榊原淳子『ヌーン・ムーンを見るために』2016-05-10 23:37

 ゴールデンウィーク中に、いつものように、京都のみやこめっせで行われる古本まつりに出かけた。昔ほど古本を買い込むことはないのだが、懐かしい名前を見かけて、榊原淳子の本を二冊購入。1886年に出たエッセイ集『ヌーン・ムーンを見るために』と1987年の詩集『ボディ・エレクトリック』(どちらも思潮社刊)である。

 知らない人のために説明しておくと、榊原淳子(1961年~)は愛知県春日井市出身の詩人。ユリイカ投稿欄から出て来た女流詩人として70年代末から80年代前半に活躍。他の詩集に『赤いえんどう豆でありたい』1979年(昧爽社)『世紀末オーガズム』1983年(思潮社)がある。エッセイ集などによると、早熟な文学少女だったらしく、中学でサガンやボーヴォワールを読み、高校で観念的かつ前衛的な現代詩をものし、大学1年のときには、既に第一詩集を出版していたということになる。現実世界に違和感を持ち、観念と現実とが激しくぶつかり合う、こうしたタイプの表現者は得てしてSFと相性が良かったりするものだが、エッセイ集では、ホーガン『星を継ぐもの』やニーヴン&パーネル『神の目の小さな塵』への熱い想いを存分に語っており、その衒いのなさに圧倒されてしまう。ちょっと引用してみよう。

「私の、浅い読書体験における、ダントツ一位が、この『神の目の小さな塵』だ。ホーガンの例の三部作をも、簡単に抜き去って。(略)これだけは、本当に、生きてて良かったと思わせてくれる本だ。『神の目の小さな塵』に、めぐりあえたことは、私のとても大きな幸福だ。でも、まー、他の人にとっては、それほどの本でもないのかもしれないけど。『神の目の小さな塵』を読んで、SFの可能性を思った。SFに、あんなことができるのか、と感心した。私も、ああいったことがしてみたいのだ。」(『ヌーン・ムーンを見るために』255頁)

 すごいでしょう? いや、『神の目の小さな塵』をここまで褒めた人はおそらく他にいまい。「他の人にとってそれほどの本でない」のは間違いないと思う(笑)。どうやら「クレイジーエディ」という観念にいたく感動したらしいのだが、初心者にとっては、プリミティヴなアイディアこそが輝いて見えるということなのだろうか。第三詩集である『ボディ・エレクトリック』は、SF実践編というわけなのか、未来のアンドロイド、ベネディクト・パトリテクトに恋する「私」を描いた連作詩がほとんどを占めている。アンドロイドと言っても、赤い血を流し、普通の人間同様セックスもできるようだし、これではほぼ普通の人間と変わらない。心が通じないなんて、人間同士でもしょっちゅうだしね。そこをねらっているとしたら、なかなか上手く出来ている。著者はディックにも影響を受けているようだ。

 エッセイ集に話を戻そう。ここまで書いておいて何だが、SFに関する部分よりは、自伝的な部分の方を興味深く読んだ。それも当然であって、春日井市の本屋、千種駅からバスに乗った風景、アングラ演劇で有名な大須の七ツ寺共同スタジオなどなど、名古屋、春日井で育った自分が3年遅れて目にしてきたのと同じ光景がここには描かれている。懐かしくないわけがないのだ。また多少フィクションが入っているのだろうが、赤裸々に描かれる恋愛体験にも、ついつい引き込まれてしまった。二人目の恋人であったSさんというのは、明らかに北村想だろう。先日『DOWMA』という北村想脚本の演劇を観たばかりでもあり、何か因縁を感じてしまった。

 実は自分は、榊原淳子と一度会っている。20歳のころ、地元の中日新聞が開催した漫画に関する座談会に、大学漫研部長として出席したときのこと(1984年)。座談会には、名古屋同人誌会の創始者である堀田清成、『楽書館』主宰の水野流転など錚々たるメンバーが参加していたが、その中に既に結婚して大阪に住んでいた榊原淳子がいたのである。当時はどういう方か全く知らなくて、漫画にすごく理解のある詩人で、キレイな人だなあとという印象を受けた。エッセイ集では、自分は大学時代から恋人がいなかったことがなかったと書いてあるが、さもありなんという感じ。

 蛇足を一つ。ネットを検索すると、『ふがいない僕は空を見た』などで知られる作家の窪美澄が高校時代に印象に残った詩として榊原淳子の「宣言」を上げていた(WEB本の雑誌、2011年)。今こそ榊原淳子を再評価すべきときなのかもしれない。

