アーヤトッラーの遺体から人々が屍衣をはぎ取るのに交じって偶然片目をつかみ、その目玉を持って来てしまう。ホルマリン漬けにして目を保存するうちに、アリは〈悪魔の作家〉を探すプロジェクトに参加し、人工眼を右目に装着して、人工衛星からの映像を見るようになる。ようやくスコットランド沖の島で作家を見つけ、そこへ向かうが……。アーヤトッラーとは1989年に亡くなったイランの指導者ホメイニ師の尊称であり、〈悪魔の作家〉とは、ホメイニ師が亡くなる直前にイスラム教を揶揄しているとして死刑宣告を与えた作家のサルマン・ルシュディ(ラシュディ)を指していることは明らかだ。この死刑宣告はファトワー(布告、勧告)として出され、出した本人しか撤回できない。ホメイニは宣告したまま亡くなってしまったので、死刑宣告は今でも有効であると考える者がおり、実際に2022年にルシュディはイスラム教徒に襲われ、瀕死の重傷を負い、片目を失明した。ワトスンの想像力が現実に先行した展開を示していることが実に興味深い。ただし、襲撃者のとった行動は真逆であり、そこにワトスンなりの宗教観がにじみ出ていると言えるだろう。
以上7篇、いずれも大変内容の密度が濃く、表面的に読んだだけでは内容が理解できないものが多い。じっくりと読んで考え、事実を調べて小説と照合して初めて、こういうことかなと腑に落ちる。または、もやもやが残ったままになる。しかし、実はそれこそが小説を読む醍醐味ではないのか。1980年に『超低速時間移行機』を読んで大きな衝撃を受けて以来、ワトスンは自分にとって、常に重要な作家であり続けてきた。こうして、久しぶりにまとまった数の作品、しかも歯ごたえ十分の作品を読んで、ワトスンらしさを存分に味わうことができた。巻末のリストによれば、1990年以降も、ワトスンは多くの長篇とともに年に数篇の短篇を現在に至るまで発表してきたことがわかる。長篇は難しいと思うので、ぜひとも本書の刊行者=訳者には、1990年以降の短篇も訳していってほしい。それだけの価値はある作家だと思うのは筆者だけではないはずだ。
さて、ワトスンの翻訳は今までに長篇8冊、短篇集1冊が刊行されているが、近年は翻訳が途絶えていた。2010年に『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された「彼らの生涯の最愛の時」(大森望・訳)を最後に、15年間翻訳されることはなかった。ところが、今年(2025年)になって、アトリエサード発行の雑誌〈ナイトランド・クォータリー〉39号に「慰めの散歩」(大和田始・訳)が掲載され、本書も刊行されるといった具合に、ワトスン祭りとも言うべき様相を呈している。実に喜ばしいことだ。これが一時のもので終わらないように、ぜひとも興味をもった方は、本書を購入して実際に読んでみてほしい。奇才ワトスンの筆の冴えが存分に味わえるはずである。購入先は以下のとおり。
https://booth.pm/ja/items/7532963
それでは、以下収録順に紹介し、コメントをつけていく。
「免疫の夢」(1978年)
イギリスで癌研究に取り組むローゼンは、免疫系が上位システムである心と深く結びついており、免疫系が見せる夢によって癌の発症を予測できると固く信じている。フランスの睡眠研究者ティボーの理論によれば、後橋脳領域は筋肉への夢の信号をオフにする機能をもつため、ここを切除すれば夢がそのまま筋肉へ伝わり、行動として現れる。夢は遺伝子の制御テープであり、癌は遺伝子型の複製を品質管理するために存在するとティボーは言う。ティボーの研究室で実際に後橋脳領域を切除された猫を見せられたローゼンは、自分も後橋脳領域を切除することで、ティボーの理論を実証しようとする。そのためには、フランスやイギリスではなくモロッコに行かなくてはならない。ローゼンは手術の前に、ある恐ろしい行動を取ってしまう……。狂人的な観念に取りつかれた男の悲劇を描いた、いかにもワトスンらしい作品。ブラックライトの中でうごめく猫たちがホラー風味を増している。
