『頂点都市』ラヴァンヤ・ラクシュミナラヤン(2025年6月/東京創元社) ― 2025-07-24 21:32
本書はインド出身の作家・ビデオゲームデザイナーによる連作短編集であり、インドの出版社から二〇二〇年に刊行された。これがローカス短篇集部門の候補となり、二〇二三年に刊行されたイギリス版がクラーク賞の候補となっている。
内容は、近未来のインドの都市ベンガルールを舞台にしたディストピアものである。連作短編という形式を生かし、ベル機構と呼ばれる統治体によって徹底的に管理され、生産能力と社会的体裁を常に測られる社会体制を様々な視点から描いている。この都市では、上位二割民は、ホロ技術を用いた最新テクノロジーを自由に操り、贅沢な暮らしが保証されている。中間七割民は、徹底した管理と思想統制のもとに、生産能力を基準にして上位への昇格が奨励されており、皆が上位民の優雅な生活に憧れている。下位一割民は、アナログ民と呼ばれ、デジタル機器へのアクセスが禁じられている。上位民への奉仕が求められ、汚れた土地での生活を余儀なくされている。そればかりか、アナログ民は徹底して差別され、読み進むにつれ、生命までもが搾取されている恐ろしい実態が明らかになってくる。
ベル機構のモットーは「生産性は力なり。情熱は宝なり。社会的体裁は要(かなめ)なり。」だ。これがオーウェル『一九八四年』の管理社会を踏まえたものであることは明らかだろう。違いは、ベル機構にはビッグ・ブラザーのような偶像は存在せず、あくまでも生活の向上、豊かな生活を送ること自体を目的にして人々を操り、分断社会の維持を図っていること。その分管理の網がより細かく、システムがネットを介して個人個人の中に入り込んでくるため、巧妙かつ狡猾、抗いがたい存在として浮かび上がってくる。
たとえば、ジョン・アルヴァレスという中間七割民の青年は、上位二割民になるため、オフィーリアと呼ばれる意見均質化制限調整ユニットを使用して、自らの思想や嗜好を矯正していく。平穏暴動や白色雑音というバンド(筆者はこの名前からクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」を思わず連想してしまった)の曲が好きだったのに、オフィーリアの指示に従い、優しく穏やかなネオ生楽器曲を好むようになっていく。彼はあくまでも自分の意志によって、思考にタガをはめていくのである。
ヴァーチャル民とアナログ民の間には電気シールドが張り巡らされ、行き来が制限されている。アナログ民見学ツアーのガイドをしながら生き別れとなった妹を探すテレサや、両親は死んだと聞かされ上位民のスパイとなったが、実はそれが嘘であったことを知らされるローヒニーなど、引き裂かれた社会に翻弄される人々も本書は丁寧に描いていく。これは現代社会のあちこちに存在する壁に分断された社会を象徴していると言えるだろう。また、SNSのインフルエンサーが妊娠し、皆が利用している代胎ポッドを使わないと宣言したことからトラブルが生じるエピソードから、ベル機構が妊娠・出産も厳重に管理下に置いていることがわかる。自然分娩は生産性を著しく損なう意味から忌避されているし、中絶などすれば、貴重な生産者の芽を摘む、とんでもない反逆者とみなされてしまうのだ。高齢者看護施設もあり、認知症患者がそこで協調活動を強いられているエピソードもある。いずれも高度な管理社会である現代社会を敷衍していけば、十分あり得る未来であり、説得力がある。アナログ民出身だが、上位二割民の養女となり、アナログ式で音楽を学ぶ少女が上位二割民を目指すエピソードや、SNSのインフルエンサー3人が年間最優秀賞候補となるが、人前に出たくないためそれぞれ趣向を凝らすエピソードも面白く、興味深いものに仕上がっている。
このように、様々なエピソードを積み重ねることによって、ベル機構の全体像を明らかにしていく構成は実に巧みで、見事である。一つ一つのエピソードは読みやすく、単独で完結していると同時に、互いにゆるく結びつき、登場した人物が別のエピソードにさりげなく顔を出しているので、それを見つけていくという楽しみもあるわけだ。ゲームデザイナーとしての腕が存分に発揮されていると言ってよいだろう。
「独裁の敵は共同体だ」と本書の中で述べられているとおり、本書の終盤は、アナログ民の部族が協働してベル機構を倒すレジスタンスの話が中心となっていく。反乱が起き、アナログ民がネビュラネットと呼ばれるネットワークをハッキングし、電気シールドが切られ、照明が消える。自動車事故が起き、人事ファイルがすべて書き換えられ、続々とアナログ民がヴァーチャル区画へ侵入していく……。結果は読んでのお楽しみといったところだが、単に叛逆しておしまいではなく、宥和的な結末となっていることは特筆しておきたい。
ところどころ甘さは見られるが、ネット社会が進んだ結果のディストピアをリアリティ溢れる設定と丁寧な筆致で描いた佳作であり、一読の価値はあるだろう。
内容は、近未来のインドの都市ベンガルールを舞台にしたディストピアものである。連作短編という形式を生かし、ベル機構と呼ばれる統治体によって徹底的に管理され、生産能力と社会的体裁を常に測られる社会体制を様々な視点から描いている。この都市では、上位二割民は、ホロ技術を用いた最新テクノロジーを自由に操り、贅沢な暮らしが保証されている。中間七割民は、徹底した管理と思想統制のもとに、生産能力を基準にして上位への昇格が奨励されており、皆が上位民の優雅な生活に憧れている。下位一割民は、アナログ民と呼ばれ、デジタル機器へのアクセスが禁じられている。上位民への奉仕が求められ、汚れた土地での生活を余儀なくされている。そればかりか、アナログ民は徹底して差別され、読み進むにつれ、生命までもが搾取されている恐ろしい実態が明らかになってくる。
ベル機構のモットーは「生産性は力なり。情熱は宝なり。社会的体裁は要(かなめ)なり。」だ。これがオーウェル『一九八四年』の管理社会を踏まえたものであることは明らかだろう。違いは、ベル機構にはビッグ・ブラザーのような偶像は存在せず、あくまでも生活の向上、豊かな生活を送ること自体を目的にして人々を操り、分断社会の維持を図っていること。その分管理の網がより細かく、システムがネットを介して個人個人の中に入り込んでくるため、巧妙かつ狡猾、抗いがたい存在として浮かび上がってくる。
たとえば、ジョン・アルヴァレスという中間七割民の青年は、上位二割民になるため、オフィーリアと呼ばれる意見均質化制限調整ユニットを使用して、自らの思想や嗜好を矯正していく。平穏暴動や白色雑音というバンド(筆者はこの名前からクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」を思わず連想してしまった)の曲が好きだったのに、オフィーリアの指示に従い、優しく穏やかなネオ生楽器曲を好むようになっていく。彼はあくまでも自分の意志によって、思考にタガをはめていくのである。
ヴァーチャル民とアナログ民の間には電気シールドが張り巡らされ、行き来が制限されている。アナログ民見学ツアーのガイドをしながら生き別れとなった妹を探すテレサや、両親は死んだと聞かされ上位民のスパイとなったが、実はそれが嘘であったことを知らされるローヒニーなど、引き裂かれた社会に翻弄される人々も本書は丁寧に描いていく。これは現代社会のあちこちに存在する壁に分断された社会を象徴していると言えるだろう。また、SNSのインフルエンサーが妊娠し、皆が利用している代胎ポッドを使わないと宣言したことからトラブルが生じるエピソードから、ベル機構が妊娠・出産も厳重に管理下に置いていることがわかる。自然分娩は生産性を著しく損なう意味から忌避されているし、中絶などすれば、貴重な生産者の芽を摘む、とんでもない反逆者とみなされてしまうのだ。高齢者看護施設もあり、認知症患者がそこで協調活動を強いられているエピソードもある。いずれも高度な管理社会である現代社会を敷衍していけば、十分あり得る未来であり、説得力がある。アナログ民出身だが、上位二割民の養女となり、アナログ式で音楽を学ぶ少女が上位二割民を目指すエピソードや、SNSのインフルエンサー3人が年間最優秀賞候補となるが、人前に出たくないためそれぞれ趣向を凝らすエピソードも面白く、興味深いものに仕上がっている。
このように、様々なエピソードを積み重ねることによって、ベル機構の全体像を明らかにしていく構成は実に巧みで、見事である。一つ一つのエピソードは読みやすく、単独で完結していると同時に、互いにゆるく結びつき、登場した人物が別のエピソードにさりげなく顔を出しているので、それを見つけていくという楽しみもあるわけだ。ゲームデザイナーとしての腕が存分に発揮されていると言ってよいだろう。
「独裁の敵は共同体だ」と本書の中で述べられているとおり、本書の終盤は、アナログ民の部族が協働してベル機構を倒すレジスタンスの話が中心となっていく。反乱が起き、アナログ民がネビュラネットと呼ばれるネットワークをハッキングし、電気シールドが切られ、照明が消える。自動車事故が起き、人事ファイルがすべて書き換えられ、続々とアナログ民がヴァーチャル区画へ侵入していく……。結果は読んでのお楽しみといったところだが、単に叛逆しておしまいではなく、宥和的な結末となっていることは特筆しておきたい。