アン・レッキー『叛逆航路』2016-05-08 18:17

 昨年の11月に出た本だが、ヒューゴー・ネビュラを始め多数の賞を取っていることもあり、気になっていながら読めないまま、あっという間に半年近くが過ぎてしまった。今回続編が出たのを機に、さすがに気合を入れて一気に読む。結論から言うと、面白い。読む価値は十二分にある。ただし、内容がそれほど斬新であるというわけではない。帯には“『ニューロマンサー』を超える快挙”とあるが、それはあくまでもデビュー長篇が取った賞の数のことであって、本の内容のことではないので、ご注意のほどを。

 艦船自身が主役であるとか、「わたし」が同時に20人いるとか、3人称代名詞がすべて「彼女」であるとか、いくつか目新しい点はあるが、物語の中心はそこにはない。かと言って、ドンパチを中心としたミリタリーSFでも、もちろんない。本書は、入念に作り込まれた異世界設定がもたらす異文化体験を主眼とした文化人類学的SFとしてまずは読まれるべきではないだろうか。

 遙かな未来、ラドチャーイと呼ばれる星間国家が、他の惑星に入植した人類に対して「併呑」という名の侵略を行い、意識を上書きした「属躰(アンシラリー)」に作りかえ、兵員として従属させている。その結果、一つの意識を持った艦船が、同期させて同じ意識を持つ「属躰」を何体も兵員として乗せることになる。物語は、2000年もの間、200人の「属躰」を乗せた兵員母艦としてラドチャーイに仕えてきた「わたし」が、一人の「属躰」となって、極寒の惑星ニルトで、1000年前に艦船の副官であったセイヴァーデンに偶然出会うところから始まる。どうやら「わたし」は艦船と他の「属躰」を失い、たった一体になっているらしい。一体何が起きたのか。物語はこの現在と、19年前に惑星シスウルナで起きた事件とを交互に語る形式で進んでいく。最初は何が起きているのかよくわからないと思うが、徐々に世界の背景と謎の核心が明らかになっていく構成を取っているので、ぜひとも我慢して読み進めてほしい。それぞれの惑星の文化、宗教など実に丁寧に書き込まれており、それだけでも十分読み応えがあるはずだ。個人的には、宇宙に居住するタンミンド人の宇宙観が興味深かった。極寒の惑星を舞台にしていることもあり、ル・グィン(『闇の左手』)やコーニイ(アイスデビルが登場する!)など先達作家へのオマージュが感じられるのもうれしいところ。最初は非人間的で異質なものに映る「わたし」=1エスク19=ブレクが、読み進むうちに、実に人間らしい一面を見せていく意外性が、本書がこれほど人気を集めた理由だろうか。同じ主人公、直後の時間軸で語られる続編が楽しみである。

ケン・リュウ『蒲公英王朝記 巻ノ一 諸王の誉れ』2016-05-04 10:13

 つねづね『項羽と劉邦』の面白さは項羽と劉邦、二人の対照の妙にあると思っていた。由緒正しい家柄で丈夫に恵まれ高い戦闘能力を誇る項羽、農民出身で気品など全くない豪放磊落な性格である劉邦、この二人が最初は共に共通の敵秦国と戦い、ようやく秦を滅ぼしたと思った後、敵味方に別れて天下を争う戦いへと突入する。圧政に対する小さな反乱から始まる、この壮大な歴史の流れは、司馬遷の『史記』によって日本へと伝わり、司馬遼太郎の小説、横山光輝の漫画等々を通じて幅広く人口に膾炙している。少なくとも『三国志』よりは史実としての信頼性が高いと思われているためか、中学高校では今でも国語や漢文の授業で「四面楚歌」「鴻門の会」が扱われており(『三国志』が扱われることはまずない)、項羽と劉邦、二人をめぐる物語に親しむ素地は、日本では十分整っていると言える。

 ケン・リュウ待望の第一長篇『蒲公英王朝記 巻ノ一 諸王の誉れ』は、この項羽と劉邦の物語を、架空の世界に置き換えて、巧みに変奏してみせた力強い物語である。最初に断言しておこう。本書の面白さは圧倒的である。ケン・リュウは洗練された筆力で、もともと魅力的である歴史と人物造形を磨き上げ、神々の視点や科学技術上の改変点(この世界では、飛行船が空を飛び機械仕掛けの凧が滑空する)を付け加えているのだから、これで面白くならないわけがない。読者は、秦の始皇帝に当たるマピデレ皇帝の暗殺失敗から始まる物語にすぐに引き込まれ、項羽に当たるマタ・ジンドゥ、劉邦に当たるクニ・ガルの成長を見守りつつ、彼らとともに喜び、ともに涙することになるだろう。登場人物が多数登場するが、ザナ帝国対叛乱軍という図のどこかに収まっているので、基本的な構図さえ押さえておけば混乱することはないはずだ。秦帝国滅亡のきっかけとなった陳勝・呉広の乱も、クリマとシギンがきちんと再現している。有名な魚の予言まで取り入れているので、忠実な再現ぶりに最初は驚かされたが「本歌取り」とはそもそもそういうもの。大事なのは、本歌を踏まえた上で、どこまで作者の持ち味が発揮できるかだろう。『巻ノ一』は叛乱の序盤をほぼ正確に辿っているが、結末付近で意外な事件が起きており、ここからがますます面白くなりそうな展開となっている。まだまだ原書の半分。『巻ノ二』に大いに期待したい。

