スコット・ウエスターフィールド『リヴァイアサン』2011-12-29 19:04

『リヴァイアサン』スコット・ウエスターフィールド
 新☆ハヤカワSFシリーズの記念すべき第一巻である。1959年12月発刊の旧ハヤカワSFシリーズが当時の読者に受け入れられにくかった科学的要素を極力排して日常描写から始まり徐々に読者を異様な世界へ誘う『盗まれた街』から始まったり、1970年8月発刊のハヤカワSF文庫が年少者などより広範な読者層を拡大するべく挿絵入りで肩の凝らないスペースオペラ『さすらいのスターウルフ』から始まったりしたのと同じように、新シリーズの最初の一冊であるからには、シリーズ設立の趣旨を体現していてほしいと思うのは果たして自分だけであろうか。

 1914年、サラエヴォでのオーストリア=ハンガリー帝国大公夫妻暗殺事件から物語は始まる。息子のアレックは皇位継承争いに巻き込まれてドイツ帝国に追われ、側近の部下たちと辛うじてスイスの山中まで逃れる。一方、イギリス海軍航空隊の士官候補生試験を受けるため男の振りをして試験会場までやって来た十五歳の少女デリンは、そこで起きたトラブルのため空中を漂う羽目になり、巨大な飛行獣リヴァイアサンに辿り着く。アレックとデリン、二人の運命が交錯し、さらに大いなる冒険の旅へ……というのが物語の骨子。「飛行獣」を「飛行船」に変えれば、何の苦もなく、第一次大戦中の冒険物語として成立する話であり、ぐいぐい引き込まれて面白く読めはするけれども、そこに新味はない。

 本書ならではの面白さは、まずドイツやオーストリア=ハンガリーなど「クランカー」と呼ばれる勢力(第一次大戦の同盟国側)が蒸気機関を高度に発達させたテクノロジーを操り、イギリスやフランスなど「ダーウィニスト」と呼ばれる勢力(同じく連合国側)が遺伝子工学を高度に発展させたテクノロジーを操るところにある。クランカー側にはケロシン燃料を使った多脚歩行器や多脚戦車が登場し、ダーウィニスト側は大型小型、さまざまな人造獣を使用する。くっきりと色分けされた敵と味方。さらに、育ちの良い純粋な少年、男まさりの少女、謎に満ちた女性科学者、男臭く逞しい年長の老錬兵、といった具合に登場するキャラクターもすべてがシンプルで明快、強烈な存在感がある。

 良くも悪くも日本のロボットアニメを見ているかのような展開で、リヴァイアサンに乗り込むデリンは、まるでホワイトベースに乗り込むアムロや月光号に乗り込むレントンのようだ。歴史改変ものに仕立てあげた点には、歴史を知っている読者には敵味方が判別しやすく今後の展開が推測しやすい(または、おおこう来るかという意外性を狙いやすい)という利点もあるが、逆に現実の科学史が想像力の足枷になるというSFとしては致命的な欠点も抱えている。史実をもとにするならば多脚歩行器や人造獣にはあまりにもリアリティがなさすぎるのではないか。『種の起源』からわずか55年でバイオテクノロジーがここまで発展するとはちょっと考えられない。三部作なので、何か仕掛けがあるのかもしれないし、最終的な評価は最後まで保留にしておくが、まあキャラクターとストーリーを楽しみに読んでいければそれで十分かといった感じではある。

 本書から、ラノベとファンタジーに流れた読者をSFに再度呼び込もうという意図は感じられるが、それにかつては格調の高さが売りだったハヤカワSFシリーズという意匠が必要だったかどうかは疑問である。本書の内容なら文庫で出ても何の違和感もなかっただろう。第二弾はバチガルピの短編集なので、本書を面白いと思う読者とバチガルピを面白いと思う読者が重なるのかにも疑問はある。しかし、それならたとえば今回文庫から出たミエヴィル『都市と都市』を第一弾とし、バチガルピと並べたらどうだったのか。整合性はとれるが多くの読者へのアピール度は低かろう。コニー・ウィリスがラインナップに入っていることからも、本シリーズが娯楽性を一つの売りにしていくことは間違いない。格調の高さを狙うのならばそもそも☆は入れまい。刊行が安定するまでは(少なくとも20冊は出してほしい)暖かく見守っていきたいと思う。

 国語教師としての蛇足。27頁「ベッドの中だろうがなかろうが」(→中だろうがそうでなかろうが)、238頁「なおざりに応じた」(→おざなりに応じた)はちょっと気になった。

小松左京その1(『日本沈没』)2011-12-30 19:38

 もうすぐ激動の2011年も終わり。3月の東日本大震災は妹一家が仙台に住んでいるので、他人事ではなかった。話し始めるとキリがないし、本ブログとはあまり関係ない話になるので詳述は差し控えるが、何とか皆無事で心の底から安堵したことだけは書いておこう。自然災害の恐ろしさと原発事故の愚かしさについて考えざるを得ない一年であった。こんなとき、40過ぎ(50近く)のSF者が思い出すのは無論小松左京の『日本沈没』である。