ところどころ甘さは見られるが、ネット社会が進んだ結果のディストピアをリアリティ溢れる設定と丁寧な筆致で描いた佳作であり、一読の価値はあるだろう。
『感傷ファンタスマゴリィ』空木春宵(2024年4月/東京創元社) ― 2025-07-19 09:19
本書は二〇一一年に第2回創元SF短編賞佳作を受賞し、二〇二一年に第一作品集『感応グラン=ギニョル』を刊行して高い評価を受けた作者による、待望の第二作品集である。
空木の作品は残虐、残酷という言葉で形容されることが多いが、それは決して表面上の、言葉の上だけのことではない。目をそむけたくなるような残酷な出来事の中核にある「弱者の痛み」、肉体の痛みにせよ、心の痛みにせよ、その「痛み」のもつ現前性にこそ空木作品の特色があるのではないだろうか。空木の作品を読むとき、読者はドラマの単なる観客であることは許されない。いつの間にか舞台の上にあげられ、劇中に引きずり込まれ、思い切り心を揺さぶられ、登場人物と同じ「痛み」を経験することになる。効果的な二人称の使用、SF的な舞台設定、よく作り込まれた小道具は、すべてそのために奉仕している。その手際の鮮やかさ、切れ味の鋭さといったら、研ぎ澄まされた包丁を使いこなす一流のシェフのようだ。
たとえば、本書収録の「4W/Working With Wounded Women」では、上甲街(アッパー・デック)と下甲街(ロウアー・デック)に分けられた雙層都市(ダブル・デッカー・シティ)を舞台として、下甲街に住む主人公ユイシュエンと彼女を取り巻く下層階級の人々の暮らしが描かれる。薬指に埋め込まれたデバイスによって、上甲街の人々と下甲街の人々は量子的に結ばれており、上の者が負った傷は即座に下の者に転移する。これは「転瑕(てんか)」と呼ばれており、下の者は突如として自分に出現する傷とその痛みに耐えるしかないのである。互いの冥婚相手が誰かはわからないようになっている。この仕組みは「冥婚関係(エンゲージ・リンク)」、関係を支える量子システムは「因果機関(カルマ・エンジン)」と称され、併せて「回向(エコー)システム」と呼ばれている。DVや無差別殺人など、現実に存在する理不尽な暴力を象徴させた都市の設定は見事で、皮肉を込めたネーミング・センスも群を抜いている。
物語では、ある時期から突然ユイシュエンに現れる傷が増えてきて、不条理な暴力と痛みに耐えるため、彼女は、上の者が正義のために闘うヒーローであることを夢想する。もちろん、そんなはずはなく、この夢想は結末近くになって残酷に崩れ去る。悲劇は、ユイシュエンの同居人女性である妊婦メイファンにも、もっと残酷な形で訪れる。作中でのメイファンの怒りの声に触れて、心が震えたのは自分だけではないだろう。これまでも、「感応グラン=ギニョル」や「地獄を縫い取る」(どちらも第一作品集所収)などの諸作で描かれてきた弱者(障碍者や女性)が受けてきた「傷」のもつ意味が、ここではさらに深められ、そして、宥和的な結末に至る。読者に「傷」を突きつけて終わるのではなく、「赦し」にまで至っているという点で、初期作品からの深化が伺える。本書中ではまずこの作品を推しておきたい。
さらに、ディストピアSFの結構を備えた「さよならも言えない」も見逃せない作品である。恒星〈アマテラス〉を公転する七つのうち三つの惑星に人類が入植してから千二百年が過ぎた。人類は、背が高く首が長いルークルー(轆轤)系、平面的な顔立ちのフォンイー(紅衣)系、黒い髪に六本の腕をもつツチグモ(土蜘蛛)系の三種族に分かれ、共生している。〈服飾局(メゾン)〉で働く主人公ミドリ・ジィアンは、局内コンペのためにチームを率いるリーダーだ。この世界では、拡張現実システムによって、遺伝子、場、系の三要素を踏まえたファッションのスコアが常に表示されており、その値が社会的信用を生んでいる。部下のスコアが低いことを気にしているミドリは、ある日足を運んだクラブで低いスコアのまま踊っているジェリーに目を止め、指導する。服を自分で作り、スコアに縛られて生きることを拒否するジェリーにミドリは惹かれていくが……。「4W」同様、本作においても、現実に存在する社会的抑圧が巧みにSF的設定に落とし込まれている。語られるのは、会社内での出世レースと世代を超えた愛を絡ませた古典的な物語なのだが、この設定のおかげで社会的抑圧はシステムによる暴力だという事実が浮き彫りになっており、かえって新鮮な感動を生んでいる。
以上二編が抜きん出た傑作であるが、他の作品も素晴らしい出来映えだ。表題作「感傷ファンタマゴスリィ」と「終景累ヶ辻(しゅうけいかさねがつじ)」は通底する響きを備えた超絶技巧短編である。前者は、十九世紀末にパリで流行した幻燈機(ファンタスコープ)を用いた魔術幻燈劇(ファンタマゴスリィ)を題材にして、性差混乱も含めたアイデンティティの揺らぎを描き、後者は、江戸の三大怪談の主人公、お菊、お露、お岩の時間線を交錯させて、何度も死を繰り返す様を描いている。どちらにも登場する「時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す」という文章のとおり、自己とは死者を「観照」することによって死者を取り込み拡張していく複合的な存在であり、それが繰り返される限り、死者=幽霊が死ぬことはないのだとの認識が両者を貫いている。
最後に置かれた「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」では、VR空間で「魔女」を名乗り、依頼人のカウンセリングを行う人々と、その魔女たちを憎み、VR空間上で暴力を振るって魔女たちを殺してまわる「騎士団」との対立を描いている。ここでも、現実に起きている男性中心主義者と女性の権利拡張を求める人々との分断と憎悪が作中の設定に巧みに反映されている。魔女とは「固定された社会規範に抗い、女性や性的マイノリティについてだけでなく、すべてのヒトにとっての権利を常に考え続けるべき」存在であり、魔女の主張は、男への攻撃でも呪詛でもない」。男の側の権利が侵害されるとの意見に対しては「権利と利得とは別のもの」であり、「既得権益を失う事と権利を奪われる事はまったく別の話」と返す魔女の反論は揺るぎなく、鮮やかである(人権を無視してマイノリティを公然と差別する現実の人々に言ってやりたいが、彼らにはまったく理解できないのだろうなあ、と思ってはいけないというのが本作のテーマでもある)。作中では「魔女」と「騎士団」との争いが、最終的には解決への糸口を見出すところで終わっているため、解説にもあるとおり「希望」が残り、決して読後感は悪くない。これも、空木作品の新境地と言えよう。
全体としては、SF的設定を効果的に使用し、社会的弱者の立場から社会構造自身が孕む矛盾や構造的暴力を鋭くえぐり出してみせた、極めてアクチュアルな作品が多く、分断が進む現代社会において、本書を読む価値はますます高まっている。ぜひとも一読をお勧めしたい。
空木の作品は残虐、残酷という言葉で形容されることが多いが、それは決して表面上の、言葉の上だけのことではない。目をそむけたくなるような残酷な出来事の中核にある「弱者の痛み」、肉体の痛みにせよ、心の痛みにせよ、その「痛み」のもつ現前性にこそ空木作品の特色があるのではないだろうか。空木の作品を読むとき、読者はドラマの単なる観客であることは許されない。いつの間にか舞台の上にあげられ、劇中に引きずり込まれ、思い切り心を揺さぶられ、登場人物と同じ「痛み」を経験することになる。効果的な二人称の使用、SF的な舞台設定、よく作り込まれた小道具は、すべてそのために奉仕している。その手際の鮮やかさ、切れ味の鋭さといったら、研ぎ澄まされた包丁を使いこなす一流のシェフのようだ。
たとえば、本書収録の「4W/Working With Wounded Women」では、上甲街(アッパー・デック)と下甲街(ロウアー・デック)に分けられた雙層都市(ダブル・デッカー・シティ)を舞台として、下甲街に住む主人公ユイシュエンと彼女を取り巻く下層階級の人々の暮らしが描かれる。薬指に埋め込まれたデバイスによって、上甲街の人々と下甲街の人々は量子的に結ばれており、上の者が負った傷は即座に下の者に転移する。これは「転瑕(てんか)」と呼ばれており、下の者は突如として自分に出現する傷とその痛みに耐えるしかないのである。互いの冥婚相手が誰かはわからないようになっている。この仕組みは「冥婚関係(エンゲージ・リンク)」、関係を支える量子システムは「因果機関(カルマ・エンジン)」と称され、併せて「回向(エコー)システム」と呼ばれている。DVや無差別殺人など、現実に存在する理不尽な暴力を象徴させた都市の設定は見事で、皮肉を込めたネーミング・センスも群を抜いている。
