『壊れゆく世界の哲学 フィリップ・K・ディック論』(2021)ダヴィッド・ラブジャード/堀千晶・訳(2023年10月/月曜社)2026-08-19 18:02

『壊れゆく世界の哲学 フィリップ・K・ディック論』(2021)ダヴィッド・ラブジャード
 ドゥルーズの研究者として知られる著者が、ディックについて、主に哲学的な面から論じた評論集。決して難解ということはなく、むしろ広範囲にディックの様々な面を取り上げていて、むしろディックの入門書として適しているのではないかと思われる。

 著者は、前提として、世界をとおして思考するのがSFであるというところから出発する。遠くの銀河、パラレル・ワールド、ホロコースト後の世界。SFが、多くの場合ステレオタイプの作中人物しか生みだせないのも、世界がどんなどのような法則にしたがっているかを理解させてくれるなら、どんな人物でもいいからである。また、「科学」は私達を遠くの世界へ連れ出すための手段にすぎず、科学と技術はSFにとって二次的なものにとどまる。同様に別世界を構想する思考形態――神話、形而上学、宗教――とSFが親和性を持つのも、いずれも新たな世界を構想し世界をとおして思考していくからなのだ、と。

 これを踏まえて、ディック作品の特色を見ていくと、ディック自身の言葉にあるとおり、SF作家は「二日後に崩壊することのない世界を構築しなければならない」のに、彼は「二日経つとほんとうに粉々に砕け散ってしまう世界を創造するのが好き」(『フィリップ・K・ディックのすべて』)なのだ、ということになる。「アジャストメント」「展示品」『時は乱れて』などに見られるように現実崩壊感覚(この確かな現実が模造品に過ぎないとわかったときの錯乱)を繰り返しディックは描いているが、彼は、新たな可能世界を想像することではなく、「現実的なものの深層へと降りてゆき、どのような新しい錯乱が駆動しているかを見究めること」を重要視している、と著者は言う。錯乱の力は現実の概念そのものを揺さぶる。現実世界が唯一のものならば、錯乱は二次的で病理的なものにならざるを得ないが、SFのように様々な可能世界を探究するジャンルであれば、現実に優位性はない。フーコーが『精神医学の権力』で述べたように、精神医学者が現実の形態を強要することに対して、患者は「根絶しえない確信」をもって支配的現実に対抗する。ディックは狂人ではなかったが、とりわけ、一九七四年二月の神秘体験以降、宗教的な妄想体験を経て精神病期を経験した人物(『アルベマス』のニコラス・ブレイディ、『ヴァリス』のホースラヴァー・ファット)と、彼を心配するSF作家(ディック)の両方を作品に登場させて、錯乱した可能性と支配的現実との闘いを描いた。ディックは、狂気に肩入れし、支配的現実の欺瞞を暴こうとしているのか、医者に肩入れし、支配的現実を受け入れたうえで現実もまた妄想に閉じこめられていることを示そうとしたのか、という問いが本書の「序」で立てられ、以下の本論で検証されていく。

 第一章「諸世界」では、まず『シミュラクラ』『宇宙の眼』をもとに、主観的世界と客観的世界との対立を見ていく。人はそれぞれ世界をもっていて、客観的世界に帰属している者は誰もいないというのがディックの一貫した立場である。『アルファ系衛星の氏族たち』では、パラノイア、躁病、分裂症と様々な精神疾患を持つ氏族たちが暮らす衛星が登場するが、これは地球の似姿に他ならない。

 第二章「因果」では、ディック作品における因果律解体を二つの作品で例示する。一つは、『太陽クイズ』(『偶然世界』)において、ゲーム理論の確率論によって政治権力が任意の市民に賦与される点。もう一つは、『高い城の男』において、『易経』によって因果的連関がない二人の男が運命づけられる点である。後者においては、二人の男は別々に『易経』を紐解き、同じ卦を得て行動したため、そこには因果関係ではなく、同期性(シンクロニシティ)が生じる。『高い城の男』中の枢軸国が勝利した世界と『イナゴ身重く横たわる』中の連合国が勝利した世界(われわれの現実とも異なっている)との関係は因果律では説明できず、同期性が作用しており、それゆえ交流が可能となるのだ、という著者の指摘は興味深い。