 主人公小野寺がコンクリートの壁に見つけるわずか1センチの亀裂から始まるこの物語は、島の水没、死者4,200人の「京都大地震」、マグニチュード8.5の大地震と津波が東京を直撃し、死者200万人を超える大災害となった「第二次関東大震災」と、加速度的に勢いが増していく災害を圧倒的な筆力で、読者の息をつかせる間もなく次々と描き出していくことによって、日本の沈没という途方もない出来事に見事なまでのリアリティをもたらすことに成功している。このリアリティって、結局冒頭の「1センチの亀裂」に鍵があると思うんだよね。針の穴のような小さな一点から巨大なダムの壁が崩壊に至るダイナミズム。これをきちんとプレートテクトニクスや、堀晃も絶賛している架空理論「ナカタ過程」を駆使して理詰めで見せてくれているから、「1センチの亀裂」という現象を認識するのと同様に「日本が沈没するという事実」を読者は納得できるわけである。逆に言えば、「日本沈没」は「わずか1センチの亀裂」に凝縮されている。筆者が偏愛する傑作ジュブナイル『青い宇宙の冒険』の冒頭に登場する「ねじれ松」が「時空間の歪み」をくっきりと浮かび上がらせていたように。壮大な嘘を小さな具象の演繹で表す。ここにSFの本質があることは言うまでもない。

 小学5年の初読以来、本書を読むのはこれで3度めになると思うが、その度に新たな発見があり、小松左京の偉大さを再認識させられた。多くのSFファン同様、7月の小松左京の死去以来何冊かの著作を読み返し、そして思ったのだが、氏の情景描写の巧さはもっと評価されて然るべきではないだろうか。『日本沈没』における地震の描写はもちろんのこと、『果しなき流れの果に』のラストにおける庭の描写(連載時には一切なく、単行本化で加筆された部分。何度読んでもここで感動してしまうのは筆者だけ?)、「流れる女」における古都の描写など、鮮やかに情景が目に浮かんでくる場面がいくつもある。それは作家の基礎体力さ、と言って済ますには惜しいと思うのだ。小松左京が亡き今こそ、氏の作品を繰り返し読んで、味わい、深く考えること。それこそが残された我々読者が果たすべき使命であろう。

小松左京その2(「すぺるむ・さぴえんすの冒険」)2011-12-31 18:28

 前回に続き小松左京の作品を取り上げる。7月以降さまざまなメディアで氏の作品について触れられていたが、なぜか人気の高い『エスパイ』(8月に行われたアンビ夏の例会における小松左京人気作品投票でも堂々一位を獲得)はおいといて、今回取り上げたいのは、『ゴルディアスの結び目』に入っている短編「すぺるむ・さぴえんすの冒険」と「あなろぐ・らヴ(ホントは「う」に濁音)」だ。おそらく大学時代に読んでいるはずだが、再読するまですっかり忘れていた。

 「すぺるむ・さぴえんすの冒険」は地球の最高指導者である主人公ミスター・Aが毎晩のように見る不思議な夢から始まる。その夢の中では、「あるもの」がミスター・Aに「宇宙の一切の秘密と真理を教える代わりに二百二十億の全人類の生命をうばう」という申し出をする。この両者のやり取りが実に知的にスリリングであり、冒頭から、こちらの心の琴線にびんびんと響くわけである。普通の人なら、そんなことのために人命を犠牲にするのは、一名たりともまっぴらごめんだと考えることだろう。いったんはミスター・Aもそう考える。「『知性』が……それほど尚(とうと)いものか」「二百二十億人の、それぞれの人生の中のささやかな幸福を犠牲にするに値するものか……」と。しかし、人間の存在意義について少しでも考えてみたことがある人は共感してくださるのではないかと思うが、人の「知りたいという欲望」は、食欲や性欲には負けるかもしれないが、ある種の人にとってはかなり強烈な部類に入る。小松左京という作家はまさに「旺盛な知識欲」の塊のような人だったし、当然本編のミスター・Aもそのような作家の性格を反映していると見ていい。機転の利く彼は、「あるもの」に対して「宇宙の秘密の代わりに万能の力が欲しい」と切り返すのだ。力を手に入れて宇宙の秘密を手に入れ、奪われた二百二十億人の命を救い、万人にその秘密を教えるのだと。これもまた、死の直前まで民衆の力を信じていた小松らしい答えである。「あるもの」は答えないまま去り、目覚めたミスター・Aの日常が始まっていく。

 この後、地球の正体について驚愕の事実が明らかにされ、再度「あるもの」が登場して同じ申し出を繰り返すのだが、このあたりはネタバレになってしまうので詳述はしない。ミスター・Aは申し出を受けるのか受けないのかが物語の焦点となっており、結末で彼はきっぱりと決断を下す。この返事には小松左京という作家のエッセンスが凝縮されているように思う。記憶違いかもしれないが、大学時代の読書会で、誰かが「『すぺるむ・さぴえんすの冒険』には小松左京の全てが詰まっている」と言っていたのをふと思い出した。その時は、そんなものかなあと半信半疑だったのだが、今なら自分も自信を持って言える。ここには確かに小松左京の全てではないにしろ、小松SFの全てが詰まっていると。超越への道を進む者ととどまる者、論理的・知的倫理と情緒的・美的倫理との対立、想定内の事態にしか対応できないシステムに比してそれを超え得る個人の能力への高い信頼、それらを壮大なスケールのもとで描き出す圧倒的なまでの筆力。執筆当時四十代半ば、成熟した小松左京の最良の成果がここにある。

 小説的完成度の高い「ゴルディアスの結び目」ばかりが目立っているが、本来は本短編集に含まれる四篇は等価な連作となっており、「すぺるむ・さぴえんす」の結末はそのまま「あなろぐ・らヴ」へとつながっていく。こちらも宇宙的なスケールが感じられる傑作で、宇宙を超えて伝わる「情報」というアイディアにはイーガン『ディアスポラ』につながるものがあると思う。詳しくはまたの機会に。いや、こんな傑作がごろごろしているのだから、やはり小松左京はすごいね、ほんと。

 駄文を読んでくださっている皆さま、よいお年をお迎えください。