物語では、ある時期から突然ユイシュエンに現れる傷が増えてきて、不条理な暴力と痛みに耐えるため、彼女は、上の者が正義のために闘うヒーローであることを夢想する。もちろん、そんなはずはなく、この夢想は結末近くになって残酷に崩れ去る。悲劇は、ユイシュエンの同居人女性である妊婦メイファンにも、もっと残酷な形で訪れる。作中でのメイファンの怒りの声に触れて、心が震えたのは自分だけではないだろう。これまでも、「感応グラン=ギニョル」や「地獄を縫い取る」(どちらも第一作品集所収)などの諸作で描かれてきた弱者(障碍者や女性)が受けてきた「傷」のもつ意味が、ここではさらに深められ、そして、宥和的な結末に至る。読者に「傷」を突きつけて終わるのではなく、「赦し」にまで至っているという点で、初期作品からの深化が伺える。本書中ではまずこの作品を推しておきたい。
さらに、ディストピアSFの結構を備えた「さよならも言えない」も見逃せない作品である。恒星〈アマテラス〉を公転する七つのうち三つの惑星に人類が入植してから千二百年が過ぎた。人類は、背が高く首が長いルークルー(轆轤)系、平面的な顔立ちのフォンイー(紅衣)系、黒い髪に六本の腕をもつツチグモ(土蜘蛛)系の三種族に分かれ、共生している。〈服飾局(メゾン)〉で働く主人公ミドリ・ジィアンは、局内コンペのためにチームを率いるリーダーだ。この世界では、拡張現実システムによって、遺伝子、場、系の三要素を踏まえたファッションのスコアが常に表示されており、その値が社会的信用を生んでいる。部下のスコアが低いことを気にしているミドリは、ある日足を運んだクラブで低いスコアのまま踊っているジェリーに目を止め、指導する。服を自分で作り、スコアに縛られて生きることを拒否するジェリーにミドリは惹かれていくが……。「4W」同様、本作においても、現実に存在する社会的抑圧が巧みにSF的設定に落とし込まれている。語られるのは、会社内での出世レースと世代を超えた愛を絡ませた古典的な物語なのだが、この設定のおかげで社会的抑圧はシステムによる暴力だという事実が浮き彫りになっており、かえって新鮮な感動を生んでいる。
以上二編が抜きん出た傑作であるが、他の作品も素晴らしい出来映えだ。表題作「感傷ファンタマゴスリィ」と「終景累ヶ辻(しゅうけいかさねがつじ)」は通底する響きを備えた超絶技巧短編である。前者は、十九世紀末にパリで流行した幻燈機(ファンタスコープ)を用いた魔術幻燈劇(ファンタマゴスリィ)を題材にして、性差混乱も含めたアイデンティティの揺らぎを描き、後者は、江戸の三大怪談の主人公、お菊、お露、お岩の時間線を交錯させて、何度も死を繰り返す様を描いている。どちらにも登場する「時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す」という文章のとおり、自己とは死者を「観照」することによって死者を取り込み拡張していく複合的な存在であり、それが繰り返される限り、死者=幽霊が死ぬことはないのだとの認識が両者を貫いている。
最後に置かれた「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」では、VR空間で「魔女」を名乗り、依頼人のカウンセリングを行う人々と、その魔女たちを憎み、VR空間上で暴力を振るって魔女たちを殺してまわる「騎士団」との対立を描いている。ここでも、現実に起きている男性中心主義者と女性の権利拡張を求める人々との分断と憎悪が作中の設定に巧みに反映されている。魔女とは「固定された社会規範に抗い、女性や性的マイノリティについてだけでなく、すべてのヒトにとっての権利を常に考え続けるべき」存在であり、魔女の主張は、男への攻撃でも呪詛でもない」。男の側の権利が侵害されるとの意見に対しては「権利と利得とは別のもの」であり、「既得権益を失う事と権利を奪われる事はまったく別の話」と返す魔女の反論は揺るぎなく、鮮やかである(人権を無視してマイノリティを公然と差別する現実の人々に言ってやりたいが、彼らにはまったく理解できないのだろうなあ、と思ってはいけないというのが本作のテーマでもある)。作中では「魔女」と「騎士団」との争いが、最終的には解決への糸口を見出すところで終わっているため、解説にもあるとおり「希望」が残り、決して読後感は悪くない。これも、空木作品の新境地と言えよう。
全体としては、SF的設定を効果的に使用し、社会的弱者の立場から社会構造自身が孕む矛盾や構造的暴力を鋭くえぐり出してみせた、極めてアクチュアルな作品が多く、分断が進む現代社会において、本書を読む価値はますます高まっている。ぜひとも一読をお勧めしたい。
『SF少女マンガ全史』長山靖生(2024年3月/筑摩書房) ― 2025-07-12 22:42
本書は、主に一九七五年から一九八五年にかけて、昭和五十年代に全盛期を迎えた「SF少女マンガ」というマンガのサブジャンルについて概説的に記述した歴史書であると同時に、膨大な作品の粗筋を丁寧に辿って、該博な知識をもとに作品論を語り、何人ものマンガ家については作家論にまで至るという優れた評論書ともなっている。米沢嘉博に『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』(ともに一九八〇年)という先駆的な試みはあるが、記述はどちらかと言えば歴史を語ることに重点を置いており、作品論としては踏み込みが浅い。「SF少女マンガ」に対象を絞って、深く掘り下げ、ジェンダー的な視点も取り込んで作品を論じているという点で、本書の価値は大きく、今後のマンガ研究の里程標となるだろう。
対象を絞ったと言っても、著者のマンガに関する歴史的射程は広く、第1章の概史では、奈良時代の絵巻、江戸時代の読本、明治時代の風刺画を経て、大正から昭和初期にかけて、コマに分けてストーリーを勧めるマンガ物語が成立したことが記述される。大衆に向けた少年雑誌、少女雑誌の創刊もこの頃であり、画家による雑誌の口絵や挿絵、小説、読者投稿欄、絵物語といったライバルに交じってマンガが成長していく。戦後の少女マンガは、手塚治虫や石森章太郎、ちばてつやといった男性マンガ家が描く悲哀ものが中心であった。活動の中心が徐々に、わたなべまさこ、水野英子、牧美也子、今村祥子ら女性マンガ家に置き換わり、内容も固定観念化された少女像、女性像をはみ出していく過程を著者は丁寧に記述していく。里中満智子、美内すずえ、細川智栄子、西谷祥子らがデビューし、SFも描いていく。「SF少女マンガ」と言うとどうしても萩尾望都、竹宮恵子らいわゆる二四年組から始まったような印象を還暦前後のわれわれ世代は持っているが、このような萩尾・竹宮以前の前史の存在を俯瞰的な視点から正確に記している点にも本書の価値はある。
第1章で触れられているように、手塚の『リボンの騎士』(一九五三~六七)は、主人公サファイアが女性として生まれながら男の心と女の心をもち、男性として育てられるという異性装ロマンスの嚆矢であり、後の池田理代子『ベルサイユのばら』(一九七二~七三)へとつながっていくことはよく指摘される点だが、著者は、これに加えて、水野英子『白いトロイカ』(一九六四~六五)に描かれた「自ら考え行動する革命的女性像」を引き継いだ点にも『ベルばら』の革命性があると説く。この指摘は重要である。少女マンガの歴史自体に〈男性が女性のために描いたもの〉から〈女性が女性に向けて描いたもの〉へと変化していく過程があり、さらにSFについても、一九六〇年代には「女性にSFはわからない」といういわれのない偏見があり(本書に引用されているとおり「女の子にはS・Fが分らないのだというのです。ホントかしら…」と萩尾望都が自作「精霊狩り」内で記している)、この男性を中心とした二重の抑圧状態から逃れ、自由な創造力と表現力が爆発した時代こそが「SF少女マンガ」が花開いた昭和五十年代であるという認識が、本書には一貫して流れているからである。
第2章では「挑発する女性状理知結晶体」と題して、山岸涼子、倉多江美、佐藤史生、水樹和佳、清原なつの、佐々木淳子、樹なつみの七人を取り上げて、深く論じていく。マンガ家と作品の選び方が実に秀逸であり、彼女らに共通する特色を、非合理に対する論理、無意識や夢想に対する知性を重んじることとして掬い上げている。もちろん、彼女たちの作品がそれだけで割り切れるはずもなく、作品も描かれる人物も多様であることは承知のうえで、である。作中人物には、山岸涼子『日出処の天子』(一九八〇~八四)の厩戸皇子のように「合理主義によっても自由を得ても、満たされることのない人間存在の業の深さを象徴している」人物もおり、佐藤史生の作品には「知性への敬虔なまでの信頼」があるものの、後期の作品には「科学主義から神秘主義への傾斜」がみられる。「コンピュータ社会の精神的側面と、多層的な神話学を融合させた」佐藤の代表作『ワン・ゼロ』(一九八四~八六)を論じ、やはり神話的作品である水樹和佳の大作『イティハーサ』(一九八七~九七)を神話学的に論じた後で、両者の共通点は「時間の回帰性」にあると看破してみせ、「戦闘より理解や宥和による克服に努める姿勢は、萩尾から佐藤や水樹へ、さらに後継たちへと引き継がれているSF少女マンガの精神だった」と結論づけるあたりの流れは鮮やかで、全体を通しての筆者の主張もここによく表れている。この章と萩尾望都を論じた第4章は、評論書としての本書の白眉である。