 第三章「思考する事物」では、崩壊した世界におけるアイデンティティ確立の問題を取り上げる。ディックの世界では、人は自分の生きている世界そのものであり、世界が消滅すると、その人も存在しなくなる(「逃避シンドローム」)。心と世界は一体化しており、その世界は集合的無意識によって決められ、世界に幻覚的な形態をまとわせている(『フロリクス8から来た友人』)。『スキャナー・ダークリー』では、主人公フレッドは、右脳と左脳を切断して意識の統合を失わせる麻薬を摂取し、人格が分裂してしまう。神秘体験後のディックが、西暦七〇年のローマ帝国に住むトマスという別人格を生んだのも、集合的無意識の太古の記憶が浮上してきて、妄想を通じた「治癒や再構成の試み」をしているようだと著者は言う。ロックは人格の同一性を記憶の連続性によって基礎づけたが、ディックにおいては、記憶喪失、偽の記憶(「トータル・リコール」)が常に発生しており、人格は不安定となる。デカルトは「われ思う」を「思考する事物」に関連づけたが、ディックにおいては、人は人間自体が機械と化すことを恐れており、「にせもの」に見られるように、「思考する事物」が機械であること、アンドロイドであることが不安の源泉となる。因果律同様、自同律も崩壊した中で、妄想こそが「粘り強い治癒の努力」であり、希望を抱く人物の伴侶だと結論づけるこの章は、本書の中でも圧巻である。

 第四章「幻想的なもの」では、ディックと幻想小説との関連が論じられる。SFが一つの世界を理性的に構想するのに対し、幻想小説はつねに二つの世界のあいだでの衝突の経験をつくりだす。この衝突は、たえず非合理的なものに突きあたり、ゆらぎのうちに宿るものが幻想性である(フロイトはこれを「不気味なもの」と呼んだ)。作中人物に超自然的な出来事が起きた場合、錯覚や空想の産物なのか、未知の世界の法則に従っているのかはわからない。夢と現実が区別できるのは、判断力の優位が確立されているからだ。サルトルは、夢見る人は「世界内存在」を失っていると述べたが、だからこそ夢見る人には非現実的なこと=偽物は存在しない。夢は覚醒と睡眠とのあいだの第三の状態である。ディックの作品において、この状態は、麻薬、精神障害、心理操作などによって獲得される。遠くの銀河、スペースシップ、地球外生命体の背後には、幻想的なものが潜んでおり、ディックはたえずそこに合流しようとする。黒澤明やブニュエルの映画に出てくる「夢」は現実に干渉することのない別世界であり「綺想的なもの(ファンタスマティック)」、ディックやリンチの描く「夢」はリアルな別の世界そのものであり「幻想的なもの(ファンタスティック)」である。ライプニッツの合理的な排除原理に対してシモンドンとドゥルーズが示したのは、特定の条件下でのみそれが成立するということだった。前個体的な世界では、世界は流動的であり、夢と現実は両立する。ドゥルーズの言う「包含的な離接」がディックの世界には見られるのである。

 第五章「エントロピーと退行」では、ディック作品における「退行」が扱われる。『ユービック』では、人間が老いていくだけでなく、飛行機や自動車などの事物も時間に逆行して古くなっていく。技術と科学の「進歩」がSFの深層的傾向であるなら、『ユービック』はアンチSFである。『火星のタイム・スリップ』では、精神医学者ビンスワンガーの唱えた「墓穴世界」を援用し、人ではなく、世界それ自体が精神病的な基底を有している様を描く。ディックにおける「退行」は、たんなる後戻りではなく、すべての全面解体に立脚した未来へのヴィジョンでもある。未来に向かってひたすら破壊と死を欲望することはディックにおけるニヒリズムの形態のひとつだ(「非O」)。ディックはエントロピー(の増大)と活発に闘うが、バラードは諦念をもって受け容れる。