「ジェインといっしょに鉱泉室(ポンプ・ルーム)へ」(1975年)
8年前にロマンスが芽生えかけたが、別れてしまったジェインとフレデリック。二級船員だったフレデリックは、今や艦長となり氷山曳航船を率いている。この時代、気温は上昇し大気は汚れ、氷山曳航船が南氷洋から運んでくる氷が大変貴重なものとして国に届けられ、人々に配給される水のもとになっている。配給は鉱泉室(ポンプ・ルーム)で行われるが、上流階級でないジェインと母はいつも混雑する時間を割り当てられている。フレデリックと再会したジェイン母娘は、彼に便宜を計ってもらい、上流階級用の時間に変更してもらう。再びロマンスの予感が漂うが……。ジェインの見ている世界と現実世界との落差が読者に衝撃を与える、プリーストばりの一作。
「帰郷」(1982年)
ソビエト連邦とアメリカの冷戦が続いていた時代。ついにアメリカはあらゆる生き物を強力な放射線で殺戮する「超放射能爆弾(SRB)」をソ連に打ち込み、逆にソ連はあらゆる人工物を消し去ってしまう「社会主義者爆弾(SOB)」をアメリカに打ち込んだ。結果として、ソ連の人々はみな死に絶え、アメリカの物資はすべてなくなってしまう。残されたソビエト海軍の船を使ってアメリカの生存者はソ連へと渡り、そこで生活を始める。ところが、暮らしているうちに、徐々に名前も心もソ連風に変化していき……。強烈な皮肉が炸裂する寓話的な一篇。困窮したアメリカをどこの国も救おうとしないという展開からは、強権を振りかざし自国中心に振る舞うアメリカの一面は当時も今も変わらないことが。
「オオカミの日」(1983年)
イギリスの田舎村に絶滅寸前のオオカミを移住させるが、村の人々はそれを快く思っていない。老婆がオオカミに食われたという孫娘の話を聞いて、真偽を疑う管理官のジョシュアだが、老いたオオカミが目の前に出現し、老婆の姿をその中に見る。ジョシュアは結局はオオカミを射殺してしまうが、オオカミを保護する立場にあるため、そのことは誰にも言えない。赤ずきんの変奏という形をとって、自然と人間の対立を幻想風味で描いた異色作となっている。
「地球の鏡の中で」(1983年)
世界の主要な都市が水没し人口が二十億しかいない未来、人々は眠らないように身体が変容していた。その中でも一日に8時間眠ることができる者は〈眠る人〉と呼ばれ、夢を現実化する能力をもつため、特別待遇を受けている。〈眠る人〉は世界に6人しかいない。主人公のトマス・ダクィーノは7人目の〈眠る人〉であるラウィーノを発見し、ともに暮らすようになるが……。ワトスンの奇想が遺憾なく発揮された一篇で、夢の大規模投射というメインアイディアにはプリースト『ドリームマシン』からの影響も垣間見える。語り手の名が『神学大全』を著し、キリスト教とギリシア自然科学を結合させて後の科学革命の基礎を築いたトマス・アクィナスと同一なのは偶然ではないだろう。〈眠る人〉が行っているのは、いわゆるキリスト教的な奇蹟であり、そこから啓示を受けてトマスが作ろうとしているのは、エッフェル塔にも似た近代的建造物なのである。
「スターリンの涙」(1990年)
地図作成部に勤務する検閲官ワレンチン大佐は検閲局長ミロフから二年以内に本当の全国地図を作成することを命じられる。語学に堪能な地理学院卒業生グルーシャとともに仕事を始めるが、期間内に任務を達成することは困難だ。実は、オリジナルの地図はすべて裁断されて残っておらず、作成部が作って来たのは偽の地図に過ぎなかった。そして、偽の地図の死角に当たる場所に、時間を超えた不思議な空間が存在する。そこでは若返ることができたり、体内からエクトプラズムを発生する女性がいたりするのだ。行方不明となったグルーシャを探すため、ワレンチンとミロフはその空間に入り込み、不思議な形で死と再生を経験する……。表面に模様を描いた卵が果たす象徴的な役割が強い印象を残す作品だ。