第4章はまるごと萩尾論に充てられている。対象を「SF少女マンガ」に限っているので、取り上げられた作品は「あそび玉」(一九七二)『11人いる!』(一九七五)『百億の昼と千億の夜』(一九七七~七八)「左ききのイザン」(一九七八)『スター・レッド』(一九七八~七九)『銀の三角』(一九八〇~八二)などの諸作で、『ポーの一族』(一九七二~七六)や『トーマの心臓』(一九七三~七四)には部分的に触れられているが、本格的に論じられてはいない。それにしても、こうして眺めていくと、七五年から八五年にかけての萩尾望都のSFへの意欲の凄まじさと作品の完成度の高さは尋常ではない。著者は「あそび玉」には「当時の画一的な社会の価値観に違和感を覚える萩尾自身が投影されている」と述べ、和解的な結末に「暴力的革命に代わる、より先進的な取り組み」を見出している。『11人いる!』では、性別を自己選択できるフロルの存在を通して「男性と対等であることを自明として生きる女性」を描き出した点が画期的であったと述べる。ただし、フロルは女性を選択して男性であるタダとの結婚を望むのであり、男性を選択して男性を愛するわけではない。「萩尾作品は文化的伝統や社会規範による人為的なジェンダーを乗り越えていくが、生物学的差異の人為的操作には懐疑的なようだ」という著者の指摘は鋭い。他にも、自然に性別を変えながら成長していく一角獣種タクトを主人公とした「X+Y」(八四年)、人間と異星人の混血であり男性と思われていたルゥが実は女性であったことが判明する「ハーバル・ビューティ」(八四年)、感染症の抗体がY染色体上にあるため自然状態では男性だけしか生き残っていない未来の地球を描いた『マージナル』(八五~八七年)と、萩尾SFには性別の揺らぎや偏りをテーマにした作品が多く、そのために丸ごと異星の生命体系を創作した場合もある。SFという手法がいかに萩尾作品にマッチしていて、そしてそれらの作品に他の多くの少女マンガ家が刺激を受け、多数の作品が生み出されたかを本書は克明に記録しており、SF少女マンガがなぜこの時期に爆発的に広がったのかという問いの答えにもなっている。要するに、萩尾望都SFの衝撃があまりに大きく、当時の(今も)男性優位社会の抑圧を受けていた少女らが強い共感を寄せ、また画一的な社会規範をよしとしない男性読者をも含んで、大勢の読者を惹きつけたことは大きな要因であっただろう。SFにおいては文化や社会を自由に設定することができ、その中で女性が「女性性」を保ちながら男性と対等な関係を結び、活動していくことが可能だ。理想的な男女関係、ひいては人と人との関わりがそこにはあると言える。たとえ闘いや軋轢を描いたとしても、SF少女マンガでは和解と宥和を結論に打ち出すことが多い。萩尾SFの影響力の強さがうかがえる。八五年以降も萩尾望都は精力的にSF少女マンガを発表しており、本書は最新作『ポーの一族 青のパンドラ』(二〇二二~連載中)に至るまでの諸作を丁寧に紹介し、論じている。
第3章と第5章は、個々のマンガ家の作品紹介という面が強く、本書の歴史書としての側面がよく示されている。取り上げられたマンガ家は、「思考するファンタジー」と題された第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子、坂田靖子、日渡早紀、川原泉の六名。「孤高不滅のマイナーポエットたち」と題された第5章で岡田史子、内田善美、高野文子の三名。いずれも個性的で表現力に秀でたマンガ家ばかりなので、本書を読んで、初めて(または改めて)作品に接することも一興だろう。
おそらくは、本書を読んで、これも足りないあれも抜けているといった文句を言い出す人たちも出てくるだろうが、本書の偉業の前では取るに足らぬことだ。膨大な作品を読みこなし、分析し、批評するのは大変労力のかかる作業である。それを踏まえたうえの言葉でなければ、つまらぬ文句に耳を傾ける必要はない。ただし、一つだけ言わせてもらえば、歴史書としての側面を考えると、大変な作業になるのはわかっているが、作者名だけでも索引は欲しかった。
総じて、視野の広さ、構成の見事さ、分析の深さで本書に並ぶものはない。SF少女マンガの奥深さを知るのにうってつけの一冊である。
対象を絞ったと言っても、著者のマンガに関する歴史的射程は広く、第1章の概史では、奈良時代の絵巻、江戸時代の読本、明治時代の風刺画を経て、大正から昭和初期にかけて、コマに分けてストーリーを勧めるマンガ物語が成立したことが記述される。大衆に向けた少年雑誌、少女雑誌の創刊もこの頃であり、画家による雑誌の口絵や挿絵、小説、読者投稿欄、絵物語といったライバルに交じってマンガが成長していく。戦後の少女マンガは、手塚治虫や石森章太郎、ちばてつやといった男性マンガ家が描く悲哀ものが中心であった。活動の中心が徐々に、わたなべまさこ、水野英子、牧美也子、今村祥子ら女性マンガ家に置き換わり、内容も固定観念化された少女像、女性像をはみ出していく過程を著者は丁寧に記述していく。里中満智子、美内すずえ、細川智栄子、西谷祥子らがデビューし、SFも描いていく。「SF少女マンガ」と言うとどうしても萩尾望都、竹宮恵子らいわゆる二四年組から始まったような印象を還暦前後のわれわれ世代は持っているが、このような萩尾・竹宮以前の前史の存在を俯瞰的な視点から正確に記している点にも本書の価値はある。
第1章で触れられているように、手塚の『リボンの騎士』(一九五三~六七)は、主人公サファイアが女性として生まれながら男の心と女の心をもち、男性として育てられるという異性装ロマンスの嚆矢であり、後の池田理代子『ベルサイユのばら』(一九七二~七三)へとつながっていくことはよく指摘される点だが、著者は、これに加えて、水野英子『白いトロイカ』(一九六四~六五)に描かれた「自ら考え行動する革命的女性像」を引き継いだ点にも『ベルばら』の革命性があると説く。この指摘は重要である。少女マンガの歴史自体に〈男性が女性のために描いたもの〉から〈女性が女性に向けて描いたもの〉へと変化していく過程があり、さらにSFについても、一九六〇年代には「女性にSFはわからない」といういわれのない偏見があり(本書に引用されているとおり「女の子にはS・Fが分らないのだというのです。ホントかしら…」と萩尾望都が自作「精霊狩り」内で記している)、この男性を中心とした二重の抑圧状態から逃れ、自由な創造力と表現力が爆発した時代こそが「SF少女マンガ」が花開いた昭和五十年代であるという認識が、本書には一貫して流れているからである。
第2章では「挑発する女性状理知結晶体」と題して、山岸涼子、倉多江美、佐藤史生、水樹和佳、清原なつの、佐々木淳子、樹なつみの七人を取り上げて、深く論じていく。マンガ家と作品の選び方が実に秀逸であり、彼女らに共通する特色を、非合理に対する論理、無意識や夢想に対する知性を重んじることとして掬い上げている。もちろん、彼女たちの作品がそれだけで割り切れるはずもなく、作品も描かれる人物も多様であることは承知のうえで、である。作中人物には、山岸涼子『日出処の天子』(一九八〇~八四)の厩戸皇子のように「合理主義によっても自由を得ても、満たされることのない人間存在の業の深さを象徴している」人物もおり、佐藤史生の作品には「知性への敬虔なまでの信頼」があるものの、後期の作品には「科学主義から神秘主義への傾斜」がみられる。「コンピュータ社会の精神的側面と、多層的な神話学を融合させた」佐藤の代表作『ワン・ゼロ』(一九八四~八六)を論じ、やはり神話的作品である水樹和佳の大作『イティハーサ』(一九八七~九七)を神話学的に論じた後で、両者の共通点は「時間の回帰性」にあると看破してみせ、「戦闘より理解や宥和による克服に努める姿勢は、萩尾から佐藤や水樹へ、さらに後継たちへと引き継がれているSF少女マンガの精神だった」と結論づけるあたりの流れは鮮やかで、全体を通しての筆者の主張もここによく表れている。この章と萩尾望都を論じた第4章は、評論書としての本書の白眉である。