 第六章「世界を掌握する者たち」では、ディック作品で世界をコントロールするのは誰かという問題が考察される。「世界のすべては彼女のために」に示されているように、ディックの作中人物は、自身がすべてを決定し自分自身の世界の中で生きようとするが、うまく行かない。「あらゆる世界は、その外観をつくりだし、コントロールする人のものである」。従って、世界の外観は所与のものではなく、他者によって投射されたものだ。〈主体/世界〉の二項関係は〈発信者/受信者〉の二項関係へとずれていく。ディックに情報理論が適合するのはそのためだ。情報学的観念論は脱物質化へと至る。情報化は全面的な透明性を可能にし、隣人の思考は解読可能なものとなる。脱物質化と相関して、世界とその住人の人工物化が進展する。情報、生、人間、機械が同一平面上に乗せられる。広告、メディア、コンピュータが「外部」世界を乗っ取り、心の「内部」世界も乗っ取ろうとする。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』では、麻薬の売人が神のように振る舞い、世界をコントロールしている。今や、世界掌握者は、まえもって存在する秩序を人々に押しつけるのではなく、現実を連続的に算出し続け、たえざる変化を人々にもたらす。このあたりは、ドゥルージアンとしての著者の分析が冴えるところだ。

 第七章「人工世界」では、ディックの描く偽の世界が考察される。ディックが生涯を過ごしたカリフォルニアは「まがいもの」に満ちており、伝統も誇りも倫理もないとディック自身は語っている。ポップ・アートは見せかけを増殖させることで、空虚感や模造品としての性格を浮彫りにするが、広告の多用(「CM地獄」)や複製の偏在(『死の迷路』『去年を待ちながら』「くずれてしまえ」)は、ディックを《ポップ》に接近させている。偽物の世界は、偽物自体を新たな現実に仕立てあげるだけの自律性を獲得する。偽物によって現実から世界を盗み取ることは、あらゆる植民地化が行う行為でもあり、『火星のタイム・スリップ』における先住民の扱いは、アメリカが《インディアン》にしたことに似ている。世界から排除された人たちは、あらゆる世界の外にある収容所にいるのだ。

 第八章「デジタル人間(あるいはアンドロイドとは何か)」では、人間と機械の区別が取り上げられる。原題はサーヴィス社会であり、すべては機械によって操作されている。自動化が権力を握り、権力はプログラムの中に移行した。機会は人間化し、人間は機械と同じくらい非人間的となる(『あなたをつくります』)。人間を特徴づけるのは感情移入(共感)だとディックは繰り返し述べるが、それこそプログラミングの全般化に対して人間の内部から抵抗するものである。ウィリアム・バロウズは、イメージを生む「言葉」をウイルスと定義したが、ディックとバロウズはともにコージブスキーを読んでいた。コージブスキーは、非言語的な体験から生じる創造性を重んじた(右脳の優位)。感情移入は諸世界の間の行き来を可能にし、協同組合を作り上げていくが、言語をもととする官僚制は諸世界をしゃぶりつくし、自分の取り分を採取する。ディックが音楽(=反言語)を特権視したのもこれが理由であろう。七四年から八年に渡り書かれた『釈義』からは、ディックはSFを見限り、宗教的秘教主義に乗り換えた印象を受けるが、この時期に書かれた小説は、宗教をSFの領域に組み込んだものだ。彼はあらゆるSFの奥底にひそむ宗教や神話の誘惑を浮彫りにしたのである。

 第九章「狩りとパラノイア」では、ディックとアメリカ史との関連が語られる。ディック作品には多くのパラノイアが登場するが、冷戦とともに醸成されたアメリカ社会の雰囲気が理由のひとつに挙げられる。広告の浸透もそれを促進した。パラノイアは自分の世界から外に出られない。他人の出現は自分の全能性をおびやかすため、常に他者を孤立させようとする。不信、共感の欠如、誤った仮定に基づく推論がパラノイアを特徴づける(「スパイはだれだ」)。メルヴィルの鯨狩り、ホーソーンのインディアン狩りなどに続くアメリカ文学史の伝統にディックはアンドロイド狩りで参加した。米国史自体が、黒人狩り、魔女狩り、共産主義者狩りといったパラノイアによる狩りの継起としてあらわれる。しかし、狩る側が獲物ではないと狩人に保証するものは何か、ディックの作品はこの問題を突きつけてくる(『アンドロ羊』『スキャナー・ダークリー』)。