「アーヤトッラーの眼」(1990年)
イラクとの戦争で右目と顔の一部を失ったイラン人のアリは、戦争終結後に亡くなった指導者アーヤトッラーの遺体から人々が屍衣をはぎ取るのに交じって偶然片目をつかみ、その目玉を持って来てしまう。ホルマリン漬けにして目を保存するうちに、アリは〈悪魔の作家〉を探すプロジェクトに参加し、人工眼を右目に装着して、人工衛星からの映像を見るようになる。ようやくスコットランド沖の島で作家を見つけ、そこへ向かうが……。アーヤトッラーとは1989年に亡くなったイランの指導者ホメイニ師の尊称であり、〈悪魔の作家〉とは、ホメイニ師が亡くなる直前にイスラム教を揶揄しているとして死刑宣告を与えた作家のサルマン・ルシュディ(ラシュディ)を指していることは明らかだ。この死刑宣告はファトワー(布告、勧告)として出され、出した本人しか撤回できない。ホメイニは宣告したまま亡くなってしまったので、死刑宣告は今でも有効であると考える者がおり、実際に2022年にルシュディはイスラム教徒に襲われ、瀕死の重傷を負い、片目を失明した。ワトスンの想像力が現実に先行した展開を示していることが実に興味深い。ただし、襲撃者のとった行動は真逆であり、そこにワトスンなりの宗教観がにじみ出ていると言えるだろう。
以上7篇、いずれも大変内容の密度が濃く、表面的に読んだだけでは内容が理解できないものが多い。じっくりと読んで考え、事実を調べて小説と照合して初めて、こういうことかなと腑に落ちる。または、もやもやが残ったままになる。しかし、実はそれこそが小説を読む醍醐味ではないのか。1980年に『超低速時間移行機』を読んで大きな衝撃を受けて以来、ワトスンは自分にとって、常に重要な作家であり続けてきた。こうして、久しぶりにまとまった数の作品、しかも歯ごたえ十分の作品を読んで、ワトスンらしさを存分に味わうことができた。巻末のリストによれば、1990年以降も、ワトスンは多くの長篇とともに年に数篇の短篇を現在に至るまで発表してきたことがわかる。長篇は難しいと思うので、ぜひとも本書の刊行者=訳者には、1990年以降の短篇も訳していってほしい。それだけの価値はある作家だと思うのは筆者だけではないはずだ。
『嘘つき姫』坂崎かおる(2024年3月/河出書房新社) ― 2025-08-01 10:03
本書は、二〇二〇年に「リモート」で第1回かぐやSFコンテストの審査員特別賞を受賞し、以後多くの文学賞で受賞・入賞を果たした作者による第一作品集である。
事故で身体が動かないため、人型ロボットの筐体にリモートで接続された男子中学生を主人公にした「リモート」、戦場で二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ兵士の物語「リトル・アーカイヴス」など、近未来でのヒトと機械との関わりを描いた作品から、十九世紀末、電気が実用化された頃のアメリカで、電気椅子についての所見を蓄えるため、決して死なない〈魔女〉がサーカスの見世物の形で何度も処刑される「ニューヨークの魔女」、一九六二年にキューバ危機が訪れたアメリカの田舎町で、ロバによく似た生き物〈D〉の一人が虐待を受ける「ファーサイド」、電信柱を恋をした女性の話「電信柱より」など、象徴的かつ寓話的な作品まで、著者は様々な題材や主題で読者を惹きつける。文章は平易で端正、無駄がなく読みやすい。つるつる読めるが、読み終えたあとに余韻が残る。響きがある。そんな作品集である。