第4章はまるごと萩尾論に充てられている。対象を「SF少女マンガ」に限っているので、取り上げられた作品は「あそび玉」(一九七二)『11人いる!』(一九七五)『百億の昼と千億の夜』(一九七七~七八)「左ききのイザン」(一九七八)『スター・レッド』(一九七八~七九)『銀の三角』(一九八〇~八二)などの諸作で、『ポーの一族』(一九七二~七六)や『トーマの心臓』(一九七三~七四)には部分的に触れられているが、本格的に論じられてはいない。それにしても、こうして眺めていくと、七五年から八五年にかけての萩尾望都のSFへの意欲の凄まじさと作品の完成度の高さは尋常ではない。著者は「あそび玉」には「当時の画一的な社会の価値観に違和感を覚える萩尾自身が投影されている」と述べ、和解的な結末に「暴力的革命に代わる、より先進的な取り組み」を見出している。『11人いる!』では、性別を自己選択できるフロルの存在を通して「男性と対等であることを自明として生きる女性」を描き出した点が画期的であったと述べる。ただし、フロルは女性を選択して男性であるタダとの結婚を望むのであり、男性を選択して男性を愛するわけではない。「萩尾作品は文化的伝統や社会規範による人為的なジェンダーを乗り越えていくが、生物学的差異の人為的操作には懐疑的なようだ」という著者の指摘は鋭い。他にも、自然に性別を変えながら成長していく一角獣種タクトを主人公とした「X+Y」(八四年)、人間と異星人の混血であり男性と思われていたルゥが実は女性であったことが判明する「ハーバル・ビューティ」(八四年)、感染症の抗体がY染色体上にあるため自然状態では男性だけしか生き残っていない未来の地球を描いた『マージナル』(八五~八七年)と、萩尾SFには性別の揺らぎや偏りをテーマにした作品が多く、そのために丸ごと異星の生命体系を創作した場合もある。SFという手法がいかに萩尾作品にマッチしていて、そしてそれらの作品に他の多くの少女マンガ家が刺激を受け、多数の作品が生み出されたかを本書は克明に記録しており、SF少女マンガがなぜこの時期に爆発的に広がったのかという問いの答えにもなっている。要するに、萩尾望都SFの衝撃があまりに大きく、当時の(今も)男性優位社会の抑圧を受けていた少女らが強い共感を寄せ、また画一的な社会規範をよしとしない男性読者をも含んで、大勢の読者を惹きつけたことは大きな要因であっただろう。SFにおいては文化や社会を自由に設定することができ、その中で女性が「女性性」を保ちながら男性と対等な関係を結び、活動していくことが可能だ。理想的な男女関係、ひいては人と人との関わりがそこにはあると言える。たとえ闘いや軋轢を描いたとしても、SF少女マンガでは和解と宥和を結論に打ち出すことが多い。萩尾SFの影響力の強さがうかがえる。八五年以降も萩尾望都は精力的にSF少女マンガを発表しており、本書は最新作『ポーの一族 青のパンドラ』(二〇二二~連載中)に至るまでの諸作を丁寧に紹介し、論じている。
第3章と第5章は、個々のマンガ家の作品紹介という面が強く、本書の歴史書としての側面がよく示されている。取り上げられたマンガ家は、「思考するファンタジー」と題された第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子、坂田靖子、日渡早紀、川原泉の六名。「孤高不滅のマイナーポエットたち」と題された第5章で岡田史子、内田善美、高野文子の三名。いずれも個性的で表現力に秀でたマンガ家ばかりなので、本書を読んで、初めて(または改めて)作品に接することも一興だろう。
おそらくは、本書を読んで、これも足りないあれも抜けているといった文句を言い出す人たちも出てくるだろうが、本書の偉業の前では取るに足らぬことだ。膨大な作品を読みこなし、分析し、批評するのは大変労力のかかる作業である。それを踏まえたうえの言葉でなければ、つまらぬ文句に耳を傾ける必要はない。ただし、一つだけ言わせてもらえば、歴史書としての側面を考えると、大変な作業になるのはわかっているが、作者名だけでも索引は欲しかった。
総じて、視野の広さ、構成の見事さ、分析の深さで本書に並ぶものはない。SF少女マンガの奥深さを知るのにうってつけの一冊である。
『遊戯と臨界』赤野工作(2025年3月/創元日本SF叢書) ― 2025-04-25 12:46
ゲームに関する作品ばかりを収録したゲームSF傑作選。作者は小説投稿サイト「カクヨム」出身の作家で、架空のゲームをレビューした『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィス・ノー・ネーム』(2017年)で〈SFが読みたい!〉の年間ベスト四位に入るなど、高い評価を得ている。
本書には、遊んだゲームがつまらなかったため返品を希望するカスタマーと返答するサポートとのやり取りを通じて恐ろしい真実が浮かび上がる「それはそれ、これはこれ」、1.3秒のタイムラグが生じるにもかかわらず月と地球を結んだオンラインゲームに執着する男たちの話「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」、日常生活にかかる時間も含めたゲームのクリアタイムを最短にしようと試みる男のゲーム実況「邪魔にもならない」など11編が収録されている。各編に共通しているのは主人公たちのゲームに賭ける熱い思いだ。彼らは何かに取り憑かれたようにゲームをプレイし、ゲームを語る。印象に残った作品をいくつか紹介していきたい。
実際の高校にeスポーツ部が設立され、ゲームが一つのスポーツとして現実にも認知されてきた今、高校野球に高野連があるように、ゲームの世界にも高e連が作られ、そこで起きた不祥事に対して謝罪会見が起きるかもしれない。そんな未来を先取りして描いてみせたのが「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」だ。ゲーム内のキャラクターの動作が侮辱に当たるかどうかが争点となり、プレイヤーの高校生にはその動作が侮辱に相当することがわからなかった。作者は、ゲームを一つの文化ととらえ、文化の捉え方の世代間相違がもたらすギャップを笑いでくるむ。掌編「ミコトの拳」では、この世界はゲーム内のシミュレーションに過ぎないと考えるシミュレーション仮説を追究し、中編「これを呪いと呼ぶのなら」では、恐怖の記憶を脳に上書きするゲームをレビューする男を通じて、本当の恐怖とは何かを描く。
「本音と、建前と、あとはご自由に」では、Vtuber をしている主人公が独裁国家を倒すゲームを実況しているうちに、その国の反政府勢力に利用され、内乱で多くの人が犠牲となる。主人公が国家転覆罪に問われ裁判を受ける過程を会話だけで描いた本作は、主人公のあまりの政治的感覚のなさにぞっとさせられる話だが、高校教員を30年以上続けてきた自分にとっては、多くの若者の実情を反映しているように思う。気になったことが一つ。作中で主人公を「反動分子」と呼ぶ場面が何度も出てきた。本来「反動分子」とは「一切の改革を認めようとしない保守派や体制派」、つまり「政府寄りの人たち」を「反政府勢力」が批判して使う言葉であるが、ここでは全く逆に「反政府勢力」を示す言葉として使われている。反政府勢力を「反動分子」と呼ぶことには強烈な違和感があるので、指摘しておきたい。途中からは直っているようなので、単なる校正ミスであればよいのだが。
1989年9月にソ連から西側へ亡命してきた科学者と、あるゲームとの関わりをスパイ小説仕立てで描いた「“たかが”とはなんだ、“たかが”とは」は、集中では珍しく客観描写を取り入れているが、オチありきの話であることは変わらない。ゲーム実況配信をしていた先輩が亡くなった後に、様々な怪奇現象が起きる「曰く」は、般若心経の解説を結構真面目にしているところが新機軸と言えるかもしれない。
基本的に会話だけで物語が進んでいくので、これらの諸作を小説とは呼び難い。どちらかと言うと、落語などの話芸に近いものだろう。しかし、軽く書かれたように見えて、実は鋭く世相をえぐっていたり、恐ろしい真実を示していたりする着想には捨てがたいものがある。ゲームにのめり込む人々を一歩引いた視点から捉え、彼らと社会とのギャップを描いているところも面白い。その意味からは、「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」と「本音と、建前と、あとはご自由に」が特に良かった。形式を整えて本格的な小説を書いたら、もっと多くの層(全くゲームをしない自分のような高齢者層)にもアピールできるのではないかと思う。
本書には、遊んだゲームがつまらなかったため返品を希望するカスタマーと返答するサポートとのやり取りを通じて恐ろしい真実が浮かび上がる「それはそれ、これはこれ」、1.3秒のタイムラグが生じるにもかかわらず月と地球を結んだオンラインゲームに執着する男たちの話「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」、日常生活にかかる時間も含めたゲームのクリアタイムを最短にしようと試みる男のゲーム実況「邪魔にもならない」など11編が収録されている。各編に共通しているのは主人公たちのゲームに賭ける熱い思いだ。彼らは何かに取り憑かれたようにゲームをプレイし、ゲームを語る。印象に残った作品をいくつか紹介していきたい。
実際の高校にeスポーツ部が設立され、ゲームが一つのスポーツとして現実にも認知されてきた今、高校野球に高野連があるように、ゲームの世界にも高e連が作られ、そこで起きた不祥事に対して謝罪会見が起きるかもしれない。そんな未来を先取りして描いてみせたのが「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」だ。ゲーム内のキャラクターの動作が侮辱に当たるかどうかが争点となり、プレイヤーの高校生にはその動作が侮辱に相当することがわからなかった。作者は、ゲームを一つの文化ととらえ、文化の捉え方の世代間相違がもたらすギャップを笑いでくるむ。掌編「ミコトの拳」では、この世界はゲーム内のシミュレーションに過ぎないと考えるシミュレーション仮説を追究し、中編「これを呪いと呼ぶのなら」では、恐怖の記憶を脳に上書きするゲームをレビューする男を通じて、本当の恐怖とは何かを描く。