名古屋SFシンポジウム詳細2014-07-26 17:54

遅ればせながら名古屋SFシンポジウムの詳細です。

名称:名古屋SFシンポジウム

主催:椙山女学園大学国際コミュニケーション学部

共催:名古屋SFシンポジウム実行委員会

日時:平成26年9月27日(土)午後2時~5時30分

場所:椙山女学園大学(星ヶ丘駅より徒歩10分程度)

参加費:無料

テーマ:SFから世界へ

内容:パネル1「SFと翻訳」
    パネリスト 中村融(翻訳家)
            大野典宏(翻訳、テクニカルライター)
            舞狂小鬼(SF研究家)
       司会 長澤唯史(椙山女学園大学教授)

    パネル2「アニメ漫画の中のSF」
    パネリスト 八代嘉美(京都iPS細胞研究所特定准教授)
            山川賢一(評論家)
            片桐翔造(SF研究家)
            伊部智善(名古屋大学SF研究会)
        司会 渡辺英樹(SF研究家)

以上は予定です。変更もあり得ますので、ご了承ください。

ジョー・ウォルトン『図書室の魔法』2014-06-01 19:21

 舞台は1979年のイングランド。ウェールズで暮らしていた15歳の少女モルは一卵性双生児だが、双子の妹を事故で亡くしたばかり。普段から折り合いの悪かった母親が情緒的に不安定となったため、かつて母と子を捨てた父親の家に行くことになる。それまで会ったこともなかった父親の家には三人の伯母が同居しており、厄介者のモルは学校の寄宿舎で暮らすことになった。そこは上流家庭の子女が通うお嬢様学校であり、少数の友人はできるものの、基本的にモルにとっては居心地の悪い場所でしかない。もともと『指輪物語』とSFが大好きなモルは図書館に入り浸り、SF好きな父親の影響もあって、SFを中心とする読書に夢中になる。モルは、やがて外部の読書クラブの存在を知り、毎週の討論会を楽しみにするようになる。そこで同じSFファンの男の子ティムと親しくなっていくモルだが、実は彼女には驚くべき秘密があった……。読書好きな人、とりわけ子ども時代に周囲に違和感を感じ本の中にのめり込んだ経験を持つ人にとって、本書はとても共感できる一冊である。

 作者は1964年生まれだから、1979年には主人公と同じ15歳。モルの造形には自身の体験が濃厚に反映されているのだろう。ル・グイン、デイレーニイ、ゼラズニイらの著作に15歳という多感な時期に出会い夢中になったのは、主人公だけでなく、おそらく作者自身でもあるはずだ。個人的な話になって申し訳ないが、作者と1年違いで1979年に16歳だった筆者も、同時期にモルと同じ本を読んでSFに取り憑かれてしまった一人である。これは本当に当時の翻訳出版状況(と翻訳者の方々)のおかげなのだが、たとえば本書に登場する『アンバーの九王子』『天のろくろ』『エンパイア・スター』などはすべて78年~80年に刊行されているので、本当に筆者とモルは同じ本をほぼ同じ時に読んでいたことになる。当時は折からのSFブームのおかげで英米SFの話題作はリアルタイムか、やや遅れて紹介されていたのだ。本書を読むことは、まさしく自分の読書遍歴を辿ることに他ならず、実に奇妙な感じを受けた。しかも、自分はたまたま一卵性双生児であり、双子の妹を亡くした主人公の気持ちも痛いほどよくわかる。モルが他人とは思えなかった所以である。ただし、自分の立ち位置はモルよりはそのボーイフレンドのティムに近い(特にあまり読まずにハインラインを馬鹿にしているところなど)。「ハインラインはファシストなんかじゃない。人間の尊厳や責任、誠実さや義務感といった昔ながらの価値観がどれほど大切か、作品の中で訴えているだけよ」というモルのセリフには、今さらながら、はっとさせられた。

 つい横道に逸れてしまったが、本書の主題は、母との確執並びに妹の死の克服という重いテーマをファンアジイの形で描くところにある。モルには実はフェアリーが見えるという無茶な設定はおそらく妄想だろうと思って読んでいったのだが、あにはからんや、良い意味で予測を裏切る展開であり、結末であった。SF/ファンタジイ以外にもシェイクスピアなど文学への言及も多く、たとえ嗜好や過ごした時代は違っても、思春期に読書に夢中になった人なら必ず楽しめる一冊だと思う。