 第十章「生と死のあいだで」では、政治体の永遠性が論じられる。ディック作品では、冒頭からよく人が死ぬ(「ラウタヴァーラ事件」『ユービック』)。生きている人間の内面が死んでいる作品はあまたあるが、ディックの関心は、死んでしまった人間が、それでも生き続けているケースにある。『去年を待ちながら』の独裁者モリナーリは何度も死ぬが、その度にパラレルワールドの身体を利用することによって、人間的な有機体と神的な政治体を統合させる。『ドクター・ブラッドマネー』におけるホッピーのように、この統合は恩寵によるものではなく、麻薬や医療技術によるものが多い点にディックの特色がある。こうした「双生体」のイメージは、模造の政治的人物へとずらされ(『シミュラクラ』の大統領、『最後から二番目の真実』の護民官)、政治体は情報によって生み出されるアヴァターとなる。ニクソンは有機的身体とパラノイア的な政治体の両方を持っていたため、ディックは彼に魅せられていた。ニクソンの失権は、ディックにとって幸福の前兆だったのではないかと著者は言う。『ユービック』のジョリーは、人々の生命エネルギーを吸い取って生きているが、それは、機械やアンドロイドやニクソンと共通する、寄生する政治体なのだ。

 第十一章「ブリコラ-ジュすること(あるいはランダムな変数)」では、生き延びる方法が語られる。SFは、戦争、疾病、地球外からの侵略、核爆発などのカトストロフィ以後を描く。ディックは核戦争後の世界をよく描いたが、例外的に『ドクター・ブラッドマネー』では、核爆発そのものを「主観的」に描いている。戦争後の世界で、苦境から抜け出すために力を尽くす普通の人がディックの作中人物には多い。主役は、レコード屋、修理士、陶工、タイヤの溝堀り職人などであり、ブリコラージュする人々である。事前の計画を持つエンジニアとは違って、彼らは多様なものを大量に貯め込み、手持ちの材料と対話しながら、有用性を見つけていく。制限のなかで、手持ちの材料との親和性や共感関係を感じとる。これは右脳に依拠する活動であり、非言語的で、技術支配(テクノクラシー)と対抗する。「変数人間」に登場する修理士は、まさしくブリコラージュする人である。再利用と逸脱はブリコラージュの本質的な側面であり、芸術家、贋造者、ハッカーに通じる。彼らの目的は、諸世界を行き来することだ。修繕することは元の世界を復元することではなく、新たな諸世界が交わる場を創造し、「共感の循環を後押ししながら、活気に満ちた連続体のかたちを創造すること」なのだ。レヴィ=ストロースはブリコラージュを神話的思考と接近させたが、SFにおける地球外生命体、冒険家、スペースシップ、超近代的なテクノロジーは、一連の「神話素」と言える。ディックはあらゆる「神話素」を逸脱させ、多数の作品を書いた。ブリコラージュする人とは、ディック自身のことではないか。ブリコラージュとは妄想の別名であり、妄想とは、修繕を行う分裂症的なブリコラージュの一種ではないかと述べて、著者は論を終える(三章参照)。見事な結びである。

 総じて、ディック作品に関するトピックを万遍なく取り上げ、具体的な作品を例示しながら論じていく姿勢には無理がなく、好感が持てる。精神分析や哲学を援用した視点に、はっとさせられるところが多く、特に、妄想を「治癒」として積極的な意味を見出した三章、ドゥルーズの概念を用いてディック作品の特色を論じた四章・六章、ブリコラージュとの共通性を見出した十一章は特筆すべきだろう。アメリカ史やアメリカ文学史との対比も、よくある視点とは言え、ディックの本質を見事に突いている。D・H・ロレンスの手紙(九章)やウィリアム・ジェイムズの引用(十一章)は、まるでディックの言葉そのものだ。右脳・左脳の二項対立はもはや古びているのではないかとか、エントロピーの用い方とか首をひねるところもあるが、全体としては良く出来たディック論になっており、今後のディック研究の基本的文献としてお勧めしておきたい。

 最後に、文章表現について、気になったことを二つ。出版界の趨勢なのかもしれないが、「じぶん」「かんぜん」「かんぺき」をひらがな表記にするのは、読者にとって読みにくいということと、並列の「~たり」を最初にしか使っていない箇所が散見されるということ。この二つについては、訳者側の問題か校正側の問題かわからないが、今後の改善が望まれる。