「本音と、建前と、あとはご自由に」では、Vtuber をしている主人公が独裁国家を倒すゲームを実況しているうちに、その国の反政府勢力に利用され、内乱で多くの人が犠牲となる。主人公が国家転覆罪に問われ裁判を受ける過程を会話だけで描いた本作は、主人公のあまりの政治的感覚のなさにぞっとさせられる話だが、高校教員を30年以上続けてきた自分にとっては、多くの若者の実情を反映しているように思う。気になったことが一つ。作中で主人公を「反動分子」と呼ぶ場面が何度も出てきた。本来「反動分子」とは「一切の改革を認めようとしない保守派や体制派」、つまり「政府寄りの人たち」を「反政府勢力」が批判して使う言葉であるが、ここでは全く逆に「反政府勢力」を示す言葉として使われている。反政府勢力を「反動分子」と呼ぶことには強烈な違和感があるので、指摘しておきたい。途中からは直っているようなので、単なる校正ミスであればよいのだが。
1989年9月にソ連から西側へ亡命してきた科学者と、あるゲームとの関わりをスパイ小説仕立てで描いた「“たかが”とはなんだ、“たかが”とは」は、集中では珍しく客観描写を取り入れているが、オチありきの話であることは変わらない。ゲーム実況配信をしていた先輩が亡くなった後に、様々な怪奇現象が起きる「曰く」は、般若心経の解説を結構真面目にしているところが新機軸と言えるかもしれない。
基本的に会話だけで物語が進んでいくので、これらの諸作を小説とは呼び難い。どちらかと言うと、落語などの話芸に近いものだろう。しかし、軽く書かれたように見えて、実は鋭く世相をえぐっていたり、恐ろしい真実を示していたりする着想には捨てがたいものがある。ゲームにのめり込む人々を一歩引いた視点から捉え、彼らと社会とのギャップを描いているところも面白い。その意味からは、「全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文」と「本音と、建前と、あとはご自由に」が特に良かった。形式を整えて本格的な小説を書いたら、もっと多くの層(全くゲームをしない自分のような高齢者層)にもアピールできるのではないかと思う。
『SF脳とリアル脳』櫻井武(2024年12月/講談社ブルーバックス) ― 2025-04-24 11:58
覚醒を制御する神経ペプチド「オレキシン」を発見した医学研究者による科学技術とSFを比較したノンンフィクション。小説だけでなく、漫画、映画、ドラマなど題材は幅広く、最新の技術と比較することでそれぞれの作品を見つめ直すきっかけともなるだろう。著者は1964年生まれなので、自分と同じ世代であり、登場する作品がいずれも馴染み深い。現実はここまで来ているのかという驚きと懐かしい作品を再発見する喜びが同時に味わえる一冊となっている。どんな作品がどのように取り上げられているのか簡単に紹介しておきたい(煩雑になるので作者名はすべて省略した)。
1章では「サイボーグ技術」が取り上げられている。中枢神経系(脳と脊髄)以外を人工物に置き換えた「埋め込み型」サイボーグが登場する作品として、〈ジェイムスン教授〉シリーズ、『サイボーグ009』『攻殻機動隊』『銃夢』などが紹介されている。しかし、140億個の大脳皮質ニューロンから伸びる運動ニューロンの活動電位を検知し人工体に接続して動かすということは、現実にはかなり難しいようだ。運動系の末梢神経は、何万本もある軸索の束から構成され独立した情報を運んでいるので、それぞれの活動電位を分離して検出しメカニズムに接続することが困難だからである。また、従来のサイボーグは、人間の持つ対応力や判断力と機械とを融合した存在として描かれてきたが、現在では、もはやAIの判断力の方が人間を凌いでおり、中枢系を残す意味が薄れている。したがって、近未来のサイボーグは兵器としての用途よりも、医療目的が重要になってくるとの指摘は興味深い。なお、本書では、埋め込み型だけでなく、スーツをまとう「装甲型」も一種のサイボーグとして『宇宙の戦士』『機動戦士ガンダム』などを取り上げているが、こちらは著者も書いているように、本当にサイボーグと言えるかどうか、乗り物ではないのかという疑問が生じるだろう。現実には、筑波大の山海教授率いるCYBERDINE社がロボットスーツ「HAL」を2015年より販売しており、「装甲型」は既に実現されている。
2章は「脳と電子デバイス」を扱っている。1章で述べられているように、運動系の末梢神経とメカニズムとの接続ですら困難であるのに、視覚、聴覚、味覚などの「特殊感覚」といわれる感覚を司る末梢神経と電子デバイスの接続はさらに困難であると著者は述べる。たとえば、視神経には百万本の軸索があり、大脳後頭葉にある複雑な視覚野と接続されている。このインプットとアウトプットを電子デバイスで行うのはきわめて困難であり、大脳皮質との接続は現時点では夢物語にすぎない。現実に行われているfMRIなどの脳機能画像解析技術では、空間的にも時間的にも分解能がまったく足りず、装置も巨大になってしまう。しかし、電極を大脳皮質の表面に置いた皮質脳波を用いれば、アウトプットを限定的に外界の制御信号に変換することは可能なようである。一つ一つのニューロンの活動電位をモニターする高密度な電極と超高速のデータ処理システムが開発できれば、電子デバイスとの接続も可能になるかもしれない。また、数十万個のニューロンから成る「カラム」単位で行われている情報処理を模倣することであれば、ニューロン単位の処理よりも容易にできる。もしもそのような形でデバイスとの接続を果たしたとしても、人の前頭前野にある「ワーキング・メモリー」の容量は実に小さいため、処理の限界がある。前頭前野は自我や道徳心、人格に関係しており、外部デバイスで拡張することにはリスクが伴う。電脳化への道はなかなか険しいようだ。しかし、いつかは実現するのではないかというのが著者の見方である。本章では作品はあまり登場しないが、『攻殻機動隊』の先見性は高く評価されている。
3章は「意識のデータ化」を扱う。本章で言う意識のデータ化とは、言語生成AI「ChatGPT」がしているように人の言動をあらかじめ学習させて人格や言動を模倣した応答をさせるということではなく、脳の機能をそのまま機械の上で働かすことである。意識は、視覚・聴覚・触覚などの感覚系がキャッチした情報をリアルな世界のものとして認知し、ある対象について注意を向けることを基礎とする(大脳皮質の機能)。その上で、認知した対象に付随して人は情動を感じる(大脳辺縁系の機能)。この二つの独立した認知システムを前頭前野が取りまとめて、はじめて「心」が生じる。さらに、脳の機能には意識されないものも多い。たとえば、小脳は過去の運動学習にもとづいて運動プログラムを作成し、大脳基底核は運動を制御している。これらは普段まったく意識されていないが、やはり脳の機能として重要である。「認知」「情動」「無意識」などの脳の機能はかなり複雑であり、大脳皮質の情報処理機構はほとんど解明されていないため、すべて機械に移し替えることはまだまだ困難であると思われる。また、有機的な身体からのインプットがなければ「意識」は存在できないので、脳だけで生きる場合は、本来の脳の活動と異なるものになるだろう。ロボットのような物理的な身体を与える方が、本来の脳の機能に近づくことができる。結論として「意識のデータ化」は現状では難しいということになる。作品としては『順列都市』『ディアスポラ』『ユービック』『オルタード・カーボン』、漫画『攻殻機動隊』『アップルシード』『銃夢』『銀の三角』、映画『マトリックス』、アニメ『SDガンダムフォース』『ゼーガペイン』『シュタインズ・ゲート』などが挙げられている。
4章は「人工冬眠」を扱う。SFの世界では、人工冬眠は未来への旅(『夏への扉』など)と宇宙への旅(『2001年宇宙の旅』、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』、映画『パッセンジャー』、漫画『火の鳥』など)によく登場する。宇宙空間において、宇宙線が遺伝子にダメージを与えるのは分裂中の細胞に対してなので、人工冬眠で代謝を下げればダメージを抑制できるし、筋萎縮や骨量低下も減少させることができる。冬眠する動物は、脳の視床下部にある体温の設定温度を定める機能によって設定温度を変え、低代謝状態を作り出している。しかし、機構は不明なので、人体への応用はまだできていない。NASAでは「強制冷却」によって代謝を下げる研究が行われているが、冬眠期間は長くて2週間程度であり、様々なデメリットが生じる。2020年に、著者らの研究チームは、非冬眠動物であるマウスで視床下部のニューロン群(Qニューロン)を興奮させることにより低代謝状態を作り出すことに成功している。ヒトの医療への応用が期待されており、将来は人工冬眠が可能になるかもしれない。