とりわけ印象に残ったのが、表題作「嘘つき姫」と、書き下ろし「私のつまと、私のはは」の二編。前者は一九四〇年、ドイツ軍が侵攻してきたフランスにおいて、母の死により孤児となったマリーと、その直前にマリーの母に救われたエマの二人が姉妹を偽装し、戦火の中を生き延びていく物語。嘘をつかねば生きていけない運命のもと、マリーのついた嘘と、エマのついた嘘が交錯し、複雑に絡み合う。手記の形をとっているため、読者もまた二人の嘘に翻弄され、小出しにされる真実に戦慄する。ネタバレになるので詳しく書けないが、真実が直接描かれていないだけに、より想像力が刺激され、恐ろしい。この手法は、坂崎作品のあちこちで見られるものだ。「あーちゃんはかあいそうでかあいい」のあーちゃんは結末で何をしたのか。扉の向こうには何があるのか。想像するしかないのだが、これは結構怖いことだ。本編における〈嘘つき姫〉はマリーなのか、エマなのか、それとも両方を指すのか。2章がエマの嘘で、1章がマリーの嘘、3章が真実という一応の構成が見てとれるが、これも疑い出せばキリがない。いずれにせよ、嘘の果てに見いだされた、エマのマリーに向けての愛、これは信じるしかないものだろう。
「私のつまと、私のはは」は、「リモート」同様、近未来の日本を舞台にしたテクノロジーものだが、拡張現実装置(ARグラス)を身につけ、子育てのシミュレーションを行うレズビアンのカップルを主役にしている点に新鮮さがある。カップルには子育てに対する温度差があり、デザイナーの理子は、パンフレットを作る仕事の一環として子育て体験キット〈ひよひよ〉のデモ版を送られ、嫌々ながら育児シミュレーションに参加する。片や、看護師をしているパートナーの知由里は、最初からこのシミュレーションに積極的な姿勢を取り、子を望むレズビアンカップルの〈集い〉にも〈ひよひよ〉を連れて行こうとして、理子と対立する。知由里は〈ひよひよ〉が本当の人間の赤ちゃんであるかのように、心を込めて接し、あたかも母のように振る舞うのである。逆に、理子は相手は機械に過ぎないと考え、育児も極力合理的に行う。この違いが徐々にエスカレートしていき、ついには……という物語なのだが、結末で本当にぞっとさせられる場面がある。たった一文ですべてを想像させる、この破壊力を備えた構成は見事だ。途中で何度か知由里の家族に関する描写があるので、なるほど、そうだったのかと深く腑に落ちる。表面的な〈母のやさしさ〉の欺瞞を鋭くえぐる問題作である。
また、抜けた歯をモチーフとして女性から女性への奇妙な愛の形を描く「あーちゃんはかあいそうでかあいい」、小学生が爪を集めて埋めると指が生えてくる、異様な状況を淡々と描いた「日出子の爪」は、どちらも〈身体から切り離された身体〉が重要な役割を果たしている。
ありそうでない話。奇妙な味。少し不思議。肉体性を備えた精神的な物語。どう形容しても、ちょっとずれる。そこにこそ本書の魅力がある。とりあえずは、世の中の矛盾や残酷さをストレートに描かず、周辺を描くことによって逆に浮き彫りにしていく点に坂崎作品の特色があるようだ。まだ書き始めて間もないし、これからどんどん傑作が生まれていく予感がある。今後の活躍に大いに期待したい。
事故で身体が動かないため、人型ロボットの筐体にリモートで接続された男子中学生を主人公にした「リモート」、戦場で二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ兵士の物語「リトル・アーカイヴス」など、近未来でのヒトと機械との関わりを描いた作品から、十九世紀末、電気が実用化された頃のアメリカで、電気椅子についての所見を蓄えるため、決して死なない〈魔女〉がサーカスの見世物の形で何度も処刑される「ニューヨークの魔女」、一九六二年にキューバ危機が訪れたアメリカの田舎町で、ロバによく似た生き物〈D〉の一人が虐待を受ける「ファーサイド」、電信柱を恋をした女性の話「電信柱より」など、象徴的かつ寓話的な作品まで、著者は様々な題材や主題で読者を惹きつける。文章は平易で端正、無駄がなく読みやすい。つるつる読めるが、読み終えたあとに余韻が残る。響きがある。そんな作品集である。