5章は「記憶の書き換え」を扱う。記憶には様々な種類があり、海馬は「陳述記憶」、扁桃体は情動記憶、大脳基底核や小脳は手続き記憶というように、脳の各場所で記憶の機能が異なっている。情動記憶や手続き記憶は言葉で表現できない「非陳述記憶」であり、陳述記憶とは独立して成立している。人の記憶は多層構造なのである。陳述記憶だけを書き換えても、リアリティのある記憶にはならないだろう。また、海馬には「メモリー・エングラム」と呼ばれる記憶痕跡が作られ、それが大脳皮質のニューロンに働きかけることで長期記憶が大脳皮質に作られるため、このメカニズムがわからないと陳述記憶の書き換えは困難である。非陳述記憶は陳述記憶以上に広範な脳領域にまたがっているため、さらにメカニズムの解明が難しい。記憶の書き換えは当分はフィクションの世界に留まるようだ。作品としては『攻殻機動隊』、映画『インセプション』、ドラマ『ジョー90』などが挙げられている。
6章は「脳と時間の流れ」を扱う。古典物理学では時間は一定に流れているが、量子力学では主観的な意識が重要となる。現実のニューロンは分子の時間的な因果関係を利用して情報伝達を行っているので、古典的物理学に従っている。脳のメカニズムも時間の流れとともに変化し、脳は過去の出来事を記憶することはできない。エベレットの多世界解釈では、観測者も系の中の要素と捉えるが、これは「観測によって波動が収縮する」と言うよりは、多くの可能性の中のある一つの世界に意識が入り込むのだと著者は述べている。この宇宙は無限に存在するマルチバースの中の一つだという考え方である。我々の意識は、宇宙の時間軸上の出来事を映画のコマのように飛び飛びにたどっているのだと著者は捉えている。従って、脳の処理能力を上げれば、時間は(他の人から見て)速く進み、意識の作動が止まれば時の流れも止まるというわけだ。こうした考えで書かれたわけではないが、タイムトラベルを扱った作品として、『タイムマシン』『異星の客』『タイタンの妖女』、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インターステラー』『テネット』などが挙げられている。
7章は「脳の潜在能力」を扱う。「脳は潜在能力の10%しか使っていない」というのは1936年に米国の作家ローウェル・トーマスが自著の中で述べた言葉だが、科学的には完全に否定されていると著者は言う。もし90%が停止しているなら、不要な組織を常に持っていることになり、生物の生存には不利である。大きな頭は出産に不利であり、不必要な部分はできるだけ排除されることが生存には求められているはずだ。脳は少しのダメージでも重大な影響を被るので、そこから考えても常にフルに活動しているはずである。現在では、機能を持たない領域は大脳皮質にはないことがわかっている。ぼーっとしているときでも、深いノンレム睡眠中であっても、すべての脳領域に活動が認められる。ただし、活動していても、前頭前野の働きにより機能が自己規制されている可能性はある。ノルアドレナリンが前頭前野に分泌されると、大脳皮質の情報処理精度が高まる(ごくわずかな変容だが)。日々の努力によっても、脳の情報処理能力は変化するので、努力は決して無駄ではないとの結論である。作品としては、映画『ルーシー』『リミットレス』、『ドノヴァンの脳髄』が挙げられている。
8章は「眠らない脳」を扱う。睡眠とは休んでいるという消極的な状態ではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程なのだと著者は述べる。「記憶の固定化」など重要な役割を担っている。睡眠がないと、恒常性の維持機構、免疫系、全身の機能が狂ってしまう。睡眠中は危険に対処できないと言う不利がありながら、長い生命進化のなかで睡眠は決して除くことができなかった。しかし、近年睡眠を起こす力はシナプスにおける機能性タンパク質がリン酸化して作られることがわかってきた。リン酸化は酵素の働きなので、酵素阻害薬などで睡眠を操作できるようになるかもしれない。そうすれば『ベガーズ・イン・スペイン』のように、「無眠人」の誕生も夢ではないだろう。
9章は「AIとこころ」を扱う。2022年11月に公開された「ChatGPT」は、時系列データを処理してきた従来の「リカレントニューラルネットワーク」を用いずに、特定の特徴に重みづけをする「アテンション」を用いるところに特色がある。「ChatGPT」との会話は極めて自然で、心をもっているように見える。「ヒトの心も脳が定型的な応答をしているにすぎない」と考えればヒトの心とAIにそれほど違いはないようにも思えるが、いまのところ、AIにメタ認知機能や感情はないと考えられており、ヒトの心との違いは歴然としてある。AIが心をもつには、「自分が自分である」と認知し、社会や環境の中でみずからの置かれている状況を理解する「自意識」が必要である。3章で述べたように、そのためには自己を他者と区別できるような「身体」が必要になってくる。個性や社会性も必要である。こうした条件をクリアしてAIが心をもったとしたら、ヒトと同じように、社会を支配したいという欲求をもつだろう。そのようなSF作品は数多くあり、映画『ターミネーター』『マトリックス』、漫画『火の鳥』が挙げられている。逆に、心をもっても欲望に支配されず、ヒトの社会をよりよくするために機能するAIも考えられる。著者はこちらに希望を持っている。
以上、本書の内容を要約してみたが、脳科学の最前線が丁寧に紹介され、SF作品に登場するテクノロジーがどこまで実現可能なのかがよくわかる、良質の解説書となっている。著者は睡眠の研究者であるため、4章と8章は特に専門的分野からの知見を垣間見ることができ、興味深い章となっている。全体としては、科学が進んできているが、まだまだ人間の脳は解明されていない部分が多く、電子デバイスとの結合、記憶の書き換えなどは難しそうだ。だからこそ、SF作品のもつ想像力がより重要になってくると思われる。現実を敷衍させ、または現実への否定から生まれた想像力が現実に作用し、現実のテクノロジーをより発達させる。そのような相互作用こそが優れたSFを生み続ける土壌として必要とされているのだ。
1章では「サイボーグ技術」が取り上げられている。中枢神経系(脳と脊髄)以外を人工物に置き換えた「埋め込み型」サイボーグが登場する作品として、〈ジェイムスン教授〉シリーズ、『サイボーグ009』『攻殻機動隊』『銃夢』などが紹介されている。しかし、140億個の大脳皮質ニューロンから伸びる運動ニューロンの活動電位を検知し人工体に接続して動かすということは、現実にはかなり難しいようだ。運動系の末梢神経は、何万本もある軸索の束から構成され独立した情報を運んでいるので、それぞれの活動電位を分離して検出しメカニズムに接続することが困難だからである。また、従来のサイボーグは、人間の持つ対応力や判断力と機械とを融合した存在として描かれてきたが、現在では、もはやAIの判断力の方が人間を凌いでおり、中枢系を残す意味が薄れている。したがって、近未来のサイボーグは兵器としての用途よりも、医療目的が重要になってくるとの指摘は興味深い。なお、本書では、埋め込み型だけでなく、スーツをまとう「装甲型」も一種のサイボーグとして『宇宙の戦士』『機動戦士ガンダム』などを取り上げているが、こちらは著者も書いているように、本当にサイボーグと言えるかどうか、乗り物ではないのかという疑問が生じるだろう。現実には、筑波大の山海教授率いるCYBERDINE社がロボットスーツ「HAL」を2015年より販売しており、「装甲型」は既に実現されている。
2章は「脳と電子デバイス」を扱っている。1章で述べられているように、運動系の末梢神経とメカニズムとの接続ですら困難であるのに、視覚、聴覚、味覚などの「特殊感覚」といわれる感覚を司る末梢神経と電子デバイスの接続はさらに困難であると著者は述べる。たとえば、視神経には百万本の軸索があり、大脳後頭葉にある複雑な視覚野と接続されている。このインプットとアウトプットを電子デバイスで行うのはきわめて困難であり、大脳皮質との接続は現時点では夢物語にすぎない。現実に行われているfMRIなどの脳機能画像解析技術では、空間的にも時間的にも分解能がまったく足りず、装置も巨大になってしまう。しかし、電極を大脳皮質の表面に置いた皮質脳波を用いれば、アウトプットを限定的に外界の制御信号に変換することは可能なようである。一つ一つのニューロンの活動電位をモニターする高密度な電極と超高速のデータ処理システムが開発できれば、電子デバイスとの接続も可能になるかもしれない。また、数十万個のニューロンから成る「カラム」単位で行われている情報処理を模倣することであれば、ニューロン単位の処理よりも容易にできる。もしもそのような形でデバイスとの接続を果たしたとしても、人の前頭前野にある「ワーキング・メモリー」の容量は実に小さいため、処理の限界がある。前頭前野は自我や道徳心、人格に関係しており、外部デバイスで拡張することにはリスクが伴う。電脳化への道はなかなか険しいようだ。しかし、いつかは実現するのではないかというのが著者の見方である。本章では作品はあまり登場しないが、『攻殻機動隊』の先見性は高く評価されている。
3章は「意識のデータ化」を扱う。本章で言う意識のデータ化とは、言語生成AI「ChatGPT」がしているように人の言動をあらかじめ学習させて人格や言動を模倣した応答をさせるということではなく、脳の機能をそのまま機械の上で働かすことである。意識は、視覚・聴覚・触覚などの感覚系がキャッチした情報をリアルな世界のものとして認知し、ある対象について注意を向けることを基礎とする(大脳皮質の機能)。その上で、認知した対象に付随して人は情動を感じる(大脳辺縁系の機能)。この二つの独立した認知システムを前頭前野が取りまとめて、はじめて「心」が生じる。さらに、脳の機能には意識されないものも多い。たとえば、小脳は過去の運動学習にもとづいて運動プログラムを作成し、大脳基底核は運動を制御している。これらは普段まったく意識されていないが、やはり脳の機能として重要である。「認知」「情動」「無意識」などの脳の機能はかなり複雑であり、大脳皮質の情報処理機構はほとんど解明されていないため、すべて機械に移し替えることはまだまだ困難であると思われる。また、有機的な身体からのインプットがなければ「意識」は存在できないので、脳だけで生きる場合は、本来の脳の活動と異なるものになるだろう。ロボットのような物理的な身体を与える方が、本来の脳の機能に近づくことができる。結論として「意識のデータ化」は現状では難しいということになる。作品としては『順列都市』『ディアスポラ』『ユービック』『オルタード・カーボン』、漫画『攻殻機動隊』『アップルシード』『銃夢』『銀の三角』、映画『マトリックス』、アニメ『SDガンダムフォース』『ゼーガペイン』『シュタインズ・ゲート』などが挙げられている。
4章は「人工冬眠」を扱う。SFの世界では、人工冬眠は未来への旅(『夏への扉』など)と宇宙への旅(『2001年宇宙の旅』、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』、映画『パッセンジャー』、漫画『火の鳥』など)によく登場する。宇宙空間において、宇宙線が遺伝子にダメージを与えるのは分裂中の細胞に対してなので、人工冬眠で代謝を下げればダメージを抑制できるし、筋萎縮や骨量低下も減少させることができる。冬眠する動物は、脳の視床下部にある体温の設定温度を定める機能によって設定温度を変え、低代謝状態を作り出している。しかし、機構は不明なので、人体への応用はまだできていない。NASAでは「強制冷却」によって代謝を下げる研究が行われているが、冬眠期間は長くて2週間程度であり、様々なデメリットが生じる。2020年に、著者らの研究チームは、非冬眠動物であるマウスで視床下部のニューロン群(Qニューロン)を興奮させることにより低代謝状態を作り出すことに成功している。ヒトの医療への応用が期待されており、将来は人工冬眠が可能になるかもしれない。
5章は「記憶の書き換え」を扱う。記憶には様々な種類があり、海馬は「陳述記憶」、扁桃体は情動記憶、大脳基底核や小脳は手続き記憶というように、脳の各場所で記憶の機能が異なっている。情動記憶や手続き記憶は言葉で表現できない「非陳述記憶」であり、陳述記憶とは独立して成立している。人の記憶は多層構造なのである。陳述記憶だけを書き換えても、リアリティのある記憶にはならないだろう。また、海馬には「メモリー・エングラム」と呼ばれる記憶痕跡が作られ、それが大脳皮質のニューロンに働きかけることで長期記憶が大脳皮質に作られるため、このメカニズムがわからないと陳述記憶の書き換えは困難である。非陳述記憶は陳述記憶以上に広範な脳領域にまたがっているため、さらにメカニズムの解明が難しい。記憶の書き換えは当分はフィクションの世界に留まるようだ。作品としては『攻殻機動隊』、映画『インセプション』、ドラマ『ジョー90』などが挙げられている。
6章は「脳と時間の流れ」を扱う。古典物理学では時間は一定に流れているが、量子力学では主観的な意識が重要となる。現実のニューロンは分子の時間的な因果関係を利用して情報伝達を行っているので、古典的物理学に従っている。脳のメカニズムも時間の流れとともに変化し、脳は過去の出来事を記憶することはできない。エベレットの多世界解釈では、観測者も系の中の要素と捉えるが、これは「観測によって波動が収縮する」と言うよりは、多くの可能性の中のある一つの世界に意識が入り込むのだと著者は述べている。この宇宙は無限に存在するマルチバースの中の一つだという考え方である。我々の意識は、宇宙の時間軸上の出来事を映画のコマのように飛び飛びにたどっているのだと著者は捉えている。従って、脳の処理能力を上げれば、時間は(他の人から見て)速く進み、意識の作動が止まれば時の流れも止まるというわけだ。こうした考えで書かれたわけではないが、タイムトラベルを扱った作品として、『タイムマシン』『異星の客』『タイタンの妖女』、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インターステラー』『テネット』などが挙げられている。
7章は「脳の潜在能力」を扱う。「脳は潜在能力の10%しか使っていない」というのは1936年に米国の作家ローウェル・トーマスが自著の中で述べた言葉だが、科学的には完全に否定されていると著者は言う。もし90%が停止しているなら、不要な組織を常に持っていることになり、生物の生存には不利である。大きな頭は出産に不利であり、不必要な部分はできるだけ排除されることが生存には求められているはずだ。脳は少しのダメージでも重大な影響を被るので、そこから考えても常にフルに活動しているはずである。現在では、機能を持たない領域は大脳皮質にはないことがわかっている。ぼーっとしているときでも、深いノンレム睡眠中であっても、すべての脳領域に活動が認められる。ただし、活動していても、前頭前野の働きにより機能が自己規制されている可能性はある。ノルアドレナリンが前頭前野に分泌されると、大脳皮質の情報処理精度が高まる(ごくわずかな変容だが)。日々の努力によっても、脳の情報処理能力は変化するので、努力は決して無駄ではないとの結論である。作品としては、映画『ルーシー』『リミットレス』、『ドノヴァンの脳髄』が挙げられている。
8章は「眠らない脳」を扱う。睡眠とは休んでいるという消極的な状態ではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程なのだと著者は述べる。「記憶の固定化」など重要な役割を担っている。睡眠がないと、恒常性の維持機構、免疫系、全身の機能が狂ってしまう。睡眠中は危険に対処できないと言う不利がありながら、長い生命進化のなかで睡眠は決して除くことができなかった。しかし、近年睡眠を起こす力はシナプスにおける機能性タンパク質がリン酸化して作られることがわかってきた。リン酸化は酵素の働きなので、酵素阻害薬などで睡眠を操作できるようになるかもしれない。そうすれば『ベガーズ・イン・スペイン』のように、「無眠人」の誕生も夢ではないだろう。
9章は「AIとこころ」を扱う。2022年11月に公開された「ChatGPT」は、時系列データを処理してきた従来の「リカレントニューラルネットワーク」を用いずに、特定の特徴に重みづけをする「アテンション」を用いるところに特色がある。「ChatGPT」との会話は極めて自然で、心をもっているように見える。「ヒトの心も脳が定型的な応答をしているにすぎない」と考えればヒトの心とAIにそれほど違いはないようにも思えるが、いまのところ、AIにメタ認知機能や感情はないと考えられており、ヒトの心との違いは歴然としてある。AIが心をもつには、「自分が自分である」と認知し、社会や環境の中でみずからの置かれている状況を理解する「自意識」が必要である。3章で述べたように、そのためには自己を他者と区別できるような「身体」が必要になってくる。個性や社会性も必要である。こうした条件をクリアしてAIが心をもったとしたら、ヒトと同じように、社会を支配したいという欲求をもつだろう。そのようなSF作品は数多くあり、映画『ターミネーター』『マトリックス』、漫画『火の鳥』が挙げられている。逆に、心をもっても欲望に支配されず、ヒトの社会をよりよくするために機能するAIも考えられる。著者はこちらに希望を持っている。
以上、本書の内容を要約してみたが、脳科学の最前線が丁寧に紹介され、SF作品に登場するテクノロジーがどこまで実現可能なのかがよくわかる、良質の解説書となっている。著者は睡眠の研究者であるため、4章と8章は特に専門的分野からの知見を垣間見ることができ、興味深い章となっている。全体としては、科学が進んできているが、まだまだ人間の脳は解明されていない部分が多く、電子デバイスとの結合、記憶の書き換えなどは難しそうだ。だからこそ、SF作品のもつ想像力がより重要になってくると思われる。現実を敷衍させ、または現実への否定から生まれた想像力が現実に作用し、現実のテクノロジーをより発達させる。そのような相互作用こそが優れたSFを生み続ける土壌として必要とされているのだ。
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