とりわけ印象に残ったのが、表題作「嘘つき姫」と、書き下ろし「私のつまと、私のはは」の二編。前者は一九四〇年、ドイツ軍が侵攻してきたフランスにおいて、母の死により孤児となったマリーと、その直前にマリーの母に救われたエマの二人が姉妹を偽装し、戦火の中を生き延びていく物語。嘘をつかねば生きていけない運命のもと、マリーのついた嘘と、エマのついた嘘が交錯し、複雑に絡み合う。手記の形をとっているため、読者もまた二人の嘘に翻弄され、小出しにされる真実に戦慄する。ネタバレになるので詳しく書けないが、真実が直接描かれていないだけに、より想像力が刺激され、恐ろしい。この手法は、坂崎作品のあちこちで見られるものだ。「あーちゃんはかあいそうでかあいい」のあーちゃんは結末で何をしたのか。扉の向こうには何があるのか。想像するしかないのだが、これは結構怖いことだ。本編における〈嘘つき姫〉はマリーなのか、エマなのか、それとも両方を指すのか。2章がエマの嘘で、1章がマリーの嘘、3章が真実という一応の構成が見てとれるが、これも疑い出せばキリがない。いずれにせよ、嘘の果てに見いだされた、エマのマリーに向けての愛、これは信じるしかないものだろう。
「私のつまと、私のはは」は、「リモート」同様、近未来の日本を舞台にしたテクノロジーものだが、拡張現実装置(ARグラス)を身につけ、子育てのシミュレーションを行うレズビアンのカップルを主役にしている点に新鮮さがある。カップルには子育てに対する温度差があり、デザイナーの理子は、パンフレットを作る仕事の一環として子育て体験キット〈ひよひよ〉のデモ版を送られ、嫌々ながら育児シミュレーションに参加する。片や、看護師をしているパートナーの知由里は、最初からこのシミュレーションに積極的な姿勢を取り、子を望むレズビアンカップルの〈集い〉にも〈ひよひよ〉を連れて行こうとして、理子と対立する。知由里は〈ひよひよ〉が本当の人間の赤ちゃんであるかのように、心を込めて接し、あたかも母のように振る舞うのである。逆に、理子は相手は機械に過ぎないと考え、育児も極力合理的に行う。この違いが徐々にエスカレートしていき、ついには……という物語なのだが、結末で本当にぞっとさせられる場面がある。たった一文ですべてを想像させる、この破壊力を備えた構成は見事だ。途中で何度か知由里の家族に関する描写があるので、なるほど、そうだったのかと深く腑に落ちる。表面的な〈母のやさしさ〉の欺瞞を鋭くえぐる問題作である。
また、抜けた歯をモチーフとして女性から女性への奇妙な愛の形を描く「あーちゃんはかあいそうでかあいい」、小学生が爪を集めて埋めると指が生えてくる、異様な状況を淡々と描いた「日出子の爪」は、どちらも〈身体から切り離された身体〉が重要な役割を果たしている。
ありそうでない話。奇妙な味。少し不思議。肉体性を備えた精神的な物語。どう形容しても、ちょっとずれる。そこにこそ本書の魅力がある。とりあえずは、世の中の矛盾や残酷さをストレートに描かず、周辺を描くことによって逆に浮き彫りにしていく点に坂崎作品の特色があるようだ。まだ書き始めて間もないし、これからどんどん傑作が生まれていく予感がある。今後の活躍に大いに期待したい。
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